令和2年8月22、
[人は見ゆれど 我は見えず]
このことばは、昨日の焦点をさらにしぼったものです。
自己中心の恐ろしさは、自分自身がわからないことにあります。
若い頃は仕事の責任感でいっぱい、いっぱい。家庭も周りの人間関係も見えなかった時代がありました。
しかも一人前の顔をして、人のつまらないところばかりが目につき、手に取るように見えて指摘したこともありました。
それだけでなく『自分の性格の欠陥は見事に棚上げ』平気でいたものです。
これを自分の『我から出た、評価の偏見』です。これで自分自身を悩ますことになります。私は危うく死病に取り憑かれ、この世をおさらばするところまで追い詰められました。
その時に子供に教えられ『黄金のつえ、やりますのおかげ』で蘇りることができました。
自分自身を道の鏡に照らし、己が人格を、[やります]もって浄化させられたものです。
『人が見えない』ということは、ひどい目に遭うものですね。
でも大丈夫です。変われば変われるもの。やります!