
空港のそばには旧日本軍の九七式中戦車が二両置かれていた。キャタピラが壊れていたが、他にも兵器が並べられていたので、ここで擱座したのではなく、見学用として運んでこられたのではないかと思う。赤黒く錆びた車体が西日を受けて鈍く光り存在感があった。乗っていた兵士はどのような最期を迎えたのか。砲撃を受け、炎上する戦車の中で焼け死んでいったのだろうか。
『烈日サイパン戦』によれば、6月15日にオレアイとチャランカノアの海岸に上陸した米軍に対し、午後1時頃、独立歩兵第三百十五大隊と戦車隊に攻撃命令が出たとある。
〈ヒナシス付近まで進出した同隊は戦車を先頭に、軽機関銃を腰だめにして撃ち、敵陣へ突っ込んだ。
アメリカ兵は、はじめて見る日本軍の突撃に、めちゃめちゃに銃弾と砲弾の幕を張った。
オレアイの海岸には第八海兵連隊が布陣し、日本軍の逆襲と共に沖の艦隊に艦砲射撃の支援を求めた。それは、自分たちの陣地へ味方の弾丸が飛んでくるかもしれない危険な作戦だったが、それを、なお、やらざるを得ないほどの混戦だった。
駆逐艦から、ほとんどゼロ距離射撃に近い至近弾で弾丸が日本軍に向かって発射された。
陸上と海上からの弾幕で戦車が燃え上がり、独歩三百十五大隊の兵士はつぎつぎと倒れていった。
砂と血と死体の山にさらに山が築かれた〉(102ページ)。
「水際作戦」の失敗で米軍の上陸を許した日本軍は、6月15・16日と夜襲をしかける。本来、夜襲に向かない戦車隊も歩兵と共に参加している。昼の戦闘に続く連日の夜襲で、兵は疲れ、装備も整わず、準備が遅れて深夜、日本軍は出撃する。
〈午前二時三十分、四十三師団参謀の吉田中佐が戦車に乗り込んだ。戦車連隊長が「出発」を命じた。戦車が深夜に動くのだから、無限軌道(キャタピラ)のごう音がすさまじい。ガーガー、キーキーという音をさせながらオレアイに突っ込んだ。照明弾の下に戦車が影のように浮かび上がり、米軍から、めちゃめちゃに砲が発射され始めた。みるみる火の海となる。
午前三時四十五分、米の最前線へ日本軍の戦車が突っ込んだ。第一波攻撃だ。曳航弾が飛び交い、砲弾がうなりを上げてはじける。第二波が押し寄せる。戦車に日本軍が何人か乗って、手榴弾を投げながら突撃を敢行する。
昨夜と同じように、オレアイは地獄の戦場となった。戦車が燃え、アメリカ兵が算を乱す。叫びながら日本兵が突っ込み、そこへ砲弾が飛び込む。
もうもうとした砲煙、砂煙の中で敵味方の死体が時間と共にふえてゆく。
山側の日本軍陣地から砲兵が攻撃し、米軍からも山へ向かって撃つ。なにがどうなっているかわからないうちに、夜明けと共に日本軍の戦車が三十台以上燃え、五島ほか幹部将校は戦死していた。
そして歩兵百三十六連隊の大部分、歩兵十八連隊は全滅にひとしい損害を出していた。独歩三百十五大隊大隊長河村勇二郎大尉も戦死した。
斉藤中将は「夜襲失敗」を三十一軍と大本営へ十七日朝報告した〉(113ページ)。

写真を撮りたい人はどうぞ、ということでバスを降りたのだが、関心のない人には時間を取られて迷惑だったようだ。兵器マニアにはなりたくないが、行く先も知らされないまま輸送船に乗り込み、太平洋の島々で死んでいった兵士たちの死をどうとらえていくのか。そのことを考える一助として、このような兵器の残骸に向かい合うことも必要だろう。かつてこの戦車に乗り、戦って死んだ人がいたのだ。
『烈日サイパン戦』によれば、6月15日にオレアイとチャランカノアの海岸に上陸した米軍に対し、午後1時頃、独立歩兵第三百十五大隊と戦車隊に攻撃命令が出たとある。
〈ヒナシス付近まで進出した同隊は戦車を先頭に、軽機関銃を腰だめにして撃ち、敵陣へ突っ込んだ。
アメリカ兵は、はじめて見る日本軍の突撃に、めちゃめちゃに銃弾と砲弾の幕を張った。
オレアイの海岸には第八海兵連隊が布陣し、日本軍の逆襲と共に沖の艦隊に艦砲射撃の支援を求めた。それは、自分たちの陣地へ味方の弾丸が飛んでくるかもしれない危険な作戦だったが、それを、なお、やらざるを得ないほどの混戦だった。
駆逐艦から、ほとんどゼロ距離射撃に近い至近弾で弾丸が日本軍に向かって発射された。
陸上と海上からの弾幕で戦車が燃え上がり、独歩三百十五大隊の兵士はつぎつぎと倒れていった。
砂と血と死体の山にさらに山が築かれた〉(102ページ)。
「水際作戦」の失敗で米軍の上陸を許した日本軍は、6月15・16日と夜襲をしかける。本来、夜襲に向かない戦車隊も歩兵と共に参加している。昼の戦闘に続く連日の夜襲で、兵は疲れ、装備も整わず、準備が遅れて深夜、日本軍は出撃する。
〈午前二時三十分、四十三師団参謀の吉田中佐が戦車に乗り込んだ。戦車連隊長が「出発」を命じた。戦車が深夜に動くのだから、無限軌道(キャタピラ)のごう音がすさまじい。ガーガー、キーキーという音をさせながらオレアイに突っ込んだ。照明弾の下に戦車が影のように浮かび上がり、米軍から、めちゃめちゃに砲が発射され始めた。みるみる火の海となる。
午前三時四十五分、米の最前線へ日本軍の戦車が突っ込んだ。第一波攻撃だ。曳航弾が飛び交い、砲弾がうなりを上げてはじける。第二波が押し寄せる。戦車に日本軍が何人か乗って、手榴弾を投げながら突撃を敢行する。
昨夜と同じように、オレアイは地獄の戦場となった。戦車が燃え、アメリカ兵が算を乱す。叫びながら日本兵が突っ込み、そこへ砲弾が飛び込む。
もうもうとした砲煙、砂煙の中で敵味方の死体が時間と共にふえてゆく。
山側の日本軍陣地から砲兵が攻撃し、米軍からも山へ向かって撃つ。なにがどうなっているかわからないうちに、夜明けと共に日本軍の戦車が三十台以上燃え、五島ほか幹部将校は戦死していた。
そして歩兵百三十六連隊の大部分、歩兵十八連隊は全滅にひとしい損害を出していた。独歩三百十五大隊大隊長河村勇二郎大尉も戦死した。
斉藤中将は「夜襲失敗」を三十一軍と大本営へ十七日朝報告した〉(113ページ)。

写真を撮りたい人はどうぞ、ということでバスを降りたのだが、関心のない人には時間を取られて迷惑だったようだ。兵器マニアにはなりたくないが、行く先も知らされないまま輸送船に乗り込み、太平洋の島々で死んでいった兵士たちの死をどうとらえていくのか。そのことを考える一助として、このような兵器の残骸に向かい合うことも必要だろう。かつてこの戦車に乗り、戦って死んだ人がいたのだ。