ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

いろんな人が居ない

2013-07-29 16:49:31 | テレビを見て
刺繍をしながらテレビのワイドショーみたいなのを見ていたら、

また、あの殺人事件についてのをやっていた。

何年か前に彼の母親が死んだ時に、

葬式を家族だけで行ない、そのやり方がその地域では常識的ではなく、

周囲の人はそれに対して反感を持ったよう。

それが一つのキッカケでもあったよう。

都会に暮らしていた団塊世代の彼。

そこだけに住んでいる地域の彼より年配なひとたち。

そういう二通りの人しかいなかった。

母親の葬式はキッカケでその後、今回の出来事に繋がる、

いろんなキッカケがあったんだろうと思う。

始まったものは終わりが無いって、昨日書いた角田さんの小説のなか。

亡くなったひとたちのドラマは終わった。

彼とその地域で生きているひとたちのドラマはまだ続く。

そしてこういう報道を見聞きしてるひとたちにも、

無関係じゃない。




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人為と自然

2013-07-29 16:36:48 | ひとの幸福
よく「自然と人為の調和」というようなことを云う。

これは山や川や海や人間以外の動物や植物なんかの自然物と、

人間が行なう行為、行動とが調和している状態のことを云ってるのかなと思う。

今、養老先生の「かけがえのないもの」という本を読んでいて、

『自分の事がわからない』という章に『意識と無意識』の項があり、

そこにこういう文章があった。

「・・・そういうふうに、我々自身には、

脳も含めて知っている部分と知らない部分がある。

意識は何をしているのかといえば、

自分の脳が何をしてるのかということを知っている。

その知っている部分を脳、

知らない部分というのを自然、と私は読んだのです。

これは意識と無意識と言い換えたほうがわかりやすいと思います。」


一番上に書いた自然と人為の調和というのもあるけど、

養老先生のこれを読んで、別の「自然と人為の調和」が浮かんだ。

自分の脳が何をしてるかを“知らない部分”が自然であり、無意識で、

自分の脳が何をしてるかを“知っている部分”とは脳であり、意識であると、

養老先生は言っている。

何故、私は「自然と人為の調和」という言葉が浮かんだのか・・・

そうなった自分の意識を観察してみる。

書いてみるね。


腹が立つのは意識的に腹を立てようとして立つわけじゃないし、

ケーキや饅頭を見てぱっと美味しそう!と思って食べたくなるのも、

梅干を見て口の中につばがたまってしまうのも、

無意識的に起こる。いわば、自然とそう“なってしまう”

それを私は「自然」と呼んでみる。「無意識」と呼んでみる。

こういう「自然」と人為を調和するとはどういうことか・・

ケーキの例で考える。

美味しそうなケーキを見たら、食べたくなる・・という自然に対して、

けれど、今は食べないという意志が働いて、

食べたいけど食べないという行為行動を選択することなんかは、

自然と人為の調和・・といえるんじゃないかと思ったんだ。

食べたくなって、よし食べようとその意志を自覚して食べるのも、

やはり自然と人為の調和かなと思う。

何にも考えずただ食べたくなったから時も場合も考えず食べるというのも、

もちろんあるし、それはそれでいいけど、

そういうのは自然と人為の調和と呼ばないな、と私。


腹が立っても、腹が立つのは自分の自然・無意識に

何かのプログラム・見方があるからだと、

自覚納得して、自分の自発的自由意志によって、

相手に攻撃を与えたりしない、という選択肢を選ぶのも、

自然と人為の調和といえる。

意識と無意識の調和と呼んでもいいな。

以上、本日の時点での私の解釈でありました。
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えーーっえーー!・・とうんざり・・

2013-07-29 13:14:27 | 実例体験観察
昨日は朝起きてから、畑に行ったり、その後もなんだかんだとずーっと動いていた。

疲れのピークにある昼前、弟がもうここに着くというのを夫から聞いた。

それを聞いたとたん、「えーーっえー!もう来るの?」が出た。

弟と一緒の昼ごはんの支度をすぐにしなくちゃなんない、と意識がなったからだ。

可哀想なのは弟。

もう来たの、なんて思われて。

夫はうんざりした私を気遣って、昼飯を作るの一緒にやるから、と。

でも、「えーーっえー!」とうんざりを発したすぐ後に、

今のこういう疲れ状態のときに(すぐにやらなきゃ)って思っちゃった自分だったこと、

弟が一緒なら普段よりちょっとましなご飯にしなきゃ、

というのもあった自分だったこと、

そういうのがあって、こうなったんだなと気付いた。

なので、少し体を休めてから動こうと思って座っていたら、

弟のかばんから次から次へと食べ物が登場。

結局、弟が持って来てくれたいろいろなすぐ食べられる物だけで昼ごはんになった。

まぁ、それで終わったんだけど、

もし食べ物がかばんから登場しなくても、

弟が居るからってご馳走にしなきゃならないということないし、

と思えたし、

すぐにやらなくったっていいんだし、と思えたから、

子の経験が出来てよかったなぁと思った。





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ひとはたくさん居る

2013-07-29 11:07:52 | テレビを見て
殺人事件の報道で思ったけど、

十何人かの集落、というのはきついだろうな。

その他大勢というあまり関係ない人が居る都会なら、

こういう事件は起きにくいのかと思う。

謂わば、都会は関心が向く対象が多いから、気が紛れたり出来る環境といえる。

十何人かの集落には多分小さな子供や若い人はいない。

そこは生まれてからずっとそこに暮らしていた人も多いかもしれない。


喫茶店や映画館や食堂やデパートや大型スーパーや、

本屋さんや様々な店のある街にはいろんな洋服、いろんな格好で

歩くいろんな人たちがいっぱい居る。

大勢の人が居るのを見るのは疲れることではあるけれど、

いろんな人が居る、という認識を当たり前に得られるからいいなと思う。
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殺人事件

2013-07-29 10:01:14 | テレビを見て
十何人かの集落のうち5人が殺された事件があった。

ここのところ、毎日のようにテレビや新聞で取り上げられてた。

みんなそれを知って驚く。

なんで驚くのかといえばそれが稀有なことだからだろうと思う。

毎日殆どの人が殺したり殺されたりしてたら、

そんなこと当たり前ということになるのでニュースにならない。

情報として世に出るという事は、

情報として世に出ないそれ以外の無数の出来事があるから。


この世にはいろんな出来事が無数に在る。

在るものであっても、「在るよ」と表現されることがないと、

無いかのように意識がなりがち。

こういう事件は事実としては稀有であるのに、

情報として表現されると、ひとは関心を向けてしまって、

憂えたり、嫌な気分になったり、する。楽しくはならない。

知らぬが花という言葉があるけど、まったくその通りと思う。
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