
写真は「沖縄の塔」近くの崖から眺めたマルポ方面の海岸。
三ヶ野大典『悲劇のサイパン』(フットワーク出版社)には、65年前の7月30日から31日にかけての状況が次のように記されている。
〈米軍は南部を残す島の四分の三を制圧していた。東西から呼応して日本軍を挟撃するように南下を続け、三十日にはテニアン町北東の第三飛行場になだれ込み、午後にはテニアン町に進出した。テニアン町を守る日本軍はタコツボを掘って防御線を敷き、前進する米 軍にタコツボから躍り出て斬り込んだが、米軍の砲弾は次々と日本兵を吹き飛ばし、夕刻までに廃墟のテニアン町は陥落した。
戦闘は最後の段階に来ていた。三十日から三十一日にかけてマルポ盆地からカロリナス台地に至るジャングル地帯の攻防戦は凄絶を極めた。一般邦人も義勇隊を編成して弾薬を運び、伝令に走った。
足手まといになるのを恐れて、爆薬で集団自殺した老幼婦女子もいた。日本兵は爆薬や地雷、砲弾の火薬などを体にしばりつけていた。弾丸が当たると人間もろとも爆発する、恐ろしい人間爆弾を近づけないため、想像を絶する米軍の猛射に、至るところにちぎれた手や足、首のない胴体が散乱し、多くの死傷者を出して日本軍は敗退した。
同日夕、カロリナス台地の崖下にあるマルポの井戸も米軍の手に落ちた。
マルポの井戸は島内でただ一つわき水の出るところであり、文字通りの命の水だった。兵隊も一般邦人も毎日、水を求めてここに集まった。この井戸を失えばあとはスコールの自然水をたよる以外にない。井戸水を求めて周辺に避難していた一般邦人もカロリナス台地に逃げこんだ〉(194ページ)。
そうやってカロリナス(カリナース)台地に逃げこんだ一般邦人のなかに、北谷村(当時)出身の新垣義吉さん(大正元年生)とウシさん(大正三年生)の家族もいた。義吉さんは昭和六年に南洋に出稼ぎに出て、南洋興発会社に雇われ、準小作として農場でサトウキビ栽培をしていた。ウシさんは昭和九年に「花嫁移民」でテニアンに渡り、一面識もなかった義吉さんと結婚した。夫婦は子供四人とともに社宅で生活していた。
昭和十九年の七月、米軍上陸前の空襲が激しくなる。北谷町発行『戦時体験記録』で義吉さんとウシさんは次のように体験を語っている。
〈ウシ 空襲されていても、子供たちは木の下で勉強させていた。カーイーセンボンといって、北谷の村を覆うぐらいのとても大きなガジマルの木が生い茂っていた。私たちも牛や馬車を引いていって、そこで暮らした。だけどあまりにも激しくなったので、テニアンじゅうの人がカリナース山に集められた。カリナースでは海軍壕にはいっていたが、もう怖くてどうしようもなかった。
本土出身の兵隊が、「死にたければ、この手榴弾で子供も殺して、自分も死になさい」と、住民に手榴弾を配った。そのときに、長男は「どうしても、ぼくは死にたくない」と、私の着物の裾を引っ張った。私もわが子を殺せるわけがない。「どんなことがあっても子供の命は守ります。死にたくない」と言ったら、日本の兵隊は「お前たちは、そんなに命が惜しいのか!」と吐き捨てるように言っていた。この人たちと一緒にいたら大変だと思って、その壕からは逃げた。そして、とても粗末な壕に隠れていた。
でも、そこも攻撃されて爆風で押しつぶされてしまった。ようやく這い出た私は肝をつぶして、埋まった子供たちを一人一人掘りおこして助け出した。テニアンの空襲は怖かった。あの時のことは、もう思い出したくない〉(478~479ページ)。
そのあと義吉さん、ウシさん夫婦は子供を連れて、米軍の攻撃から逃げまわる。その過程では、義吉さんが日本軍の命令で弾薬運びをさせられたり、住民が日本軍に壕を追い出されるのを目にしている。二人の体験談では、米軍の攻撃だけでなく、飲み水がないため渇きにも苦しめられる様子が語られている。
〈義吉 テニアンの中心街はソンソンという所だ。マルポーは農場で、町からはだいぶ離れていた。水がないもんだから、マルポーの川に水を汲みに行った人もいたが、そこに行った人は全員やられて、帰っては来なかった。
ウシ 私たちがマルポーの川の所からカリナースに上がるとき、そこのに、体格の大きな男の人がハンモックに横になっていた。寝ているのかなと思って、そっと覗いてみたら、死んでいた。
義吉 山の中にとても大きな壕があったが、みんな出ていった後で誰もいなかった。水がないかと思ってはいってみた。暗闇に一升(約一・八リットル)の瓶が見つかった。振ってみたらココ、ココンと音がしたので、私は試しに一口飲んでみた。実際にはマーアンダ(菜種油)だが気がつかなくて、これは水だと喜んで、持ち帰って子供たちにも飲ませた。子供たちも、長いこと水を飲んでいないからわからなかったのか、平気で飲んでいた。そしたら油だから喉が焼けるようになり、大変な目にあった。
サトウキビのある間は、それを搾って汁を飲んでいた。後には、米のはいっているカマジー(叺・かます)を夜露に打たせて、それを絞って飲ませたり、牛の足跡でできた小さな窪みに少しでも湿り気があると、牛の小便かもしれないが、布袋か何かに吸わせて絞って飲ませたりもした。とれる水分といったら、それぐらいだった。
ウシ しまいにはどうにもならなくなって、海水を汲んで飲ませた。塩分が強いもんだから口もハギティ(赤ただれて)、またお尻もハギティヨー(ひどい下痢でただれてね)、下の子供二人はとてもやせ細って、もうこれたち二人は失うと思っていたが、捕虜になってから、毎日冬瓜の皮を煎じて飲ませたら、ウチヌヤナグリヤ(体内の毒素は)サギティ(下して)、どうにか元気を取り戻した〉(482~483ページ)。
日本軍が追いつめられた住民に手榴弾を配って「自決」を指示していたことは、ウシさんだけでなく義吉さんも語っている。
〈義吉 日本の兵隊たちは、「アメリカ軍に捕まると、必ずひどい目に遭わされるから、なるべく、捕虜に捕られるより手榴弾で死になさい」と、みんなに手榴弾を渡していた。私たちももらった。追い詰められた若い母親などは、子供を抱いたまま手榴弾で自決していた。また、手榴弾で死ねない人たちは、崖から身投げしていた。崖下の岩は切り立っているから、絶対助からなかった。みんな身内同士帯でくくって、一度に飛ぶ。崖の下はどんな凄惨な光景だったか、言葉に言い表せない。本土の人が多かったが、沖縄の人もたくさんいた。私たちの近所だった四、五人も身投げした。
私たちも死ぬつもりで、そこに行っていた。そしたら長男が、「そこに落ちて死ぬより、向こうで水を飲んでから死ぬ方がいい」と言い出した。もう、アメリカ兵はそこまで来ていて、住民が出てくるのを待ちかまえていた。別の子供も、ほかの人たちが手榴弾で死ぬのを見ているから、「あんな死に方もしたくない。捨てて!」と、言っていた。子供に言われて決心がついて、私たちは手榴弾を捨てて上がっていった。
平坦な山の上には、捕虜を乗せるためのトラックが待機していた。「早く出てきなさい」と呼びかけもしていた。投降した人には、すぐ水から飲ませてくれたが、少しずつ、少しずつ飲ませていた。今まで飲んでないから、一度にたくさん飲ませると大変だと、アメリカ兵はよく知っていた〉(483ページ)。
米軍が撮影した崖から身を投げる住民の映像は衝撃的だが、なぜ住民がそのような行動をとったのかを考えるとき、米軍への恐怖からパニックを起こした、と単純化することの誤りを、義吉さんの証言は示している。狭い島で日本軍と住民が渾然一体となって行動するなかで、「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」や「玉砕」という軍の論理・観念が、住民の意識や行動をも規制し、支配していたこと。そのことを押さえる必要がある。
逆に言えば、家族や集団にそのような軍の論理・観念に支配されていない者がいて、彼らの促しでその論理・観念から脱し得たときに「集団自決」から免れることができた。義吉さん、ウシさん夫婦にとっては子供たちが、まさにそういう存在だった。
三ヶ野大典『悲劇のサイパン』(フットワーク出版社)には、65年前の7月30日から31日にかけての状況が次のように記されている。
〈米軍は南部を残す島の四分の三を制圧していた。東西から呼応して日本軍を挟撃するように南下を続け、三十日にはテニアン町北東の第三飛行場になだれ込み、午後にはテニアン町に進出した。テニアン町を守る日本軍はタコツボを掘って防御線を敷き、前進する米 軍にタコツボから躍り出て斬り込んだが、米軍の砲弾は次々と日本兵を吹き飛ばし、夕刻までに廃墟のテニアン町は陥落した。
戦闘は最後の段階に来ていた。三十日から三十一日にかけてマルポ盆地からカロリナス台地に至るジャングル地帯の攻防戦は凄絶を極めた。一般邦人も義勇隊を編成して弾薬を運び、伝令に走った。
足手まといになるのを恐れて、爆薬で集団自殺した老幼婦女子もいた。日本兵は爆薬や地雷、砲弾の火薬などを体にしばりつけていた。弾丸が当たると人間もろとも爆発する、恐ろしい人間爆弾を近づけないため、想像を絶する米軍の猛射に、至るところにちぎれた手や足、首のない胴体が散乱し、多くの死傷者を出して日本軍は敗退した。
同日夕、カロリナス台地の崖下にあるマルポの井戸も米軍の手に落ちた。
マルポの井戸は島内でただ一つわき水の出るところであり、文字通りの命の水だった。兵隊も一般邦人も毎日、水を求めてここに集まった。この井戸を失えばあとはスコールの自然水をたよる以外にない。井戸水を求めて周辺に避難していた一般邦人もカロリナス台地に逃げこんだ〉(194ページ)。
そうやってカロリナス(カリナース)台地に逃げこんだ一般邦人のなかに、北谷村(当時)出身の新垣義吉さん(大正元年生)とウシさん(大正三年生)の家族もいた。義吉さんは昭和六年に南洋に出稼ぎに出て、南洋興発会社に雇われ、準小作として農場でサトウキビ栽培をしていた。ウシさんは昭和九年に「花嫁移民」でテニアンに渡り、一面識もなかった義吉さんと結婚した。夫婦は子供四人とともに社宅で生活していた。
昭和十九年の七月、米軍上陸前の空襲が激しくなる。北谷町発行『戦時体験記録』で義吉さんとウシさんは次のように体験を語っている。
〈ウシ 空襲されていても、子供たちは木の下で勉強させていた。カーイーセンボンといって、北谷の村を覆うぐらいのとても大きなガジマルの木が生い茂っていた。私たちも牛や馬車を引いていって、そこで暮らした。だけどあまりにも激しくなったので、テニアンじゅうの人がカリナース山に集められた。カリナースでは海軍壕にはいっていたが、もう怖くてどうしようもなかった。
本土出身の兵隊が、「死にたければ、この手榴弾で子供も殺して、自分も死になさい」と、住民に手榴弾を配った。そのときに、長男は「どうしても、ぼくは死にたくない」と、私の着物の裾を引っ張った。私もわが子を殺せるわけがない。「どんなことがあっても子供の命は守ります。死にたくない」と言ったら、日本の兵隊は「お前たちは、そんなに命が惜しいのか!」と吐き捨てるように言っていた。この人たちと一緒にいたら大変だと思って、その壕からは逃げた。そして、とても粗末な壕に隠れていた。
でも、そこも攻撃されて爆風で押しつぶされてしまった。ようやく這い出た私は肝をつぶして、埋まった子供たちを一人一人掘りおこして助け出した。テニアンの空襲は怖かった。あの時のことは、もう思い出したくない〉(478~479ページ)。
そのあと義吉さん、ウシさん夫婦は子供を連れて、米軍の攻撃から逃げまわる。その過程では、義吉さんが日本軍の命令で弾薬運びをさせられたり、住民が日本軍に壕を追い出されるのを目にしている。二人の体験談では、米軍の攻撃だけでなく、飲み水がないため渇きにも苦しめられる様子が語られている。
〈義吉 テニアンの中心街はソンソンという所だ。マルポーは農場で、町からはだいぶ離れていた。水がないもんだから、マルポーの川に水を汲みに行った人もいたが、そこに行った人は全員やられて、帰っては来なかった。
ウシ 私たちがマルポーの川の所からカリナースに上がるとき、そこのに、体格の大きな男の人がハンモックに横になっていた。寝ているのかなと思って、そっと覗いてみたら、死んでいた。
義吉 山の中にとても大きな壕があったが、みんな出ていった後で誰もいなかった。水がないかと思ってはいってみた。暗闇に一升(約一・八リットル)の瓶が見つかった。振ってみたらココ、ココンと音がしたので、私は試しに一口飲んでみた。実際にはマーアンダ(菜種油)だが気がつかなくて、これは水だと喜んで、持ち帰って子供たちにも飲ませた。子供たちも、長いこと水を飲んでいないからわからなかったのか、平気で飲んでいた。そしたら油だから喉が焼けるようになり、大変な目にあった。
サトウキビのある間は、それを搾って汁を飲んでいた。後には、米のはいっているカマジー(叺・かます)を夜露に打たせて、それを絞って飲ませたり、牛の足跡でできた小さな窪みに少しでも湿り気があると、牛の小便かもしれないが、布袋か何かに吸わせて絞って飲ませたりもした。とれる水分といったら、それぐらいだった。
ウシ しまいにはどうにもならなくなって、海水を汲んで飲ませた。塩分が強いもんだから口もハギティ(赤ただれて)、またお尻もハギティヨー(ひどい下痢でただれてね)、下の子供二人はとてもやせ細って、もうこれたち二人は失うと思っていたが、捕虜になってから、毎日冬瓜の皮を煎じて飲ませたら、ウチヌヤナグリヤ(体内の毒素は)サギティ(下して)、どうにか元気を取り戻した〉(482~483ページ)。
日本軍が追いつめられた住民に手榴弾を配って「自決」を指示していたことは、ウシさんだけでなく義吉さんも語っている。
〈義吉 日本の兵隊たちは、「アメリカ軍に捕まると、必ずひどい目に遭わされるから、なるべく、捕虜に捕られるより手榴弾で死になさい」と、みんなに手榴弾を渡していた。私たちももらった。追い詰められた若い母親などは、子供を抱いたまま手榴弾で自決していた。また、手榴弾で死ねない人たちは、崖から身投げしていた。崖下の岩は切り立っているから、絶対助からなかった。みんな身内同士帯でくくって、一度に飛ぶ。崖の下はどんな凄惨な光景だったか、言葉に言い表せない。本土の人が多かったが、沖縄の人もたくさんいた。私たちの近所だった四、五人も身投げした。
私たちも死ぬつもりで、そこに行っていた。そしたら長男が、「そこに落ちて死ぬより、向こうで水を飲んでから死ぬ方がいい」と言い出した。もう、アメリカ兵はそこまで来ていて、住民が出てくるのを待ちかまえていた。別の子供も、ほかの人たちが手榴弾で死ぬのを見ているから、「あんな死に方もしたくない。捨てて!」と、言っていた。子供に言われて決心がついて、私たちは手榴弾を捨てて上がっていった。
平坦な山の上には、捕虜を乗せるためのトラックが待機していた。「早く出てきなさい」と呼びかけもしていた。投降した人には、すぐ水から飲ませてくれたが、少しずつ、少しずつ飲ませていた。今まで飲んでないから、一度にたくさん飲ませると大変だと、アメリカ兵はよく知っていた〉(483ページ)。
米軍が撮影した崖から身を投げる住民の映像は衝撃的だが、なぜ住民がそのような行動をとったのかを考えるとき、米軍への恐怖からパニックを起こした、と単純化することの誤りを、義吉さんの証言は示している。狭い島で日本軍と住民が渾然一体となって行動するなかで、「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」や「玉砕」という軍の論理・観念が、住民の意識や行動をも規制し、支配していたこと。そのことを押さえる必要がある。
逆に言えば、家族や集団にそのような軍の論理・観念に支配されていない者がいて、彼らの促しでその論理・観念から脱し得たときに「集団自決」から免れることができた。義吉さん、ウシさん夫婦にとっては子供たちが、まさにそういう存在だった。