友のひとりが
以前の山頭火上演の際、寄越してくれた辞を此処に置こう
てふてふ飛んだ
鉄さんの傍らに座してみられよ。
さすれば、てふてふと聞こゆる羽型のその裡に、
あなたが切り取ってきた分だけのおおぞらと、
雲の墓標が視ゆるに相違ない。
臥しては狂酒、歩しては酒悲の人であったとの伝説に惑わされ度くなければ、の噺ではあるが。
否、むしろ、納音(なっちん)に由来せしめた「山頭の火」が、
春陽が老陽に合した状態を表す謂を想起すれば、
鉄さんはその時あなたの真横まで肉迫し、
眼前に生の本性たる闇あるいは表出の習性に重ねゆく幻視のあおぞらを垣間見せしむるであろう。
ゆえに語りの魂魄は、芸としての少年の叫びであり、術としての老いの囁きとなる。
陽炎い昇つ揮発体は彼の人の洲宇宙が醸す悲喜劇にして、
残されたうしろ姿こそ我らが今日の含羞である。
約すれば、五十歳の坂から幾山河越えなんとするご同輩、言うてはすまんがおっさんおばちゃん。
我らはここに鉄さんファン苦楽部を自称する。私設の勝手連である。
劇空間のひとときを人性の密か事にとり替え、うっそり微笑むのはあなたの番である。
―― 追っ駆け代言人 M.T記