山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

あの雲がおとした雨にぬれてゐる

2004-11-18 14:39:51 | 文化・芸術
Santohka_01.jpg

友のひとりが
以前の山頭火上演の際、寄越してくれた辞を此処に置こう

てふてふ飛んだ

鉄さんの傍らに座してみられよ。
さすれば、てふてふと聞こゆる羽型のその裡に、
あなたが切り取ってきた分だけのおおぞらと、
雲の墓標が視ゆるに相違ない。
臥しては狂酒、歩しては酒悲の人であったとの伝説に惑わされ度くなければ、の噺ではあるが。
否、むしろ、納音(なっちん)に由来せしめた「山頭の火」が、
春陽が老陽に合した状態を表す謂を想起すれば、
鉄さんはその時あなたの真横まで肉迫し、
眼前に生の本性たる闇あるいは表出の習性に重ねゆく幻視のあおぞらを垣間見せしむるであろう。
ゆえに語りの魂魄は、芸としての少年の叫びであり、術としての老いの囁きとなる。
陽炎い昇つ揮発体は彼の人の洲宇宙が醸す悲喜劇にして、
残されたうしろ姿こそ我らが今日の含羞である。
約すれば、五十歳の坂から幾山河越えなんとするご同輩、言うてはすまんがおっさんおばちゃん。
我らはここに鉄さんファン苦楽部を自称する。私設の勝手連である。
劇空間のひとときを人性の密か事にとり替え、うっそり微笑むのはあなたの番である。

   ―― 追っ駆け代言人 M.T記

おとはしぐれか

2004-11-18 14:38:09 | 文化・芸術
ぐっと掴んでパッと投げる
添えるよりも捨つべし
言い過ぎは言い足らないよりもよくない
お喋りはなによりも禁物だ
言葉多きは品少なしとは、まことに至言
道として、行として、句を作るのだ


歩くこと - 自分の足で
作ること - 自分の句を

てふてふひらひらいらかをこえた

2004-11-18 14:33:47 | 文化・芸術
遠い、遠い、むかしのはなし。


高校へ入学したばかりの初夏、六月。
私はまだ16才の誕生日を迎えていなかった。

多感な思春期の一頁は、
政治的行動への共感と疎外からはじまった。

高度経済成長期の初期は、戦後民主主義の徹底とともに、
反体制運動の潮流がいよいよ高まってゆく政治の季節でもあった。

時は’60年安保の真っ只中、 
当時の母校市岡高校は、大阪府下ではK高校と並んで学園民主化が急速に進んでいた。

‘58年の勤評闘争で教師達は大教組運動の中心的役割を果たしていた。
とりわけ三十代の教師たち、S氏、K氏、O氏らがその軸となって活動していた。

彼らの指導のもと、生徒会活動も活発化、自由・自治・民主化の校風が醸成され、
自ら思考し、自ら行動する者へと、目指される自己の確立は、
政治的関心へと傾斜し、直接的な行動へと駆り立てていくことが、青年の特権であり、
自らの立場の選択と実践が、青春の謳歌でもあった。

5月頃より日米安全保障条約の改正に対する反対運動が急速に盛り上がっていた。
学内でも全学生徒集会が開かれ、反対デモへの参加の是非が何時間もかけて議論され、賛否相半ば、高校生の政治的直接行動への容認派と否定派は拮抗していた。

6.15、国会周辺デモにおける樺美智子の死。
この事件は政治的関心に傾斜を強めていた市岡の生徒達の間でも衝撃をもたらし、非常に深刻に受け止められた。

6.19、御堂筋デモへ参加しようという200人に及ぶ生徒達が、気勢をあげ運動場を三重、四重に隊列をなし行進する、やがてどっと勢いよく校門を出て行く。
時間にすれば十数分のこの騒ぎの始終を、三階の講堂で近日に迫る新人公演の芝居の稽古をしていた私は、高い窓越しに覗き込むように見下ろしていた。
あっ、一瞬、私は小さく息を呑んだ。
突然、私の眼に飛び込んできた、クラスの馴染みの顔が五、六名、男子も女子もいた。
どの顔もみんな生き生きと、紅く熱く映っている。
私は、なにやら昂ぶりつつ、少なからぬ疎外感もおぼえ、言いようのない錯綜した心の揺れを感じながら、彼らが見えなくなるまで追っていた。

決して他人事だなどと考えていた訳ではないが、結果として傍観者の位置に居る私。
彼方と此方、二者を隔てているものは何なんだろう。
この距離、この違いは、決定的なものなのか、否か。
私には明瞭な答えを見出すことはできなかった。不明なままだった。
ただ、この時、私は、なにかを逸してしまっている。
その感触だけが、残されたような気がする。

後年、この時の傍観者であることの自戒と、それでも感じていた昂揚や共感との間の心の揺らぎが、私の政治的行動への距離をずっと規定しつづけたように思える。

なにかを逸したという、その感触は、
小さな瘡となって、私の背にそっと貼りついたままだ。


あの時から、私は、私自身を生きはじめた。

ひょいと四国へ晴れきつている

2004-11-18 03:46:16 | 文化・芸術
981128-013-2.jpg

山頭火のモノローグ

昭和十四年の秋、
わしは広島の宇品から船に乗って、四国へ渡った。――
まぶしいほど晴れ渡っている。―― 
船が港に近づくと、松山のお城がよう見えた。
死出の旅路にもったいないほどの日和だ。
流浪するほかないこの身に風がやさしかった。――

  秋風こんやも星空のました

  泊まるところがないどかりと暮れた

  ぼうぼううちよせてわれをうつ