空前のベストセラーとなつた養老孟司氏の「バカの壁」に倣って、
「カラダの壁」なるものを考えてみた。
というより、身体表現の現場で試してみた。
人という存在にとって身体というものは、
実は心や精神以上に制度的なものであり、
身体的な習性というものは如何ともし難いものであることを、
人はみな忘却していることが多いように思う。
心を病んだ人の症例報告などを書物で読んだりしてみると、
彼らが自分の症状について、実在する痛みのように、
身体上の痛覚そのもののように語られていることがよくある。
もちろん、ここでは心-身関係のあいだに神経機能がなんらかの媒介をしているのだろうが、
神経機能について臨床医学的に語る資格など、到底門外漢の私にはないので、
心-身問題としてのみの素人語りとして受けとめていただきたい。
人はよく、自分自身の心の壁や思考の壁を問題にし、その壁を少しでも破ろうと、
いろいろ努力をしてみることがある。
ところがこの努力、なかなか報われるものではない。
眼から鱗が落ちる、という謂いがあるが、
この諺のように、我々をしてハッと気づかせたり、
悟らせたりしてくれるような場合の言語表現に身体用語が使われていることが多いように、
身体で気づく、身体でわかることが重要なのだ。
その人固有の身体というのは、まずその人固有の骨格、骨組みやその硬軟の度合いによく表れているもの。
したがってカラダの壁というのは、なによりもその人固有の骨格であり、
そこから派生もするその人固有の柔軟度の問題だといってもいいだろう。
これに気づき、これを知ること、みずからの骨を知れ。
自分の身体の壁を文字通り身をもって知るということ。
このために、私はある時、ひとつの身体操作を思いついた。
みずから身体の壁を感じ、身体を開放する術を、みずからの内に発見すること。
それはおそらく、心や精神の壁をも開く契機となるだろうこと。
私はこの問題に、ずっと心を砕いてきたのだが、閃きは一瞬のうちにやってくるものだ。
それは至極、簡単な作業、まことにシンプルな身体動作である。
床に寝転がること、そしていろいろ四肢を動かし、捻ること、
寝転んだ状態で可能なあらゆる動きをしてみること。
決して起き上がってはいけない、あくまで寝転んだ状態で。
これを数分間、なにか軽快なリズム音楽をBGMとして、ひたすら動いてみること。
実は、これ、試してみるとわかりますが、とても身体を使うし、
しっかりと4.5分もやれば、身体はフラフラ、かなりのダルサを感じます。
この相当なフラフラ状態、ダルくてダルくてしようがないという状態、この感覚までいくことが肝心。
この後、寝転んだまま少し身体を休めておいてから、起き上がって、なんでも自分なりの体操や身体動作をいろいろと試してご覧なさい。
いつもの自分自身の限界をほんの少しだけ上回るような、身体が以前よりほんの少し開いたような、
そんな感覚が必ずあります。
その身体感覚、このような自分自身のカラダの壁の気づきの感覚は、
心や精神の壁を開いていく作業に、きっと大きなプラス効果を与えてくれる筈なのです。