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天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

あっさりと

2020-10-25 15:44:00 | 運命と生活
令和2年10月12日
[自分の方に誤りがあるとわかったなら、意地にならず、あっさり謝ること]


私たちは食べて寝て、働いては生活しています。足らないのは心のコントロールだけです。
心のおもむくままでは苦しくなるに決まっています。

ひとりひとりが個性のかたまり、国が違えば民族性が全く違います。
ある外国に留学された人が、日本では親に1日3回も電話したら、親離れしていないといわれる、しかし留学先ではそれが当たり前といわれたそうです。

さまざまな人種が混在する国では、日本の常識は持ち込んだら、仲間になれず、良識で行動したといわれます。
そこで自己主張は絶対むりなので相手をうやまい『そうですね』といえば、関係が繋がったそうです。

遠慮のない関係のなかでは、平気で意地を張ることができますが、かえって間が近すぎると踏みはずして、気持ちの悪い思いをします。
[悪いとわかっていながら〕にポイントがあります。
この時の行動で、運は付くか離れるかが問われますね。やります。
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委ね

2020-10-25 15:34:00 | 運命と心
令和2年10月11日
[任せる、ーまかせる、おまかせする]
(人為にあらざる天地自然の妙力に 一切をおまかせする)


コロナ時代は、言い方を変えれば壊れていく日常といえましょう。
隣にいるだけでうるさい、ウザいも夫婦、親子関係もあります。
反面となりに人がいるだけでありがたいということもあります。
会いたい人に会えるだけでも、心象風景はかわるものです。

そして問題なのは、高齢者が笑わなくなったのと、笑えなくなったことです。
コロナの影響で笑わなくなったのが、1、5倍になり、認知症につながるともいわれています。

けさは、その世の中を見渡すとき、さまざまなコロナストレスを超える、あるいはアンガーストレス(怒りのストレス)から解放されるために、いまこそ合掌の習慣がもとめられています。

『合掌の精神』は、任せる、おまかせする、自然の力にすべてをゆだねる、つまり天地自然の妙力に、一切をおまかせするとあります。

これを細かく見れば、親は子に、子は親に、夫は妻に、妻は夫に、気持ちを寄り添うゆとりをもつことです。
そこに合掌の妙力がはたらきます。

天地のみわざは、人為的に説明のつかない慈悲で表されるものです。
それを妙力といわれます。『任せるの真髄は、天地よ私はあなたのもの』の心境といわれます。
無駄な抵抗は、もうこのさい委ねてやめましょう。やります!


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人生の目的

2020-10-25 15:26:00 | 沿革
令和2年10月10日
[成功は師なり 失敗も師なり 文字は師なり 天地自然は師なり]

私達の歩む道と、世間一般の道とどこが違うか?
限られた対象を救うことではなくて、すべての人が救われる道の探求に、全身全霊をささげられたのが御神尊様です。

けさの真意は、スペースが短かいだけに誤解されそうです。その誤解をあえて恐れずに、少しとりついてみたいと思います。

御神尊様はこれまでをふりかえり、『修行の過程で成功の場合もあり、失敗の場合もあった』といわれます。

成功はそれが臨床例となり『失敗のときはなぜなのか?』『その欠陥を修正し、反省と改善』をしたもの。このようにして『成功を師とし失敗もまた師』として、修行を重ねたといわれます。

『生きた人間の師』がいなかっただけに『自分の足跡を師』としたわけです。
その間の模索、手探りが20歳から40歳までの修行になりました。

あらゆる宗教書、経典の研究、そして自らの体を通じて臨床体験を積み、やがて『行間の文字、字間の文字、無字の字をも読み取る』努力によって『姿なき師に教え導かれて、天地の真理に到達する』ことができたのです。

小学6年時代の成績表には『卒業の見込みこれなく候』と書かれていたのは有名なこと。
それが、人間なんらかの、目的を持ちやる気で『やれば必ずできる』『為せば成る』『天地自然のはたらきこそ師と仰ぐこと』で道はひらけたのです。やります。!

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光のみち

2020-10-25 15:20:00 | 信仰と生活
令和2年10月9日
[我を愛し 人を愛する者 必ず神に愛される]


私のような高齢者は油断をすると、説教か、昔はよかったか、若い頃は、の自慢ばなしになる傾向にあります。

これは我を愛するかのように誤解される典型です。
どうしてそうなるかは、そこは我が身のかわいさからでているようです。
またこの世に我が身をいとおしく思わないものはいません。

わが身の健康、幸せを希うことは、これも自らわれを愛する心です。
その思いと行為を、家族や周りの人間関係に及ぼすことを、人を愛する者といわれます。

人を愛することが、神に愛されること、つまり直接の神への願いの前に、人との関係をスッキリさせることです。
家族、家庭は世界一の住みどころです。

それが優先順位を間違えて、家族を無視して人によくすることは家庭の不幸せのうまれどころです。

夫婦、親子を無視する性格、生活は改めてこそ、光り照らされる道があるのです。やります!
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安全弁

2020-10-25 15:09:00 | 信仰と生活
令和2年10月8日
[何が故に 人間の身の上に不幸病気が発生するのか]

(その2)

昨日は変わるきっかけについて、考えさせられる体験でした。
それをベースに、本題の思いがけない運命に遭遇しなければならないかにすすみまよう。

そこには、『その人の性格、持ち前の性分をよくわかってない人』が結構います。
その傾向は『絶えず物事の原因を他のものに転嫁している』ことです。

ここで『運命の不幸せの元は、人を無視して自己主張にはしること』
『感情の奴隷になり、感情的になりやすいこと』『深い悩みを好むこと』
とりこ、ともいいます。

そこには他を顧みない、自分中心の我の強さによって人生最大の崖っぷちに立つことになります。
そして、日々不幸せを製造することになります。

その安全弁は、『善悪を弁えることができるか』
『どんなことにも果敢に挑戦、事情に、感情に任せず』
『聞いて理解、思うて理解』
ここからの『精神力こそ喜びの道、幸せの道にハンドルを切る』ことになります。
絶対です。やります!

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見えない力

2020-10-25 15:04:00 | 信仰と生活
令和2年10月7日
[何が故に 人間の身の上に不幸病気が生まれるのか]

(その1)

この社会は、様々なニュースが飛び交い、それも不道徳な悪い話ばかりです。
人の不幸は蜜の味といい、社会は汚れきったようにみえます。

でも光りは常に闇から生まれてくるものです。
先日のユーチューブで、ある高校生が電車の座席にビールの空き缶があり、缶はホームに捨てどころがなく、車内に戻ると席は取られていた。
すると、奥の席に空きがあり座ろうとすると、横の人がビールの空き缶は捨てておいで、席は見ててあげるからといわれます。
戻ると席にはその人のバックが置かれていました。お礼の言葉を述べて席に座ると『君のことは初めから見ていたよ』他の人のために行動したあなたに感動して席をとりました。素晴らしいこと席を取られてまで捨てに行ったよね。と。

その時、自分はそんなに立派な考えではなく、ただ席に座りたかっただけでした。
それからは引っ込み思案だったのが、学校でトイレ掃除などを自らするようになり、少し変われたとおもいます。とありました。

『神はどこにいて、何を視ているのか』汚濁のような世の中に見えるけれど、『神にことばなく、口なし、人をしていわしめ、人をして働かせる』のです。明日に続けます。やります!
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為すべきを成す

2020-10-25 14:48:00 | 信仰と生活
令和2年10月6日
[善なる生き方こそ 幸いの道]

天地の道の善悪に、もう少し触れてみたいと思います。
そもそも、[心の使い方、身体の使い方、そして生活の仕方に善悪がある]というわけです。
とくにコロナ時代になり『みんなの幸せのために、今は離れよう』の標語は『キープ デイスタンス』と、
これはあくまで生活ルールのこと。

だからといって、心の世界まで距離をおく必要はありません。
そんなことがあるの?というように無造作な生き方、無自覚の生き方をしているところに、突然思いもしなかった、現象が現れます。

そこに善に向かうは前に進むことです。
それはなぜか『善なる生き方の入り口』は、『自分のためにあらず』です。

よく世間では『人間一人で生まれてきて一人で死んで行く』といわれます。果たしてそうでしょうか。
確かに哲学的、宗教的悟りを導くのに、適切かもしれません。

でも御神尊様は、『すべての人間は、自分のために生まれたるにあらず、人のため世の中のために生まれたり』とあります。

生まれる時も多くの関係者の手により、また別れる時も、多くの人の手を煩わせて逝くものです。
ひとりのようにしてひとりではありません。

人のため世の中ためになればこそ、
不平不満も、恨みつらみも、修行と受け止めるのです。
引っかからず、歩みを止めずあっさりとなすべきこと成す。
そこに、『善なる生き方』があります。やります!

 
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