天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

12/9 沿革秘話 [力久少年物語、2回目]

2018-12-15 08:01:35 | 沿革


御神尊様は、明治39年10月28日にお生まれなりました。
その当時のもようを親戚で友人のTさんが、語られたのは、
[神への道]にある誕生のこと。

Tさんの父親の話では、夜明けに漁に出る船を見回りにいくと
うすぐらい雲の切れ間から、異様に大きく光る星がみえたといい。
漁師は、星とともに生きる仕事、『なにごとかあるな』と、感じたままでした。

母親は、女性の直感で、「ひょっとすると、西の家に子供が、産まれたのでは?』
西の家とは、力久家が西方にあり、そう言っていたのです。
直感が的中、元気な男子誕生、それがのちの御神尊様でした。

天地の神は、明治から大正期、昭和の中期の、悪夢のような苦悩の時代に、
かけて、力久家に与えられたお子でした。

育ちは、病い知らずで運動神経はバツグン。
性格は、頑固、負けん気の強さ、反面、ひょうきんで、思いやりの心にとみ、
友人も多かったようです。

Tさんがいわれるのは、日頃一緒にいて、本人が何気なく話したことが、
数日後に事実になり、驚かされたそうです。
[神への道]のなかで、帽子をタンスの裏から、発見したこと
などは、ほんの一部の出来事でした。









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12/8 天山徒歩の行

2018-12-13 22:48:41 | 沿革


30・12・8、
[毎年、12月8日。御神尊様立志記念日、天山奥の院、登山の日]
[御神尊様、初修行の地]であります。

[神よ、我に、苦難を与え給え]
[神よ、我が身を借りて世に出ざるや]と、神に問いかけた宗教家は、御神尊様だけでしょう。
神様、私は世の中には『貧、病、争』で苦しむ多くの方がいます。
私に苦しみを与えてください。

あなたは、姿もなければ、言葉もない、私を借りて世に出たいと、思いませんか?
こんな、宗教家は、どこを探してもいないでしょう。

やがて、神様からの答えは無く、自らのからだに、問いかける20年の修行に旅立だって行かれました。
それは、[天山奥の院、立志宣言]でありました。

(御神尊様の、深い決意をのぞく、言葉があります。)
[釈迦も孔子もキリストも人なり、彼らにできて私にできないことがあろうか!]

そして孤独の旅の道中、[ダルマは壁を拝み、鹿之助は月をお拝む。私は天地を拝んで、神を知る。]

今日は、教主様を先達にして天山奥の院参拝、登山に出発しています。
どうぞ、それぞれの地で、念波を送ってください。

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12/7 心と生活

2018-12-13 22:34:08 | 運命

30・12・7、沿革6回目
[平戸の御行まとめ]
(1の1)
御神尊様のこれまでの、15年に及ぶ御行は、平戸の御行によって、
宗教観、信仰観、そして神観も、一挙にくつがえされました。
宗教界の、ノーベル賞といっても、過言ではありません。

さて在鮮時代、熱心な信者、田村ツネさんの紹介で、
中里家はご縁を結び、祈祷の前に、『家族、ひとつ心にならなければ、助からない』
と、説かれたのも、すでに祈祷の限界を超えた指導でした。

森田龍さんは、行中の写真12枚を、地元の写真家に頼んで撮りました。
満願のお写真もその時撮ったものです。
7才の息子さんの怪我で、入院中にご縁がありました。

その時も、『子供は、誰が助けるのか?』と聞かれ、
『私が助けます』と答えると、『よし、私が手助けしてやろう』
あくまで、介添人のようなことを言われるのです。
でも、家族が7日間、仕事も休み神殿の前で祈り、トイレ以外は、外すことはできないほど、
きびしいものでした。

時代は戦時体制とあって、常に、平戸警察署の特高警察が、
御神尊様の行動、言動に、監視の目を光らせていたと言われます。

理由は、朝鮮からのスパイで宗教家を装い、活動していると見られて、中里さんが、
呼び出されたりしました。

そこで、信望の厚かった立石歯科の奥様が、御神尊様を立派な、宗教家であることと、
これまでの事績を語り、疑いも晴れました。
のちには、特高警察からも、2〜3人ほどお話を聴きにくるように、なったといいます。

[平戸まとめ、終わり]
(1の2)
[神明の舎]これほど、言い得て妙の表現はありませんね。
まさに、御神尊様の霊的、神言でしょう。

『私を、貴方を、愛してくれ、しかも、喜ばせ、楽しませ人間らしさを、精いっぱい注いでくれる』
『夫、妻、親子、兄弟姉妹は、これことごとく神様』です。
これがわかれば、おかげは向こうからやってきます。

そもそも不運の人は、言い訳けが多くて、事情をいいます。
その結果、笑顔をなくすから、幸運を逃しています。
御神尊様 は、事情なんて吹けば飛ぶようなものと、平戸でいわれました。

『貴方が神心に目覚め、身から心から、家族を愛し、喜ばせ楽しませるならば、すなわち
貴方自身が神そのもである!』

姿なき神は、人間に姿を変え、私たちのたましいの中に、おわします。
[神は人と生まれて神となる』今、私はこれを書きながら涙がとまりません。
御神尊様は、ここに到達するまでのご苦労を偲ぶといたたまれません。

[平戸の御行により、祈念祈祷を一掃 人の心と生活を立て直しえ根本的に救う]
かくして、
[心は運命の製造者にして、生活は運命の製造所なり]の人類史上、不滅の真理を御発見いただきました。

御行のあと御神尊様は、中里辰之助氏に、このように、おもらしになられました。
『この世で何が大切か夫婦、
親子、仲良く、和やかに、<愛の生活>こそ最も大切である』と、お語りになられました。

{愛なき家庭は、暗黒なり。愛なき社会は、暗黒なり。愛なき人生は、暗黒なり。}

人間ひとりでは、生きられず。生きれるものなら、生きて見よ!といわれ、
平戸の御行なかりせば、この道なし。
[この道の発祥の地]と御命名頂きました。







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12/6 [平戸50日大行、4月10日 満願。][汝等の霊は是れ神明 舎なればなり]

2018-12-06 20:01:56 | 沿革


平戸の悟りによって、大転換を遂げましたが、信者さんの中には、ショックのあまり、
御神尊様のもとを、離れていく人もでてきました。

変わることの難しさを、感じるところですが、
御神尊様には、それ以上に、在鮮時代の宗教家としての、あやまちを
命をかけて清算された、その心中を汲みとらねばなりません。

『人を泣かせ、苦しませていながら、罪なきがごとくに装い、さらに新たな罪を重ねていく』
『信仰によって、己が罪にきずいたら、素直にそれを認め、直ちに改め、償いの
道、人のために、寄り添う人生、徳積みの生涯を歩く』ことを教えられました。

加えて、法によって罪人を裁くとも、信仰するものは、
罪を憎んで人を憎まず、広い心で被害者、加害者を包み込んでいくことを諭されました。

ここに御神尊様の悟りの真髄が現れています。
だから、平戸の御行をお語りになる時は、絶句されることも、しばしばでした。

昭和51年の『古希の年』にあたり、西鉄グランドホテルで、宗教界の方々を集めて
盛大なパーティーが開かれました。私も、34才准教師時代、参加していました。
御神尊様は、ご挨拶の中で、平戸の御行にふれ、
千人もの人が、ひしめく会場で、人目もはばからず、声をあげて泣かれるお姿を
忘れることはできません。

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12/5 [平戸50日大行][捨て身の行]

2018-12-06 19:53:37 | 沿革


夜陰の吹雪まじりの、烈風も収まり、東の空がしらじらとあけ染めるころ、
御神尊様は、簀の子(スノコ)のうえに、仁王立ちされ、お叫びになられました。

『神にお許しいただいたあ!』命の祈りは、神をも動かし、天をも動かしました。
[神を遠きに求むることなかれただ、己が心中に神を求めよ汝等の霊はこれ神明の舎なればなり]

満願を迎えて、御神尊様のお言葉は、
『神さんはおらんとばい、神さんは心の中におらすとばい』
方言丸出しの言葉に、150人からなるお迎えの信者は、訳がわからなくなりました。

行に入るまでは弁財天を拝み、御神尊様の霊能力、お話と、祈祷で助けられていました。
神頼み、他力本願でした。

平戸までの、15年に及ぶ行から行、臨床実験の中から、
すでに、[心と生活]に、運命の本源があることを、お掴みでした。
しかし、なかなか、旧態信仰 祈念祈祷から、離れることはできませんでした。

御神尊様は、それまでの祈祷や霊能力に依存する、他力本願の救いから、
教えによる自力の救いへと大きく舵を切ったのです。

偉大なる平戸の悟り
[心は運命の製造者にして生活は運命の製造所なり]

宗教史上、不滅の大真理をもって、真実の救いの道は開かれました。

こうして今の道は発祥したのです。




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12/4 [平戸50日大行]4日目

2018-12-06 10:59:57 | 沿革


とうとう、懺悔のあまりいたたまれず、自ら宗教者としての資格を神に問うべく、『すて身の行』を決意されたのです。

行場から少しくだったところに松の巨木が4・5本あり、
その中から、2メートルまわりの、高さ10メートルを選びました。
その松は、崖の途中から幹と枝おを伸ばしています。
そこに、ハシゴをかけて頑丈な枝に、簀の子(スノコ)をかけて、
座れるようにしました。

行庵を作られたひとり、森田龍さんは、小西一平さんの家で
御神尊様は、発表されたと語られています。

しかも、地元の町内役員会は、戦時体制の非常事態、
受け入れを否決されました。そこを説得したのが、山主の北村国夫さん。
多くの人が先生に助けられたことを、熱意を込めて説得されました。

さて、森田、中里、北村さんの語られたのは、とにかく寒さに加え、雪が降りしきる中で、
ついに、[捨て身の行]は行われました。
しかも徹夜の行、松の根方には、昼となく夜となく毛布を持ちよって、厚く重ね『いつ落ち
るか、いつおちてくるか』15・6人の信者が心配のあまりつめきりで、下からお祈りを
していました。するといつのまにか、静寂の時間が訪れ、一同緊張の瞬間。

『エーイ、オンケン、バリケンソワカ。オンシラギニ、ソワカ。オンソワ、ソバテイエイ、ソワカ』

大般若経の経文が、樹上より降ってくるのです。
その声の響きで、『あ!起きておられる。よかった』と、
3日間はその繰り返しでした。

その間、風と雪が舞い、過酷なこと。
今の私たちには、想像もできません。
今朝は、ここまで!




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12/3 平戸

2018-12-04 13:22:19 | 沿革
30・12・3 沿革6回目
[平戸の救いと御行]3日目

おはようございます。
ありし日の、御神尊様が平戸をお語りになる時、声をつまらせ、
たびたび、絶句されました。
この行で、孤独の苦しみと不幸。
心と心を、通い合わせる中から、幸福も健康も生まれることも、見えてきました。
しかし、この時の孤独は、御神尊様の人助けの手段方法にも、
大きな影響を与え、深い反省の毎日を過ごすことになりました。

特に悩ましい問題は、霊能力のために、当時の朝鮮では、
犯人探しの手助けや、罪をあばくことで、世の中を救ってきたのか。
また、祈祷の力で助けたが、依存心は生まれても、本当の救いと言えるかどうか。
悩みに悩みぬいた、日々でした。

ついに、47日目、
道祖様、形見の御神刀に手をかけ、『反省と懺悔のあまり』命を断とうとしたのです。
しかし、そこに神の救いのみてが差しのべられ、『反省は過去の一切を清算、懺悔の誠はわれを呼ぶ』

まさに、[神は過去を、問い給ず、現在をのみ問いたもう]です。
過去の過ちはつらいが、行はまた、いちからやりなおし、原点回帰となりました。








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12/2 平戸の救い

2018-12-02 19:28:09 | 沿革


2日目
御神尊様が、赤坂山の行庵に入られたのは、昭和15年2月20日のことでした。
善隣の道発祥の御行は、すべての接触を断ち、孤独の境地で、ひたすら神の心を感得されるため、
ギリギリまで己を追いつめる行でした。

行庵の塀の手前には、[面会謝絶]の木札が建てられ、指名された信者が食料をはこびました。
それとても門口に置いて、置くだけで面接は許されず、
御神尊様は、『見ざる、聞かざる、言わざる』の『孤独の行』でした。

人間の最大の苦しみは、その『孤独』にあること。
一切のかかわりを断つ、いまだかつてない行となりました。

初めの7日間は、あまりの淋しさで、お祈りが出来なかったほど。
人と離れて、切れて暮らすことは、身を切ような耐えがたさでした。

それで、淋しさを紛らすために、日に何度も、行庵周辺を掃除して『あまりきれいに、されたら、
木立に栄養がなくなり、たち枯れるから、やめてください』と、山主の北村さんが嘆いたほどでした。

また行庵の下に、井戸があり、水汲みも日課のひとつでした。
天秤棒に水桶を担いで、坂道を登り降りしますが、淋しさを堪えきれず、
何度も水桶の水をぶちまけては、また通うことの繰り返しでした。

汽船の汽笛の音は物悲しく、涙がひとりでにこぼれることも、珍しくなくなりました。
木の間がくれに見える帆船、人家の屋根、どれひとつとってもなつかしく、
飽きることなく、眺めることも再々でした。

今朝は、ここまで。






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12/1 赤坂山 沿革6-1

2018-12-01 09:39:48 | 沿革


[1940年、昭和15年2月20日〜4月10日まで]
[長崎県平戸市、赤坂山50日間、ご入山。]

小西さんの助かりで、御神尊様をしらない人は、平戸にはいなかった。
『これはいかん。思いあがるぞ』
かつての朝鮮時代を思い、人生山あれば谷ありならば、自ら谷におちてこそ宗教家ではないのか?』
老夫人の土下座は、<真理探究>のさなか、驕り高ぶりになるのではないか?
すぐに、主な信者に、参籠に適した山中を探すよう命じられました。
ところが、信者は、平戸で尊敬の的の御神尊様に、これ以上の御行をされる必要があるだろうか?
『思い止まってほしい』と、お願いしました。
ところが、思いがけないことを、言われました。

「この50日間接見禁止の行にはいるぞ」
動かしがたい決意に、ようやく本腰を入れて行場を探し、赤坂山の中腹に、
格好の場所を見つけ、寒風ふきすさぶなか、大勢の信者によって、
藁葺きの粗末な行庵が建てられました。

当時、戦地に赴く兵士の千人針にならい、御神尊様の入山と供に
ありたいの思いを『布地のは切れ』にこめ、継ぎ合わせて行衣を献上しました。
その[百ハギの行衣]こそ、[平戸御行の象徴]であり、[歴代教主、永遠の聖衣]として、伝承されていく
ことになります。









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