白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

病としての意味/増殖するイデオロギー

2019年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
来る日も来る日も無数の意味に包囲されて生きていく。「ノアの洪水」とは意味の洪水ではなかったか、とすら思わないではいられない。辛くないだろうか。いつか解放されたい。そう思ったことは一度もないと一体誰に言えるだろうか。これは一種の病気である。治るということのない不治の病気である。しかし治らないということに逆に救いを感じる人もいる。だがどこまでいっても絶望しか見出せない人もいる。両立は可能か。可能でもあり不可能でもある。というのは、ただ手段としてなら「ある」と言えるからだ。何日かに必ず一度は意味の増殖/増殖する意味を切断してしまうこと。それが「薬」の一つだ。有効な「薬」の中のーーー。効くか効かないか。重要なのは、試してみることだ。

「ファルスとは、理想的な、勃起した男性器である。精神分析には、あらゆる欲望は性的な意味を持つという仮説がある。この仮説の下で、あらゆる欲望は、性的に重要なもの=ファルスを追求することに等しいと見なされる(だがなぜ、男性器が性の基準なのか?ーーー『パラマウンド』ではこの問題を扱っている)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.24』河出書房新社)

ところで「パラマウンド」の「狙い」は何か。

「狙いは、何か対象が『ある』ということ、《対象の実在性を、非勃起的に肯定すること》」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.25』河出書房新社)

そうだとして、では、どのようにすればよいのか。と問うと同時に、もしかしたら返ってくるかも知れない「答える」という姿勢について、大事なことがある。或る種の「不安に耐えること」だ。

「他者と共存するとは、豹変するかもしれない、裏切るかもしれない身体=形態と隣り合う不安に耐えることである。それこそが倫理・政治のゼロ度ではないだろうか。そこから建設的な関係が始まるかもしれないし、それが分断と闘争の原理でもある、両義的なゼロ度(『エチカですらなく』)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)

なるほどそうかも知れない。「他者」は自分自身の「身体=形態」を含んでいる。千葉雅也はいう。

「《あらゆる他者は、何をするかわからない者なのだ》。私もまたそうだ。私がいま持っている有限性もまた破壊的に変化しうる。偶然によって」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)

続けよう。千葉雅也は「真理」を括弧入れする。「物自体」という概念は退ける。というのは、「物自体」という発想がそもそも「物自体あるいは真理」が「ある」と捉えられてしまうため、かえって「真理」への意志を誘発させて止まないからだ。その意味で極めて危険な「真理」への意志。誘発されるであろう狂信性の根を端的且つ根こそぎ退ける。この場合の「根こそぎ」は次のフレーズを参照したい。

「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『と──と──と──』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫)

そして千葉はそれをただX(エックス)とだけ表記する。なぜなのか。次の部分を読めばわかる。

「Xは、要するに、真理であると言ってもよい。誰も真理には到達できない。立場次第でXをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への『狂った』ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化する」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.31』河出書房新社)

「ファルス=理想的な勃起した男性器」。理想的なそれ。「法」として屹立し思うがままに権能を振るう「理想的」な男性器。実を言えば、そんなものはどこにもない。ないから探してしまう。探せば探すほどあたかもそれが本当に「ある」かのような錯覚にはまり込むばかりか、錯覚が確信へと変わり、遂に「発見した」と言明する人物まで乱立しだす始末だ。始末に負えない。多分千葉もそう考えている。

ここで、ついでながら少し述べておきたい。

「信仰主義」はその「魔女狩り」によってますます増殖する。他者としての「魔女」をすべて抹殺してしまおうと欲する。もちろん、それだけで飽き足りるものでは全然ない。終わらない。むしろ逆に抹殺によって以前よりも自信を膨らませて凱旋する。回帰するのだ。何か過剰なものを身に付けて戻ってくる。そして再び自分で自分自身を世界へ向けて投機する。さらなる剰余の付加獲得のために。ところで、普段から忌み嫌われる「魔女」なのだが、「魔女」と書く時、人はなぜ「魔」だけでは承知せず、わざわざ「女」と付け加えるのだろうか。しかし不可解なものを指すとき、人は、例えば「神」を信じている人々は、「神」について両義的な意味で「魔」的な語彙の濫用に耽っていないだろうか。「医薬/毒薬」という両義的な意味を無数の多義的な意味の量産と取り違えた上で平然と流通させていないだろうか。しかしデリダが「両義的」と書くのは、もちろん、それは「両義的だから」としか言えないからだ。デリダはところどころで余りにも慎重過ぎる。あの慎重さが逆効果を生んでいることは認めないといけないだろうけれど。しかし脱構築は、処方的に用いる場合、有効なケースがまだ残されていると思われる。もはや漫才なのだが。笑いの提供。

それにしても、魔王、魔人、魔界、ーーーそうした場の主催者はどうしてこれまでずっと「男」あるいは「勃起した《超-女》」ばかりだったのか。「理想的」に勃起した男性器。遍在するファルス。実在した試しのない、誰も知らないばかりか見たことすらないーーー。

それでもなお「神は死んだ」、というニーチェの言葉は、それまで通用してきた思想・信条・イデオロギーは、すべていったん無効化した、というだけのことではなく、再び回帰してくる、別のものに変身してどこかでまた性懲りもなく生じてくるに違いない、というほどのことだ。取り立てて騒ぎ立てるほどのことでは何らない。だから、「魔」は「魔」でも、なぜ「女」の場合に限り、「狩られなければならない」とされたのか、という問いは依然として残っている。ニーチェ=ドゥルーズのリゾーム的転回にもかかわらず、「女」を否定的に取り扱う「神」=「思想・信条・イデオロギー」の「亡霊たち」(宗教的思想的経済的相続人を産み続ける子供たち)はまだ実際且つ平然と素知らぬ顔で日常生活を堪能・享楽してはばからない。

それはそれとして、千葉は「身体」を定義するとき「身体=形態」と叙述する。身体だけでは人間や生命あるものの「内容自体」を対象としているかのように見えるからだろう。「形態」は「身体」と「同じ資格で」扱われている。だけだろうか。この定義には次のことが含まれると述べる。「形態」=「ただそのようにあるからそのようにある」=「形だけの形」、というトートロジー。このトートロジーが、無数に増殖するばかりの意味の洪水を遮断する、と。なるほど意味の洪水による溺死を免れるためには最善かどうかはわからないが少なくとも次善の、そして有効な方法だろう。同意したいと思う。さらに千葉はいう。当たり前のことだが。

「考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返す」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.35~36』河出書房新社)

また、注にこうある。

「自明性の過剰とは、統合失調症の対極である、だが、神経症ーーー精神分析では、神経症が統合失調症と対立をなすーーーでもない状態である。ドゥルーズ&ガタリは、この状態こそを、逆説的だが『スキゾ』と呼んだのかもしれない」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.38』河出書房新社)

「かもしれない」とあるが、おそらく間違いない。「おそらく」というのは、スキゾフレニー(統合失調症)と言わずに「スキゾ」という部分のみを取り出して「キッズ」(子供/ガキ)と繋いで「スキゾ・キッズ」としたのは浅田彰であり、しばらくするうちに「スキゾ・キッズ」の「スキゾ」だけが強調・増幅されるとともに圧縮されて「スキゾ」と呼ばれるようになった経緯があるからだ。もっとも、その当時はまだ「スキゾ/パラノ」という対立的構造が残されてはいたと思う。思考の重力からのニーチェ的解放の提言、思考の軽快性の獲得を提起したことで一時代を画した。哲学・思想の分野において、ともすれば、と思う間もなく実にしばしば取り憑かれてしまいがちな絶対主義的イデオロギーからの解放を目指したものでもあったことは確かだ。

例えば「トラウマ」(精神的外傷)について。浅田彰はチャート式に変換・整理してこう述べた。

「トラとウマにわかれて走り去る」(浅田彰「構造と力・P.237」勁草書房)

ちなみに小泉義之は、当時を振り返って、構造主義の出現からポスト構造主義へ世界的に展開する一連の流れを一挙にまとめ上げた(単品としての論文連載中の期間があったにもかかわらず)この分野の著作の中では、「構造と力」における浅田の作業がおそらく「世界最速」だったろうと評価している。のちに東浩紀は浅田を評して「砂漠を駆け抜ける高速道路」と言い、東は自身のことを「各駅停車の山手線」と位置付けた。いずれにせよ浅田彰は、ネットなき時代の「可能性のリミット」だったのかもしれない。

千葉雅也に戻ろう。各論は雑種的で面白い。

「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」(千葉雅也「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」『意味がない無意味・P.232~241』河出書房新社)

未読の人は読まないように書いてあるので述べることはできない。ただし「供犠」という言葉を用いるに際して、デリダからの引用がある。ここは「海辺のカフカ」を「読むということ」にとって重要なポイントでもあると思われる。従ってあえてデリダから引用しておきたい。

「神は《もはや時間がないような瞬間、もはや時間が与えられていないような瞬間》にアブラハムを止める。あたかもアブラハムは《すでに》イサクを殺してしまっていたかのように」(デリダ「死を与える・P.150」ちくま学芸文庫)

ここでの「供犠」解釈については「作品外」と言えるかどうか、と疑問が湧く。村上春樹=作者と作品とは別だと精一杯妄想したとしても、なお意識してしまうのは妄想ゆえなのだろう。

さて、ヘーゲルだが。次の試論は「リアル」であっていいと考える。

「一方では、プラスティックな変化プロセスが準ー安定状態に入ってほとんどストップし、反復しうるグラフィックなものを生じることがある。グラフィックなものは、反復されているうちに複数の可能世界を孕むわけですが、《それらが総合されて》、別名へと変形・変態することがあるーーードゥルーズならば『離接的総合』と言うような、解離を孕んだ総合による変身=分身」(千葉雅也「マブラーによるヘーゲルの整形手術ーーーデリダ以後の問題圏へ」『意味がない無意味・P.264』河出書房新社)

言葉は反復されているうちに別の言葉へと変化することがしばしばある。しかし変化を容認することで失われてしまうこと(意味内容)も出てくる。「アウシュヴィッツ」がそうだ。「スターリニズム」もそうだ。「OKINAWA」「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」もそうだ。反復されているうちにそれら或る言葉が別の言葉へ変容してしまうことは十分想定可能であり、また変容に対する人々の容認的態度もたびたび生じてきた。一方、「大逆事件」「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」「ケネディ暗殺」「アパルトヘイト」「ベトナム戦争」などの呼び名はなぜ変化しないのか。なるほどニーチェは「ときどき忘却すること」はとても大事なことだと言った。心身の衛生学のために「ときどき忘れてしまうこと」。「十分な睡眠を取るよう心掛けよう」とも取れる。当然大切なことだ。もっともな提案だ。近現代人は忘却=睡眠の大切さを見失っている。しかし、完全に忘れ去ってしまえなどとはまったくいっていない。

その是非はともかく、そのような変容の場でいつも見かけることができるのが、「リアリズム」という概念である。と同時にリアリズムが呼びかける、あるいは誘惑して止まないリスクだ。しかしリスクは常に既に両義的だ。それを自分自身で「引き受ける」というのがいわゆる「大人」なのだろう。ところが完璧に引き受けることができた「大人」などどこをどう探しても見当たらないに違いない。完璧とは何か。そんなものはない。ないから言うのだ。ゆえに完璧という概念はこの際、いっそのこと、地球上から放逐してしまうのがよい。完璧という言葉が逆に馬鹿を増殖させる機縁として機能している。あるいはごく一部の人々にとってのみ享楽することが許される「剰余」を、その「剰余」にあずかれない人々の側からみすみす与えてしまうといった、どう見ても考え込まされざるを得ない事態をますます増殖させるチャンスと化してしまっていることを十分に認識すべきだろう。

なお「認知症的歴史哲学」という呼び名は多分、千葉雅也個人の実験段階に留まるかもしれない。というのは、社会的に認知されつつある精神障害としての「認知症」という呼び名に対して真面目な態度を取る人ほど、個人的造語としての「認知症的歴史哲学」という呼び名を俄然否定的に捉えがちになってしまうことは間違いないからだ。そしてそういう人は多い。だが、実状は逆であって、実在する認知症者に対して内心ではこっそり軽蔑しているあるいは関わりを避けている人のほうが遥かに多いに違いない。ともあれ、「認知症的歴史哲学」という呼び名は、発想としては現実的なのではないかと思える。従って、いずれの側が現実的かという問題と、現実的とはどういう状態かということ、さらに現実的だと見なされれば(誰にも本当のことはわからないのだから)その地点で一挙にそのまま通してしまってよいのかということ等々が議論される必要がある。だがそれに耐える社会環境が、特に日本では痛烈に《現実的》な問題であるにもかかわらず、なぜか依然として《創出されているとは明言できない》という現実こそがラディカルに問われなければならないだろう。ラディカルに問うことは常に行為とともにあることだ。しかし決定打はない。決定打はファルス化(専制主義化)する。その意味では「不安に耐え」なければならない。けれども、「不安に耐え」つつ、逆に言えば、議論はいつも「宙吊り」のままだ。そしてまた議論は「宙吊り」であってよい。ファシズムはまっぴらだからだ。

さらに千葉はプロレス論まで展開している。バルトのプロレス論とはまた違った理論であって面白い。バルトの場合は端的に女性の側に立って女性差別を告発する論文だった。千葉の場合、端的に女性の側に立とうとしているわけではない。見ている目の位置が違うのだ。立場の違いと言ってしまえば簡単だが、千葉の立場は、始めからそこにある立場ではない。逆に千葉がそこへ移動するや否やその瞬間、やおら発生する立場だ。立場とはもともとそういうものかもしれないが。その時、そこに千葉の目が、そして目だけが動いている。目は、こう語る。

「自己破壊のマゾヒズムに回帰すること、それは、男女の別が曖昧であった状況への回帰である。マゾヒストとしてのプロレスラーは、だから、《ジェンダー以前の興奮》を体現してもいるだろう。石塀を飛び越えるという侵犯の出来事は、男の子にも女の子にも起こりうる(さらに言えば、男の子が女の子の領域へ、女の子が男の子の領域へ、自己破壊的なジャンプをするのだ)。しかし女の子の場合では、旧来の規範がひじょうにしばしば、早期から『おてんば』の芽を潰しにかかる。僕は、そうした女性への一般的抑圧に似たことが、自分においてもあったように感じて(しまって)いる。悲しいかな、社会の恭(うやうや)しい手によって彼女は、彼女が勝手に享楽しえたはずの『力の放課後』ーーー力の効率的制御に対する余白ーーーから遠ざけられてしまった。《彼女をそこへ回帰させなければならない》、力の放課後へ」(千葉雅也「力の放課後ーーープロレス試論」『意味がない無意味・P.288~289』河出書房新社)

とはいえ。もっとも、一番面白かったのは、東北と東京の「あいだ」、「北関東人」という「あいだ」を揺らぐ「死の欲動」がラーメンを通して描かれているところだったりする。それは「ほっとする」エピソードだからというわけでは必ずしもない。むしろ昔のポーランド人を想起させるからだ。「あいだ/穴」に生息する「ユダヤ人」とマルクスはいった。

ところで、先に引用しておいた「不安に耐えること」について。カントはいう。

「いずれにせよ自然は、人間が安楽に生きることなどは、まったく考慮しなかったらしい。自然が深く心に掛けたのは、ーーー人間は、自分の行動に依って自己の生活と心身の安寧とを享受するに値いするような存在になる、ということであった。ところでこの場合に、いかにも奇異に思われる二事がある、ーーー第一に、前の世代の人々は後の世代のために、骨の折れる仕事に営々と従事して後世の人々の利益を図り、彼等のために基段を用意する、そこで次の世代の人々はこの段の上に、自然の意図するところの建物を構築することができる、ということである。また第二に、この建物に居住するという幸福を享けるのは、最も後世の人々だけであり、幾代もの先祖達は(もちろん自分で意図したわけではないにせよ)、この建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない、ということである。確かにこのことは不可解な謎である、しかしひとたび次の事実を承認するならば、このような成行きは、同時に必然的であることが明らかになる、すなわちーーー動物の一類としての人類が理性をもつと、個々の理性的存在者はことごとく死滅するが、しかし類としての人類は不死である、そこで人類の自然的素質は、完全な発展をとげることになる、という事実である」(カント「啓蒙とは何か・P.29」岩波文庫)

先人達が打ち立てた様々な建築物=知恵と知識とそれに費やされた労働力の堆積のことなどそのうち誰も忘れてしまう。どれほど「後世の人々の利益を図」ったとしても、「建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない」、という不安に耐えること。間違っても銅像など建てないこと。ドゥルーズもおそらく耐えていた。

「不思議なことに大勢の若者が『動機づけてもらう』ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように、とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.366」河出文庫)

さて話は変わる。先日カントを少しばかり読んでいた。と、「一般的/普遍的」の違いをもっと明確化したいと考えるようになった。思い出したのが、まったく偶然にも、ドゥルーズの言葉だ。

「だからわたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、特異なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなすのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.22」河出文庫)

BGM

ヒントとしてのカント2

2019年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
次の二つのケースを例に取ってみよう。

「例えば、私があらゆる確実な手段を尽して自分の財産を増やすことを、私の格律にするとしよう。さていま私の手中に一件の《委託物》があり、その本来の所有主はすでに世を去り、またこの物件の処分に関する証書も残っていない、するとこれは明らかに私の格律が適用できる事例である。そこでいま私がもっぱら知りたいと思うのは、私のこの格律は普遍的な実践的法則として妥当し得るかどうか、ということである。私はこの格律を件の事例に適用して、いったい私の格律は法則の形式をとり得るかどうか、従ってまた私はこの格律によって、同時に一個の法則を与え得るかどうかを自問してみるとしよう。すると法則はこういうことになるだろう、ーーー或る物件が或る人に委託されたものであることを証明できる者が一人もいない場合には、彼のみならず何びとでもそれが委託物であることを否認して差支えない、と。すると私は、もしかかる実践的原理が法則と見なされるならば、この原理は自滅するであろう、ということを直ちに認めるであろう。そのようなことをしたら、およそ委託物などというものはいっさい存在しないことになるからである。私がいやしくも法則と認めるような実践的法則は、普遍的立法をなすに適格なものでなければならない、なおこれは同じ意味のことをそれぞれ別の言葉で言い現わしている同一命題であるから、それ自体だけで明白である。そこで私が、私の意志は実践的《法則》に従っている、ときっぱり言い切るとすれば、私はもはや自分の傾向性(例えば、いまの場合なら私の貪欲)を普遍的な実践的法則にふさわしい意志の規定根拠として挙示するわけにはいかなくなる、私の傾向性は、普遍的立法をなすに堪えるどころか、もしこれが普遍的法則の形式をとるならば、自滅せざるを得なくなる。

それだから幸福を得ようとする欲望が人間に普遍的であり、従ってまた各自が彼の意志の規定原理たらしめようとする《格律》もやはり普遍的であるからといって、そうとう物分かりのよい人達までが、このような格律を普遍的な《実践的法則》に仕立てようなどと考えついたということはいかにも不審である。実際ほかの場合なら普遍的自然法則が一切のもの〔現象〕を矛盾なく一致させるが、しかし我々のこの〔実践的な〕場合には、もし格律に法則のもつような普遍性を与えでもしようものなら、およそ〔格律と法則との〕一致とは似も似つかぬ極端な反対物を生じるだろう、それは格律そのものと格律の意図するところのものとの最悪の抗争であり、両者の完全な破滅である。そういうことになると、すべての人の意志が同一の対象をもつことはできないから、めいめいが自分だけの対象(彼自身の仕合せ)をもつことになる、このような対象は、なるほど偶然的にはほかの人達のそれぞれの意図とーーー換言すれば、これまた彼〔の幸福〕だけに向けられている意図と折合うことはできるかも知れないが、しかし法則たるにはとうてい十分ではないのである。たとえ我々が時宜に応じて例外を設ける権限をもつにしても、しかしその例外たるや無限であるから、これをひとまとめにして普遍的規則に仕立てることはまったく不可能だからである。するとこうして生じるいわゆる調和なるものは、互いに相手を破滅させようとする夫婦のあいだの心意の一致を、或る風刺家が『《おお驚くべき調和よ、彼の欲するところは彼女もまた欲する》』とうたっているような調子や、あるいはフランス王フランソワ一世がドイツ皇帝カルル五世に対して『我が兄弟カルルの領有せんと欲する地(ミラノ公国)は、余もまた領有せんと欲す』と申し送ったという話にあるようなものである。意志の経験的規定根拠は、外的な普遍的立法に役立つものではないが、しかしまた内的立法にも役立たないのである。或る人は彼自身の主観を、他の人はこれまた彼自身の主観を、それぞれ彼等の傾向性の根底に置くし、また同一の主観においてすら、或る時にはこの傾向性が、また或る時には別の傾向性が優位を占めるというふうだからである。しかしこのような思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」(カント「実践理性批判・中・P.66~67」岩波文庫)

「実践的」《と》「普遍的」との両立の不可能性が述べられている。同時に大事なことは、「思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」という事態だ。常に同一でない、変化の多い「傾向」(幸福・自愛・享楽)。その場所で「普遍的に支配する法則」を見いだすことは「不可能」なのである。

「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫)

あたかも「モスクワ裁判」を彷彿させる。「君主」=「スターリン」、「道徳的法則」=「スターリニズム」として考えることができる。しかし逆説的なことが起こっている。というのは、今のように言葉を置き換えた上であえて言えば、「スターリニズムがなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識する」、という「自由」の多義性である。生死の掛かっている絶対的全体主義の真っ只中へ置き据えられ、そこで始めて「自由」の何たるかを実感することができる、という逆説。ところで、中央集権的全体主義としてのスターリン批判は当然として、さらに「反スターリン」を掲げることもまた当然として。それでもなお、スターリンがどれほど「非人道的」だからといって、「何か別のもの」、例えばマルクスの「ヒューマニズム」を対置させてみてもただ単なる対立構造を深めるだけで有効な対抗運動にはならない。かえって混乱するばかりだ。

ヘーゲルはいう。

「相手の非真理を示そうと思えば、なにかべつのものをもってくるのではなく、《相手に即して》示さなければならない。わたしがわたしの体系や命題を証明した上で、だからそれに対立する体系や命題は偽だ、と結論してもなんにもならない。べつの命題にとって、わたしの命題はつねに異質なもの、外的なものなのですから。命題が偽であることを示すには、それと対立する命題が真であることを示すのではなく、その命題そのものに即して偽なることを示さねばなりません」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.354」河出文庫)

スターリンの非人道性は人間の主体性を無視したから出現したのではなく、逆にマルクスのいう主体性を絶対化したところから生じた。そのことを踏まえて、あえて「多義的」であるほかない「自由」について、少なくともその「両義性」について、人々は自分自身で問わなければならないし、問うことができる。しかしそれは次のようなアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)によって始めて、より深く、より緻密に、問われることになるだろう。

「正命題ー自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。

反対命題ーおよそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(カント「純粋理性批判・中・P.125~126」岩波文庫)

このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)を解決するにはどうすればよいのか。というより、むしろ、このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)自体を自主的且つ肯定的に受け止めるという方法がある。

「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいう「《運命愛》」とは何か。ニーチェの人生はそれこそ様々な病気に侵され続けた病人としての人生だったと言える。生涯胃腸が悪かった。三十六歳の時に衰弱で死にかけたし、一九〇〇年に死んだ時、おそらく最大の死因は患っていた梅毒だった。哲学する人という意味ではなるほど有名だ。しかし正式な学者として認められていたとは言い難い。バーゼル大学の教授を途中で辞めたりしている。そこそこ有名になったのも生前ではなく死後のことに過ぎない。ニーチェが強調するのは、ニーチェ自身を含めて、そんな悲惨さを「みずから欲した格律であるかのように丸ごと受け入れる」という平凡な、しかし極めて困難な作業だ。ゆえに、それがなかなか出来ない人間自身(ニーチェ自身を含む)に向けて常に両義的な言葉を投げ掛け続けて止まないに違いない。

カントに戻れば、次のように言っている部分が気に掛かる。

「自然の崇高に関する適意は、《消極的》な適意でしかない(美に関する適意は《積極的》であるが)、即ち構想力が自分自身の自由をみずから奪うという感情である、その場合に構想力は、経験的使用の法則とは異なる法則に従って合目的に規定されるからである。とは言えこれによって構想力は、自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得るのであるが、しかしかかるものの根拠は、構想力自身にすら隠されているのである。また構想力は、かかる犠牲や〔自由の〕剥奪を感じると同時にその原因をも《感じる》、そしてこの原因にみずから随順するのである」(カント「判断力批判・上・P.188」岩波文庫)
       
「構想力が自分自身の自由をみずから奪う」。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」。「かかる犠牲や〔自由の〕剥奪」。にもかかわらず、「みずから随順する」。多大な「犠牲を供して」でも、或る種の「合目的性」に「随順する」。まるでマゾヒストの態度だ。といって、フロイトのいうような性的マゾヒストが良いとか良くないとかいう問題ではない。

「道徳的マゾヒズムは、本能の融合が存在することの典型的な証人となる。道徳的マゾヒズムの危険は、それが死の欲動に由来し、破壊欲動として本来外部に向かうべきはずであった死の欲動の一部が自己自身に向かってくるという点にある」(フロイト「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト著作集6・P.309』人文書院)

問題は「経済」なのだ。幾つかに分類可能な「本能」。それら「本能」が「融合」することは「経済的」ではないだろうか。「外部」へ向けられるはずだった「死の欲動」が「外部」へ流出することなく「自己自身」の内部で完結的に処理される。それもまた「経済的」だ。そして「犠牲」もまた「経済的」レベルで捉えることができる。

ここには或る種の資本家の姿が、みずから「使用価値と享楽」を犠牲に供して、みずからの「〔自由の〕剥奪」を敢行してまで、資本主義を、新自由主義(グローバル資本主義)を、「絶えず拡大することを強制する」資本家の姿が、浮き彫りにされていることに着目したい。

「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権、すなわち、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付のないものではない存在権をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれているのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.152」国民文庫)

カントはいう。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」のだがその「根拠」は「隠されている」と。いわば「無意識的」自然法則に従っているのだ、と。この場合の「自然」とは何か。

「《自然》とは、物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の《現実的存在》である」(カント「プロレゴメナ・P.91」岩波文庫)

「自然自体」を知ることは不可能だ。物自体は「外部」だからだ。けれども、それが或る種の法則に従っている限りという条件付きで、「物の《現実的存在》である」、と知ることはできる。

こうもいう。

「我々の解する(経験的意味における)自然とは、現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのものである」(カント「純粋理性批判・上・P.291」岩波文庫)

こうある。「我々の解する」「自然」はあくまで「経験的意味における」「自然」であって、「現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのもの」だと。ここでいう「必然的規則即ち法則に従って統括された」というのは、目には見えないが或る一定の社会的布置に従ってそれぞれの立場が決まる「枠組み」があるというに過ぎない。そしてそれは「隠されている=無意識的」である。

そしてまたカントが「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」と言うとき、マルクスはいう。「使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのであ」り、「自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大する」と。

ところで「幸福・自愛・享楽」などは犠牲に供し、むしろ或る種の「合目的性」に「随順する」。いわゆる「現実原則」に従っているわけではない。かといって「快楽原則」は捨て去られている。フロイトを参照する限り、残されてくるのは「死の本能」だけになってしまうがーーー。

BGM

ヒントとしてのカント1

2019年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
カントによる次の文章は、あらゆる物事について批判するばかりではなく、批判しつつ批判を「限界内に制限する」こととの両立を宣言している。

「三個の認識能力の批判は、これらの能力がそれぞれア・プリオリに成就し得るところのものについて行なわれるが、しかしこの場合に批判そのものは、対象に関しては本来領域というものをもっていないのである。批判は積極的な主張的理論ではなく、むしろ我々の認識能力の在り方にかんがみ、かかる理論がこれらの能力によって可能であるのかどうか、また可能であるとすればどのようにして可能であるのかということを研究するだけだからである。批判の占める土地は、我々の認識能力がややもすれば犯すところの一切の越権行為に及んでいる、批判の旨とするところは、これらの能力をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである」(カント「判断力批判・上・P.30」岩波文庫)

従ってそれは極めて「倫理的」と呼ばれて構わない場所、あるいは両者の「間に身をおいて」始めて成立するだろうような場所だ。

さて、「普遍的」《と》「一般的」との区別について、さらにカントからヒントを得たいと思う。

「或る人が(ありとある感官的享楽を与えるような)快適な事物を持って、自分のお客達を供応し、満座の人達に快いようにもてなすすべを心得ていれば、我々は彼を評して『あの人は趣味がある』と言うのである。しかしこの場合における〔適意の〕普遍性なるものは、比較的〔相対的〕な意味しかもたない、つまりそこにあるのは《一般的》規則(経験的規則は、すべてこのようなものである)にすぎないのであって、《普遍的》〔即ちア・プリオリな〕規則ではない、しかし美に関する趣味判断が確立しようとするところのもの、或は要求するところのものは、まさにこの普遍的な規則なのである」(カント「判断力批判・上・P.88」岩波文庫)

「《一般的》」な規則は「比較的〔相対的〕な意味しかもたない」。一方、「《普遍的》」な規則は「ア・プリオリ(先験的)」なものでなくてはならない。「比較的〔相対的〕」なものに過ぎないわけにはいかないのだ。別のところで同じことが述べられている。

「経験的規則は帰納によって成立するものであり、けっきょく比較的〔相対的〕な普遍性ーーー換言すれば、広い範囲に亘って有効であるという性質しかもち得ない」(カント「純粋理性批判・上・P.169」岩波文庫)

「広い範囲に亘って有効であるという性質しかもち得ない」場合、それは結局、「比較的〔相対的〕な普遍性」=「一般性」に留まるほかない。そして「幸福・自愛・享楽」などの個人的欲求もカントは次のように「傾向」と呼んで退ける。

「傾向の対象は、いずれも条件付きの〔相対的な〕価値しかもたない、それだからこれまで存在していた傾向と傾向にもとづく欲望とがいったん存在しなくなると、傾向の対象は途端に無価値になるだろう」(カント「道徳形而上学原論・P.101」岩波文庫)

「傾向」(幸福・自愛・享楽)はその時その時でたちまち変化していく。一時の流行のように儚い。「一般性」を持つにせよ「普遍性」を持たない。なぜなら「いずれも条件付きの〔相対的な〕価値しかもたない」からだ。では、「条件付き」でない「無条件」なものなら「普遍的」なのかというと、必ずしもそうではない。カントは「無条件」というカテゴリーのうちに「拘束性=縛り」を見ている。それは暴力的強制性を発揮してしまわざるを得ないからだ。従って「普遍的」はイコール「無条件」であることを意味するわけではない。そうではなくて、カントはこう述べる。

「趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる《普遍的賛成》にほかならない、従ってまた或る種の判断ーーー換言すれば、同時にすべての人に妥当すると見なされ得るような美学的判断の《可能》にほかならない、ということである。趣味判断そのものはすべての人の同意を《要請》するわけにいかない(このことをなし得るのは、理由を挙示し得る論理的ー全称的判断だけだからである)、ただこの同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけである、そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない」(カント「判断力批判・上・P.93~94」岩波文庫)

趣味判断において「普遍的」であることは「人の同意を《要請》するわけにいかない」と。ややもすれば暴力的強制に陥りがちな「《要請》」ではまったくない。押し付けになってしまってはいけない。

孔子はいっている。

「己れの欲せざる所を人に施す勿れ(自分がしてほしくないことを、他人にしない)」(「論語・第十二・顔淵篇・P.324〜325」中公文庫)

だから「普遍的」であるということは「同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけであ」り、同時に「他のすべての人達の賛同に期待する」ばかりである。従って「普遍的賛成は一個の理念」だと捉えるべきなのだ。

しかし、そこでたちまち問題が出てくる。もしただ単なる「理念」でよいのなら、頭の中で妄想するだけでも構わないという意味すら含んでしまう、ということが大いにあり得る。そこでカントは幾つかの命法を提示している。

「《君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ》」(カント「道徳形而上学原論・P.85」岩波文庫)

「《君の行為の格律が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則と〔自然法則に本来の普遍性をもつものと〕なるかのように行為せよ》」(カント「道徳形而上学原論・P.86」岩波文庫)

「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)

これだけ列挙されると正直なところ疲れはする。けれども問いはどんどん出てくる。差し当たり、これらの厳格な命法について一体どのようにすれば両立することができるだろうか。こうある。「意志の自由」に関わる。

「意志は、ただ訳もなく法則に服従するのではなくて、《自分自身に法則を与える立法者》と見なされねばならないような仕方で服従するのである。つまり意志はかかる普遍的立法者であればこそ、法則(意志は、自分自身を法則の制定者と見なしてよい)に服従するのである」(カント「道徳形而上学原論・P.108~109」岩波文庫)

だがここでさらに問題が転がり出るのだ。「意志」とともにあるべき「自由」とは何だろうかと。基礎的レベルでカントは「自由」を次のように規定している。

「自由というのは、或る状態を《みずから》始める能力のことである。従って自由の原因性は、自然法則に従ってこの原因性を時間的に規定するような別の原因にもはや支配されることがない、この意味において自由は純粋な先験的理念である」(カント「純粋理性批判・中・P.206」岩波文庫)

「自由」はア・プリオリに妥当すべき「《みずから》始める能力」であるに違いないが、それはア・プリオリに「純粋な理念である」に留まる。あくまでも「理念」として考えられている点に着目したい。その限りで「普遍的」=「他のすべての人達の賛同に期待する」ほかないという限界を持つ。だから「自由」は「自由」であるにもかかわらず、その実践的適用において、或る種の「道徳性」が導入されてこざるを得ないのだ。

普遍的/一般的

2019年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
カントはいう。

「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント「実践理性批判・P.72」岩波文庫)

何をなすにしても、それが実践的である場合、普遍的に妥当するよう行為せよ、と。

だから、カントは、いわゆる「幸福」の追求は構わないにしても、実践的判断の基礎として取り扱われる場合、「幸福」とは果たして、いかなる時にも必然的に妥当する「普遍的」な判断原理だといえるだろうか、もしかしたら「一般的」なレベルでの思い込みに過ぎないのではないかと、強い疑問を呈している。

「我々は幸福の原理を、確かに格律たらしめることができる、しかし我々が《普遍的》幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格律たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変り易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど《一般的》な規則を与えることはできるが、しかし《普遍的》規則を与えることはできない」(カント「実践理性批判・P.84」岩波文庫)

この場合、「普遍性」は、カントのいう「道徳的」見地から考えられねばならない。例えば、自分の目的が「大統領になること」だとしよう。そのための「手段」として自分を取り扱うのは妥当だとしても、同時に他人をも「手段」として取り扱ってよいのか。それでは「普遍性」を失ってしまう。「一般的」であるに留まる。万が一にでも「普遍的」でありたければ、他人を使用する時、その人格(人間性)において、「手段」として使用してはならないというのだ。もし仮に使用するとしても、その時は「手段」としてのみではなく同時に「目的」としても使用すべきだと。こうある。

「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)

そして、もしそのように使用するのでない限り、それは何ら「普遍的」なものを持たない、とカントは考える。「普遍的」であるとは、では、どういうことか。或る意味、態度として「普遍的」であるとは、いついかなる時にでも妥当する「根本的」な態度だといえるだろう。しかし「根本的」な態度とはどういう態度か。例えばマルクスの場合、「協同組合労働」への転化運動の叙述において、そのような「普遍=妥当的」態度が示されている。

「この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、《自由で平等な生産者たちの結合》(association)という、共和的で福祉ゆたかな制度とおきかえることができるということを、実践的に示す点にある。

しかしながら、協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義的社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働という大規模で調和ある一制度に転化するためには、《全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化》が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移すこと以外には、けっして実現されえない」(マルクス「協同組合労働」『ゴータ綱領批判・P.159~160』岩波文庫)

また、たとえ「協同組合労働」といってもそれが「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」であるためには、「国家権力を」「生産者自身の手に移す」というだけでは不十分であり、相変わらず「国家そのもの」は存続し続けるかのように見える。そこで「国家」をどう捉えるかという点について、マルクスはこう釘を刺している。

「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)

ところで、「大規模で調和ある」というフレーズは、どこか「万博」の理念を思わせないでもない。しかし「協同組合労働」と違って、「万博」が、直ちに「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」を内容のうちに含んでいるかどうかはまったく定かでない。ヘーゲル用語でいうと、何よりもまず、今ある国家の諸形態をどのように「揚棄するか」という理念と実践のための用意がそこには欠片ほども見られない。

一方、資本の人格化としての資本家にとって「普遍的」であるとはどういうことか。少なくとも、資本家にとって、「通貨」は「普遍的」でなくてはならないに違いない。だが、「貨幣」はそれほどまでに「普遍的」だろうか。「信用」はどんなふうに「普遍的」だろうか。むしろ「信用」は何か別のものを増大したり減少させたりしないだろうか。あるいは「流通」は絶対的に「普遍的」だと断言できるだろうか。「手形」の流通は本当に「普遍的」なのか。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)

今のところ、「信用制度」は決済を無限に先送りして資本の自己増殖運動を促進し、新自由主義(グローバル資本主義)を無限に延長させている。従って、「信用」とそれを可能にしている「流通」がなければ資本の機能はあっさり切断されてしまう。さらに、この「流通」の還の成就のためには「消費者」の存在が不可欠である。ところで、「消費者」とは、一体何者なのか。少なくとも、始めは二極に分かれた「売る立場」(商品所持者)と「買う立場」(貨幣所持者)が、対立する関係に置かれる商品交換を成立させる(価値と剰余価値とを実現させる)際に、「消費者」は「いついかなる時にでも妥当する」《普遍的》な存在者として位置付けられているかと思われる。今のところは。

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かつて「演歌メタル」があった

2019年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
八十年代前半。日本で俗称「演歌メタル」と呼ばれる楽曲が登場したことを覚えているだろうか。ついさっき、風呂掃除をしている時にふと思い出した。もっとも、先日まで哲学書にばかり集中していた反動かも知れない。

あれから三十五年以上が過ぎ、そのバンド名は今や誰でも知っている。そればかりかとっくの昔に演歌調から抜け出して本格的なヘヴィ・メタル路線を樹立した。けれども当時の日本では欧米勢と比較して、まだまだ認知度が低かった。大変低かった。

“After Illusion”

当時から考えると、近年の音楽はとても明るく健康的でポップになった。聴く側の好みも大きく変化した。商業音楽についてだけの話ではない。実験的テクノ/ヒップホップなど、あまり世に知られていない音楽の世界でもそうだ。それはそれでよいことだと思っている。何より自分で選択できる余地が残されているということは。

しかし選択の自由に関し、本当にいつまで「自由」を確保できるだろうか、という問いはなお続いている。自由は、絶え間ない実践によってのみ、その時々においてその場かぎりで、いちいち保証されるほかない。その意味でますます限定的なものになっていくのではないだろうか。そういう不安という名の亡霊があちこちを徘徊している。とりわけ、長引く経済的不安が必然的に呼び寄せる「不自由」という名の亡霊が。というのも、鈍重なマスコミの内部ですらようやく問題視されてきた「印象操作」への疑問について述べているからである。

しかしマスコミがそれを問題にするのは、マスコミ自身がそれに脅かされつつある限りでしかなく、逆に操作する側へ吸収=合併され、そこで一定の地位を得るや否やマスコミはそれについて問題にすることも、かつてそうであったことも何ら語らなくなる。口をつぐむわけだが。

「炎は、空気なしには存在しない。したがって、一を知るには、他を知らなければならない」(パスカル「パンセ・P.50」中公文庫)

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