白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ470

2025年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月十一日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

聞いて聞いてタマね、変化球見つけてきた。「玉露」って書いて「ぎょくろ」って言うんだ。とっても美味しいお茶みたいだよ。台所の棚の奥のほうにこっそり置いてあった。

 

あ?確かに変化球といやあそうだけど。しかしタマさん、そんなところまで覗き込むかなあ。こだわり出したね「玉」に。けっこう深いぞ。

 

えへん。今日はもひとつあるんだ。「玉杯」って書いて「ぎょくはい」って言うんだ。赤門とかなんとかと関係あるらしいよ。これはちょっと古い雑誌の切れ端に書いてあった。

 

残ってたっけ?えらく暗い部屋でかなり隅のほうをごそごそ突っついてたみたいけど。

 

タマの飼い主、実はいろいろ考えて名付けてくれてたんだって思った。

 

ちなみに言うとだな、もっといろいろあるんだ。見てごらん。

 

「堂谿公謂昭侯曰、今有千金之玉巵、通而無当、可以盛水乎、昭侯曰、不可、有瓦器而不漏、可以盛酒乎、昭侯曰、可、対曰、夫瓦器至賎也、不漏可以盛酒、雖有乎千金之玉巵、至貴、而無当、漏不可盛水、則人孰注漿哉

 

(書き下し)堂谿公(どうけいこう)、昭侯に謂いて曰わく、今、千金の玉巵(ぎょくし)有り、通じて当(そこ)無し、以て水を盛るべきかと。昭侯曰く、不可なりと。瓦器(がき)有りて漏らさず、以て酒を盛るべきかと。昭侯曰わく、可なりと。対(こた)えて曰わく、夫れ瓦器は至賎(しせん)なるも、漏らさざれば以て酒を盛るべし。千金の玉巵有りと雖も、至貴なるも当(そこ)無く、漏りて水を盛るべからざれば、則ち人孰(た)れか漿(しょう)を注(そそ)がんや。

 

(現代語訳)堂谿公(どうけいこう)が韓の昭侯に向かって言った、『今、千金の玉の杯があるとして、筒ぬけで底がありませんが、それで水を容れられましょうか』。昭侯は『だめだ』と言った。『素焼きの杯があって水が漏れないとすれば、それに酒を容れられましょうか』。昭侯は『だいじょうぶだ』と言った。そこで堂谿公は答えた、『そもそも素焼きの器は最も粗末な器ですが、それでも水が漏れなければ酒を容れられます。千金もする玉の杯でも、貴重ではあっても底がなくて、水がこぼれて容れられないというのでは、人はだれもそこに飲み物をついだりはしません』」(「韓非子3・外儲説右上・第三十四・P.169~171」岩波文庫 一九九四年)

 

全然わかんないな~。こんなの反則じゃないの?

 

そうでもない。「千金の玉杯」だよ。ふつうの国語辞典には簡略化した意味しか載ってないだけのことでね。いわゆる「常識人」なら誰でも知ってる。

 

どんな意味?

 

「玉(たま)の盃(さかずき)底無きが如(ごと)し」って言うんだ。百兆円の投資でも使い物にならなかったら国家破産覚悟しとけってこと。

 

タマ思い出した。猫の手でよかったら貸してあげるよ無利子で。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。FKAツイッグス。アルバム「LP1」の頃はとてもユーモラスな演出で好感を持って聴いたわけだがそんな中にもどこか痛々しさの欠片のようなものを漂わせてはいた。わざわざ大げさなまでに自分の顔面にべたべたペイントするだけでなくぐにゃぐにゃ変形させて見せるMVなど。けれども黒人アーティストの作品はジャズにせよブルースにせよヒップホップにせよまるでどこにも痛みのないようなものはない。かといって自虐性ばかりを売りにしてきたわけでは全然ない。それにしても今作はアルバムのアートワークからしておぞましいホラーさながら。ところが歌声は相変わらずFKAツイッグス。


Blog21・孤独の生産

2025年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

言語獲得過程とインターネット常時接続状態とがひとつの動的インフラとして同期することになっている昨今。麻布競馬場はいう。

 

「言葉を獲得したあとも、小さな村落で集団生活を始めたあとも、書籍が流通するようになったあとも、スマホで友人や恋人と常時接続できるようになったあとも、それでも人間はずっと寂しいままなのだろう。愛や憎しみを手にしたとして、それを共有または交換すべき人がいないことへの絶望。たとえ雑踏の中にいても、自分の心が永遠に孤独であることへの絶望。一億総共感時代とでも言うべき昨今の状況は、スマホという究極の孤独解消ツールが生まれたにもかかわらず寂しさが消えなかったことへの、ある種の抵抗運動なのかもしれない」(麻布競馬場「共感と散歩」『群像・3・P.52』講談社 二〇二五年)

 

「スマホで友人や恋人と常時接続できるようになったあとも、それでも人間はずっと寂しいままなのだろう」

 

今や「スマホあるいはインターネット」は世界中で「ほぼインフラ化」している。しかしいわゆる「箱もの」とはまるで違うこれまでにない動因としてますますその作用を拡大再生産させていく一方だ。スマホ/ネットは世界を変えたというより《新しい欲望を生産する装置》として生まれ、いまこのときも《新しい欲望の生産》に余念がない。

 

なるほど「共感の嵐!」という広告を見ない日はない。しかし「共感」も「反感」もいずれにしてももはや「嵐!」を通り越して「<常時>暴風雨/緊急警戒警報発令中」の様相を呈している。スマホ/ネットは共感を生産し反感を生産し愛憎を増殖させ希望の生産を絶望の増殖と同期させる。

 

麻布競馬場は「共有または交換すべき人がいない」と述べる。その言葉は「教員不足/医師不足」あるいは「カウンセラー不足/アドバイザー不足」と言い換えることも可能だろうとおもえる。いまの日本は「相談相手の慢性的喪失」に陥っている。だからといって立場上さまざまな形で個人差も含めスマホ/ネットと未来永劫切断しきってしまうわけにもいかない。ところがその接続動作がさらに常に両義的な意味を持つ《新しい欲望の生産》へと向かわせ人間の身体をいつも緊急事態へ置こうとする。

 

散歩ひとつくらい、ゆっくりしたいものだとおもう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリにいついて1064

2025年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリにいついて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「lux 106 mod」

猫はパソコン机の周囲をうろうろ。おぼろな曲が形を整える0:53付近から曲調はほぼ変わらない。猫は1:49辺りですでに本棚部屋へ入ってころんと横になりお腹を見せて毛繕いしている。人間が聴くかぎりでは一貫して平穏な曲調だが特に飼い主がそういう気分で聴いていると飼い猫も平穏な気分でくつろげるようだ。