ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

自分の為?

2013-07-10 15:15:56 | ひとの幸福
人の為にやると思ってやる場合とそうではない場合と、

見分けはどこでつくのか??

例えば、ベビー用のよだれかけやガーゼハンカチや、

ベビードレスや靴や帽子を縫って作った。

その品物は娘のベビーの為のものである。

私の為のベビードレスではないのは勿論。

人の為にやるという偽的意識でやったのか、そうじゃないのか、

実際の所どっちなのか、どうしてわかるのか???

それはその物が自分の手から離れてからなのかと思う。

相手がそれを受け取ってちゃんと有難うと言うか・・・

それをちゃんと大事にするか・・

ちゃんと喜んでいるか・・

捨てたりしないか・・

喜ばなかったら許さないぞ・・(ちょっとオーバーか)

・・こんな思いがやって来たら、ちょっと厄介だね~

こういうのは結果的に言って、ひとの為になってないということかな。

自分の満足心の為にひとを利用してるといえるかな。

ちくちく縫っているときはその物しか頭にない・・

この位のサイズでいいのかな・・

これならちくちくしないかな・・

この紐は結びやすいかな・・

こっちのレースの方がこれに合うかな・・

自分の手から離れたら、その物は頭になくなる。

こういうのが偽的意識で生きてない・・ということだろうか。

それは常に「今ここ」に生きている状態とも言えるかな。また・・

娘のベビー誕生はキッカケで、そのキッカケのお蔭で、

楽しい暇つぶしが出来たということなのかもしれない。
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利他 と 釈迦

2013-07-10 14:35:07 | ひとの幸福
仏教で「利他」という言葉がある。

ほとんど仏教について勉強してない。

時折、これってどういうことなんだろう?とネットで調べるくらい。

「人の為」という思考について思ったことを綴った後、

釈迦は「利他」ということを説いたんだろうか?が浮かんだので、

調べてみた。

こう書かれてあった・・・以下。

・・・釈迦はカピラ国という王国の王子として生まれ,

何一つ不自由のない幼少期を送った。

しかしやがて「人生には老,病,死という避けがたい苦しみがある。

いくら地位や財産があってもこの苦しみは消えない。

真の幸福は精神世界の中にしか見いだせない」

と考えるようになり,ある晩こっそりと城を出て身一つで出家し,

その後何年もの厳しい修行を続けた末,菩提樹の下で悟りを開いた。

この時から彼はブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになったのである。

これが釈迦の前半生である。立派な話に思える。

しかしよく考えるとこの話,実は

「まったく自分勝手な人の,自己中心の半生記」である。

釈迦の眼中には,他人の利益や幸福など全くない。

自分一人が幸福を求めて出家し,一人で努力したというだけのことで,

自分以外の者には全く関心を持っていない。

釈迦という人は,ブッダになるまでは恐るべき自己中心主義者だったのである。

その姿勢は,彼が悟った後も続いた。

悟りの喜びを噛みしめながら,

「もうこれで私の心配事はすべてなくなった。

あとは寿命が来るまで楽しく安らかに一人で暮らしていけば私の人生は完結する」と思っていたのである。

もし彼が本当にそうしていたら,この世に仏教という宗教は現れなかったはずだ。

ところがこれを天界で見ていた梵天という神が,釈迦のところへ降りてきて,

「どうぞ皆の利益のために,あなたの体験を説き示してください」と懇願する。

初めは嫌がっていた釈迦も,梵天の熱意に負けて,

とうとう布教活動を開始する。

他者を指導するためにどのような活動をしたのか。

ここが問題だ。

困っている人の苦労を我が身に引き受けて,代わりに苦しんだのか。

修行したくてもできない人の代わりに,

自分が修行してそのパワーを分けてあげたのか。

釈迦はそういったことはなにもしなかった。

彼がやったのは,仏教僧団という組織を作り,

そこに入ってきた出家の弟子たちを教育し,

自分が辿ってきたのと同じ道を皆が歩んでいけるように環境を整えた。

それがすべてである。

釈迦は「この世には,私たちを救済してくれる不可思議な絶対者などいないのだから,

悟りへの道は,私がやったのと同じように,

各人が自分で歩むしかない。

私は,その道を最初に歩いた先輩として皆を指導する。

・・・以上ネットからの情報です。この情報は怪しげなものではないと思います。


いや、実に面白い文章だった。

釈迦をなるほどと納得できる文章だ。

利他など出来ない。それぞれの自分が自分の為にやるだけ。

釈迦は自分がそうなったような環境を整えただけだった。

実際その環境をその通り整えられたのか、

それで、釈迦と同程度の人が出現したのかはどうかはわからないけど・・

そういう人もいたんだろう。

それにしても2500年も経ってこの世がこんな程度ということはあまり成果が出てないとも言えるかな。

それを山岸さんは「宗教だけではないでしょう」という文章にあるように、

別の方法を私たちに示してくれたんだろうな。研鑽という。

自分が自分で歩むけれども、共にという方法を。

あのなんとも奇妙な青い本もそういう役割を持っているのかと私は思っている。


「利他」という行為をするようにと釈迦は教えたわけじゃない。

「利他」は行為を表わす言葉じゃなくて、

人間の本来の在りようを表わす言葉なのかと思う。

人間という存在は利他的になっている・・というか、

単独で成立し得ないのが人間だから、利他とか意識してなくても、

自分がしたことが結果的に利他になってしまう。

そういうことなのかと思う。
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変わらないもの ②

2013-07-10 13:38:13 | ひとの幸福
さっき書いたことだけど、「いや、そうなってないよ」

「そうじゃないこといっぱいあるよ」・・て言われそう。

子に対して酷い親もあるじゃんか・・

自立的でも自律的でもない人いるじゃんか・・

一体も糞もないよこの世の中・・とか、

成長したいなんてちっとも思ってないよ・・とか。

そういうことは確かにあるね~ うんうん・・

でもさ、私がさっき書いたのは人の本質のこと。

元々そういうもので在るという奴。

謂わばひとの芯のようなもの。

芯だから、本質的でないものが周りにいっぱいくっ付いていると見えない。

周りにいっぱいくっ付いた付属品が本体と一体になっちゃって、

付属品がそのひとそのものになっちゃっているように見える場合もあるかもしれないけど、

一皮一皮付属品を剥がすと本質が見えて来るし、

付属品がいくらたくさん付いていても、

隙間から本質がどうしてもきらきら光っちゃう。

ひとが苦しむ姿ってそういう光があるせいなんだと思う。

元々主体的や自律的や自立的でなかったら、振り回されてもなんとも思わないし、

もともと全てが一体でなかったら、

自分が独りぼっちだと寂しく思うことなんかないからね。

子供を放ったらかしにしたり、傷つけるその時、

楽しくてたまらないというひとはいないしね。

上に書いたようなことが本質でなかったら、独りぼっちが当たり前ということだし、

子を傷つけても心の奥まで屁の河童状態で当たり前だし。
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変わらないもの

2013-07-10 13:08:42 | ひとの幸福
そうなっている、というのは過去から今までのことで、

これからはわからない・・・という(そうなっている)事と、

いつまでも何があっても変わらない(そうなっている)事とがある。

部屋のインテリアはコレコレこんなふうになっている・・・

学校の東側は空き地になっている・・・

会社ではこうすることになっている・・・

日本ではこうするようになっている・・・

こういうのは上に書いた方でいろんなことで変わることがある。

部屋のインテリアなんてすぐ変わることもある。

(会社ではこうすることになっている)事も、経営者が変わると変わることがある。

社員が変わることで変わることがある。

(日本ではこうすることになっている)事も時代やいろんな多くの出来事で変わる。

・・・こういう(そうなっている)はインテリアや空き地という空間のことや、

ひとの行為や規則のことを指している。


時代や国やメンバーによっても変わらない、(そうなっている)ものって、

いうものもある。

例えば、私は女という身体になっている・・・というのもそうかな。

まぁ、身体は形だから、整形したら男になるということもあるか?

私には二本の手と二本の脚が在るようになっている・・・

・・これも違うか・・物質的なものは無くなることもあるからね~

地球の隣は金星と火星になっている・・・これも変わる可能性があるか???

ううん・・・・考えると、形のあるもので変わらないものは無いのか??

なんだか当たり前な結論だね~

(そうなっている)もので何があっても変わらず(そうなっている)もの、あった。

それは人間というものの本質。生命の本質。生命の在りよう。

・・なんじゃないか。

謂わば目に見えない、形のないものだ。

生命・人間の成長したい、進化したい、幸福になりたい、という本質。

ひとの本質は主体的で在ること。自立的で在ること。自律的で在ること。

子に対する親の愛、が在ること。

全ては一体になっているということ。

これら(そうなっている)ものはいつになっても変わらないんじゃあるまいか・・・
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