少し離れたところには広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」をB29/エノラ・ゲイ号に搭載した場所があり、同じように鉄骨を組んでガラスで保護されていて、中には写真が飾られていた。
吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)によれば、1945年5月10日と11日の二日間にわたって、原爆投下の目標選定委員会が、アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で行われた。この時初めて、原子爆弾の投下目標都市が選び出される。その時に挙がったのは以下の五都市であった。
京都
広島
横浜
小倉
新潟
その後、新潟は外れるが、上記の都市が選ばれた基準は以下のものであった。
(1)直径三マイルをこえる大きな都市地域にある重要目標であること。
(2)爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
(3)来る八月までに攻撃されないままでありそうなもの。
これらの基準は、原爆投下によって生じる被害の測定、つまり原爆の威力が測定しやすい条件を示すものである。できるだけ起伏の少ない地形で、八月の投下時点でまだ空襲の被害を受けていない無傷の大都市が求められている。長崎は市街地が狭いことや東西の山にはさまれ爆風が南北に拡散し、原爆の効果がうまく発揮できないことを理由に、軍人グループが反対していたが、原爆投下命令の出る前日(7月24日)になって急遽、投下目標に追加されている。
5月28日に開かれた第三回目標選定委員会において、原爆投下に際してねらいを定めて投下する地点(照準点)について重要な決定がなされる。原爆投下の照準点はそれまで軍需工場地域に定めるとなっていたが、都市の中心、つまり市街地の人口密集地をねらって投下するように変更され、決定されたのである。そのことについて吉田氏はこう記している。
〈無差別大量殺傷兵器としての原子爆弾は、その投下のしかた、つまり照準点の定め方においても、より打撃的な方法が採用されることになったのである。
事実、広島の場合、太田川から元安川が分岐する地点にかかるT字型の橋(相生橋)が照準点に選ばれた。選んだのは原爆投下専門部隊のパイロットであった。この点について、原爆投下専門部隊の報告書は、それが広島市街地の中心であったことを認めている〉(93ページ)。
〈また、長崎についても、重大な事実が判明した。長崎の原爆は当日の天候が曇であったため、照準点とは別の地点に投下された。そして、本来そこに落とすはずの照準点は三菱造船所だと従来から言われてきた。ところが、筆者が分析した結果、本来の照準点は港の西側の三菱造船所ではなく、また、実際に投下された港の北側の工業地域でもなく、実は、港の東側の商業地域、住宅密集地域だったのである。それも、その位置は、市街地の中心を流れる中島川にかかる常磐橋あたりであることが確定したのである。まさに、人口密集地域のど真ん中にねらいを定めていたことになる〉(94ページ)。
米国政府と米軍の中枢は〈無差別大量殺傷兵器〉としての原子爆弾を投下しただけでなく、より多くの人命が失われるように市街地の中心に照準点を定めたのである。その意図は明かだろう。家屋の破壊だけでなく、半径何キロでどれだけの死傷者が出るか、爆風、熱戦、放射能がもたらす威力を確かめたかったのだ。それは人種的偏見に根ざした、かつてない規模の凶悪な人体実験ではなかったのか。
同時に、巨額の予算を投じたマンハッタン計画の成果を確認し、核兵器の威力を世界に見せつけることで、戦後、新たに作られる世界秩序の中で米国の軍事的優位を誇示する狙いもあっただろう。広島・長崎の死者を悼むだけでなく、そのような形で原爆を投下した者たちの犯罪性が追及されなければならない。本来、彼らも戦争犯罪人として裁かれるべきだったのだ。彼らの戦争犯罪が裁かれなかったことが、ここまで核兵器が世界にあふれる大きな要因ともなったのである。
吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)によれば、1945年5月10日と11日の二日間にわたって、原爆投下の目標選定委員会が、アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で行われた。この時初めて、原子爆弾の投下目標都市が選び出される。その時に挙がったのは以下の五都市であった。
京都
広島
横浜
小倉
新潟
その後、新潟は外れるが、上記の都市が選ばれた基準は以下のものであった。
(1)直径三マイルをこえる大きな都市地域にある重要目標であること。
(2)爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
(3)来る八月までに攻撃されないままでありそうなもの。
これらの基準は、原爆投下によって生じる被害の測定、つまり原爆の威力が測定しやすい条件を示すものである。できるだけ起伏の少ない地形で、八月の投下時点でまだ空襲の被害を受けていない無傷の大都市が求められている。長崎は市街地が狭いことや東西の山にはさまれ爆風が南北に拡散し、原爆の効果がうまく発揮できないことを理由に、軍人グループが反対していたが、原爆投下命令の出る前日(7月24日)になって急遽、投下目標に追加されている。
5月28日に開かれた第三回目標選定委員会において、原爆投下に際してねらいを定めて投下する地点(照準点)について重要な決定がなされる。原爆投下の照準点はそれまで軍需工場地域に定めるとなっていたが、都市の中心、つまり市街地の人口密集地をねらって投下するように変更され、決定されたのである。そのことについて吉田氏はこう記している。
〈無差別大量殺傷兵器としての原子爆弾は、その投下のしかた、つまり照準点の定め方においても、より打撃的な方法が採用されることになったのである。
事実、広島の場合、太田川から元安川が分岐する地点にかかるT字型の橋(相生橋)が照準点に選ばれた。選んだのは原爆投下専門部隊のパイロットであった。この点について、原爆投下専門部隊の報告書は、それが広島市街地の中心であったことを認めている〉(93ページ)。
〈また、長崎についても、重大な事実が判明した。長崎の原爆は当日の天候が曇であったため、照準点とは別の地点に投下された。そして、本来そこに落とすはずの照準点は三菱造船所だと従来から言われてきた。ところが、筆者が分析した結果、本来の照準点は港の西側の三菱造船所ではなく、また、実際に投下された港の北側の工業地域でもなく、実は、港の東側の商業地域、住宅密集地域だったのである。それも、その位置は、市街地の中心を流れる中島川にかかる常磐橋あたりであることが確定したのである。まさに、人口密集地域のど真ん中にねらいを定めていたことになる〉(94ページ)。
米国政府と米軍の中枢は〈無差別大量殺傷兵器〉としての原子爆弾を投下しただけでなく、より多くの人命が失われるように市街地の中心に照準点を定めたのである。その意図は明かだろう。家屋の破壊だけでなく、半径何キロでどれだけの死傷者が出るか、爆風、熱戦、放射能がもたらす威力を確かめたかったのだ。それは人種的偏見に根ざした、かつてない規模の凶悪な人体実験ではなかったのか。
同時に、巨額の予算を投じたマンハッタン計画の成果を確認し、核兵器の威力を世界に見せつけることで、戦後、新たに作られる世界秩序の中で米国の軍事的優位を誇示する狙いもあっただろう。広島・長崎の死者を悼むだけでなく、そのような形で原爆を投下した者たちの犯罪性が追及されなければならない。本来、彼らも戦争犯罪人として裁かれるべきだったのだ。彼らの戦争犯罪が裁かれなかったことが、ここまで核兵器が世界にあふれる大きな要因ともなったのである。
教授でやはり日本の文献を英語に翻訳していた
面々とイリノイ州にある大学で上演される舞台を見るため車に数時間同乗したことがある。その車の中で核についての論議がなされ、その時びっくりしたのは、かれらが戦争に勝つために
核を使用して一般人の大量殺人をするのは間違っていないと、話していたことだ。アメリカ人の知識人層の考えがそんなものかと思いつつ反論はしなかったが、戦争に勝つためにはどんな手段でも許され、敵国の民衆を大量に殺す行為は正当化されていた。核容認論である。
昨今のアメリカのアフガンやイラク戦争の経緯を見ると無差別の空爆により多くの住民への殺戮をやはり続けている。手段としては同様な手口が見え隠れし、日本への核の投下に関してはソビエトの突然の侵攻をやめさせ、天皇による降伏宣言を促すためとか、一方でやはり人種差別だ、などの論議もあるが、広島・長崎の実例は上記のエッセイで書かれているように、人体実験的な科学者や政治家の冷徹な眼差しを感じざるをえない。
アメリカが自己正当化の論理をいくら組み立てても犠牲になった方々の魂は浮かばれない。加害者の側の問題を深く追求する論議も始まったばかりで、そこから核廃絶までの道のりの長さに溜息をつくばかり。
そこで以前吉本隆明が言っていた科学技術の弁証法が気になっている。つまり核を無化するにはそれを超えた科学技術の必要性である。核を超えたより強力な大量破壊兵器を暗に意味しているようで、気になっている。そのような無化の論理は人間の限りない探究心・知的好奇心を刺激してやまないし、究極的な探究が人類のあるいは今では宇宙の未来に寄与するものであれがいいのだが、現状は核拡散で地球自体の崩壊の恐れの方が大きいのではないかと危惧している。