ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

稀勢の里

2013-07-21 17:45:34 | テレビを見て
千秋楽の今日、琴奨菊に負けたよ。

負けるんじゃないかという予想してた。

今場所始まってから一旦は諦めていた横綱への道が、

横綱に勝って、周りも期待が起こって、彼もその欲が又出てきたのかと思うよ。

欲に目がくらむとやばい。

欲を実現するのには、欲に目をくらませず、

捨て身で相撲を取るのが一番。

横綱の白鵬に勝ったときはまだ捨て身が生きてたんじゃないかなぁ。

先場所が好調だったわけをもっと自分が明らかにできたらよかったのになぁ、と

親みたいに思うアホな私です。

彼に比べるとサッカーの本田選手は強い。

捨て身でやってみての確かな実感があるんだろうな。

稀勢の里も横綱を倒す実力はあるのに、欲に目がくらむと、

実力を発揮できなくなる。

彼はもしかして万年大関かしら・・・

それにしてもスポーツも面白いもんだ。

どの世界も同じなのかもしれないね。



鈍感力

2013-07-21 16:14:28 | 言葉
ここにパソコンが在る・・という事を、

「ここにパソコンが在る」と捉える意識は事実に即応している、と言える。

ここにパソコンが在るにもかかわらず、目の見えない人は

「ここにパソコンが在る」と捉えられない、ということがある。

いわば、目が故障中。

又、あそこにパソコンが在るにもかかわらず、

他の事に関心が行っていると、

あそこにパソコン??知らないなぁ・・になる。

これは目の故障じゃなくて、人の意識の特色。

意識は多くの事実の中から自分に関心の在るものだけ、

ピックアップするようになっている。

また、パソコンを見たら今の日本じゃほとんどの人がパソコンだと認識するだろうから、

ひとによって変わるということはないけど、

ひとの起こす現象をどう認識するか、どう関心を持つか、

というのは人によって違う。

自分がピックアップしたものだけが自分の人生を創るということは言える。

唯一無二の意識であり、人生だ。

悩んだり苦しんだりする人生より楽しい人生がいい。

渡辺淳一さんの本に「鈍感力」というのがあったようで、

読んだことがないんだけど、人からの言動に敏感になってしまうと、

あまりいい方向に事が運ばないというような内容なのかと勝手にそのタイトルから思ってる。

些細な事にこだわっていると大事なものを見失う。

いま、ネットで「鈍感力」を検索したらこんなのも出てきたよ。

「・・・あの小泉元首相までが中川幹事長や塩崎官房長官に、

『目先のことに鈍感になれ』とアドバイスしている」・・・という文章があったよ。

大局的見地とかいうのもそうなんだろうな。

大局的見地でものを見ると、結構鷹揚になるということはあるだろうな。

「大局」というのは「物事の全体のなりゆき。」ということのようだから、

全体を観る、鳥瞰的に観る、経緯も観るということで、

部分だけ見てるのよりやはり鷹揚になるのは避けられないのかも。

生命の力を信じる・・みたいな感じもしてきたぞ。

母を思う・・・

2013-07-21 15:24:14 | 日々の暮らし・思い出
母のことが話題になると涙が出て来てしまう。

何の涙なんだろう?!?

悲しいという感じはしない。寂しいのか???

母の私に対する愛、そういったものが私にはなくなってしまった。

絶対の愛を受けることがもう無い、そんな感じがしてしまう。

不器用な愛だった、と思う。

えらそうに聞こえるかもしれないけど。

愛が伝わるようにすればよかったのに・・・

・・・そっくりその言葉が自分に還ってくる。


子供がまだ小さいのに死の床に居る母親の気持ちはどんなものだろう。

この世で一番辛い思いなんじゃないかと思う。

それと子供を亡くしてしまうという母親の気持ち、

これもこの世で一番辛いという気がする。

母親の愛って一方通行だ。本当にそう思う。

子供から見返りを期待しない。

期待する場合があっても、その期待が裏切られても傷つかない。

それほど落胆しない。

そんなこと当たり前だと観念してるのかもしれない。


言葉 と 動いてる私

2013-07-21 09:11:02 | 言葉
ここにいろいろ考えたことなんかを書いてる。

考えることの実況中継。このブログを利用して考えてる。

書かないと考えられないから。

それを書いてる自分と書かれた言葉は別もの。

自分という私は動いてる人間で謂わば相対者。

書かれた言葉は思いや考えであって、人間そのものじゃない。

自分の意識の管理者は自分以外にないんだけど、

あくまで管理者であって、所有者じゃないともいえる。


「考え」「思想」「思考」は目には見えないもの。

私という人間は目に見える。心ころころでしょっちゅう変わる。

食前食後で思いも変わる。

ちょっとしたことで喜んだり、ちょっとしたキッカケで暗くなったりする。


書くことで考え、考えることで生み出される言葉は、

私という動くものから放れる。手綱から放れた馬と同じで。

いや、書いている最中も私が書いてると思えないことがある。

今というその時の私の周辺に漂っている考えのような思いのようなものを、

コレは何なんだろう?何を言ってるんだろう???

と、なって、それを探しながらパソコンの文字に変換してるような・・・

そんな感じがする。

だから、その言葉とあんたは全然違うじゃないかっ!って、

言われたとしても、「そうですね~ 本当ですね~」と言うしかない。


私の手が動いて文字になった言葉を動いてる私が読むと、

面白いなぁとか、なるほどなるほどとか、なかなかの文章だなぁとか、

これはちょっとなぁとか、これって違うんじゃないかとか、・・・思う。


山岸さんの「条理と相対者を切り離して考える・・・」という文章も

こういったことなのかなぁと思う。

「自覚」 と 「喋るな」

2013-07-21 08:39:24 | ひとの幸福
昨日手のひらに「J」とマジックで書いといたけど、

意識を自覚している時間が長くなったとは感じられなかった。

やってみてそうだろうな、と思ったよ。

「自覚しよう」と思っても、自覚状態にはならないのは当然だ。

自覚は行為や行動じゃないもんね~

自覚してこうしようと思うその(こうしよう)の(こう)は行為行動だけど、

(自覚して)は意識の状態を表す言葉なんじゃないかな。

広辞苑で見てみよう・・・①自分のあり方をわきまえること。

やっぱり(あり方)であって、(やり方)じゃないね。

「喋るな」の方がきっと効果があるんじゃないか。

(喋る)は行為を表す言葉だから。

今までも喋らないことでの効果は感じたことがあるのに、

ぱっと反応してついつい喋っちゃう。

そういう自分だということは自覚してるよ。うん。

無意識からの指令でぱっと動くロボット状態のことが多い。

手のひらになんて書こうか・・・

言うな 反応するな 喋るな・・どれも長いな。

じっとしてろの「J」にするか・・・

きっと又、やれなかった・・と書きそな感じ。