心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさが実践出来る・・・
・・云々の文章が青い本にあって、
(寄進とは社寺などに金銭・物品を寄付すること。
寄付というのは必ずその相手の為というのがあるということか)
これって厳しいことだなぁと思って読んだことがあるけど、
何かをお前の為にしてやった・・みたいな
ありがとうという言葉を強要するような感じの人の行為に対して箸もつけない・・
ということなんだろうか・・?
そういう傾向がある人が自分の為に何かをしてくれそうな気配を感じたら、
そういうものは受けない、ということを云っているんだろうか・・・?
なんか、ちょっと違う気がする・・・
そういう傾向が大いにある人も、やるときは、
ありがとうと言われたいと思ってやってるんじゃないと思うけど・・
いや、やる時に“人の為”と思ってやること自体が“お付き合いの寄進”なんじゃないか・・
今、ぱっと思った。
あの人にこれを作ろう、これをあげよう、と思う時でも、
自分がそうしたくてするという心には“人の為”という思いなんか浮かばないはず。
自分がしたくてしたことが結果として人の役に立ったということはあるだろうけど、
自分がやる時に“人の為”があると、それは“偽”になる。
人の為にやる、ということについてはこんなふうなことを以前にも考えたことがあるけど、
それが「お付き合いの寄進」という言葉と同じ意味なんじゃないかと思ったのは初めてだ。
「心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさを実践できる」の、
“心にもないお付き合いの寄進”なんだとわかるのは自分の心のことだ。
他者が今までずっと(人の為にと思いながらやっていた)とわかったとしても、
(そんなこと、わかるだろうか???)
今回は違うかもしれない。他者の心はわからない。
そうではないだろうかと推測することができるだけだ。
けれど自分の心はわかる。
自分の心がお付き合いの寄進状態なのか、そうじゃないのか、自分にしかわからない。
自分の心が“人の為”なんていう(偉そう状態)になっているかいないか、
自分だけがわかる。
何をするにも自分がただ、それをやりたくてやる状態でいれば、
見返りを求めたり、恩着せがましい気持ちにはならない。
いつでも快適な気持ちで生きられる。
そういうことになると思う。
まだなってない私はそう思う。
・・云々の文章が青い本にあって、
(寄進とは社寺などに金銭・物品を寄付すること。
寄付というのは必ずその相手の為というのがあるということか)
これって厳しいことだなぁと思って読んだことがあるけど、
何かをお前の為にしてやった・・みたいな
ありがとうという言葉を強要するような感じの人の行為に対して箸もつけない・・
ということなんだろうか・・?
そういう傾向がある人が自分の為に何かをしてくれそうな気配を感じたら、
そういうものは受けない、ということを云っているんだろうか・・・?
なんか、ちょっと違う気がする・・・
そういう傾向が大いにある人も、やるときは、
ありがとうと言われたいと思ってやってるんじゃないと思うけど・・
いや、やる時に“人の為”と思ってやること自体が“お付き合いの寄進”なんじゃないか・・
今、ぱっと思った。
あの人にこれを作ろう、これをあげよう、と思う時でも、
自分がそうしたくてするという心には“人の為”という思いなんか浮かばないはず。
自分がしたくてしたことが結果として人の役に立ったということはあるだろうけど、
自分がやる時に“人の為”があると、それは“偽”になる。
人の為にやる、ということについてはこんなふうなことを以前にも考えたことがあるけど、
それが「お付き合いの寄進」という言葉と同じ意味なんじゃないかと思ったのは初めてだ。
「心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさを実践できる」の、
“心にもないお付き合いの寄進”なんだとわかるのは自分の心のことだ。
他者が今までずっと(人の為にと思いながらやっていた)とわかったとしても、
(そんなこと、わかるだろうか???)
今回は違うかもしれない。他者の心はわからない。
そうではないだろうかと推測することができるだけだ。
けれど自分の心はわかる。
自分の心がお付き合いの寄進状態なのか、そうじゃないのか、自分にしかわからない。
自分の心が“人の為”なんていう(偉そう状態)になっているかいないか、
自分だけがわかる。
何をするにも自分がただ、それをやりたくてやる状態でいれば、
見返りを求めたり、恩着せがましい気持ちにはならない。
いつでも快適な気持ちで生きられる。
そういうことになると思う。
まだなってない私はそう思う。