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農業の現場の おはなしなどなど。

源平合戦、その後。七人塚。

2022-05-07 22:35:56 | Weblog
七人塚。その後。
関ケ原合戦のあと薩摩に匿われた宇喜多秀家。その屋敷あとが垂水
にあるという話関連の後編です。その屋敷跡を訪ねてに行く途中で
みた七人塚。その塚が源平合戦に関連するということで、資料とし
て2015年11月分の内容を変更して再録してみました。ご参考
までに よろしかったら。
 ⇩

『源平合戦、その後。七人塚。』

壇の浦の海戦で源氏に敗れた平家の残党たち。 四国や九州など
の各地へ散り散りとなって逃れ、そのうちの現在の垂水市の牛根
辺田に土着したのが平野家一族です。その平野家はもともと平家
の水軍であったことから操船術はもとより、造船技術にも優れて
いたので次第にこの土地での有力者になっていったといわれてい
ます。

そこで、薩摩に匿われていた宇喜多秀家です。この秀家公がこの
地にいるあいだ、毎日のように日参されていたというのが、この
七人塚[こちら]だったということ。その七人塚の案内解説板には
そんな秀家公の日常の話と併せて、じつはこの塚が平家残党であ
ったその平野一族と関係するものであったことが記されてありま
した。

 のの平野家4

いわく・・・「源平合戦に勝利した後、源頼朝による平氏一族・
平氏残党の探索は厳しく続きます。しばらくして山伏に姿を変
えた源氏の追手7人が、平野家一族を暗殺にやってきますが、
平野家随一の剣客が夜陰に乗じて追手7人を倒したと伝えられ
ています。その七人の追手の亡骸が祀られている場所、それが
この七人塚です」 と。

いやー、すごいはなしですよね、七人ですよ、しかも追手で選ば
れたであろう刺客の人達をいっきに豪快にですもの。ものすごい
手練れ・剣の名手ではないですか。切られた追手も、大活劇/大立
ち回りしながら 敵ながらあっぱれ・・なんておもったのではな
いでしょうか。などとついついかってに想像してしまったのです。

しかし、しかし。

実際に七人塚に行ってみて感じたことなのですが、なぜか七人塚
の印象が暗い
。塚がアコウの樹に覆われているからなのか、入口
のキンギギドラの首が這っているかのようなヤマモモの枝がそう
感じさせるのかはわかりませんが、晴天の南九州しかも桜島のあ
る錦江湾の陽光が照り付けているというのに、なぜか人を拒むか
のような暗い感じがするのです。不思議な話ではあるのですが。

  のの平野家2

そうかんじて、垂水からかえってきて、しばらくしてのこと。

垂水のある鹿児島の大隅出身の方とお会いする機会があったので、
これはしたりと、その方に七人塚の話をお伺いしたのです。する
と、あの七人塚にあった説明板の解説とは異なる塚の由来を聞く
ことができたのです。

それは・・・

いまの鹿児島県の垂水に根付いた平家の落人である平野氏一族が、
ある日訪れてきた七人の侍たちを”平家落人を追ってきた源氏”だ
と勘違いして一人づつ刺殺してしまい[その後追っ手ではないと
いう事実が判明したあとに]その七人をお祀りした。 七人塚は
その塚なのだと。なんのことはない無実の方々を間違って殺めち
ゃってしまったという、討たれた方々にとっては無念このうえな
い話
であるとおっしゃったのです。

その話をきいたときに、おもわずわたくし、それだっ 800年
の時が過ぎてもが訴えたかったのは、それだったのかもっ と、
おはなしを聞かせていただいた[もちろん前後の事情など知る由
もない]その方に対して ついつい大声出して驚かせてしまって 
ただただ申し訳なし/笑。

ということで今回は、平家とか、宇喜田秀家とか、豊臣秀頼とか
幸村とかが 逃れてきたという伝説の残る鹿児島県垂水市のお話
でした。次回へとつづく・・。

晴れそれにしてもの源平合戦の、戦いがすんでからの平家に
  対しての鎌倉幕府の執拗な残党狩り。霊媒師でもない
  私にさえそんな“暗い気配”をこの地に感じてしまったのは、
  その陰湿さのせいなのかもしれません。

  51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg夢で終らせない農業起業」 「本当は危ない有機野菜








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