文献上の最古の記録は日本書紀に崇神五年(三世紀後半)「国内に疾病多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半ぎなおとす」とある。朝鮮と交流があったので、大陸から持ち込まれた感染症で、おそらく天然痘(疱瘡)か麻疹だったのではないか。この頃、奈良盆地南部には纒向など人口の密集した集落が形成されていた。疾病を鎮める三輪山の大神神社では、4月1日に鎮花祭が行われ、製薬業者が薬を奉納する。また薬草であるスイカズラとユリ根も供される。
奈良時代の平城京では夏場に腸管系の疾患が多発し、官吏の死亡月を調べると、やはり7月が最も多かった。続日本紀には「京にけがらわしい臭いがする」という意味の記録がある。中世のヨーロッパでも瘴気が病気の原因であると考えられていた。天平九年に九州から天然痘が伝播し、奈良の都で広まった。これを鎮めようと、国分寺や大仏が造られた。
貞観年間(859-877年)に平安京で天然痘、麻疹、インフルンザがまた大陸からやってきた。これらの災厄の除去を祈ってはじまったのが祇園祭である。祇園八坂神社の除疫神はインド由来の牛頭天王である。牛は天然痘ウィルスの宿主であることと、関係があるかもしれない。山鉾が始まったのは15世紀の南北朝時代とされている。
江戸時代にも天然痘と麻疹がはやった。二つとも全身感染をおこすが、子供の頃に罹ると軽くてすむが、大人になって感染すると重症になるケースがある。「疱瘡は美面定め、麻疹は命定め」と言って麻疹の方が致死率は高かった。
秀吉の頃に梅毒が入り込み、当時の男性の3分の2、女性の3分の1が罹患していたと言われる。江戸時代になって、幕府の鎖国政策は外からの感染症をある程度ふせいだが、1822年頃、コレラが長崎から入って全国に蔓延した。さらに、1858年ペリー艦隊の乗組員の一人にコレラ患者がいて、長崎に寄港したときにここでコレラが発生し、江戸に飛び火した。この時、多数の日本人が亡くなった。この幕末のエピデミックは、「開国が感染症を引き入れる」とする考えを醸成し攘夷思想が高まる一因となった。緒方洪庵は「事に望んで賤丈夫になるなかれ」と治療にあたる弟子に指示した。
大正時代のスペイン風邪では、当時の日本内地で45万人、外地で74万人もの人が犠牲になった。それは3波にわたって襲来し、第一波は1918年5−7月、第二波は同年10ー翌年5月で最も猛威をふるい死者は26万、第三波は翌年1819年12-翌年5月で死者は18.7万人であった。このときのインフルエンザは1年で終わらず、性質を変えながら流行を繰り返した。与謝野晶子は「感冒の床から」という文章で、当時晶子の家には12人の子供がいたが、全員が次々と感染したと書いている。このとき行政の対応が後手後手であることを非難し、「盗人をみて縄をなう」日本人の便宜主義を批判した。
明治、大正、昭和(戦後10年ぐらいまで)の主な感染症は結核であった。日本ではこれは国民病と呼ばれていた。結核菌は病原微生物として感染力の強いほうである。病巣は肺が主であるが、腎臓や背髄などに病巣をつくるケースもある。新規発祥は減っているが、現在でも鑑別が必要な呼吸器感染症となっている。最近の罹患率は西日本、特に関西が多い。カラオケボックスのような狭い換気の悪い場所で感染しやすいのはCOVID-19と同じである。
追記(2020/06/07)
ウィリアム・マクニールの著「疫病と世界史」には、日本の古代・中世における感染史が、次のように比較的詳しく述べられている。ちょっと極端な考察のように思えるが......
『日本は島国で大陸と分離されていたこと、稲作農耕が拡大定着するまでは、人口密度が小さかったことなどから、6世紀までは大したエピデミックはなかった。しかし、飛鳥時代の552年に仏教伝来の目的で来た大陸からの使節が、天然痘を持ち込んだ。この疫病は13世紀に及ぶまで何度も流行を繰り返した。平安時代の大同三年には、人口が半減するほどの疫病(マクニールの推測ではペスト)が蔓延した。13世紀になって天然痘や麻疹はやっと小児病として定着した。このように日本の古代・中世では、ほぼ約600年にわたって、感染症は繰り返し日本の人口に深い傷を与え、列島の経済的文化的な発展を根底から阻害していた』
参考図書
井上栄 『感染症の時代』講談社、2000
赤江雄一、高橋宣也編 『感染る』慶応義塾大学出版界、 2019
磯田道史 「感染症の日本史」文春新書 1279 (2020)
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