本の読み方にもいろいろあって、例えば雑誌などで軽いものなどだと適当に流し読みしたり、また、小さな話が羅列的に詰め込まれたりしているものだと、後ろの方から読んでみたり適当に開いたところから読んでみたりする。本の種類にもよるし、またこちらの状態でも読み方が変わって来たりする。ただ、私の場合は買ってきた本は、そのつもりで買ってくることが多いので、流し読みであっても、一部分であってもとにかく読んでみることがほとんどである。しかしそうならない例外が一冊だけあった。それが、哲学者のジル・ドゥルーズの書いた「差異について」という本である。
この本に対する私の態度は、自分でも不思議だった。そう、もう忘れかけているが10年か15年くらい、あるいはそれ以上前に買ったきり、本棚に置いたままずっと読まなかったのである。よく言う、積ん読というものなのだろうが私は読むつもりで買ってきたものをそうしておくことはまずないのである。買った本は必ず読むから本棚にある書籍も多くはない。買って来て、大事にその小さな、薄めの、それでも自分にとってかなり重要で読みごたえのありそうな予感のする本を保管するような気分で、置いたままにしていたのである。こういうことは初めてだった。そういう予感がそれほど強くすることもまた稀であったのだ。そしてその存在をしばらく忘れていて、数カ月したときにその本が本棚にあるのを見て、ああ、まだ読んでいないなと思うのだった。それでよかったのだ。それを繰り返しつつ、10年以上も読まなかったのである。その時の心境は、まだ読んでいないからこれからじっくり読むことができる、これから楽しみがある、というものだったように思う。決して、つまらないものであろうとは思っておらず、全く逆の予感がしていたのである。それは、読書家と呼ばれる人には遠く及ばずとも、いろいろと本を読み漁ってきた者にはたらく独特の勘である。私とその本はそういう関係であった。後で分かったことだが、それは当たっていたようだ。私はそのことが分かる数年前に、自分でも不可解なことに、その本を古本屋に持っていって売ってしまっていた。読まないまま、真新しい本を古本屋に売るということも自分には生まれてこの方ないことだった。そして、あれだけ読むことを楽しみにしていたのに、そうしたことに対し何の後悔も持たなかったのである。
先日、ふとその本を読みたいと思い、図書館へ行った折に読んでみたのである。8割がたざっとではあるが読んだ。内容は、期待に違わぬものだと思った。そして、正確に理解するには、深く何度でも読まねばならないかもしれない、と感じたことも予想通りだった。
自分としては、不思議な読書体験の一つだったと思う。その薄めの、散文的な、固有名詞のほとんど出てこない一冊は、稀な本だったのだ。
著者である、ジル・ドゥルーズ氏は、14年ほど前に自死したという。昨日知った。自死したことは知っていたが、それほど前のことだとは思っていなかったのである。
今年か去年あたりに新聞紙上などで話題になり彼をよく知る弟子や読者が評論などを載せたりしていた。気になったのでそれらの記事は読んだ。それで自死であったことを知ったのだが、それがいつ頃のことであったかは知らなかったのである。ずいぶん前に亡くなっていたわけだ。しかしなぜ、そのような結末を自ら選んだのだろう。純粋で歳をとっても少年のような目を失わなかった人だときく。肺病を患い、人工肺で生存していたらしく、アパートから投身自殺したそうだ。70歳。病を悲観したのだろうか。
私個人にとってのことだが、何から何までが不思議で異質な読書体験を与えた一冊だった。