日延上人
東京 港区白金台に覚林寺という小さなお寺があります。一般的には清正公(せいしょうこう)と呼ばれ、目黒通りが桜田通りにぶつかる交差右角で、その辺りを車で通るとき、清正公前という標識が目に入ります。清正公の名のとおり、戦国の武将 加藤清正を祀ったお寺で、可観院 日延上人が1631年に開創しました。この日延上人というひと 豊臣秀吉による朝鮮侵攻のとき、清正が連れてきた王族の姉弟の弟の方なのです。
日延は 李氏朝鮮第14代国王宣祖の長男 臨海君の子で、連れてこられた当時4歳でした。臨海君自身 一時 清正の捕虜になりましたが、講和の条件として釈放されます。しかし、その子らは何故かそのまま日本に連れ去られたようです。清正により養育されますが、法華経の熱心な信者である清正の影響か、やがて信仰の道に入り、仏学に励み、日蓮宗の最高位まで昇ったとのことです。清正没後、彼を偲んで覚林時を開き供養し余生を送ったといわれていますが、日延の本当の気持ちはどうだったでしょうか?父の臨海君は、35歳で、弟によって配流、謀殺されており、一緒に連れてこられた姉の消息は伝えられていません。王族の子が、異国の地で敵の武将を頼り生きていく中で、信仰も、清正を祀ることも、むしろ自分のためだったかも知れません。
日延は水仙花の栽培に長じており、花畑としてこの地を幕府から与えられたとも言われています。祖国、両親への思いを胸の中に隠しながら、花を愛し続けた人生。日延は、晩年、江戸を離れ、九州で小さな寺の住職として一生を終えています。帰ることはできなくても、少しでも祖国に近い場所を求めたのでしょうか。そこに残された日延の木造を、偶然見る機会がありました。好々爺然の微笑んでいる穏やかな顔が、私には泣いているように見えました。
晩年、九州のいずこに住まわれたのでしょうか。時代の波に翻弄された人生。異国の地で母国を想い慕う心。
日本に生まれ、日本に住み、平凡に生きる自分でさえも、何かしら見えぬチカラに動かされて、果たしてこれで良いのだろうか?と思う人生を歩んでいる気がしていたのですが…。
人生を幸に思うも不幸に思うも自分次第。決して悲観論者にはなりたくないけれど、かの徳川家康の言葉、人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し…というのを思い出し、日延上人に重ねてみるのでした。