カーニバルの2週間前に、突然、脳の神経を襲われ、病で亡くなってしまった、カーリン。彼女の家は、サンパウロではなく、夜も遅いし、どのように行ったらいいのか検討もつきませんでした。しかし、カーリンに会いたい一心で、サントスFC応援団の幹部に頼み込んで、車に乗せていってもらうことになりました。
私たち家族が乗ったのは、団長の車でした。コワモテの団長で、サンバはしない人なので、ふだんは恐れ多くて話しかけられない人です。団長は、道中、幹部のメンバーと携帯で、お葬式の段取りを何度も相談していました。
お通夜の式場は、サウダージという名前の墓地に隣接する葬儀場でした。会場に着くと、カーリンのお父さんが立っているのが、すぐ目に入りました。私たちにとってはメストレ(打楽器隊指揮者)です。悲しみに耐えながら、平常心を装うとしているメストレにどう声をかけていいかわからず、「残念です」とだけ告げ、静かに抱き合いました。
式場には、ふだんクワドラ(練習場)で見る、カーリンの地元の友達がたくさん集まっていました。カーリンのお母さんは、ショックで具合が悪くなり、家で休んでいると聞き、愕然としました。
カーリンと対面するときが来ました。棺の中で白いバラに包まれて、眠っているカーリン。「アーキ!」とカーリンの叫び声が私の頭の中で響きました。2人でバテリアの前で踊っているとき、場所の交換に私が気がつかないでいると、よくカーリンが私の名前を呼んで教えてくれたものです。
今にもカーリンが、私を呼んでくれそうな気がしました。しかし、カーリンは動かず、足元は、いつも踊る前には、必ず挨拶をしていたサントスFC応援団の団旗で包まれていました。
式場の入口には、サントスFC応援団の花輪が4台も並び、「ウーチマ オメナージェン ダ トルシーダ ジョーベン ド サントス」(サントスFC応援団の最後の敬意)と花にたすきで記されていました。
サンバのメンバーとは、ふだん笑顔でしか接したことがなかったのに、この日は、みんな泣き崩れていました。こんなにつらいことは、ありません。
家に戻ったのは、午前5時でした。今日は、カーリンが埋葬される日です。式場を出るときは、カーリンに最後の別れを告げて来たつもりだったのですが、家に帰ると、やはり、カーリンを最後まで見届けたい、と思いました。
バスでの行き方を地図で調べ、仮眠をとりました。
私たち家族が乗ったのは、団長の車でした。コワモテの団長で、サンバはしない人なので、ふだんは恐れ多くて話しかけられない人です。団長は、道中、幹部のメンバーと携帯で、お葬式の段取りを何度も相談していました。
お通夜の式場は、サウダージという名前の墓地に隣接する葬儀場でした。会場に着くと、カーリンのお父さんが立っているのが、すぐ目に入りました。私たちにとってはメストレ(打楽器隊指揮者)です。悲しみに耐えながら、平常心を装うとしているメストレにどう声をかけていいかわからず、「残念です」とだけ告げ、静かに抱き合いました。
式場には、ふだんクワドラ(練習場)で見る、カーリンの地元の友達がたくさん集まっていました。カーリンのお母さんは、ショックで具合が悪くなり、家で休んでいると聞き、愕然としました。
カーリンと対面するときが来ました。棺の中で白いバラに包まれて、眠っているカーリン。「アーキ!」とカーリンの叫び声が私の頭の中で響きました。2人でバテリアの前で踊っているとき、場所の交換に私が気がつかないでいると、よくカーリンが私の名前を呼んで教えてくれたものです。
今にもカーリンが、私を呼んでくれそうな気がしました。しかし、カーリンは動かず、足元は、いつも踊る前には、必ず挨拶をしていたサントスFC応援団の団旗で包まれていました。
式場の入口には、サントスFC応援団の花輪が4台も並び、「ウーチマ オメナージェン ダ トルシーダ ジョーベン ド サントス」(サントスFC応援団の最後の敬意)と花にたすきで記されていました。
サンバのメンバーとは、ふだん笑顔でしか接したことがなかったのに、この日は、みんな泣き崩れていました。こんなにつらいことは、ありません。
家に戻ったのは、午前5時でした。今日は、カーリンが埋葬される日です。式場を出るときは、カーリンに最後の別れを告げて来たつもりだったのですが、家に帰ると、やはり、カーリンを最後まで見届けたい、と思いました。
バスでの行き方を地図で調べ、仮眠をとりました。