こんな言葉が社会を支配するようになったのはいつ頃からだっただろうか。
「今の世の中だから、私たちにはどうすることもできない」
そんな冷笑主義(シニシズム)的空気感あるいは「思い込み」についてマーク・フィッシャーはいう。
「人々が監査文化や私が『ビジネス・オントロジー』と呼ぶものに同調するのは、必ずしもそれに賛同しているからではなく、それが治世の秩序であり『今の世の中だから、私たちにはどうすることもできない』からだというわけでしょう。そういう心情こそが、私が資本主義リアリズムと呼ぶものです。これは、単なる黙認主義ではないのです。たしかに公共サービス部門では、業績評価が悪くてクビになる人はほとんどいないでしょう(彼らはただ、終わりのない再教育を受けるだけです)。でも、業績評価制度そのものに疑問を申し立てたり、あるいは、それに協力することを拒否したりしようとする場合、クビになる可能性は十分にあります」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.23~24」ele-king books 二〇二四年)
巨大マス-コミはときどき朝から読者視聴者をびっくりさせるような大ボラを吹く。政財官界と民間企業とはまるで別々であるかのように描いて見せつける。そんなわけないだろうと多くの人々が知っているにもかかわらず。政財官界の圧力によって「民営化が脅かされる!」というようなことを平気で書き立てたりする。両者はもはや一体に等しいのだが。フィッシャーのいうように、
「業績評価制度そのものに疑問を申し立てたり、あるいは、それに協力することを拒否したりしようとする場合、クビになる可能性は十分にあります」
というのが巷の実状。「評価されている評価されていない」と言って争っているうちはさほど問題にもされない。配置転換や降格といった処分はあっても実際それは「終わりのない再教育」過程の中に組み込まれていることの証左でしかない。ところが「制度そのもの」に狙いを付けているのではと疑われた瞬間、クビになる可能性は飛躍的に高まる。そして資本と巨大マス-コミを始めとするその太鼓持ちたちは脅迫的言説を連発し出す。
でもなぜわざわざ「脅迫的言説を連発」するのか。そこが急所だと自分たち自身でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てずにはおれないのか。頭がいいとか悪いとかそういうことは問題でないのだ。資本主義というのは。
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