こんにちは。
8月も残すところ1週間を切りましたね。
昨日のパースはお天気が良かったけれど今日は曇り空。
でもお花がたくさん咲いてきて、春だなと感じています
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さてまたブログの更新が空いてしまいましたが、今日は3月に長野へ行った時の話に戻ります。
2014年3月4日
戸隠のお宿ぴぁろっきーで朝ご飯をすませた後、Mr.T(亡父の友人)さんの運転で
まだ雪がたくさん残る信州信濃町柏原に向かいました。
目指すは小林一茶の記念館です。
ご自身も俳句をなさるMr.Tさんが、そこを訪ねることを提案してくださったのでした。
私自身は俳句をやらないけれど、前にブログ友の笑子さんが一茶記念館のことを書かれていた(こちら)のを読んで以来
興味津々になっていたので万々歳、行こう行こうということになりました
↓一茶記念館駐車場からの眺めです(真向かいは黒姫山飯綱山と思われます※)。
見惚れて、建物そのものの写真を撮るのをうっかり忘れてしまいました
(※8月26日:飯綱山→黒姫山に訂正。笑子さん、ご指摘ありがとうございました)
↓ 記念館の中は撮影禁止、でもこっそり窓から外の景色を…。
↓ 俳諧寺一茶堂
今回は行かなかったので、次回のお楽しみにとっておきます。
(そもそも雪まみれで入るの大変そう)
記念館で、一茶の一生を少しお勉強してきました。
二万句以上のたくさんの句を残した偉大な俳壇の人生のほとんどの時期が
家庭的に恵まれなかったり、貧しく辛かった事を知り切なかったです。
以下、記念館ホームページの解説を交えながら一茶について書きますが
私は一茶については『有名な俳人』ということで学校で少し習った程度、違うところがあったらすみません。
小林一茶は、1763年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれました。
3歳でお母様を亡くし、8歳で新しいお母さんが来たけれど馴染めず
15歳で江戸に奉公に出て、やがて俳句の道を進むことにしました。
一茶が39歳の時にお父上が亡くなり、それから長い間、継母と継弟の間で遺産相続の問題があったようです。
貧しい暮らしが続きましたが、俳句を学んだり教えたりしながら一茶の名は着々と俳界に広まっていったようです。
記念館を出た後、一茶の旧宅に向かいました。
駐車場の一茶の銅像前で
噂のMr.Tが一句したためている(フリをしている)ところです(笑)
さて———。
一茶が50歳の時に故郷に帰り、相続の話もやっとまとまりました。
そして28歳のお嫁さん(きく)との間に三男一女が生まれました。
その頃が一茶の幸せの絶頂期だったのではないでしょうか。
ところがそんな幸せもつかの間…、子供たちが次々と夭折してしまい、奥さんも37歳の若さで亡くなってしまいます。
不幸は重なり、一茶は1827(文政10)年、柏原宿の大半を焼く大火に遭い、焼きだされてしまったのでした。
そして焼け残ったこの土蔵↓に移り住み、この年の11月19日、65歳の生涯をとじました。
愛する故郷に戻れても、運命は一茶にとってどこまでも過酷だったのですね…。
土蔵暮らしの中、こんな一句を残したそうです。
“やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ”
↓こちらは土蔵の隣にある、ミニ博物館及びお土産屋さん。
ご主人はいらっしゃいませんでしたが、お店には奥様がいらっしゃいました。
こちらのご主人様は、なんと一茶の七代目のご子孫なのだそうです
店内はミニ博物館風にもなっていて、昔の道具(刃物とか)などが展示されていました。
奥様が自作の素敵なステンドグラスも販売なさっていましたが、それを買ってもパースまで持って帰るのが大変そうだなと思い
手作り押し花の栞や、メモ帳、地元の方々が織った綺麗なソックスなどをお土産に買いました。
ところで私、一茶の子供さんは皆夭折してしまったと思っていたので
子孫の方が残っておられた事に(失礼ながら)びっくりでした。
後で調べてみたら、一茶が亡くなる前に三番目の奥様はおなかに赤ちゃんがいたそうで
その子(やた)が一茶の血脈を後世に伝えたとの事でした
我と来て遊べや親のない雀
やれ打つな 蠅が手をする足をする
雪とけて村いっぱいの子どもかな
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり
力の弱いもの、小さいものへの一茶の愛情はいつまでも生き続けることでしょう。
そしてMr.Tさんと私はこのあと戸隠へ戻り、今度は戸隠神社にお参りに行きました。
この日のお話、まだ続きます。
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おまけ:ふるさとを去って長い私、一茶のこんな句にジーンときてしまいます。
初夢にふるさとをみて涙かな
父ありて明けぼの見たし青田原