続 写真は心

お気に入りの写真に気ままな独り言を書き込んでいるブログです。

江戸城から二重橋 2

2013-12-08 | お城・史跡

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これは、日本人なら誰でも知っている「二重橋」ですが、江戸城としての「伏見櫓」をメインに撮りました。

とは言っても、「皇居」としての二重橋も素晴らしいので

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二重の手前の石橋(江戸時代に、ここに架かっていた木の橋は「西の丸大手橋」と表示されています。)と

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二重の後ろの鉄橋(元々は、ここに架かっていた木橋が「二重橋」と呼ばれていたのだそうですが、現在ではこの鉄橋と、手前の石橋も含めて二重橋と呼ばれています。)はUPさせて頂きました。
この橋は、皇居内にありますので、当然入る事は出来ません。

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この「富士見櫓」も石垣の下から端正な姿を撮る事が出来ません。
なぜなら、近くの「桔梗門」や「坂下門」からは、御所が近いせいか立ち入り禁止となっていて、富士見櫓の石垣の下まで行く事が出来ないからなのですが、非常に残念に思いました。
桔梗門から正面の富士見櫓下までだけでも、写真撮影の為に入らせて頂きたいと思いました。

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これは、入れない「坂下門」です。

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ここも入れない「桔梗門」です。

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しかし、桔梗門の手前にある「巽櫓」(桜田二重櫓)は、桔梗濠に溶け込んで美しい姿を見せてくれます。
濠に沿って移動していくと、

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真裏面も良し!

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逆光の夕日にシルエット気味の姿も趣きがあって良し!
なのでした。

江戸城は国内最大の城郭で、周囲約20キロもの外郭があり、今回全部の門などの遺構に行けませんでしたので、近々一周して行けなかった門などの写真を撮って来たいと思います。

つづく


江戸城から二重橋 1

2013-12-05 | お城・史跡

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これは江戸城の桔梗濠から見た、右側の「桔梗門」(内桜田門)と三層の「富士見櫓」です。
この富士見櫓、長年にわたって天守の代わりを務めていました。

本来の天守閣は、1657年の明暦の大火(振袖火事)の飛び火で焼失して以来再建されず、現在に至るまで石垣だけの天守台があるのみなのです。

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前回の北の丸公園から、この「北桔橋門」をくぐって本丸へ渡ると、

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江戸時代に積まれたとは思えない美しさで造られた「天守台」が目の前に!
天守閣を再建しようとの声もあるようですが、五千万円の頭金で建設出来ませんですかね?都知事殿・・・

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インカの石組みにだって引けを取らない精密さに感動!

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大奥などが有った「本丸跡」から見た天守台正面

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これは火事などの時にも大事なものを守れる「石室」です。

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刃傷事件から起こった「忠臣蔵」で有名な「松の廊下跡」、今は跡かたもなくなってこの石碑あるのみ。

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江戸時代の石垣に囲まれた場所から、現代のビル群を眺めていると、なんとも不思議な違和感に包まれて、あの世界に戻らなくてはならない自分が何者なのか・・・アリスワンダーランドって言う感覚につつまれてしまいます!

つづく


江戸城、北の丸公園の秋

2013-11-28 | お城・史跡

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これは「武道館」の近くの駐車場にある、大銀杏を見上げて撮った写真です。
昨日、好天に恵まれて、かみさんと二人で「皇居」いや「江戸城」を散策しに行ってきました。

此処は江戸時代、江戸城の北の丸で「田安家」と「清水家」の屋敷などがあった処です。現在では「田安門」と「清水門」が当時の面影を残すのみですが・・・。

今まさに秋真っ盛りの木々に、通過するだけのつもりが、眺めてうっとり!写真を撮ってはうっとり!で、天守閣跡に行く前にだいぶ時間をくってしまいました。

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西日に照り返る真っ黄色な銀杏の木

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小川に沿って見事な紅葉が見られました。

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まるで燃えているかのような赤・紅

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日陰の紅葉は紅過ぎて赤黒くさえみえました。

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紅葉林の脇の小道をちょっと入って一枚!ちょっと一幅の絵みたいと自画自賛(笑)。

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紅葉は毎年どこかで見ていますが、都心のこんな所でこんな美しい木々を観賞出来た事に感謝感激して天守閣跡へと向かったのでした。


那須から会津へ 2

2013-08-26 | お城・史跡

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飯盛山から、白虎隊士達がその文武と精神を学んだ日新館へとやってきました。
駐車場の上に、日新館の標語である「什の掟」の看板が目に飛び込んできます。
そう、「ならぬことは ならぬものです。」の、それです。

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此処が正面玄関の南門です。

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南門の奥に、この戟門(げきもん)があります。

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戟門の更に奥には大成殿があり、当時の日新館の精神性の柱であった、孔子とその弟子達が祀られていました。
この構造は中国の紫禁城をミニチュアにしたようで、なかなか面白く感じました。

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此処は日本で初めてのプールだそうで、甲冑を身につけての水泳とかやったそうです。

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NHKの「八重の桜」で籠城戦の撮影で使われた鶴ヶ城の模型が展示してありました。

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出口付近の天文台からの日新館

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出口になっている西門から入口方向を見た白壁。

此処で白虎隊士達が学び、山本覚馬が教鞭をとっていた事に思いを馳せると、なぜかわくわくしてきてしまうクーなのでした。


那須から会津へ 1

2013-08-24 | お城・史跡

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先週末から那須へ行っていました。
月曜日(19日)に時間が出来たので、一人で戊辰戦争時の会津戦争で白虎隊が自刃した飯盛山に行ってきました。

鶴ヶ城には2回行ってますが、飯盛山には行った事がなく、この次には絶対に行きたいと思っていましたので、那須から直行しました。

この日は34度近くの暑さで、観光客も殆んど日陰で休んでいました。
しかし
飯盛山参道から一気に白虎隊士が葬られている墓所へと登りました。
汗が体中から噴き出しましたが気になりませんでした。

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正面の階段が本道だと思っていましたが、参拝者に便宜上造られたような感じです。

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石段の上に19名の墓石が並んでいて真ん中の大きな石柱の下にまとまって眠っていると言うことです。

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松平容保公の弔歌(追悼歌)の説明板

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お墓から右側に石段を下りて行くと、白虎隊士達が自刃したその場所に着きます。
その石像が見つめている先が鶴ヶ城(の下)なのでした。

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あの時の彼ら白虎隊の心境を思う時、なんともやるせない胸詰る感情に浸ってしまうのでした。

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その時飯盛山には20名の白虎隊士がいて、内、19名が絶命してしまいましたが、ただ一人(飯沼貞吉氏)が蘇生して、その悲劇の顛末を語り残しました。

現地に実際に行く事ができて、本当に感激してしまいました。


GWは那須から白河へ 3

2013-05-13 | お城・史跡

白河は戊辰戦争の時に、鶴ヶ城の前線で「白河口の戦い」となった地なのです。
この小峰城も、会津藩・新撰組・旧幕府派武士軍と薩摩藩・長州藩の新政府軍とで当然取り合いになり、落城焼失してしまいました。

平成3年に、現存していた「白河城御櫓絵図」(松平定信公が作成させた実測図)により木造で忠実に再現されました。
見つめていると、幕末の会津藩の苦悩と律儀さに胸が熱くなってくるのです。
現在石垣の補修中ですが、その写真を、

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GWは那須から白河へ 2

2013-05-12 | お城・史跡

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白河と言えば「白河の関」ですが、そもそもは東北の原住民の蝦夷(えみし)が南下して来ないように、彼らに物資を勝手に行き来させないようにと、奈良時代に大和朝廷が此処に関所を設けたのが始まりとの事です。

実際には蝦夷達は南下することはなく、逆に当時の大和朝廷は、蝦夷討伐と称して攻撃を加え、勢力を東北まで広げていきました。
その後、平安時代には此処が関東と東北の境目の地として全国に知れ渡りましたが、律令制が衰退するとともに「関」としての機能も失われて行き、寂れていきました。江戸時代には少し離れた場所にまた関所が設けられました。

しかし寂れている間も、都では遠いこの地に思いを馳せ、歌に詠まれたりして地名だけは忘れられる事が無く、平安期から江戸時代に至るまで、能因や西行、松尾芭蕉まで此処の歌を残しているのです。

今回は石碑ではなく、此処にある樹木などをUPしてみました。

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樹齢800年の「従二位の杉」の巨木

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那須塩原

2012-11-21 | お城・史跡

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先週末かみさんの実家で、義祖母の一周忌法要があり、参列させて頂きました。
その後、一族の懇親を兼ねて「伊藤園ホテル塩原」へ
上の写真は、部屋の窓から撮ったものです。

紅葉は盛りを過ぎてはいましたが、場所によってまだ見ごろの木々があちこちにあって、撮らずにはいられず、狭い道の凹みに停めてはサッと撮って移動しました。

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渓谷に紅葉の赤と黄が重なり、絵になりますね。

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紅葉~って言う色ですねー!

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逆光での紅葉はまた格別綺麗

その後、「史跡 鍾乳洞『源三窟』」へ行きました。
平家を打ち破った源義経の腹心であった源有綱は、頼朝の義経討伐から義経らと共に奥州平泉に逃げる途中、病に倒れ義経一行から脱落しこの洞窟内にて再起を計ろうとしていたが、洞内の滝の水で米をといだ汁が外に流れ、頼朝軍に見つかり無念の最期を遂げた場所だそうです。

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数百年そのままに置かれていた、鎧冑が洞内で見つかっています。

NHKの「平清盛」も、いよいよ源氏が平家打倒を画策し始め、佳境に入りましたね!

昨年行った藤原氏四代の「平泉」と、宮家(朝廷)の陰のトップに起つ事で武士の世を創ろうとした清盛(平家)と、更に、宮家とは一線を画して武士の世を築こうとした頼朝(源氏)の処世術の違いが理解出来、日本史が面白く理解できました!

やっぱり那須は面白い!!


平泉行 Ⅳ

2011-12-25 | お城・史跡

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これは中尊寺の不動堂です・・・・って

Ⅹマスも過ぎたのに、引っ張るよね~!

まだ何枚も良いところがあったのに残念!!

不動と言えば、山(大地)のごとし!って昔は言ってたけど、

今は「すべてのものは動かざる事なし」って皆思っているよね!

地殻も、マニフェストも、将軍様も、

何時までもずっと変わらずに!

と言う訳にはいきませんやね~・・・・

どうしても変わってしまうのなら

前より良い方に変わってほしい!

この地球、この人々にとって

そうあってほしいと・・・

クーは念じております!!

いろいろ次々と問題が生ずるので、ジックリとブログもUP出来ずに年の瀬を迎えてしまいました。

本年はこれにて・・・

また来年、よろしくです!


平泉行 Ⅲ

2011-12-05 | お城・史跡

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これぞ中尊寺の中で知らぬ者なき「金色堂」、が中に入っている新覆堂です。

金色堂は勿論、撮影禁止ですので写真はありません。
是非ご自分の目で見て、その素晴らしさを確かめて頂きたいものです。

この日は、前日に宿泊した「骨寺村荘園遺跡」傍の瑞泉閣で降り積っていた雪が、午前中小降りながら此処でも降っていて、紅葉と小雪との東北らしさをクー達に見せてくれ、本当に来て良かったと重ねて思った次第でした。