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丁度、一週間ほど前、劇団Oの演出家K氏から突然の電話。
来春3月初旬、在阪5劇団による合同公演へ、演出面での協力要請が主旨。
創作の戯曲は、原爆の子像のモデル、サダコのヒロシマと、9.11のグランド・ゼロが、Wイメージで構成されたものだ、という。
翌日、脚本が届いたので一読。成程、舞台へと形象化するのに工夫を相当要する。
サダコ、ヒロシマ、グランド・ゼロ、イラク紛争、――
時空を超えてイメージが錯綜、重畳する。メタファーがいっぱい詰まった世界だ。
容易に視覚化できるものではない。
身体表現を主軸に長年やってきた私に、演出面で相談にのつてくれないだろうか、
とK氏は云うのだが、どこまでやれるものか、いまのところ見当もつかない。
お互いに忌憚なく語り合い、刺戟しあいながら、生み出してゆくしかない。
荷は重いが、愉しみながらやろう。
今年の1月、新年早々、K氏が演出した舞台を観る機会を得て、
その感想として書き送ったのが以下の一文。
前略。
昨夜は「セールスマンの死」公演へのご招待ありがとうございました。
優れた戯曲の醍醐味というものを久し振りに堪能させて頂きました。
大阪労演の資料をネットで閲覧して見ますと、民芸・滝沢修の「セールスマンの死」は、
1954年5月、66年4月、75年10月、84年9月と、40年にわたってほぼ10年毎に上演されておりますね。
この記録によれば、小生が観た舞台は二度目の66年ということになるようです。
記憶というものは誠に曖昧なもので、これより三.四年は早い時期かと思っておりました。
といいますのも、(労演資料によれば)63年10月「狂気と天才」の滝沢=キーンが強く印象に残っており、また両者の表象世界から比較しても、これより前だろうと思い込んでしまっていたようです。
観劇後ついでに思い出されたのが、大阪市大の劇団「つのぶえ」が「セールスマンの死」を63年秋に上演しており、私的なつながりもあってこの舞台を観ております。
小生は高校入学が60年春、同時に演劇部に入り、高一の終り頃から労演や関芸さん(関西芸術座)の舞台を観るようになったのですが、60年代という<>の潮流が吹き荒れるなかで舞台人生を出発させておりますから、大学に入るやその波をもろに被り大きく変容していきます。
66年ともなると同志社を中退した時期でもあり、また、前年の秋から「9人劇場」という小さな劇団をはじめた頃でもあり、他所様の舞台は大層選り好みして観るようになっており、この頃を境に労演にかかる舞台からどんどん遠ざかっていきました。
若年ゆえの特権でしょうが、凡そ既存の表象世界はかくの如しと見定め、自ら試行錯誤を重ねるのみという構えで60年代を過ごしたように思います。以後の私は熱心な観劇家とは程遠い輩となったまま今日に至ります。
したがって、昨夜はほぼ40年ぶりの「セールスマンの死」に再会させていただけた訳です。
その観劇は初めに記したように、優れた戯曲世界を充分に堪能できるものでした。
前夜は些か寝不足でして、失礼にも居眠りなどしてしまうのではないかと心配されたのですが、結構の見事さ、緻密な運びの冴えは睡魔を寄せ付けず、三時間余の長丁場にも集中力を持続させてくれました。
この観劇の機会に恵まれたことに感謝です。
ついでながら、私は劇評家ではないのでとても丹念には書けませんが印象批評をいくつか。
1.破綻のない演出です。舞台機構から負担の大きい面がたくさんあったと思いますが、
美術の努力、それに呼応した照明とも相俟って、よく破綻なき舞台になったと思います。
2.ウィリーのTさんには、最初から最後まで薄皮一枚の違和感が残りました。
この方の台詞術と所作技法に、私はどうしても少しばかりの乖離を見てしまうのです。
3.痛々しいほど足が悪いのに、奮闘のKさん。はっとするような激しい場面に思わず心配が先立ちましたが、流石です。
若い時代の場面に一層の華やいだ香りが欲しかった。
4.パンフによればどうやらこの企画を持ち出したらしいK君という役者、終局この舞台にかける情熱が迸っていました。
全体の形象からいえば少々真摯に過ぎたのではないか。表象に幅が欲しい。
5.兄弟たちの少年時代、これはもう困難すぎますよね。ハイスクールとはいえ花形スポーツの雰囲気なんてアメリカンドリームそのもの。
その表象を望むなんて無駄なことはしないで最低限の形象にとどめるのが賢明かと。
乱文ご容赦願います。
四方館 林田鉄 拝