ある手を漢字で書けば「有る手」と「或る手」があるけれど、ここに「ある手」と書いたのは、そこの差をいい加減にぼかしておこうという魂胆です。
指導碁というと、プロの場合はアマに”きちんとした碁”を教えるのが目的ですから勝敗は第二となります。
しかし、同じアマでも向う先とか2子くらいになると、上手も負けられないとか負けたくないという意志は働くでしょうね。
それからプロ志望者とか、プロ直前の人に対しては勝敗以上に”勝負の厳しさ”を教えるということもあるでしょう。
ここまではプロの先生を想像したお話です。
では私の場合は・・・
碁会所やコミュニティなどリアルで、仮に言葉では下手の人から「一局教えて下さい」と声をかけられたとしても、これを決して言葉通りには受け取ってはいけないのです。
(衣の下に鎧が見えていますぞ!!)
私程度の上手に教わろうなんて殊勝な下手はどこにも居ない。
一発足元を掬って、兜首を取って手柄にしてやろうという魂胆は見え見え。
(自分が兜首とは思い上がりかも知れませんが)
それでもそんなことを顔には出さないのが大人の世界?あるいは京都の「おぶ」でしょね。
マアそれはいいのです・・・が
この対局には2種類あって、一つは点数制度で勝敗によって1点ずつ上下する対局か、点数と関係なく下手の人が「○子局」で打ちたいというものがあります。
前者は負けてばかりいたら点数が下がってしまい「なーんだ」という形で、尊敬はともかく軽く見られる・・・というプライド?問題がある。
後者はそういう意味では気は楽ですが、それでも変な負け方はできません。
要するに負けられない気分で打ちますが・・・勝敗第一義ではいけないとも思っている。
私としてはこの辺の境目を2子局と3子局に考えています。
例えば一番手直り:一局の勝敗で置石を変化させるもので、昔は三番手直りで教わったのですが、最近は”三番はまどろっこしい”と”一番”の人が多い。
これですと、2子でやられる人には先でも危ないことが多いけれど、もし3子の人に負けても2子ではたいてい押し返せることが多いという経験がある。
したがって、例は悪いのですが”お山の大将”として後から上がってくるのを止めるのは2子が瀬戸際のような感じです。
ですから反則などは論外ですが、2子局以内なら真剣に勝ちに行くのです。
これは3子局以上では真剣では無いということとは違います。
対局に対する”第一義”が違うと言いますか・・・
少なくとも白も堂々と正面から戦うという気分でしょうか、姑息な手段・相手を惑わせるとか、誤魔化すことを目的としたような手は打たない(という気分)。
(オーバーに言うと)相手が真似したくなるような打ち方を(出来たら)したい。
そうは言っても上手の白は置き碁で負けるために打つのではないから、下手の力試しとか、力量判断みたいなことをします。
柔道で言えば、組み合ってちょっと引き手に力を入れて相手の出方を見るとか、足で相手を誘うとかあるわけです。
そういう細かなところから、黒は少しずつ崩されていくことが多い
あるいは肝心なところで出遅れたり、寄り道したり・・・
(もしこういうことが無くなれば置石は減るはず)
要するに置き碁での白の勝敗は黒さん次第です。
(高段者で置き碁嫌いの人はこの辺が原因かな)
それで局後に振り返って説明する時に「足が遅い」とか「寄り道」は理解してもらえることが多いのですが「少しずつ崩れる・・・」この辺は難しい
理解して貰えないことが多いし、第一説明する方も難しい
「蟻の一穴」とか「ドミノ式」とか初めのホンの一寸した”ひるみ”であったり”歪み”が原因だったりするように思えるのですが、感じていてもこれを説明するのは難しいし、聞くほうも私程度の打ち手に言われても信頼性が乏しいでしょうし・・・
似たようなことで、”部分的に打ち切ってしまわないで、味を残して置くとか
ともかく基本的な身につけて欲しいことは地味なことが多いのです。
ですから私など置き碁の対局で勝っても・・・黒が失敗するから負けるわけで、白が強いとはならない(私の場合はその通りですが)。
ですから碁会所・コミュなどリアルでは力が強くて、きれいに技を決める人が尊敬される傾向にある様に思えます・・・しかし基本的なレベルアップなら”必殺技”を憶えるより”相手に付け込まれないこと”
さてこれは鶏と卵の関係か、それとも進歩の両輪か
指導碁というと、プロの場合はアマに”きちんとした碁”を教えるのが目的ですから勝敗は第二となります。
しかし、同じアマでも向う先とか2子くらいになると、上手も負けられないとか負けたくないという意志は働くでしょうね。
それからプロ志望者とか、プロ直前の人に対しては勝敗以上に”勝負の厳しさ”を教えるということもあるでしょう。
ここまではプロの先生を想像したお話です。
では私の場合は・・・
碁会所やコミュニティなどリアルで、仮に言葉では下手の人から「一局教えて下さい」と声をかけられたとしても、これを決して言葉通りには受け取ってはいけないのです。
(衣の下に鎧が見えていますぞ!!)
私程度の上手に教わろうなんて殊勝な下手はどこにも居ない。
一発足元を掬って、兜首を取って手柄にしてやろうという魂胆は見え見え。
(自分が兜首とは思い上がりかも知れませんが)
それでもそんなことを顔には出さないのが大人の世界?あるいは京都の「おぶ」でしょね。
マアそれはいいのです・・・が
この対局には2種類あって、一つは点数制度で勝敗によって1点ずつ上下する対局か、点数と関係なく下手の人が「○子局」で打ちたいというものがあります。
前者は負けてばかりいたら点数が下がってしまい「なーんだ」という形で、尊敬はともかく軽く見られる・・・というプライド?問題がある。
後者はそういう意味では気は楽ですが、それでも変な負け方はできません。
要するに負けられない気分で打ちますが・・・勝敗第一義ではいけないとも思っている。
私としてはこの辺の境目を2子局と3子局に考えています。
例えば一番手直り:一局の勝敗で置石を変化させるもので、昔は三番手直りで教わったのですが、最近は”三番はまどろっこしい”と”一番”の人が多い。
これですと、2子でやられる人には先でも危ないことが多いけれど、もし3子の人に負けても2子ではたいてい押し返せることが多いという経験がある。
したがって、例は悪いのですが”お山の大将”として後から上がってくるのを止めるのは2子が瀬戸際のような感じです。
ですから反則などは論外ですが、2子局以内なら真剣に勝ちに行くのです。
これは3子局以上では真剣では無いということとは違います。
対局に対する”第一義”が違うと言いますか・・・
少なくとも白も堂々と正面から戦うという気分でしょうか、姑息な手段・相手を惑わせるとか、誤魔化すことを目的としたような手は打たない(という気分)。
(オーバーに言うと)相手が真似したくなるような打ち方を(出来たら)したい。
そうは言っても上手の白は置き碁で負けるために打つのではないから、下手の力試しとか、力量判断みたいなことをします。
柔道で言えば、組み合ってちょっと引き手に力を入れて相手の出方を見るとか、足で相手を誘うとかあるわけです。
そういう細かなところから、黒は少しずつ崩されていくことが多い
あるいは肝心なところで出遅れたり、寄り道したり・・・
(もしこういうことが無くなれば置石は減るはず)
要するに置き碁での白の勝敗は黒さん次第です。
(高段者で置き碁嫌いの人はこの辺が原因かな)
それで局後に振り返って説明する時に「足が遅い」とか「寄り道」は理解してもらえることが多いのですが「少しずつ崩れる・・・」この辺は難しい
理解して貰えないことが多いし、第一説明する方も難しい
「蟻の一穴」とか「ドミノ式」とか初めのホンの一寸した”ひるみ”であったり”歪み”が原因だったりするように思えるのですが、感じていてもこれを説明するのは難しいし、聞くほうも私程度の打ち手に言われても信頼性が乏しいでしょうし・・・
似たようなことで、”部分的に打ち切ってしまわないで、味を残して置くとか
ともかく基本的な身につけて欲しいことは地味なことが多いのです。
ですから私など置き碁の対局で勝っても・・・黒が失敗するから負けるわけで、白が強いとはならない(私の場合はその通りですが)。
ですから碁会所・コミュなどリアルでは力が強くて、きれいに技を決める人が尊敬される傾向にある様に思えます・・・しかし基本的なレベルアップなら”必殺技”を憶えるより”相手に付け込まれないこと”
さてこれは鶏と卵の関係か、それとも進歩の両輪か