ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

イヤイヤ!イブ

2012-09-22 10:50:26 | 日々の暮らし・思い出
何度かここに書いているイブは先月3才になった。

5月にもここに来たけど、それ以前と違って猛烈に自己主張するようになっていた。

イブの母親は、もうっ、イヤ!という気持ちになることがある、と言う。

それもそうだろうな、と思う。

それまで身体的に出来ることは親の言うとおりスムースにやっていたのが、

ことごとく「イヤ!」なんだもんね。

来月会うんだけど、5月より磨きがかかっているかもしれない。楽しみだ。

以前にここでも書いたことがあるけれど、

生まれてから2才くらいまでは脳波がデルタ波で、

こういう周波数が低い脳波が出ている状態というのは暗示を受けやすくなっているそう。

この頃の人間はそういうふうに出来ている、というのが凄いことだなと思う。

なので、親の云うこと、周りのすること、を観察し、その通りやる時期。

当然その頃は可愛いだけだった。

それが2~3才でイヤイヤを主張するようになったり、

反抗的な態度をとるようになる。

「する」の反対は「しない」というものがある、

ということを大発見するんだろうな。


2才になる頃までは、絶対の世界に住んでいたのが、

相対の世界を知る、というのがこの2~3才という第一のギャングエイジと

呼ばれるもんなんだろうと思う。

さぁ、保育園に行く時間だから、着替えようか、と言われて、

したくないわけがなくても、「しない!」と言ってみたい・・衝動に駆られるんじゃないだろうか?

そうか、こんな世界があったのか、という驚きがその頃の子供にあるんじゃないだろうか?

アダムとイブが禁断の木の実を食べた、という話もこれを云っているんだろう。

その実は善悪の判断ということのようだけど、

相対という木の実なのかとも思う。

私たちは相対の世界にいるからこそ、選ぶことが出来る。

これが神は出来ないけど、人間は出来る、ことなのかと思う。

絶対という楽園を追われて、相対の世界に住み、

やがてまた絶対という楽園へと歩く。

絶対の世界に住む赤ちゃんが成長して2才になり3才になり、

12才になり、大人になり、意識を友にして、

やがてまた絶対の世界に還るのかと思うよ。
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「声掛けする」72%

2012-09-21 19:04:26 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞に出ていた。文化庁の国語世論調査で、

混んだ電車の降車時に他人への声掛けをするかどうか聞いたところ、

72%が「する」と答えたという。

98年度の調査から10.3ポイントの上昇という。

他人の話の腰を折ったりしない、下品な表現を使わない、

なども増えているということのよう。

これに対し早大大学院、日本語教育専門の教授が、

人間関係に神経質になっており、表面的な円満さを求めているからではないか、

と分析しているという。

どうしてこういう見解になったんだろう?と思った。

表面的な円満さを求めている、という解釈はその教授がそう解釈してるということだけど、

~ではないか、と云ってるので、そうだ、と云ってるわけじゃないことはわかるのだけど、

そういう解釈はこの調査全体でそう思うようになったのか、

日常、自分が見ている周りの人を観て、そう観えたので、そう解釈したのか、

日常、自分が表面的円満さを求めてそういう言動をしているからなのか、

新聞やテレビに出る人達を見てそう観えたのでそう解釈してるのか、

何か他での研究結果と混ぜてそう解釈してるのか、

この記事だけじゃわからないけど、

調査に参加した人たちがその時その時表面的円満さを求めてそういう言動をしてると、

わかる、となっているのかと思った。

本当にそうなっているんだろうか。

もし、そうだったとしたら余計にこんな解釈は入れない方が世のためなんじゃないかな。


~ではないか、という表現なんだから、

その通り読んで、あぁ、この教授はこう解釈してるんだな、で終わらせればいいだけのことなんだけど、

調査の数字を見てどう解釈するかは記事を読んだ人がすることで、

ちょっと邪魔になるかな、とも思った。

鵜呑みにする人もあるかもしれないって思った。

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食事作り

2012-09-21 16:05:05 | 日々の暮らし・思い出
朝飯は夫しか食べないので、私は何もしない。

義父はお腹が空くとあられなんかを食べている。

用意しないでいい、と言う。はい、と用意しない。

昼ごはんは前の日の残り物が殆ど。

昼に残すように多めに作ったりすることもある。

ご飯作りにあまり情熱がない。

ここに来る前、夫だけ先に移住して、私は東京で一人で暮らしていた。

数ヶ月だけだったけど、自分の食事の為にガスを点けたことがなかった。

納豆とか豆腐とかパンとか、そのまま食べられるものばかり食べていた。

人が来ることが割と多かったので、そういう時は作った。

そういう時はやる気が出て来た。作りたいと思った。

今でも、自分以外の食べる人がいるから、作る気になる。

もし、二人が居なかったら、多分ほとんどしないと予想する。

まぁ、なってみないとわからないけれど。

ひとが居るからやる気になる、というのも利他という心が自分にもある、ということかなと思う。

自分だけのためだったらやる気が起こらない。

自分も他だと思えたらやる気になるのか・・な。


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役に立つこと

2012-09-21 09:17:53 | ひとの幸福
昨日、人の役に立ちたい、どんな物も役立てたい・・

そう思ってしまうのは本能なんじゃないか、というようなことを書いた。

本能という言葉がぴったりだったかはわからないけど。

ひとは元々そう“なっている”のだと思う。

小さな子にとても役に立ったわ、なんて言ったとき、本当に喜ぶ。

そう言われて喜ばない子供はいない。

この前「忘己利他」という言葉でなんか書いたけど、

他者の為に何かしなさい、するのがいい、とかのことじゃなくって、

忘己利他というのは、人の心はそうなっているもの。

・・そういうことかと思う。


元々そう“なっている”心が、その心のままに行為できない場合って、

どういう感じになっているのだろう。

何が邪魔して心のままに行為できないのか・・

やっぱり・・

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梅ちゃん先生 久しぶり

2012-09-21 08:17:39 | テレビを見て
NHK 朝の連ドラ「梅ちゃん先生」は毎朝ほとんど見てるけど、

ここで書くのは本当に久し振りだ。

今朝のはなんか・・書きたくなった。

「患者の命を救う事、それが一番大事なんじゃないか」と言う製薬会社の青年が

新薬(アメリカでは使われているが、日本ではまだのもの)を勧める。

例の松岡ドクターは上司の許可無くその薬を使うことにしてしまいそうになる。

松岡ドクターの上司は新薬を使うのはまだ危険だというようなことをいう。

それに自分勝手にやってはいけない、とも言う。

そして梅ちゃん先生は松岡ドクターにその件で話をし、

松岡ドクターはその新薬を使わないことにする。

製薬会社の青年は、それじゃ、患者は大事じゃないのか?!と詰め寄る。

上司の言うことは聞いて、患者はどうでもいいというのかと詰め寄る。

梅ちゃん先生は、患者はどうでもいいと云ってるんじゃなくて、

周りの人と仲よくやっていくことが大事と言う。

そして、その青年に邪魔をしちゃってごめんなさいと言う。

梅ちゃん先生は、だからこーせー、あーせー、なんてことは言わない。

そして、相手の青年に対して、非難する気持ちが全然出て来ない。





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アブラハム

2012-09-20 13:38:48 | ひとの幸福
聖書のなかの『創世記』にこういうものがあるという。

主は「あなたの子、あなたの愛してる一人子イサクを連れて、・・・・

・・いけにえとして丸焼きにしてイサクをわたしにささげなさい」

とアブラハムに伝える。

アブラハムはわけがわからないけれど、主の言われたようにしようとして、

我が子を殺そうとしたそのときに、天使が来てそれをしてはならないと止めた。

・・こういう話である。

アブラハムは悩みに悩んだと思う。最愛の一人子を殺すということを。

けれど、そうしよう!とした。そして止められた。


殺した、ではこの話は意味を持たないと思う。

アブラハムにとって一番出来ないと思うこと、それが我が子を殺すことだったのだと思う。

とてもとても“出来ないと思うこと”を「やる!」と決めたときに、

(しようとした瞬時に)

アブラハムの意識は180度変わったはずだ。

何の行動もしてないうちに。

何故こんなエピソードが聖書にあるのか・・・

聖書は不思議だ。いや、不思議でもなんでもないのかもしれない。

2000年も前に生きたひとたちが、私たちに何かを贈りたいと思ったとしか思えない。

聖書は私たちに宛てた手紙だ。とても不完全なものだろうけど。

完成させるのはそれを読む一人一人なのかと思う。

青い本と同じだ。

『ハイでなんでもやれますか』の問いを自らに問うたその時に、

その心はアブラハムと同じようになった。





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抵抗ある

2012-09-20 12:46:21 | 日々の暮らし・思い出
押入れに要らない物が入っている。

これらがゆるゆるガラ空きになったらどんなに気分が爽快だろう。

で、今日、ある程度の量、他の場所に行ってもらった。

やっぱり抵抗はある。行った先で役立ったらどんなに気が楽か。

こういう心理はどうして出てくるんだろう。

冷蔵庫にもう食べる気にならない食品が入っている。

でも食べられない物ではない。

毎日冷蔵庫を開けると、それを開けて、クンクンとニオイを嗅ぐ。

ちゃんと腐敗臭がして来たら、安心して捨てる。

・・こういう話をどこかで聞いたか、読んだか、したことがある。

腐るまで置いたことには抵抗はない、ということか?!・・・

食品は必ず腐るから、時間が経てば安心して処分できるといえば言えるけど、

衣類や雑貨はあまり腐らないから、処分する時どうしても抵抗心が残る。

これはどうしようも出来ない、穴だらけ、シミだらけ、というようなものなら、

何の抵抗も無く処分できる。でもそんな物は少ない。無い。

捨てるんじゃなく、誰かがそれを使ってくれたら、一気に抵抗はなくなる。

嬉しくなる。

自分も他の役に立ちたいし、物も他に役立って欲しい、という本能のようなものが

やっぱりあるのかなと思う。

役立つものを捨てる、というのは抵抗があって当たり前なんだと思う。

そういうのを感じたくなかったら、

手に入れる時に本当に吟味して手に入れることだ、というのも聞いたことがある。

気にいっているものはとことん使うから。

うん、なるほど、と思う。でも途中で気が変わることもある。

人生が変わる魔法の片付けという本では一つ一つに、

ここに来てくれてありがとう、と言ってお別れをする、ようなことを確か言ってた。

あなたが居なかったら、今の私じゃない・・

そう言ってたか、言ってなかったか、忘れたけど、

そうとも言える。

物とも一期一会だなぁ。今日さよならしたもの達の冥福を祈ろう。

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ダイエットと同じ

2012-09-20 11:01:54 | ひとの幸福
誰とも喧嘩しない、というのがあったけど、

夫婦や親子が喧嘩しない、仲良い、というのが一番のバロメーターになるのかと思う。

自分を観るのに。

自らが我慢もせず、犠牲にもならず、相手にもそうさせず、表面的だけのものでなく、

心の底からそんなふうにやれる夫婦、親子、隣人、仲間。

そんなのをやりたい。

その場で機会は幾らもある。事欠かない。

オレがやらずに誰がやる、今やらないでいつやれる、という、

ちょっと一見勇ましい感じのフレーズがあったけど、

自分にしか出来ないことって、自分の内側を観ることかと思う。

それはオレがやる以外他の誰も出来ない。

今やらなかったら、いつの今もやれない。

ダイエットと同じだね~






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克服

2012-09-18 10:51:10 | 言葉
私はコレコレこういう欠点を克服しました・・なんていう言葉使いがある。

でもその後、戻ってしまいました、になりそう。

克服って努力して困難にうちかつこと、という意味のよう。

克という字を使ってあるのを調べると、克己というのがある。

その意味はおのれにかつこと。意志の力で、自分の衝動を・欲望・感情などをおさえること。

克はうちかつという意味。

かなりな頑張りが要る。しんどい。

克服しようとするから克服できない。

克服しようとするから変われない。

これも意識力学で解明できそう。
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忘己利他

2012-09-18 10:05:13 | 言葉
忘己利他という言葉を夫に教えて貰った。

利他という文字は見たことがあったけど、今まで、あまり吸い寄せられなかった。

忘己利他の意味は己を忘れて他に利することかな。

(広辞苑で「利他」を調べると、

自分を犠牲にして他人に利益を与えること。他人の幸福を願うこと。

やはり犠牲はまずい。副作用を起こす。

自分が一番大事な私はそう思う。

結果として、他者に利さないことになるから。

他からは同じ動作に見えても、それをやる側に犠牲心があるのと無いのとがある。

犠牲にならないポイントはやっぱり、私が私が、というような自我意識がなくなることかな。

それを忘己(ぼうき、らしい、広辞苑には出てなかった、天台宗では使うらしい)というのかと思う。

ひとが大変そうに見えるとき、だいたい誰でも助けたいと思ってしまう。

それが良いというより、自然発生的な思いなのかと思う。

ついやってしまう。そのときは快適な美しい心で居る。

その瞬間は私が、私がというようなものが無い場合が多いと思う。

忘己状態だし、利他的行為。後でそれをそれで無くしてしまうのは、

シツケや教えだ。

そうされたときはお礼を言うべき、するべき。それが正しいと突っ張る。

これがあるからおかしくなる。



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知らぬが仏 ★

2012-09-17 18:36:05 | 言葉
「知らぬが仏」という言葉の意味は本来どんなことなのか、知らないでいた。

広辞苑を見たら、

「知ればこそ腹が立つが、知らなければ仏のように平穏な境地でいられる。

転じて、当人だけが知らずに平気でいるさまをあわれみ、

あざけっていう語」だそう。ということは・・・?

“知らない方が幸せ”という幸せは完全な幸せと言えないと広辞苑は云ってる・・・?

この言葉はこう使われています、というのが辞書なんだろうから。

謂わば、辞書にあるのは経験知。経験則。

知らないで平穏でいるさまを嘲けなくてもいいと思うけど、

知っても知らなくても平穏で居るのが真の仏だと昔の日本人は知っていた、と言える。

知って腹が立つ、知らないから腹が立たない、というのは相対的境地で、

知っても知らなくても腹立たない、というのは絶対的境地だと、

この言葉は云ってるのかと思った。


お釈迦さま、という言葉があるけど、

「釈迦」は古代インドの一種族の名前で、

釈迦牟尼(しゃかむに)とか、ゴータマ・シッダールタという名前の人のことを

通称、釈迦と云ってるようだ。

そのシッダールタが35歳の時、菩提樹の木の下で悟りを開いたという。

その悟りを開いたことを、

『仏陀になった』とか、『覚者(梵語buddha 仏陀の訳)になった』とか云うわけだ。

(ヘッセの「シッダールタ」という本、あれもすごく面白く読んだ)

覚者の意味は「自ら覚り(さとり)他を覚らせ、覚も行も完全な者をいう。」だという。

この広辞苑の意味からすると、

仏陀・覚者とは絶対的境地にならんとしてなった者・・

24時間(完全)そういう境地(覚)で行為をする(行)人のことを云っているということか。

『覚も行も完全な者をいう』・・

ようするにこれは彼の云う十人のメンバーのことじゃないか。

彼が釈迦と気が合うといったのもホント、ガッテンだ。

10年ちょっと前、天外伺朗という人が書いた本を古本屋で見て、

ちらっと立ち読みしたことがあって、(題は忘れた)

それには世界が幸福状態に成るのは人が覚ることによってだ、

とかいう文章があって、すごくそれに同感した覚えがある。

その本は買わなかったけど、他の本を何冊か読んだことがある。

この人はソニーのロボット、アイボを開発した人のようだ。

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ジョージ・スミスさん

2012-09-17 14:55:24 | ひとの幸福
アメリカのユタ州に住んでるジョージ・スミスさんのこと知ってる?

と聞かれて、「知らない」「わからない」と言う。

知らない、わからないことについてなんの屈託も無い。

罪の意識も、知らない自分は『ダメなんじゃないか』『いけないんじゃないか』も無い。

わからないことはわからない。

わかるときまでわからない。

そのことをわからないでいるのも知らない。

そういうことは無限にある。

知らない、わからない事の方が、知ってることよりずっと多い。

知ってること、と言ったけど、それも本当に知っていると言えるのか、

っていったら、言えない。
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反日 と 戦争反対

2012-09-17 09:09:04 | ひとの幸福
反日運動 と 戦争反対 とでは比べようがないといわれるかもしれないけど、

反という考え方である、ということは同じだ。

或るものをダメだとして、反対している限り、それは続く。

反や抗という考えが在る間は世界に紛争戦争は絶えない。 

これははっきりしてる。
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饅頭

2012-09-17 08:42:02 | 日々の暮らし・思い出
昨日友人とその娘と孫1才の3人とがうちに遊びに来た。

彼女の家に行くと、1才はいつもキャッキャと笑って玄関に立つ。

友人の娘は仕事をしてるので昼間は居ない。

昨日はその娘さんが小さな饅頭を私たちに持って来てくれた。

敬老の日だからといって。

誰の事かと思ったら私たち夫婦のことだった。

そうか、敬老の日というので物を頂いたのは人生初!

いつも1才と遊んでくれて・・というようなことを彼女は言っていた。

その時、これは『お付き合いの寄進』じゃないな、と思った。

寄進というのはお寺の改装とか、これから何かをするために寄付をするということであって、

してもらってありがとうというものじゃない。

お付き合いの、という言葉がそれに付いているのはどういうことか・・・

もし、その饅頭が『お付き合いの寄進』だったとして考えると、

この饅頭をやるので、これからも1才と遊んでほしい、

という“袖の下”みたいな心持が含まれているということだ。

謂わば、下心。賄賂。収賄。贈賄。

袖の下によって動くのが人間だ、というような人間観がそこにある。

勿論、昨日はそんなことは微塵も感じなかったので、美味しく頂いた。

これをやるから、お前はこうしろ。

これを貰ったから、こうしなくちゃ。

こういう収賄や贈賄は今の法律で禁止されている。

こういう法律があるということは、

そういうことを人間はするものだという人間観に基づいている。

人間観が先か人間が先か・・ということになるけど、

この世の中がもっとよりよきものに“なる”ことを描けば、

そしてそうなるようにしたいと願うなら、

目の前の人間がどうで在れ、

その人をそんなことをするような人じゃないと観ることから始まるのかと思う。

教育学のピグマリオン効果と同じだ。

相手を心底『A』として扱うと、相手は『A』になる、というもの。

量子力学は意識力学なので。







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2012-09-16 11:29:51 | 本を読んで
「嫁を家の“道具視女”(はしため)から」というこの一文を読んだ時、

もう何年も前だけど、

この本で云っているのは形の仕組みのことじゃないな、

心の在りようのことだな、と確信したのを憶えている。

女性解放運動なんて呼ばれるものに血道をあげていたことがあるので、

そういう一文にすぐに気が行ったんだろう。

『はしため』は本来『端女』と書くようで、召使の女とか、女中のこと。

それに“道具視女”という字を彼はあてた。

女を道具と視てる気風から女を開放するということだろうと思う。

いくら体制を変えても、形の仕組みを変えても、

女は開放されない。

形だけでは人間を道具視する見方は根本的には変わらない。

性差別反対と旗を振っても変わらない。

女を道具視する男を批判しても変わらない。

理屈をこねても変わらない。


「真に自由な人生に開放する活動」

人生って、それぞれの一人一人が主人公。

実に様々ないろいろなキッカケは他からあるけど、

それを使ってどんな人生を創るのかは人生を送る一人一人がやることで、

人生という劇場のシナリオライターはそれぞれの自分なのかと思う。
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