山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

さうろうとしてけふもくれたか

2004-11-29 05:14:56 | 文化・芸術
性転換する魚たち―サンゴ礁の海から

「性転換する魚たち-サンゴ礁の海から-」
桑村哲生著・岩波新書 を読んだ。

われわれ人間にとっては性の壁は越えがたいものとして厳然とあるが、
ある種の魚たちは、オスからメスへ、あるいは、メスからオスへと、
必要に迫られて性転換するという話で、豊富な事例が示され、なかなか面白かった。
性の垣根は、環境の変化によっては乗り越えられるらしい。魚たちにとってはそれも珍しいわけではなさそうだ。
話題になったディズニーの映画「ニモ」の主人公、あの可愛いカクレクマノミも性転換をするという。
ご覧になった方はご存知だが「ニモ」では、夫婦で卵を守っていたところ、獰猛な敵に襲われ、母親は食べられてしまい、卵もたった一つだけが助かる。それがニモで、この無事に孵化した息子を父親が育てるのだが、ある日ニモがダイバーに捕まり持ち去られてしまう。そこで父親はニモ探しの旅へと出かける、という設定の冒険アニメ。
この話、性転換をするクマノミ類としてはかなり事実に反するらしい。
まず、母親がいなくなると、父親がやがて性転換してメスになってしまうはずだという。
それに、卵から孵化した稚魚は浮き上がって流されていってしまうから、イソギンチャクで一緒に住むようになった稚魚は、母親が生んだ卵からかえった稚魚ではありえなく、どこかで生まれて流れ着いた稚魚と入れ替わっているはずだ、と。
しかも、稚魚の段階ではオス・メスの区別はまだなく、ニモを男の子とする根拠もない、とのこと。
つまりは、「ニモだと思って育てていた息子だか娘だかまだわからない養子の子どもをさらわれて、いつのまにかお父さんから性転換したお母さんがニモを探しに行った」となり、「探しあてた暁には、父親から性転換した母親と、オスに成長したニモは夫婦になる」はずだと。
カクレクマノミの性の実態に即せばそういうことにならざるを得ないらしい。


何億年という進化のプロセスのなかで、この性転換する魚たちのことと、その延長としての哺乳類としての人類とのあいだの、その距離の近いとも感じ、また遠いとも感じさせてくれるユニークな書だ。


けふもいちにち風をあるいてきた

2004-11-29 03:33:55 | 文化・芸術
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旧いノートから -四方館

身体表現、その水位に関する一考察 (1981.6)

 ○身体表現の[発生]への着眼

<文化の発生>の根拠
  群れ化 ―― 場 ―― 個体の遊動性 ―― 個性化
 (社会形成)      (相互交流)

ピアジェの<運動表象思考>から<直感的思考>へ
  ――主体と環境との相互作用――
  幼児の思考の起源へ・・・・・
  感覚運動的活動が、内面化され、
           構造化され
           社会化される
  癒合的状態 ―― 自己中心化 ―― 脱中心化


<リズムの発生>
 表現は自然に先行する―自然のとりこみ―自然の虚構化
    人が自己本質の外化の一形態として、
    リズム(表現)を定着しえた時、
    はじめて自然や生命現象のうちに
    リズムの規範性と共通するもの
    ― 周期性など ― を見いだす。


  文化 = 虚構としての第2の自然
    外化され<時=空>的に定着するものは、
    それ自体、表現であるところの
    <リズム=場面>である。


象徴化 = 特権化 = 様式化
  <能>は合理的な空間形成の芸術様式である。
  その舞台機構が有する、空間の不等価性によって
  演者の身体に特権性を帯びさせる。
  三方にひろがった正の空間と、
  それゆえ不当に限定された負の空間とが、
  結ばれ紡がれていくことによって
  <場面>を形成し、
  [リズム―内面化]されていく。



 ○仕掛けとしての方法的着眼

 ―[身体表現発生過程]としての循環論 ―
                         
    <共感・共鳴性>
    ゆすり・ふりの世界


    <自己中心化の過程>
    もの・ことに向かう世界

                     
    <構築性>自己の発見
       立つ世界


    <脳中心化の過程>
   脱中心化――中心化の往還
    集める・分けるの世界

                  
      <非中心化>
     世界を相対化する