天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

12/19 光明世界

2018-12-20 10:18:22 | 信仰



今朝は、御聖経の、54節に触れてみます。

太陽が光明のみなもとであり、この明るさこそ、宇宙という世界を、生かし続けてくれています。
この光明を受けて、地上では、生きとし生ける動植物は生成、発展をとげています。

しかも自転によって、暗夜を迎えようと、気象の変転、四季や、災害をものともせず
永遠不滅の光明を放ち、うむことを知らず、感情もどこ吹く風、事情にもお構いなし。
まさにこれを、神と尊称せずには、おれません。

御神尊様は、天地を師と仰ぎ野に伏し、石を枕に、20年の御苦行によって、
光明生活こそが、この天地を生き、生かされる、真実であることを、見出したのです。

そして、あらゆる場所に置いて、大信念の叫びで、光明に導き、救いの慈悲をもたらしてくれました。

その天地に真似してこそ、運命開拓は可能にして、意義ある人生が開けることを、教えています。

今日の日は、どのような、生き方をするのか?
いかなる苦労のなかにあっても、楽天的?悲観的?陽気?陰気?
見たまま、聞いたまま、すぐに事情にする?

輝いていない時、あなたの魂は邪気で汚れているだけです。
本来は輝いています。

み教えは、そのたましいを磨いて、高めて、喜びと笑顔に導いてくれるものです。





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12/18 人生の師

2018-12-18 11:25:33 | 信仰


[成功は師なり、失敗も師なり。
文字も師なり、天地自然は生きた
る師なり。]

御神尊様は、過去の修行の過程で、成功もあれば失敗の場合もあった。
そして、修行のなかの成功を師とし、失敗もまた師として修行に励んだ。と、言われます。

具体的に、あらゆる宗教の経典や文献を読みあさり、
これはと思う書は、読んでは考え、考えては読みなおし、
また、[行間の文字、][字間の文字、無地の字]を読み、その中に、真理を追い求めた。
私は、天地自然にも多くのものを教えられた。と、述べておられます。

子供の頃を振り返り、うまれつき私は、学校が好きではなかった。
したがって、成績は芳しくなく、今も、通知簿(学習のあゆみ)を大切に持っているが、よく見ると、
小学六年では、『卒業のみこみは、ありません』と、記されていた。
それでも、まがりなりに卒業できたが、勉強ぎらいが、父のあとを継いだのは、宗教家の天命を担って
いたからであろう。しかし、宗教的、勉強になると、寝食を忘れ、絶対人に負けない気概をもってとりくんだ。
[やる気でやれば、けして挫折はない]つまりは、
[為せば成る]である。

いらい私の頭の中には、「為せば成る]という言葉がひびき、天地が裂けても
『やれば、必ずできる』との考えは、タダの一度も揺らぐことはなかった。

御神尊様の語られる、思いの深さ、天地自然を師として体得した、
[人間力]こそ、おかげを作り出す秘法。
[人間力を否定し、神のみの力を強調する宗教は迷信]と、断言されました。

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12/17 愛の別名

2018-12-17 16:28:35 | 生命力


30・12・17、愛の生活
[愛されんと、欲すれば愛せよ]

愛に関するみ教えの源泉は、御聖経にあります。
あらゆるみ教えは、ここから生まれています。だから、祈りは欠かすことができないのです。
代表的なみ教えは、[愛は理解の別名なり]ですね

[求愛より施愛に生きよ]は、聖主様の原田行場の300日御大行中、
[行者山を下りる]の辻説法で、広く訴えられ
たものです。

なぜ、かくも、愛を説かれるのか?
たとえば、親の愛情を受けたことのない私は、
叔父夫婦の、精一杯の愛を注がれながら、自己中心のカラをふくらませるばかりでした。

愛の泉は、親の愛育にあり、
体験のないものは、世間とは愛の無い冷たいものという見方をしてしまうのです。
それでいて、求める愛は、人一倍強いものがあります。

御神尊様は、求めるなら与えよ。とおしえられます。
まずは、『自分から好きになること。こちらから、話し掛けること』
つまり、『自分がしてもらいたいことを、そのまましてあげること』

愛とは、具体的であり、
具体的とは、形の表現である。といわれます。
あいさつひとつできなければ、愛される資格はどうでしょうか?

結論のようにいえば、親の心を超える愛念はありません。
だから、親を憎み否定することで、運命が傾くのはあたり前でしょう。
愛を求めるならば、親への孝心を整えること。
そこからです。


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12/16 如是我聞 (にょぜがもん)

2018-12-17 16:22:12 | 生命力


如是我聞の『意味は、私はこのように聞きました。』です。

さて昨日は、私の体験記から、入りました。
けさは、御神尊様の家庭訪問のさいに、起こった出来事をご紹介しましょう。
昭和20年代のころ、福岡県八女市の山村を訪れた時のこと。
丁度、麦の収穫も終わり、田植えの準備中、車も通らない山道を、
信徒の家に向かっていました。

前方から、一頭の馬が、馬主の手綱(たずな)を振り切り、
馬具、農機具をつけたまま、口から泡を吹きながら、狂ったように走ってくるではありませんか。
随行の幹部は、みちの両側に避け御神尊様にも、声をかけられました。
しかし、にっこりされ、そのままその場に立ったまま。

御神尊様は、やがて右手をあげ、馬の真正面をふさぐように、たちました。
あわや、と思われた瞬間。なんと、1〜2メートル手前で、馬は、ピタッと止まったのです
そして御神尊様は、そばにより、静かに鼻ずらを、2〜3回撫でてやると、大人しくなりました。

手綱(たずな)を握ると、馬主に渡しました。渡された、馬主も呆然、
何が何やらわからないままかえりました。

御神尊様は[お前たちは、恐怖心があるから、馬が怖がってあばれるんだよ。]
[馬心が分かれば、馬も大人しくなるよ]と教えられ、

[家畜や動物に至るまで、生き物は家族の一員と思い、自分を大事にするように、彼らも大事にせよ]
と、言われました。
昭和20年代、農業は牛馬の時代。
かれら抜きでは、人間も生きられないことを、知らされました。

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12/15 長久体験記

2018-12-15 12:06:19 | 生命力


義母は、30代ごろから、猫を飼うようになりました。
犬、猫、大嫌いの母(以下、母とします)の様子に、驚いたものです。

その理由は、当時小3の妹が、学校帰りに、子猫を拾ってきました。
すると母は、『猫はね、ノミを沢山、持っているから、』
『捨てておいで』と、妹を厳しく叱りました。
ところが妹は、激しく泣いて抵抗しました。

忙しく働いている母は、なだめるのが面倒になったのか、
『貴女の責任で、お世話するのよ!』といって許しました。
しかし、妹はすぐに飽きて、母がお世話することになり、こぼしながら、世話をしていました。

大人になった猫が、ある日突然下半身にマヒが出て、動けなくなりました。
猫嫌いの母は、座布団に湯たんぽを入れ、寝ったきりの猫を看病しました。
やがて、亡くなりましたが、その時の取り乱した様子は、ただごとでなく、
声を忍ばせ柱に取りすがって泣くのです。
母は、『もう、飼わない』といいながら、その後も、犬、猫を次々に飼うことになっていき
ました。しかし、犬も猫も短命でした。
裏の庭は、犬、猫の墓場化しました。

御神尊様にご縁のない時代、まさか、家畜や犬 猫までも、運命共同体などと、思いもしません。
ご縁をいただいてみると、義父の兄弟、親戚を含め、憎み合い咎め合いの、
心の暗闘(あんとう)の日々でした。

合唱




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12/14 一日 一善 一楽

2018-12-15 10:19:03 | 運命と生活


私達は、たとえ80〜90才まで長生きをしても、毎日が楽しくなければ、生きている甲斐はありません。
楽しみとすべきは、とにかく『人から親しまれ、人のためになる生き方を、することです。』

そうでなければ、命が喜ばないからです。
いのちは、『何かの、誰かの、ために』で躍動し、エネルギーを供給してくれます。

自分の好きなことは、良いのですが、相手と分けあうものが、なければ、空しいものとなります。
たとえば、相手から声をかけられるの待つ姿勢には、笑顔がきえ寄り付きにくいもの。

良いことをしているのに、良いことをしている人に見えないのです。

年を重ねると、性格が先祖がえりするといわれます。
御神尊様は、心がけとして、[1日1善 1 日1楽]と教えられています。
我人ともに、喜び楽しむ熟年を迎えたいものです。

まとめて言えば、『熟年者は、もう、勝ったの負けたのはいけません。』
病いになり、[勝つ気でいれば、痛みはひきません][負ける気になれば自然に引きます。』
ありがたいですね。

そこに、上手な年の取り方があるようです。
お互い様、道の実践で魅力のある背中を、みせましょう!

みうた、1585 [幼な子は 親の背中を見て育つ、祈る背中と 愛する背中]


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12/13 血縁関係

2018-12-15 10:12:01 | 運命の原理


信仰というものは、今が、苦悩のまっただ中、
だからこそ、なんとかしたい!
と、不可能と思えることも、可能にする力を引き出してくれます。

その際の手がかりは、血縁関係を振り返ってみることです。

言うまでもなく、私たちには親があり、ご先祖様がいて、さらに辿れば、御神尊様と
ご縁が繋がります。
けして目に見えるわけでもないのに心中深く、心の糸、たましいの糸で結ばれているのです。

その血縁関係の乱れに気ずけば、運命を立て直すことができるでしょう。

しかし、ことが進行して抜き差しならず、『もう、親子の縁を切ってしまう』とか、『目の黒いうちは
家の敷居は、二度と跨がせない』などと、心にもないことを言って、取り返しのつかない関係を、きくこともあります。どんな、関係になろうと血縁を絶つことは、できない相談です。

天地の間に生かされる私たちは、あらゆる人間関係の中で、運命に直結する血縁関係は、
神様が、ちゃんと見届けています。
だからこそ、切るに切れないものと認識を改めて、
[反省の力、懺悔の力]を持って、血縁関係を立て直すことです。

運命が思うようにないと嘆く前に、ぜひ、血縁の関係を疎かにしていないか?
義理ある関係にも思いやりの心で、接していたのか?
我が心を、点検してください。

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12/12 幽界物語(2)

2018-12-15 10:01:40 | 沿革

御神尊様は、幽界への旅立ちを、予感されてのお言葉でした。
やがては、多くの信徒、ご先祖様の、守護神(まもりみたま)としてのご存在を、視野に入れて
のことでしょう。この時、すでに御霊殿や、祖霊殿祭祀の芽生えが見られ、幽界も顕界も
独自の、御霊祭り(みたままつり)が行われるようになりました。

とりわけ御神尊様は、み教えを伝えることに生涯を捧げた、
功労者の慰霊祭を大事にされました。
春秋2回の祭典が、現在のひな形となりました。

昭和54年9月29日午前4時43分に、ご帰幽を迎え
御神化(ごしんげ)されることにより、『幽界のことは、まだ早い』と
『私は、ここには、入らない』は、御遺言のひとつとして、生命三斎の確立につながりました。

今朝は、幽界物語をこれから書き遺しておくために、
皮切りの2日間とさせていただきました。
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12/11 幽界物語、(1)

2018-12-15 09:41:27 | 沿革


かつて御神尊様は、佐賀本部の頃、ある教学研修会の席で幹部さんが質問されました。
『御神尊様、幽界のことは、どのようになっていますか?』
その質問に、『幽界のことは、まだ早い』といわれ、それ以上触れることは、ありませんでした。

やがて時はめぐり、昭和50年道祖50年祭のみぎり、はからずも、その答えが、明らかになってきました。
それは、記念事業として[平戸根本道場、原田全国御行場遥拝所]が建立されました。

その陰で、佐賀県久保田村大立野にある、願福寺の傷みがはげしいため、改修の話しになりましたが、予算がたたず、御神尊様は、[たとえ我が身は、水を飲み、塩をなめようとも、親孝行は
させていただく]の決意で檀家を説き伏せ、話をまとめました。

そして、『両親を始め、ご先祖様のお住まいになる、家作りだ。私たちが、立派な家に住みたいよ
うに、ご先祖様にも、立派な家にお住まいいただくように、努力するのが、子孫の務めだよ』
と、お語りになられました。

願福寺の改修に合わせて、お墓も建立され、
この時、『私はここには入らない、道祖様までである』と、重大なお言葉を遺されました。

余談ですが、この際の改修委員長として、絵画、書、などの、御真筆に精魂をこめ、費用を捻出されました。


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12/10 運命開拓

2018-12-15 08:08:51 | 沿革


こんなふうに言われると、健康と思もいこんでいる人にとり、
とてもショックなことでしょうね。

では、病気になれば、ふつうは病院に行き、診察されて病名を、もらう訳ですが、
それは、あくまで肉体上のことです。

しかし、ここでいう病気とは、運命に直結し、人生を左右する事柄を言っています。

つまり、目に見える前にすでに、あなたは病気を抱えていると、
神様は、あなたの心の中をのぞいて、診断されています。

それですべて、病人であると言われるわけです。
うーん?なに?でしょうね。訳わかんないぞ!

つまりは、[病気とは、精神上の中心を失い、日常生活が乱れて、人間らしさの失われた状態をいう]
と、続いています。かなり、長いのです。

御神尊様によれば、人間は病気になる前に、必ず、[精神上、性格上、生活上、そして、人格上の病気に
かかっていると]御指摘いただいています。

つまり、自己精神の中心におく、神やご先祖様の存在を忘れるだけでなく、
夫婦、親子、家族が切れて離れた生活をして、人間らしい、思いやりの心を、失った状態は、
病気そのものと言われます。

今朝は、運命開拓の基本的な入り口の認識ですが、日々の言葉はここから、枝を伸ばしていきます。
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