京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

フレミングのペニシリン発見の奇跡的背景

2020年07月15日 | 環境と健康

 教科書に載るような科学的大発見は、後になってあたりまえのように思うことが多いが、数々の条件がたまたま幸運にも重なって偶然なさたことがしばしばある。その典型的な例が、アレキサンダー・フレミング (1881-1955)によるペニシリンの発見 (1929)である。

 

(アレキサンダー・フレミング)

  20世紀における人類の大発明・発見には原子力、コンピューター、遺伝子組み換え技術などがあげられるが、人間の健康にかかわるものとしてはペニシリンの発見に勝るものはない。今までに、おそらく数千万人以上の命が、これによって救われたのではないだろうか。

フレミングは、そのするどい観察眼によって、プレートに混入したアオカビが菌を殺す物質を出していると見ぬいたが、その発見の背景には信じられないほどの偶然の重なりがあった。

 アレック・フレミングはスコットランドの農家で八人兄弟の七番目の子として生まれた。十三歳のときにロンドンに出て、事務職補の職につき、後にスコットランド連隊に入ったが、遺産が入ったこともあって、セトメリー病院付属医科大学に入学し医師となった。卒業後は、同病院の予防接種部門の助手として採用され、以降49年間にわたり、そこで勤務を続けた。

 フレミングの最初の重要な発見は、リゾチームであった。フレミングが風邪をひいたとき、自分の鼻汁をとりプレートで培養した。そうすると、鼻汁の周りの菌のコロニーが溶けて透明になった。後に、この要因がリゾチームという細菌の細胞壁を溶解する酵素タンパク質であることがわかった(いまでは目薬などに使われている)。ただ、これはどの細菌にでも通用する現象ではなくて、たまたま、そのときにプレートに飛び込んできたのがリゾチームに溶解する特殊な細菌だったので観られた現象であった。

 

 1928年になって、フレミングはあるハンドブックにブドウ状球菌の章を担当するように依頼された。そこで引用した参考文献に、この菌を扱ったものがあり、その結果に興味をもったフレミングは、その菌株を取り寄せて追試実験することにした。

フレミングは細菌の培養皿をたくさん作り、それを実験台の上に、いつまでも放置したままにする悪いクセがあった。このときも、やはりプレートを片付けずに放置したまま、夏の休暇に出かけ、帰ってからそれらを観察した。すると、空中から混入してきたアオカビがプレートに生えており、不思議なことにその周りのブドウ状球菌が溶けていた。

 フレミングは、最初、リゾチームがこの現象の原因ではないかと考えたが、活性物質がアルコールに溶けることなどからそうでないことが判った。彼はペニシリンの同定を試みたが、うまくいかず、結局、十年後にハワード・プーリー、エルンスト・チェーンの二人がペニシリンを精製し、抗生物質として実用化した。1945年にはフレミング、フローリー、チェーンの3人でノーベル医学生理学賞を共同受賞した。

 アオカビの抗菌作用は、機会さえあれば誰でも観察できるありふれた現象で、注意力のあったフレミングがたまたま最初に発見したとされている。しかし「機会さえあれば誰でも観察できるありふれた現象だった」というのは、まったくの間違いである。

フレミングがアオカビのペニシリン発見後、ロナルド・ヘアが追試実験をおこなった。培養皿を作り、ブドウ状球菌をうえ、それからフレミングのカビを追加接種した。ところがカビは全然、無力で再現性がなかった。何が違っていたのか?

フレミングが観察した透明な溶菌プラークを形成させるのには、ブドウ球菌を植える前に、カビを先に植え付けなければならなかったのである。しかもカビが増殖するためには、比較的低温である必要があった。フレミングが観察した時期は夏期であったが、たまたま気温が低くカビが生え、しかも幸運なことに、その後、気温があがってブドウ状球菌が増殖した。

 さらに、このアオカビがどこからやってきたのが問題になる。このカビは特殊なペニシリウム科のもので、その辺に普通にいるものではなかった。この頃、たまたまフレミングの実験室の下の部屋で、アイルランド人の菌学者ラ・トウシュが、アオカビを使って研究を続けていた。当時の英国のお粗末な実験施設には除菌フィルターなどがなかったので、その胞子が階上に流れてきて、これがフレミングの培養プレートに入り込んだのである。

このようなペニシリンの発見までのシークエンスを列挙すると以下のようになる。

1)ハンドブックのブドウ状球菌の章をフレミングが担当したこと。

2)その過程でフレミングが追試したくなるような論文に目をとめたこと。

3)菌類学者のラ・トウシュが研究所にやってきて、その実験室がフレミングの真下だったこと。

4)フレミングが培養皿を保温器に入れ忘れこと。

5)カビが培養基に混入したころ、気温が異常に低下したこと。その後気温が上昇しブドウ状球菌が増殖できたこと。

6)プライスが来たので、フレミングが一度捨てた培養皿をもう一度見直したこと。

これらの連鎖の一つでも欠けていたら、その時のフレミングによるペニシリンの発見はなかった。これ以外にも、フレミングがセントメリー医科大学にこなかったらとか、そもそも生まれていなかったらとか、上司がオルムロス・ライトでなかったら、などの組み合わせも考えると、この1929年の出来事は奇跡にちかい確率でおこったといえる。

 フレミングがペニシリンを発見していなければ、一体いつ誰がそれを行っていたであろうか?5年後、10年後、いや50年後か?いづれにせよ、第2次大戦で負傷しペニシリンで救われた何十万という兵士の命が失われていたことは確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 絶望的状況を意志の力で生き... | トップ | 医者の効用とは何か? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

環境と健康」カテゴリの最新記事