海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『正論』4月号・藤岡信勝氏の評論を読む

2008-03-16 23:44:24 | 「集団自決」(強制集団死)
 『正論』4月号に藤岡信勝氏が〈集団自決「解散命令」の深層〉という評論を書いている。その中で、今年の一月二六日に座間味島を訪れた際、「昭和白鯱隊之碑」の前で、「偶然」宮平秀幸氏(七八歳)と会い、梅澤元隊長が村の幹部に「自決」するなと言い、なおかつ忠魂碑前に集まっていた村民を野村村長が「解散」させた、という証言を得たと書いている。自分が必要としている情報を持つ人物に、それこそどんぴしゃりのタイミングで「偶然」会うことができるのなら、聞き取り調査もずいぶん楽なことだろう。
 まともな読者ならそれだけで胡散臭く感じてしまうと思うのだが、ユーチューブで流れているチャンネル桜が撮った映像を見ると、その思いは倍加する。藤岡氏以外にも秦郁彦氏らが集団で集まっていて、しかもメディアのビデオカメラまで用意されている場に、「偶然」重要な証言者がやってきたのでインタビューしました……。これを見て「やらせ」と感じない方がどうかしているのではないか。わずか三日間のツアーで座間味島や渡嘉敷島を回らないといけないので、そのような無理な演出をしたのだろうか。藤岡氏らがまさに欲していたであろう内容をとうとうと話す宮平氏の姿を見て、ここまでやるか、と笑ってしまった。
 その宮平証言を受けて、早速、藤岡氏が『正論』4月号で評論を書き、『諸君』4月号ではジャーナリストの鴨野守氏が〈目撃証言「住民よ、自決するな」と隊長は厳命した〉という評論を書いているわけだが、読み合わせると両氏は同行取材しながら情報交換をしていたのが伺える。大江・岩波沖縄戦裁判の判決が下される三月二八日が迫るなか、宮平秀幸氏の証言を宣伝することで梅澤氏の「陳述」の信憑性を補強しようとしたのであろうか。仮にそうであるなら、その狙いはうまく果たされているだろうか。私にはむしろ逆効果になっているように思えるのだが。

 藤岡氏の評論を読むと、昨年九月に大城将保氏が『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研)を出し、さらに今年に入って宮城晴美氏が『母が遺したもの』(高文研)の新版を出したことが、「集団自決」(強制集団死)の隊長命令や軍命令を否定する彼らに大きな痛手になっていることが分かる。それもそのはずで、例えば大江・岩波沖縄戦裁判で原告側が出した「最終準備書面」を見ても、原告側が梅澤隊長の命令を否定するための論拠として、いかに『母が遺したもの』の旧版に依存していたかが分かる。大城氏に関しても、原告側は大城氏の文章や発言を都合のいいように引用し、補強材料としてきた。
 しかし、宮城氏自身の手で『母が遺したもの』は書き改められ、梅澤氏や宮里盛秀助役に対する評価が大きく変わった。大城氏も『沖縄戦の真実と歪曲』で原告側の主張に真っ向から反論している。裁判でも宮城氏は被告側を支持する立場から証人尋問に立ち、大城氏も被告の支援活動を行っている。原告側の主張を支える重要な論拠がこのようなかたちで崩れていることに、原告やその弁護団、支援する藤岡氏らのグループも内心は穏やかではないはずだ。
 その心情が垣間見える一節が、藤岡氏の評論の中にある。梅澤氏を批判した大城氏の文章を引用したあとに、藤岡氏はこう書いている。
 〈要するに梅澤の手記にある「決して自決するでない」という記述は、自己保身のために後で書き加えた見苦しい嘘だというわけである。大城がこんな大見得を切ったのは、初枝以外に三月二十五日夜の本部壕の場面の目撃者はいないと思いこんだ油断からであろう。だが、今回の調査で、梅澤が力を込めて村人の自決を押しとどめようとしたと証言する生き証人が現れたのだ〉(『正論』2008年4月号・二二六ページ。以下同誌からの引用はページ数のみ記す)。
 藤岡氏はそう豪語するのだが、このように書くこと自体の中に、自らの論拠を崩された大城氏への反発と、危うくなった梅澤証言を補強するために〈生き証人〉を欲していた心情が現れている。その〈生き証人〉に「偶然」にも島で出会ったというわけだが、飛んでる飛行機に隕石が当たるような確率の「偶然」の出会いを通して得た宮平証言とはどのようなものか。
 「昭和白鯱隊の碑」の前で宮平秀幸氏が語ったところによれば、米軍上陸が間近に迫った三月二五日の晩に梅澤隊長のもとを訪れたのは、〈村長、助役、収入役の村の三役、それと校長〉の四名なのだという。そして、米軍の手によって殺されるよりは、〈同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい、それでお願いに来ました〉と言う四名に対して梅澤隊長は、〈「何をおっしゃいますか。戦う武器弾薬もないのに、あなた方に自決させるようなものはありません。絶対ありません」〉と言い、次のように命令したのだという。〈「俺の言うことが聞こえないのか。よく聞けよ。私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たんじゃない。だからあなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません」〉。そう言って梅澤隊長は、忠魂碑前に集まっている住民を〈全部解散させろ〉と命令したのだという。(二二六~二二七ページ)。
 この証言を読むと、次から次に疑問が出てくる。
 一つは三月二五日の夜に梅澤隊長のもとを訪れたのが、野村村長を含む四名だということである。これは宮城初枝氏や梅澤氏の証言とは別の新しい証言である。これについては後で詳しく検証したい。
 二つ目に〈私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊〉という言葉である。藤岡氏はこの言葉を耳にしたとき、あるいは評論を書きながら引用するときでもいい、違和感を覚えなかったのだろうか。いったい昭和二十年三月末の日本で、「国民の生命・財産を守る軍隊」という言葉が部隊の指揮官の口から発せられることがあり得るだろうか。その言葉は極めて戦後的な価値観を帯びた表現ではないのか。藤岡氏は次のような曾野綾子氏の言葉を思い出さなかったのだろうか。
 〈「軍は住民を守るものでしょうに」という言葉を当時沖縄でよく聞きました。戦争中に暮らした記憶のある私は、そうは解釈していませんでしたが。もちろん軍は私たちの住む国である日本を守るのですが、その目的は『作戦要務令』の「綱領第一」に次のように記されています。
「軍ノ主トスル所ハ戦闘ナリ故ニ百事皆戦闘ヲ以テ基準トスベシ而シテ戦闘一般ノ目的ハ敵ヲ壓倒シテ迅速ニ戦捷ヲ獲得スルニ在リ」
 民間人を保護せよ、という意図は初めからないのが、戦前の軍の理念です〉(『WiLL』2008年1月号・78ページ)。
 『ある神話の背景』以来おなじみの曾野氏の主張である。戦前(に限定されないと思うが)の日本軍は住民を守るためにあるのではない、という認識を示しているのだが、宮平氏の証言に出てくる梅澤氏の発言とは一八〇度逆のものだ。「国体護持」のために帝国臣民は命を捧げるのが当たり前とされ、「一億特攻・一億玉砕」が呼号されていた時代に、陸軍士官学校を出た二十代の佐官級の隊長であり、父も祖父も職業軍人であった梅澤氏が、〈国民の生命・財産を守るための軍隊〉という台詞を口にしたというのか。私には宮平氏の証言が、戦後形成された価値観に基づく自らの日本軍のイメージを、あたかも梅澤氏が口にしたかのように話しているとしか思えない。
 三つ目に、宮平氏によれば梅澤隊長は次のようにも言ったという。
 〈あなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません〉
 毒薬については、これまで宮城初枝氏や梅澤氏の証言には出てこなかった。座間味島では猫いらず(殺鼠剤)を飲んで自殺を図った人たちがいるが、村の幹部たちが梅澤隊長のもとを訪ねた時点では、そこまでは予測できなかったはずだ。武器弾薬に加えて毒薬にまで言及しているのは、宮平氏が後から得た知識で証言を膨らませているからであり、それは〈国民の生命財産を守るための軍隊〉という表現と共通するものだ。
 そして、一つ目に戻るが、宮平証言でもっとも驚きなのは、〈三月二十五日の晩に〉梅澤隊長のもとを訪ねたのが、〈村長、助役、収入役の村の三役、それと校長〉の四名だとしている点である。これまで宮城初枝氏の証言では、助役・兵事主任・防衛隊長を兼任していた宮里盛秀氏、収入役の宮平正次郎氏、座間味国民学校校長の玉城盛助氏、役場職員の宮平恵達氏、女子青年団員の宮城(当時は宮平)初枝氏の五人とされてきた。梅澤氏もそのように発言してきたし、「陳述書」にもそのように書いている。それを根底からくつがえす証言であり、しかもその場に宮城初枝氏がいなかったとなれば、初枝氏の証言は嘘だったことになる。『母が遺したもの』という著作はもとより、裁判における梅澤氏の主張にも大きな影響を与える重要な証言となる。
 ところが、そのあと宮平氏はあっさりと証言をひっくり返すのである。
 〈屋外での即席インタビューでは、宮平は、村三役プラス校長の「四人」について言及していた。宮平は、明らかに、三月二十五日の夜の本部壕前の情景を映像として頭に描きつつ語っている。そこで、まずは村を代表する重要人物の四人が意識にのぼったのであろう。ホテルに戻って、順序よく話を聞いてみると、次の諸点が確認された。
 ①本部壕に来たのは、村の三役と校長、宮城初枝、宮平恵達だった。都合六人になる。
 ②村長は遅れてやってきた。
 ③恵達も遅れて来たように思う〉(二二八ページ)。
 呆れ果てるとしか言いようがない。藤岡氏の評論でも触れられているが、宮城初枝氏と宮平秀幸氏は姉弟である。三月二五日の夜の面会について、初枝氏が証言者として戦後を生きてきたことは、当然、秀幸氏も熟知していているはずだ。その初枝氏が現場にいたのを目にしたなら、真っ先に意識にのぼるはずであり、その記憶さえ曖昧だったというのだろうか。しかも、伝令として重要な役割を果たした宮平恵達氏についても、当初は記憶になかったのをホテルで追加し、〈遅れて来たように思う〉という曖昧な表現で語っている。藤岡氏はまるで宮平氏の頭の中をのぞいたように補足説明しているが、そうしなければならないほど宮平氏の証言は不確かなものだったのだ。ホテルに戻ってからの宮平氏の証言は、実は藤岡氏の示唆を受けながら修正されたものではなかろうか。

 藤岡氏はホテルで得た宮平氏の証言をもとに、野村村長も梅澤氏との面会に参加していて、その後、忠魂碑前で住民に解散命令を出した、ということを立証しようとする。藤岡氏の評論の主な目的はそこにある。しかし、そのためにかえって梅澤氏を追いつめることをしているのである。
 〈二月六日、私は梅澤と面会した。三月二十五日夜の村幹部の顔ぶれを改めて尋ねると、手記に記載したとおりの答えが返ってきた。そこで、村長も居たのではないかと質問したところ、梅澤は強く否定した。その否定の強さの理由を私はすぐには理解できなかったが、そのあと、ひょっとしたら、梅澤が係争中の名誉毀損訴訟に影響することを恐れたのかも知れないと思った。梅澤は当然ながら『沖縄県資料編集所紀要』に掲載した手記と同一の内容を陳述書として裁判所に提出していた。その内容にぐらつきがあると、裁判における自分の証言の信憑性に傷がつくと考えても不思議はない。そのことはよく理解できる〉(二二八ページ)。
 それくらいのことはすぐに気付きそうなものだが、〈そのことはよく理解できる〉とした上で、藤岡氏はさらに梅澤氏を追いつめていく。
 〈私は質問の角度を変えて、こう尋ねた。「本部壕に来た村の代表として梅澤さんが名前を挙げている五人のうち、顔を思い出せる人を言ってみて下さい」。すると、助役・盛秀、校長・宮城(ママ)、それと初枝の三名をあげた〉(二二八ページ)。
 〈収入役と恵達の名前を梅澤はあげていながら、その顔を全く覚えていなかった。「役場との折衝は基地隊の役目で、自分は戦闘の準備で頭がいっぱいだったから、村の幹部はよく知らなかったのだ」と梅澤は弁解した。事実、その通りであったろう。梅澤が村の幹部五人の名前を手記に記載しているのは、その場の記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉(二二九~二三〇ページ)。
 藤岡氏は自分が書いていることの意味を理解しているのだろうか。三月二五日の夜に面会に来た五人のうち、実は梅澤氏は三人しか顔を知らなかったこと。さらに〈村の幹部はよく知らなかった〉ことを明白にし、さらに梅澤氏の陳述書の基になっている手記が、〈後から得た知識に基づいている可能性がある〉とするのは、これまで梅澤氏が主張してきたことの信憑性を揺さぶるものなのだ。三月二五日の夜の記憶が曖昧であるということは、その時に「自決するな」と言ったという記憶も曖昧ということであり、陳述書を含めたこれまでの梅澤証言の信憑性を疑わせることになる。

 そもそも三月二五日夜のことを梅澤氏は本当に記憶していたのだろうか。『母が遺したもの』に次のような記述がある。
 〈母が梅澤氏に、「どうしても話したいことがあります」と言うと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し、「夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元へ伺いましたが、私はそのなかの一人です」と言うと、そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度、「住民を玉砕させるようにお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま返されました。命令したのは梅澤さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた〉(『母が遺したもの』旧版・新版ともに二六二~三ページ)。
 著者の宮城晴美氏が母の初枝氏から聞いたものだが、これを読むと、梅澤氏は初枝氏から打ち明けられるまで、三月二五日の夜のことは忘れていたとしか思えない。そうであるなら、「自決するでない」と言ったという「記憶」は、自己正当化のために後から作り出されたものだということになる。ここは梅澤氏の陳述の信憑性に関わる重要なポイントであるから、原告側の「最終準備書面」でも以下のように言及されている。
 〈この再会場面については、『母の遺したもの』では原告梅澤は昭和20年3月25日の会談のこと自体を忘れていた(ようであった)とし(甲B5 p262。宮城調書p6の証言も同旨)、『第一戦隊長の証言』では逆に、原告梅澤の方からそのことを話し始めたとされており(甲B26 p306)、この点も若干の齟齬がある。
 しかし、原告梅澤自身が、昭和20年3月25日の会談のことは忘れたことがなかったと供述していること(梅澤調書p9)、『母の遺したもの』が平成12年の執筆であるのに対し、『第一戦隊長の証言』は昭和63年の発表であって宮城初枝の記憶の新しい時期に本田靖春が直接取材した成果であること等からして、昭和20年3月25日の会談のことは原告梅澤は忘れておらず自分からそのことを再会した初枝に話し始めたものと考えるのが妥当である〉(原告側「最終準備書面」その1の3 梅澤隊長命令説の破綻と訂正(1)端緒:宮城初枝の告白より)。
 そして、梅澤氏が〈「すぐには理解できない様子だった」〉のは、初枝氏が歳をとって容貌が変化したから〈認識するのに時間を要し〉、〈告白内容が分かっても驚きのあまり絶句する時間が梅澤にあったとしても自然である〉と「最終準備書面」で原告側は主張している。
 藤岡氏が〈梅澤が村の幹部五人の名前を手記に記載しているのは、その場の記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉と書いているのは、藤岡氏自身が以上の原告側の主張のおかしさに気づいたということだろう。藤岡氏が明らかにしたように、梅澤氏は収入役と宮平恵達氏の顔はまったく覚えていなかった。しかも顔を思い出せるとして挙げた校長の名前を宮城と間違えている。すでに触れたように座間味国民学校校長の名前は玉城盛助氏である(『母が遺したもの』第一部 母・宮城初枝の手記「血塗られた座間味島」・旧版、新版ともに三八ページ参照)。藤岡氏の誤記でなければ、梅澤氏が顔と名前を一致して覚えていたのは、宮里盛秀氏と宮城初枝氏の二人にすぎない。
 その程度の記憶しかないのに、梅澤氏の方から宮城初枝氏に三月二五日の夜のことを話し始めるというのは、まったく不自然である。初枝氏の話を聞いて初めて三月二五日の夜のことを思い出し、訪ねてきた五人の名前も初枝氏から教えられて知ったというのが真相だろう。端なくも藤岡氏の追求によって、梅澤氏の記憶の不確かさが証明され、それによって「自決するな」と言ったという記憶の不確かさも証明されたのである。

 そのことを知ってか知らずか、藤岡氏は宮平証言の、野村村長が解散命令を出した、という言葉に飛びついて強引に論を展開していく。梅澤氏に宮平氏の即席インタビューを見せたあと、「大体こんなところだったと思う」という返答を得た藤岡氏は、梅澤氏が口にした「違和感」は無視して、宮平証言を信じ込んでしまう。
 〈宮平が語る梅澤の発言は、梅澤自身にとっても自分の発言として違和感のないものだったのだ。ただ一つ、「天皇陛下の赤子」のくだりについては、違和感を表明した。梅澤は、「こういうことは自分は言わない」というのである。他者の発言の趣旨を聞き手が自分の中で解釈しているうちに、自分の言葉が混入してしまうことは普遍的に見られる現象で、少しも不思議なことではない。それ以外の発言について、梅澤が違和感を抱かなかったことの方がここでは重要である〉(二三一ページ)
 こういう文章を読むと唖然としてしまう。この人は本当に学者なのだろうか。梅澤氏本人が〈違和感を表明した〉のなら、その部分にこだわりを持つのが普通であり、そこから宮平証言の全体を再検証する方向に向かうのが学者としての思考方法ではないのか。ことは裁判で係争中の梅澤氏の証言に関わることであり、一言一句細かく見ていく作業が梅澤氏のためにも必要だろう。それを〈「大体、こんなところだったと思う」〉という程度の梅澤氏の印象をもとに再検証を怠り、他の部分に梅澤氏が「違和感」抱かなかったから、という主観的レベルで宮平証言の真偽を判断するとは。
 「違和感」云々というが、そもそも梅澤氏は、野村村長が面会に来たという最重要部分を否定しているのである。それを藤岡氏は梅澤氏が持参してきた〈B4サイズの古びたノート〉に次のような記述があったことをもって、あたかも実際には村長が来ていたかのように描き出す。
 《4 集団自決 25日22時頃 村の幹部部隊本部壕へ来り自決を申出る 助役宮村 村長 役場青年 巡査 女子青年団長宮平初枝 手榴弾等を呉れと云うも断り追い返す。 村長野村正次郎》(二三〇ページ)。
 ノートのこの一節について藤岡氏は、〈何と梅澤は、ある時点までは、三月二十五日の夜に本部壕に来たメンバーに、村長が入っていたと認識していたのである〉(二三〇ページ)と記している。まるで宮平証言の裏付けが取れたかのようだが、ここでも藤岡氏の検証力の弱さが露呈している。「覚え書き ざまみ会 第一戦隊会座間味関連事項」というタイトルがついているとされるノートが、いつ、どのような目的で書かれたのかという説明を藤岡氏はしていない。ただ、「集団自決」というのは太田良博氏が『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で使い始めた用語であるから、本が出版された一九五〇年以降に書かれたノートということだろう。引用部を見ると確かに「村長」と記されているが、同時に「巡査」も記されている。誰の証言にも出てこない「巡査」がなぜ出てくるのか。一方で、顔を覚えているはずの校長は書かれていない。収入役も抜けている。〈村の幹部のことはよく知らなかった〉と梅澤氏が言っているのに、収入役を村長と勘違いした可能性をどうして考えないのか。校長を「巡査」と勘違いしていた可能性だってある。そういうことを検証していけば、宮平証言の裏付けどころか、むしろ浮き彫りになるのは、梅澤氏が三月二五日夜の面会について曖昧な記憶しか持っていなかったということだろう。
 藤岡氏は宮平証言の正しさを証明しようとして、むしろ梅澤氏の記憶について執拗に疑念をかき立てているのである。次の引用部分はその極めつけだ。
 〈なお、梅澤は本部壕の場面に宮平がいたことの記憶がない。私は、宮平に本部壕の略図を描いてもらい、それぞれの人物の居た場所を描き込んでもらった。壕の入り口には、火炎放射器による火災を防ぐため、何列もの物干し竿をしつらえ、それに水を浸した毛布を掛けていた。宮平はその陰で梅澤の声を聞いていた。そういう位置関係も梅澤が宮平の存在について記憶がない一因となっている可能性はある〉(二三一ページ)。
 梅澤氏が記憶がないと言っているのなら、本当に宮平氏がそこにいたかどうか、どうしてきちんと検証しないのだろうか。本評論には宮平氏の次のような発言が載っている。
 〈…それで逆に部隊長が目を皿にして、軍刀を持って立って出した命令が…〉(二二六ページ)
 〈…隊長とは二メートルぐらいしか離れていません。村長、助役、収入役、学校の校長と、四名おられるんですがね。敬語は使わないです〉(二二七ページ)
 宮平氏は梅澤氏とわずか二メートルしか離れていない場所にいて、〈目を皿にして、軍刀を持って立って〉命令を出すところが見えたのに、梅澤氏からは毛布の陰になっていたから記憶にないのだろうという。ここまで来ると失笑するしかない。梅澤氏からも見える位置にいないで、〈目を皿にして〉という表情がどうやって確認できるのか。村の幹部たちと梅澤氏が話していたという三十分の間には、ほかの将兵の出入りもあっただろうに、宮平氏は注意もされずにずっと毛布の陰から盗み聞きしていたというのか。いや、そもそも、宮平氏が本部付きの伝令を務めていたことを梅澤氏は記憶していたのだろうか?
 文芸評論家の山崎行太郎氏が「毒蛇山荘日記」ブログで宮平秀幸氏の証言について細かく分析し、論評している。それを読むと、宮平氏が三月二五日の夜に梅澤氏のそばにいて話を聞いたという証言自体が怪しいものであり、虚言である可能性もある。そもそも、その場に宮平氏はいなかったから梅澤氏も記憶していなかった。そんな単純な結論が明らかになったら、宮平氏や藤岡氏だけでなく、梅澤氏までもが物笑いの対象になるであろう。
 そうでなくても、宮平証言の正しさを信じて野村村長の「解散」命令を強調すればするほど、野村村長との面会はなかったとする梅澤氏の証言の信憑性は低下し、下手をすれば梅澤氏は法廷で偽りの陳述をしたとさえなりかねない。いったい宮平氏と梅澤氏のどちらの記憶が正しいと藤岡氏は言うのだろうか。座間味島で宮平氏と「偶然」出会い、その証言で梅澤氏を支えようとして逆に追いつめていく藤岡氏の暴走が、今後どうなるか注目したい。

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