若冲の作品は、何時観ても飽きる事がない!田中一村の「奄美の杜」と並んで日本の宝です!
松本城に行く前に、此処「高島城」に寄ってきました。
なかなか長野県まで来る事がないので、今回は思いっきり足を伸ばそうと、老体に鞭打ってあちこちに行きました。
実は此処に来る前には「諏訪大社の上・下社」に詣でてきたのでした。
それは後日に!
ところで此処の高島城は、江戸時代から旅の名所として有名なスポットになっていました。
「諏訪の浮城」として浮世絵に何枚も描かれています。
しかし、270年近く続いた諏訪氏の居城も、明治政府の廃藩置県によって、封建制のシンボルとみなされ、天守や櫓類は明治8年には破却されてしまいました。
明治9年に「高島公園」として一般に開放されたようですが、石垣だけの姿は諏訪市民としては、なんとも物悲しかったようで、昭和45年に天守が、後に「冠木門」と「隅櫓」が復興されました。
上の古写真とほぼ同じ場所から撮ったのが下の写真です。
どうですか?天守や長塀などがあるのと無いのとでは、お城としての趣きがまったく違ってしまいますね!
勿論あったほうが断然すばらしいです!!
同じく、天守も破却前に撮られていた写真が下の写真です。
復興天守は、外観は忠実に正確に再現されていますが、三階の「華頭窓」が3ヶ所に増えています。
本丸に入るには、「冠木橋」を渡っていきます。
その前に、橋の左側の「隅櫓」の景色を見ましょう。
では、橋を渡ります。
木橋の先には「冠木門」と言う名の「渡櫓門」が構えています。
其処の説明板には
と書いてあり
冠木門をくぐると、嘗ての城内の図があって、今は無き本丸御殿を想像しながら天守を目指しました。
本丸内から冠木門の渡櫓を見たところです。
本丸には、大きな「人の字型の池」がありました。
との事です。
天守に行く前に、左側の隅櫓を見にいきました。
下は、天守内の展示物などを見学し天守から出てきた写真です。
写真を撮っている此の場所は本来は「小天守」があって、天守への出入りは写真右側からしていたようです。
天守のすぐ近くにある「川渡門」の手前の埋門のような石門(石垣を下りると当時は前がすぐ諏訪湖だったようです)から、城外の駐車場にでました。
最後に、駐車場から仰ぎ見た「高島城天守」です。
約40年ぶりに松本城に行く事ができました。
本来の目的は、「ある人のお見舞いに諏訪へ行く事」でしたが、会話を交わす事もままならず、あまり長居をして疲れさせてもいけませんでしたので、早々にお暇させてもらいました。でも、クーの名前を大きな声で言った時、動かせない顔の目を見開き、分かってもらえたのが嬉しかった!
なんとか奇跡的に回復して、もう一度話をしたいと念じたクーなのでした。
駐車場から城内に入って行くと、以前にはなかった二の丸から本丸の「埋門(うずみもん)」へ渡る朱塗りの「埋橋」が架かっていました。本来の橋はどのようなものであったのか、良く分かっていないそうです。
松本城は、天守も櫓(月見櫓は別)も黒が基調ですので、朱塗りの橋もアクセントになって良い景観となっていました。
二の丸に沿って、本丸入口までの内濠ごしに見る天守群は、400年の本物の迫力と気品がスレートに伝わってくるのです。
上写真の右端に本丸に入る「黒門」が見えます。そこまでぐるっと歩いて行きます
さらに近づいて行くと、黒門の「高麗門」があり、高麗門から中の桝形と櫓門を撮ってみると
この桝形内で入場券を買い、本丸内へ入ります。
本丸内から黒門の渡櫓門を見たところです。
時間がありませんでしたので、小走りで天守の入り口へ急ぎました。
なにせ入場券を買ったのが、入城制限時間の数分前でして・・・
この道の先の、「大天守」と「乾小天守」をつなぐ「渡り櫓」に入城口があります。
近づくとはっきり見える、天守左側の赤い手摺りの「月見櫓」は、三代将軍家光公がおみえになるとの事で、時の城主であった松平直政公が平和な時期に増築させた櫓ですが、家光公は一度も来る事はなかったそうです。
真下から仰ぎ見る大天守はドスが効いて、戦の為のお城の迫力に圧倒されます!
大天守内の色々な展示物を見学しながら、急な階段を上りきった最上階の梁には、このような
なのだそうです。
天守群から出て、本丸内北側から天守群を眺めると
本丸内をなお東側に回って見た天守群です。
真東からの天守群、雲が面白かったのでシルエットみたいに絞って撮ってみました。
何時までも眺めていたかったです!
黒門から退出して、左側から撮ってみたのが下写真です。
黒門から出て更に左側に歩いて行くと、二の丸の玄関にあたる「太鼓門」があります。
平成11年に復元された門です。
二の丸内から見た太鼓門で、この渡り櫓が一の門で、桝形の外にある高麗門が二の門となっています。
上写真の左側の赤松の石垣上に「太鼓楼」がありました。ぜひその櫓も再建してほしいものです。
桝形内から二の丸を見た写真が下の写真です。
この後ろにあるのが、三の丸へ出る高麗門です。
また、この桝形内にある渡り櫓の石垣には「玄蕃石」と言う巨石があり、本当に大きいので目につきます。
先に書きましたが、此処は本来、門の脇に太鼓と鐘で時を知らせる櫓があったので、この名がつきました。
この門が破却された直後に此処から写された古写真が下の写真で
門や櫓などが取り払われていると、石垣の向こうに天守がまる見えになっています。
大八車の人を中心に、同じ場所から今の此処を撮ってみました。
やっぱり、こうでなくてはいけません!
二の丸内に戻って右側には、当時は「二の丸御殿」が建っていました。
その入り口にある「冠木門」です。
二の丸御殿は平面復元されていて、本当の復元がまたれます。
さらにその奥に、三の丸へ出る木橋が架かっています。
今、こうして国宝の松本城を見られるのは、
このお二人の尽力があったればこそ!なのですね!
最後に、在りし日の松本城の画を
おまけの一枚です。
本物のお城は、とにかくすばらしい!!
先日、足立区にある「西新井大師」(正式には、五智山遍照院總持寺と称する真言宗豊山派の寺院です。)に、かみさんと行ってきました。
江戸時代、幕府の御朱印寺として栄えたそうです。
特に、八代将軍吉宗公が鷹狩りの時に、此処で休息をとったところから御膳所となり、将軍家の尊崇する寺となりました。
上の写真は、門前通りの正面にある山門(江戸後期建立の入母屋造りで総檜材の楼門造り)です。
くぐってから見た山門は、
門内の両側には、かなり傷んでいますが金剛力士(仁王像)があり、楼上には見る事はできませんが、五智如来像が安置されているそうです。
山門をくぐってすぐ右側にあった石柱には
厄除け弘法大使と!
西の「川崎大師」に対して、東の「西新井大師」と呼ばれています。
左側には有名な「塩地蔵」があったのですが、真ん前で作業していらしたので撮らずにスルーしました。
その先には「六角観音堂」が
後ろ(右側)には、満開の八重桜とコデマリが
その脇の手水舎(ちょうずや)で身を清め
進むと、右側に「鐘楼堂」が建っています。
戻って正面にあるのが、
「大本堂」です。
江戸時代の本堂は、昭和41年に焼失してしまいましたが、昭和47年に再建されました。
この寺の創建は、天長年間(824~834)に干ばつ飢餓にくるしんでいたとき、弘法大師が立ち寄り、十一面観音菩薩と自身の像を刻み、悪疫除去を祈願しました。
すると、悪疫はなくなり、枯れていた井戸に大師像を投げ入れたところ、清水がこんこんと湧きだしたそうです。
本堂の西の井戸から新たに水が湧いたところから「西新井」の地名がつき、そこの大師(弘法様)堂となったそうです。
その井戸が、この「加持の井戸」です。
更にその左奥にあるのが、
都内には此処にしか残っていない三匝堂(さんそうどう)です。
「さざえ堂」とも云い、江戸時代に流行った仏堂形式のひとつで、内部が螺旋状になっている階段がありました。
以前行った会津の白虎隊のお墓の下にあった「さざえ堂」を思い出しました。
それから本堂にお参りして、また西側にある庭園を回りました。
四国行脚されているお姿の「弘法大師立像」です。
池に架かる石橋は「大願成就橋」です。
池の周りには色々なお堂があります。
引き返して
クーの好きな屋根の「不動堂」です。
関東三十六不動霊場の二十六番札所です。
それから本堂の東側に移動し、やはりクーの好みの建物の「書院」を撮りました。
いいですね~!
この建物の左の建物も気に入りました。
当寺はまた、「西の長谷寺、東の西新井」と呼ばれる花の寺なのです。
牡丹が有名なのですが、ちょっと早かったようで、ちらほら咲いている程度でしたので写しませんでした。
そのまま本堂の脇を通り裏門から駐車場へ向かいました。
今回行かなかった「宝照殿」と「東門」は次回撮りに行こうと思います。
今回は本丸の北口にあたる「北桔橋門(きたはねばしもん)」の2回目です。
上の写真は、下の明治4年頃に撮られた古写真とほぼ同じ位置(もう少し右側に行きたいのですが木々が生い茂っていて入って行けません)から撮った現在の姿です。
古写真では、門の右側の石垣上に「乾二重櫓(いぬいにじゅうやぐら)」がまだ建っています。
橋も木橋のままで、高麗門の中には石垣と櫓が桝形にガッチリ囲ってあり、現在のように高麗門をくぐったら正面に天守の石垣がまる見えと言う事はありませんでした。
写真でも見えているように、高麗門の左側には「北桔橋櫓門(きたはねばしやぐらもん)」が入城者を見張っていました。
それでは、現在の「北桔橋(きたはねばし)」を渡ってみましょう。
現在の橋は、おそらく鉄筋コンクリート造りになっていると思いますが、橋の向こうにある「高麗門」に行ったら門の下から梁を仰ぎ見てください。
江戸時代、木橋だった頃に敵が攻めよせて来た時、滑車で橋の途中から吊りあげて渡れないように橋を留めた金具が今もそのまま装備されています。
行った時には必ず見てくださいね!
それから本丸内に入りますが、古写真では・・・
写真の左側は「渡櫓門(わたりやぐらもん)」で、右側の侍達がいる建物は「岩岐多聞(がんぎたもん)」と言い、地下から水を汲み上げていたそうで、二本の木樋(もくひ)装置が斜めに櫓に掛けられています。
明治になったばかりの時に、この様な荒れ方なのは、幕末の江戸幕府には金銭的にも精神的にも、まったく余裕などなかった事が分かりますね!
古写真とほぼ同じ角度で現在の位置から撮ってみると
櫓どころか石垣さえも完全に撤去されてしまっていて、古写真が残っていなければ初めから此処には何もなかったと思ってしまいます。
この右には、何時見てもりっぱな天守台の石垣があります。
今度は、天守台から渡櫓門があった方角を見ます。
此処にあった石垣や櫓を思い描きながら、逆に高麗門を出ます。
出てすぐの橋の上から、左側の来た方角(乾門)の乾濠(いぬいぼり)を撮ってみました。
それから、橋の反対側の「平河濠」も撮ってみました。
此処からの石垣と平河濠の景色は、クーのお気に入りの一ヶ所になっています。
濠の正面奥の飛び出た石垣は、平河門の脇にある「不浄門」から竹橋門へつづいていた門のあった石垣です。
桔橋(はねばし)からつづく土橋を渡り、平河濠に沿って竹橋門跡方面へと歩いて行くと
こんな風に北桔橋門が見えます。
この場所の正面にある石垣が下写真で、これまたクーのお気に入りの景色なのです。
この台形のカーブを描いた高石垣は、何度見ても立ち止まって眺めてしまうのです。
この石垣上には五十三間多聞と右端に二重櫓も建っていました。
もう少し竹橋門跡近くに行った処からの、此の高石垣もまた良い景色なのですよ!
ね!お城してるでしょ!!
今回の地図はこれです。
江戸時代の空気を感じにお散歩がてら歩いてみませんか?
クーは、行くと1万歩前後歩くので、同じ門でも何度でも行ってしまいます。
また行こうっと!
昨日3月11日は、あの東日本大震災から4年目の日でした。
あらためて被災されて亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
図書館で見つけたこの本は、江戸時代に何度も襲ってきた大震災が、過ぎ去ったただの昔話ではなく、今もこれからも引き続き繰り返される天災なのだと言う事が良くわかります。
東北地方に大震災が起きた後、それほど年月を経ず東海から南海にかけて繰り返し同じような大災害が起こっています。
そして、東南海大地震の後に富士山などの火山が噴火しています。
日本列島の成り立ちから、江戸時代だけではなく現在も同じ事が繰り返されるでしょう!
そして、江戸直下型?いやいや、東京直下型(関東大震災級)も繰り返し起こっています。
江戸時代では、江戸城の石垣が何度も崩れ、大名屋敷も倒壊して人的被害も多数出たとあります。
どうやら我々も本当の「大震災」から逃れることはできないようで・・・・・・
一週間分の水と食料を置いておくスペースもない我が家では、どうしようか?
どうしたら 家族全員が生き抜けるのだろうか・・・・・!?
数年ぶりに、かみさんとイクスピアリでお買い物。
ウィンドウショッピングだけでも見飽きない。
やっぱりディズニー関係は、どこに行っても楽しくてウキウキしてしまう!