角田光代さんの小説「月と雷」を読んだ。
娘からのお勧め。
以前やっぱり角田さんの「八日目の蝉」も彼女の勧めがキッカケで読んだ。
これも途中で嫌にならずに読めた。
同じ本を読むと、読後感想を話せるのでいいなと思う。
「あんたね、何かが始まったらもう、終わるってこと、ないの。
・・・東京に来ようが父親が居なくなろうが、逃げようが追いかけようが、
始まったら後はどんなふうにしてもそこを切り抜けなきゃなんないってこと。
そしてね、あんた、どんなふうにしたって切り抜けられるものなんだよ、
なんとでもなるもんなんだよ。」
・・・これはこの小説に出てくる直子さんの最期に近い時の言葉。
直子さんというのは不思議な人で、
いわゆる当たり前の暮らしが出来なかった人。
あちらこちらへ流浪の民みたいに動いていたような人生で、
それでもいつも誰かが住まいや食べ物を用意してくれた。
周りの誰かが、何故そうしてくれたんだろうかと直子は考えると、
奪われる何も持っていなかったからという言葉が浮かんだ。
「この人は弱い、自分よりはるかに弱い、庇護せねばならない、
だから愛することができる、愛しても傷つけられることはない、
そう男は信じたんじゃないか・・」
そして気が変わると、
どこか別のところに向かって、自分からそこを離れる。
これが直子。
このブログ読む人は小説のこんな少しの引用で、
何をどう思うっていうんだろうね~
ま、いいか、思ったことを書いてみよう。
この小説の主人公泰子は、
所謂普通の人が当たり前にやるような、
結婚して、子供が出来て、
結婚した男は必ず毎日家に帰って来て、
大晦日には紅白歌合戦を見て、
お正月には御節を食べて、子供の授業参観に行ったり、
節約したり、ローンで家を買ったり、
・・そういう普通の暮らしを当たり前な顔をして、当たり前にやることを、
なんだか遠いものを見るように思ってしまっていて、
自分がそんなふうに思うようになったのは、
幼い頃、いきなり家に現れ、いきなり去って行った直子と智という親子のせいだ、
としたいんだけど、
それは出来ないんじゃないか・・と思うようになる。
泰子が婚約破棄した男は、その晩、ヤケになって、
よく知らぬ女と寝て、子供が生まれることになり、その女と結婚した。
その子供がこの世に存在するキッカケの一つが、
泰子からの一方的な婚約破棄。
それがなければこの子は存在しない。
そういう場面も出て来た。
それで、(何がそれでか?)最後の方の泰子の心模様。
「私たちみんな、子供みたいに、見知らぬところへ連れていかれてるのだ
と泰子は思う。
社会の内側にいようが、外側にいようが。
だれかによって。
なにかによって。
もしかしたら、会ったことも無いだれかの、無意識の気まぐれによって」
「・・・はじまってしまったこと(出来事)は湖面に広がる波紋のように、
幸も不幸も撥ね付けるほどの勢いで、
ただ、こんなふうにはじまり続けるだけなのだ。」
泰子は直子たち親子を自分が起こす出来事の原因にできないと思ったのだと思う。
なんらかのキッカケで娘がこの小説を読み、
娘は何らかのキッカケでそれを私に話したくなり、
私に勧めたくなり、
それを聞いて私は読みたくなり、
こんなものを書きたくなり、
なりなりなりなり・・・でこうなった。
この世という時空はどの時をとっても、もの凄い波紋だらけで、
一時も止まってなくて・・・
動的平衡と動的非平衡の連続で終わりが無い。
こんなことをこの小説を読んでも思った。
ただ自分が管理してるこの意識・意志は自覚していたいよ。
娘からのお勧め。
以前やっぱり角田さんの「八日目の蝉」も彼女の勧めがキッカケで読んだ。
これも途中で嫌にならずに読めた。
同じ本を読むと、読後感想を話せるのでいいなと思う。
「あんたね、何かが始まったらもう、終わるってこと、ないの。
・・・東京に来ようが父親が居なくなろうが、逃げようが追いかけようが、
始まったら後はどんなふうにしてもそこを切り抜けなきゃなんないってこと。
そしてね、あんた、どんなふうにしたって切り抜けられるものなんだよ、
なんとでもなるもんなんだよ。」
・・・これはこの小説に出てくる直子さんの最期に近い時の言葉。
直子さんというのは不思議な人で、
いわゆる当たり前の暮らしが出来なかった人。
あちらこちらへ流浪の民みたいに動いていたような人生で、
それでもいつも誰かが住まいや食べ物を用意してくれた。
周りの誰かが、何故そうしてくれたんだろうかと直子は考えると、
奪われる何も持っていなかったからという言葉が浮かんだ。
「この人は弱い、自分よりはるかに弱い、庇護せねばならない、
だから愛することができる、愛しても傷つけられることはない、
そう男は信じたんじゃないか・・」
そして気が変わると、
どこか別のところに向かって、自分からそこを離れる。
これが直子。
このブログ読む人は小説のこんな少しの引用で、
何をどう思うっていうんだろうね~
ま、いいか、思ったことを書いてみよう。
この小説の主人公泰子は、
所謂普通の人が当たり前にやるような、
結婚して、子供が出来て、
結婚した男は必ず毎日家に帰って来て、
大晦日には紅白歌合戦を見て、
お正月には御節を食べて、子供の授業参観に行ったり、
節約したり、ローンで家を買ったり、
・・そういう普通の暮らしを当たり前な顔をして、当たり前にやることを、
なんだか遠いものを見るように思ってしまっていて、
自分がそんなふうに思うようになったのは、
幼い頃、いきなり家に現れ、いきなり去って行った直子と智という親子のせいだ、
としたいんだけど、
それは出来ないんじゃないか・・と思うようになる。
泰子が婚約破棄した男は、その晩、ヤケになって、
よく知らぬ女と寝て、子供が生まれることになり、その女と結婚した。
その子供がこの世に存在するキッカケの一つが、
泰子からの一方的な婚約破棄。
それがなければこの子は存在しない。
そういう場面も出て来た。
それで、(何がそれでか?)最後の方の泰子の心模様。
「私たちみんな、子供みたいに、見知らぬところへ連れていかれてるのだ
と泰子は思う。
社会の内側にいようが、外側にいようが。
だれかによって。
なにかによって。
もしかしたら、会ったことも無いだれかの、無意識の気まぐれによって」
「・・・はじまってしまったこと(出来事)は湖面に広がる波紋のように、
幸も不幸も撥ね付けるほどの勢いで、
ただ、こんなふうにはじまり続けるだけなのだ。」
泰子は直子たち親子を自分が起こす出来事の原因にできないと思ったのだと思う。
なんらかのキッカケで娘がこの小説を読み、
娘は何らかのキッカケでそれを私に話したくなり、
私に勧めたくなり、
それを聞いて私は読みたくなり、
こんなものを書きたくなり、
なりなりなりなり・・・でこうなった。
この世という時空はどの時をとっても、もの凄い波紋だらけで、
一時も止まってなくて・・・
動的平衡と動的非平衡の連続で終わりが無い。
こんなことをこの小説を読んでも思った。
ただ自分が管理してるこの意識・意志は自覚していたいよ。