日々是好舌

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怪我をせぬ無手勝流が極意なり

2011年10月04日 11時52分03秒 | 日記
山南さんが今度は塚原卜伝を主演するという。
私が山南さんと呼んでいるのは俳優の堺雅人さんのことである。
2004年NHK大河ドラマ『新選組!』の新選組総長山南敬助役を演じた人で、いつも微笑んでいるような顔つきが特徴である。あのときは女郎役の鈴木砂羽さんとの駆け落ち場面が印象に残っている。
2008年再びNHK大河ドラマ『篤姫』の徳川家定役を演じているが、私にとってはやっぱり山南さんの印象が強い。

さて、私は数いる剣豪のなかでも塚原卜伝高幹を子供のころから好きである。

天児屋根命十代の孫なる国摩大鹿嶋命の後裔、国摩真人(くになつまひと)という者が、第十六代仁徳天皇の御代に、鹿島の高間ヶ原に神壇をきずいて祈った結果、神妙剣と称する刀術を発明した。これが「鹿島の太刀」と称する刀法の古伝で、時代が下がるにつれ、鹿島上古流、鹿島中古流の区分ができた、という。

卜伝の実家は吉川氏といって、鹿島神宮の祝部であり、また常陸大掾鹿島家の四宿老の一、鹿島七人衆の一に数えられ、鹿島家の重職に任じていた。吉川氏は、本姓は卜部で、卜伝の祖父卜部呼常は、前記の国摩真人五代の孫にあたり、鹿島の太刀の秘伝をつたえて鹿島中古流と称していた。呼常の子の覚賢のとき、越前の戸田流の一部(剣・短剣・縄術)を採り入れて、「外の物」と称した。

卜部覚賢(吉川覚賢)の次男朝孝、これが塚原家へ養子に行った卜伝で、延徳元年(1489年)常州鹿島(今の茨城県鹿島郡鹿島町宮中)に生まれた。

幼名は朝孝であるが、塚原(鹿島町須賀)の塚原土佐守安幹の養子となってからは新右衛門高幹と改めた。塚原氏の本姓は平氏で、大掾氏の一族・鹿島氏の分家である。卜伝と号したのは、実家の本姓卜部の字に拠ったのである。

卜伝は、実父吉川覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を学び、義父からは天真正伝香取神道流を学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されている。生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人である。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。

弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南したという。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。

剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。

著名なエピソードのひとつで、勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、「無手勝流」がある。
次のような話である。琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が塚原卜伝だと知ったその若者が決闘を挑んでくる。
卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる若者は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしているのだと思いこみ、ますます調子に乗って卜伝を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、若者と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せると、若者が船を飛び降りるや否や櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた若者が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまうというものである。これは『甲陽軍鑑』にある話だが、どこまでが真実かは判然としない。

また、若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込んだ際、囲炉裏の鍋の蓋を盾にしたとする逸話があるが、塚原の死後に宮本武蔵は誕生しており、これは史実ではない。

『天真正伝新当流兵法伝脉』では、鹿島沼尾郷田野(現・鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去とする。『鹿島史』によれば元亀2年3月11日(1571年3月6日)、83歳で死去。 法名は宝剣高珍居士。墓は須賀村(現・茨城県鹿嶋市須賀)の梅香寺にあるとするが同寺は焼失し、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。