ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

箸もつけない厳しさ・・

2013-07-07 17:35:59 | ひとの幸福
心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさが実践出来る・・・

・・云々の文章が青い本にあって、

(寄進とは社寺などに金銭・物品を寄付すること。

寄付というのは必ずその相手の為というのがあるということか)

これって厳しいことだなぁと思って読んだことがあるけど、

何かをお前の為にしてやった・・みたいな

ありがとうという言葉を強要するような感じの人の行為に対して箸もつけない・・

ということなんだろうか・・?

そういう傾向がある人が自分の為に何かをしてくれそうな気配を感じたら、

そういうものは受けない、ということを云っているんだろうか・・・?

なんか、ちょっと違う気がする・・・

そういう傾向が大いにある人も、やるときは、

ありがとうと言われたいと思ってやってるんじゃないと思うけど・・

いや、やる時に“人の為”と思ってやること自体が“お付き合いの寄進”なんじゃないか・・

今、ぱっと思った。

あの人にこれを作ろう、これをあげよう、と思う時でも、

自分がそうしたくてするという心には“人の為”という思いなんか浮かばないはず。

自分がしたくてしたことが結果として人の役に立ったということはあるだろうけど、

自分がやる時に“人の為”があると、それは“偽”になる。

人の為にやる、ということについてはこんなふうなことを以前にも考えたことがあるけど、

それが「お付き合いの寄進」という言葉と同じ意味なんじゃないかと思ったのは初めてだ。

「心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさを実践できる」の、

“心にもないお付き合いの寄進”なんだとわかるのは自分の心のことだ。

他者が今までずっと(人の為にと思いながらやっていた)とわかったとしても、

(そんなこと、わかるだろうか???)

今回は違うかもしれない。他者の心はわからない。

そうではないだろうかと推測することができるだけだ。

けれど自分の心はわかる。

自分の心がお付き合いの寄進状態なのか、そうじゃないのか、自分にしかわからない。

自分の心が“人の為”なんていう(偉そう状態)になっているかいないか、

自分だけがわかる。

何をするにも自分がただ、それをやりたくてやる状態でいれば、

見返りを求めたり、恩着せがましい気持ちにはならない。

いつでも快適な気持ちで生きられる。

そういうことになると思う。

まだなってない私はそう思う。
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返礼?

2013-07-07 16:42:09 | ひとの幸福
見返りを求めてしまう・・というようなことは世の中に多い。

私も十分たくさん経験がある。

小さな子供が家の手伝いをして親から「役に立ったわぁ」と言われるとすごく喜ぶけど、

その事に喜びを感じてしまうのは人の本質なんだと思う。

手伝っているその最中もやりたくてやっていると気持はルンルンだ。

そしてその後お母さんからニコニコと「ありがとう!」と言われると有頂天になる。

もっと家の手伝いをしたくなる。そこまではいい。

どうしてそれが「ありがとう」と言われないと気が済まなくなるんだろう。

自分のしたことが人の役に立ったか立たなかったかが、

とても気になる人は多い。

ほとんどの人が手伝いをした後に子供に「ありがとうね」と言う・・その数多くの経験から、

「ありがとう」と言われて当然!になるのかなぁ。

いつも言われていて、ある時それを言わない人に遭遇すると、

「なんだ、この人おかしいっ!」になるのも不思議じゃない。

そう思わない子どもも居るかもしれないけど。

さて・・・

「ありがとう」を言うことが義務になるとしんどい。

ありがとうを言う暇もないことも人生にはある。

自分がやりたくてやったことをひとから認められたいというのもなんなんだか・・

この頃は感謝感謝感謝とよく聞く。

感謝したくて感謝するのはいいけど、

感謝せねばならぬ・・になるのは・・人生は苦だ・・ということになる。

感謝し忘れると、ナンダカンダと堂々と文句を言う人も世の中には居る。

感謝の言葉という見返りを求めてしまうのは、

社会の中でそうなったんだけど、

親や周りの影響を受けたまま、共に気持ちよく生きるための点検をせずに、

そのまま固持してる状態といえるかなぁ。

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犬のえさ

2013-07-07 10:03:31 | ひとの幸福
石垣から戻ってからイブと接していた事を思い出していた時に、

他にもっと別の接しようがあったんじゃないか・・そんな思いがどうしても湧いて来ていた。

そんな時に若い頃の貧乏旅行で行ったヨーロッパでの出来事を思い出した。

ドイツだったか、フランスだったか、憶えていないんだけど、

駅の構内で犬を連れていた婦人が居て、

傍に居た私は持っていたソーセージかなんかをその犬にやろうとした。

何の考えも無しにそうしようとしていた自分だった。

その時その婦人はにっこり笑って、「やめてね」というような動作をした。

それを見聴きして、とても恥ずかしく思った私だった。

犬の餌はどういうものを何時にやるとか決めてあったのだろう。

そんなこと今思えば当たり前なんだけど、当時の私は今より馬鹿だった。

その婦人が怒った顔で「なにするの!やめて」と言ったら、私はどんな反応が出たろう。

恥かしいより、もっと別の感情が出たかもしれないと思う。

“怒る”ということはその行為(勝手に餌をやろうとしたこと)を謂わば、

“よくないこと”と決めつけて観ることから始まる。

にっこり笑って私の行為を制止した婦人は、私の行為を“無知”と観たのかと思う。

実際がどうだったかはわからないけど、そう考えられる。

その行為を“無知”と観たら怒ることは出来なくなる。


イブが弟のアダムを蹴ったり、敲いたり乱暴したとき、

愛されたいが元での嫉妬ではないか、という理屈はあったけれど、

感情の辺までそれは降りて来てなかった。

だから、「やめようね」とは言ったものの、

にっこり笑って制止するというすっきりしたところまで行ってなかった自分だった。

自分の行為にまだ迷いがあったことをはっきり思いだせる。

「頭でわかって実行出来るに練習要る」という言葉のように、

まだまだ練習が足りない自分だけど、

この婦人のことを思い出したことはこれ以後なんらかの作用を

私に投げかけてくれるんじゃないかと幾らかの期待があるよ。

さて、どうなりますか・・・
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