今回東京に車で行った。
二人なら運転を交替できるし、自動車道の料金が日曜日は半額だし。
新幹線に乗るまでに時間がかかる所に住んでいるから、
母の病院まで新幹線利用で行くのとほぼ同じ所要時間だしね。
運転する時によく思うことで書いたこともあるけど・・・
運転する時に人の為にと思って運転する人はいないと思う。
けれど、結果としてその運転が他者の為になっている。
夫々が安全に留意して運転している。
それぞれが何らかのわけがあって、その時その場で行きたい所に向かって運転しているのだろう。
謂わば自分のやることに専念している。
傍を走る他者の為に運転してはいない。
サッカーや野球のチームワークと一緒かと思う。
ピッチャーはピッチャーのやることに専念してる。
ファースト、セカンド、サード、内野手、外野手、みなそうだ。
自分のやる事に専念している事で全体がうまく行く。
こういうメンバーが決まった団体、組織だからそうだというわけじゃない。
普通の道や高速を走る車の一台一台が野球での一人の選手だ。
車を運転してる時、故意的な乱暴な運転に遭うとひやっとするけど、
そういう場合の人は自分さえよければいいとなっているのかもしれない。
そういう人じゃない多くの人は、
自分のやることを真面目にやっているだけなんだけど、
自分さえよければいい、というわけじゃない。
結果として全体の為になっている。
こういうことは運転に限らない。
ブログに文章を書きたいから、パソコンを買って使っているけど、
結果としてパソコンを作る会社で働く人たちの為に幾らかはなっているだろう。
部品を作る会社のひとも・・その原料関係の人も・・・
こうして自分が自分の為に生きていること、
自分の為に食べて着て寝て使って暮らしていることが、
結果として自分以外の人の為になっている。
お米を作る人、衣類を作る人、流通業の人、サービス業の人等々・・・
計り知れない多くの人の仕事によって私は生きていることが出来るし、
そういう会った事もない人の暮らしを自分を含め、多くの消費者が結果的に支えている。
作る人がないと使えないし、使う人がいないと作らないし。
買う人がなければ売れないし、売る人がないと買えないし。
(受け取る人がいないと渡せないし、渡す人がいないと受け取れない)
今はお金を介在した社会だけど、お金が介在してもしなくてもそれは同じことだ。
一方だけで成立するものはこの物質界にないのかと思う。
植物が存在するだけで動物が生きられるのと同じ原理なのかと思う。
植物は動物の為に犠牲的に生きているわけじゃない。動物も又。多分。
なんでこんなこといちいち書いているかというと、
人の為(自分以外の者の為)にと思う、そういう顕在意識は
本来の人間に要らないんじゃないか・・
・・そう思ったからなんだ。
本来の私たち人間という生命に「人の為」なんて思考は要らない。
(今の世界にはまだそれが必要ということはあると思う。念のため書くけど)
ただ人間で在るだけで結果的にどうしても人の為になってしまう。
それはこの世の人間(肉体と精神を持つ)が事実として他と離れて存在してないからだと思う。
福岡伸一ハカセの文章にもあったけど、私たちの身体は単なる淀み。
他と離れて存在する固体ではない。空間的にそういう存在だ。
これはそう思う思わないというレベルのことじゃないんで、しょうがない。
そうなっているんだもんね~
時間的にもそうなのは勿論だよね。
いきなり私という人間が無からぽっとこの世に出現したわけじゃない。
ここまで書いたのは形あるものとしての人間のことだけど、
形のない生命である意識・精神も同じ。
今ここに在る自分の意識も自分以外である多くの他者の意識無しではこうなってない。
なんだか私たちはとてつもなく豊かで深い世界、宇宙、生命そのものだ。