(農文協:2023)
久世松菴の「家蜂蓄養記」についての解説を中心に和蜂に関する著者の蘊蓄を披露したものである。
著者の東繁彦氏は1974年生。一橋大学商学部卒。ミツバチ関係の著書だけでなく、「柑橘譜」「鯨譜」「麻疹備考」などの博物学的著作がある。投資家にして養蜂家と自己紹介する不思議な人物である。この書は久世松菴(くぜしょうあん)の「家蜂蓄養記」を解説したもので、最近の文献から古典といえる書籍まで広く渉猟して、様々な考察を加えている。よくぞ、これだけ調べあげたものだと感心する。巻末には丁寧なことに索引までつけられている。
久世松菴は江戸期元文3年(1738)生まれで、紀伊藩の医師であった。当時、多くの医師がそうであったように本草学に造詣が深かく、二ホンミツバチの飼育も行っていた。当時、蜂蜜は薬として使用されていたようである。紀伊は昔から和蜂の飼育で伝統がある地方であった。松菴は「耳之を聞けども目未だ之を見ず」という実証見聞の立場をとっていたそうだ。ただ何か画期的な発見をしたかというと、そうゆう事もない。たとえば「ミツバチには王がいる」という記述があるが、これは宋代の古典「小畜集」に記載されており、これを李時珍が「本草綱目」(明代)に引用していたので広く知られていた事実だ。歴史的にはギリシャのアリストテレスがすでにそれについて述べている。
ただ李時珍が王蜂の色を「青蒼」としたのに、松菴は「温色」とした点が違ったりする。女王バチはどうみても青っぽくはない。巣箱のキャパを分蜂の原因としたのも、まあまあの松菴のオリジナルかもしれない。またオオスズメバチの侵入防止のために、巣穴の大きさを約6mmにせよという指示は、実際的で現場をよく知っている感じがする。彼もきっと痛い目にあったのだろう。
松菴の説話は、当時はどうだったか知らないが、いまではほとんど常識で目新しものはない。むしろ東氏の注解の方に「おや?」と思える箇所がある。たとえば「喧嘩」という項目で、分蜂群が出てきた巣の群れと相互識別する過程や(p99。これの文献が抜けている)、日本の養蜂が秀吉の文禄の役のころから始まったという説である。それまでは、日本列島にはミツバチはいなかったいう大胆な主張である。そんな馬鹿なとおもうのだが、存在した確かな証拠を出せといわれると困ってしまう。それほど日本の昔の自然学記載は希薄だった。
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