よく政治家が本人にとって不本意な形で辞任する時など、「本当の評価は歴史がしてくれる」という捨て台詞を残すことがしばしあります。残念ながら一般的には言い訳がましく聞こえ、さらに評価を落とす結果になるようです。しかし、一時的な評判や世論とは異なり、後にある事象の意味が判断されることも少なからずあるのも事実です。韓国では独立運動の義士であり、英雄として称えられる安重根(アン・ジュングン)は、日本人にとっては、当時の枢密院議長で元老 伊藤博文を暗殺した犯罪者です。このように両国の立場から彼に対する扱いが異なることはやむを得ないとして、この事件が結果的にその後の両国にとってどのような影響を与えたかは、様々な意見があり、ましてや歴史家でもない私が評価できるものではありません。私の関心はむしろ人間自身、それも実際に肌で感じた実像にあります。
1909年10月26日事件後、安重根は逮捕され旅順監獄に収監されますが、検察官や判事、看守などそこで彼と接した日本人に強い印象を残すことになります。特に獄中時の特別看守であった千葉十七とは殊更深い交流がありました。当時25歳の千葉十七は、宮城県の出身で、志願し大陸での軍務についた青年で、当初は明治の元勲を殺害した安重根に対して強い憤りを感じていました。しかし看守として接する過程で、徐々にその言動、思想、そして人柄を知るにつれ、一人の人間として心を許し、5歳年上の安に対して尊敬の念まで抱くようになります。安重根も、千葉十七の実直さやその間の精一杯の気遣いに感謝し、処刑の直前に「為國獻身軍人本分」と墨書し十七に託します。その後、朝鮮総督府での勤務を終え、故郷仙台で鉄道員として勤めながら、安重根の写真と遺墨を仏壇に祭り、亡くなるまで1日も欠かさず礼拝し、49歳で亡くなるまで東洋平和の実現を祈り続けました。千葉十七の没後も、その遺志は未亡人と姪に受け継がれます。今も、宮城県若柳町にある大林寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年(昭和56年)、千葉家の遺族の希望により韓国に遺墨が返還されたことを記念し、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立されました。
千葉十七に残された遺墨には「為國獻身軍人本分」と書かれています。自分の行動が私事ではなく国の為であることを示すものですが、一方 安重根を敬愛する気持ちから看守としての任務に負担を感じ、悩んでいた千葉を想ってのものとも考えられます。安重根が獄中で執筆していた「東洋平和論」には韓日中のアジアにおける平和的協力も言及していますが、結局 完成することはできず、今も我々の宿題と言えます。