現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

山口瞳「血涙十番勝負」

2024-12-15 13:54:59 | 参考文献

 小説現代に連載されて、昭和47年に刊行された人気作家である著者と、当時の一流棋士との熱戦譜です。

 手合いは飛車落ちで、全編、棋譜と感想記が載っていて、対局の前後を筆者独特の自嘲的なユーモアで小説風に綴っています、

対戦相手は、以下の十人です(肩書は出版当時のもので、対局時は違う場合もあります)。

第一番 八段 二上達也 筆者の負け(以下同様に筆者側から見た勝敗です)

第二番 九段 山田道美 指し分け(当時対大山の第一人者と言われ、この棋戦の直後に急死されて、筆者の飛車落ち戦法「6五歩位取り」は、筆者と師匠の山口五段とこの山田戦の成果の合作といえます) 

第三番 二段 蛸島彰子 負け(当時の女流の最強棋士。まだ女流段位がない時代です。この棋戦だけ、手合いは平手です) 

第四番 八段 米長邦雄 勝ち

第五番 十段・棋聖 中原誠 負け

第六番 八段 芹沢博文 負け

第七番 六段 桐山清澄 負け

第八番 名人・王将・王位 大山康晴 負け

第九番 八段 原田泰夫 勝ち

第十番 五段 山口秀夫 勝ち(筆者の師匠なので、言ってみれば、飛車落ち戦の卒業試験のようなもので、筆者は見事に合格します)

筆者の三勝六敗一引き分けですが、当時学生名人と大山名人の記念対局が同じ手合いで勝率がもっと悪かったことを考えると、筆者の実力はアマチュアの五段はあるようです。

この十番勝負は、当時、経済的にも、社会的地位においても、現在と比べて恵まれていなかった将棋棋士の素晴らしさを世の中にひろめようとする筆者の熱意と、日本将棋連盟の全面協力と、講談社の経済的なバックアップがひとつになって実現した将棋ファンにとっては夢のような企画です。 

 今のようにAbemaTVなどで毎日のように将棋の熱戦が見られる時代とは違って、こうした活字媒体が有力棋士の素顔を知る数少ないチャンスだったのです。

 ここでは、大山五冠王(当時はタイトル戦は五つしかありませんでした)を初めとして、山田、二上のような強豪や、当時売りだし中だった中原、米長、そして女流棋士まで、幅広く網羅されています。

 今で言えば、藤井七冠に、渡辺九段、豊島九段、羽生九段などとの対局を想像してもらえば、そのすごさがわかっていただけるでしょう。

 

 

 

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ペーパームーン

2024-12-13 09:04:10 | 映画

 大恐慌後の禁酒法時代を背景にしたロードムービーです。
 母を事故で亡くした九歳の少女を、母親の知り合い(わずかだが少女の父親の可能性もある)の気のいい詐欺師が、親戚の家に送り届けるまでの珍道中が楽しいです。
 いろいろなオーソドックスな詐欺の手口が、オニール親子(実の親子です)の達者な演技(特にテータム・オニールはシャーリー・テンプル(戦前の天才子役)の再来と言われて、この映画でアカデミー助演女優賞を最年少で受賞しています)で、鮮やかに描かれています。
 ペーパームーンと言う題名は、実際には血のつながりを持たなくても一緒に過ごしていくうちに心のつながりを築いていくという意味で、少女が、裕福でやさしそうな叔母夫妻との生活よりも、根無し草のような詐欺師との暮らしを選ぶラストを暗示しています。
 子どもがたばこを吸うなど、今では許されないようなシーンもありますが、人と人のつながりを見事に描いた傑作ですし、児童文学を創作する上でも大いに参考になります。
 それしても、天才子役たちのその後は、洋の東西を問わず悲惨なことが多く、テイタムもその例にもれません。
 そんな子役たちを、ちやほやしながら搾取する大人たちの存在は許しがたいものがあります。

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神沢利子「くまの子ウーフ」

2024-12-12 13:04:27 | 作品論

 1969年6月に出版された幼年童話の古典です。
 私が読んだ本は1989年5月の87刷ですから、今ではゆうに100刷を超えていることでしょう。
 また、「ウーフ」はシリーズ化されていて、いろいろと形を変えて多数出版されています。
 他の記事で紹介したように、日本児童文学者協会では、1979年と1998年の二回、現代日本児童文学史上の重要な作品を100冊選んでいますが、その両方に選ばれている作品は35冊しかありません。
 この「くまの子ウーフ」はその中の一冊ですから、児童文学の世界では評価が定まっている作品といってもいいと思います。
 さらに2010年に出た「少年少女の名作案内 日本の文学 ファンタジー編」(その記事を参照してください)の50冊の中にも選ばれていますから、時代を超えた日本のファンタジーの定番と言ってもいいと思います。
 動物ファンタジーとしては擬人化度が高く、ウーフは両親と一緒にまるで人間のように暮らしています。
 しかし、毛皮とか、ハチミツ好きとか、クマならではの特性もうまく生かされています。
 対象読者と同じかやや幼く設定されているウーフが、9編(「さかなには なぜ したがない」、「ウーフは おしっこでできているか?」、「いざというときって、どんなとき?」、「キツツキの見つけた たから」、「ちょうちょだけに なぜ なくの」、「たからが ふえると いそがしい」、「おっことさないもの なんだ?」、「? ? ?」、「くま一ぴきぶんは ねずみ百ぴきぶんか」)からなるオムニバス風の作品に中で、いろいろな発見をする様子には、読者は感情移入して読んでいけるでしょう。
 でも、この本は単なるかわいいお話ではありません。
 それぞれの話の肝の所には、「生きるとは?」、「自分とは?」、「他者とは?」、「死とは?」といった、作者の深遠な人生哲学の問いかけがあって、大人の読者も思わずうならせられてしまう奥深い内容になっています。
 1998年発行の「児童文学の魅力 いま読む100冊―日本編」で、この本の作品論を書いている詩人の坂田寛夫によると、「北海道や樺太で育った神沢にとって、クマはいのちそのもの」とのことですから、それも当然のことかもしれません。
 児童文学研究者で作家の村中季衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、擬人化された物語の中に「私」が消えずにいる例として、「くまの子ウーフ」の中から「ちょうちょだけに なぜ なくの」をあげて説明しています。
 少し長いですが、この本の本質をよくとらえているので以下に引用します。
「青い羽から光が零れるような蝶にひかれて夢中で追いかけるウーフはあやまって蝶を潰してしまう。泣きながら蝶のお墓をつくったウーフに共感した友だちの(うさぎの)ミミがドロップをお供えする。
 そこへきつねのツネタが(註:作品中でリアリストとしてキャラクター設定されています)やってきて「へんなウーフ、さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけどうしてかわいそうなの。おかしいや。」という。
 ウーフは答えることができずに「うー、うーっ。」という。
 作者は、何も語らない。手を出さない。ウーフたちの論理とその葛藤を、じっと見つめている。
<中略>
 神沢利子は大人である。そしてもちろんウーフではない。だからウーフにじっと寄り添ってみる。ウーフがどんな行動に出るのか、どこで悩むのか、じっと待つことができる。目を凝らすことができる。
<中略>
 「私」がいる物語とは、つまるところ、他者の生命の連続性を見守ることのできる物語なのかもしれない。そこには必ず発見があり、喜びがあり、ひとりずつの、これまで大人たちが啓蒙的に使ってきたのとは違う意味の「成長」があると私は信じる。」
 私もこの村中の意見に全く同感です。

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大石真「教室205号」

2024-12-11 09:26:38 | 作品論

 現代児童文学のタブー(子どもの死、離婚、家出、性など)とされていたものを描いた先駆的な作品といわれています。
 1969年に出版されたのですが、その前に坪田譲治が主宰した同人誌の「びわの実学校」に連載されていたので、60年代半ばの子どもたちを描いた物と思われます。
 登場する子どもの死や家出以外にも、障害者、貧困、受験競争など、子どもたちを取り巻く様々な問題点を取り上げています。
 シリアスな題材なのに少しも暗くならずに力強く描いている点が、特に優れた点です。
 私の読んだ本は1992年で33刷ですから、読者にも長く支持されていたのだと思います。
 しかし、売れ筋作品最優先の現在の出版状況では、このような作品を出版することは困難でしょう。


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小沢正「目をさませトラゴロウ」目をさませトラゴロウ所収

2024-12-10 09:27:43 | 作品論

 この短編集の表題作です。
 中編といってもいいぐらいの長さがあり、他の短編と違ってかなり風刺性が強く、幼い読者にはやや難しいかもしれません。
 トラゴロウ(実はサーカスのトラであるトラノスケ)を眠らせて、薬に使えるというトラの胆をとろうとする医者や猟師夫婦、さらにはサーカスの団長たちを相手に、トラゴロウをはじめとした森の動物たちとサーカスの動物たちが団結して戦います。
 悪い人間(大人)たちによって、檻(学校?)に入れられたり、搾取されたりしている動物(子ども)たちに、目をさまして戦おうと呼びかけ、最期は動物(子ども)たちの勝利に終わります。
 作者があとがきに述べているとおりに、作者の「ものの見かた・考えかた」が、この作品では特に色濃く表れています。
 その背景については、他の幾つかの記事に詳しく述べているのでここでは触れませんが、作中の「トラゴロウの目をさますうた」や「まちが かわる日のうた(他の記事に全文を引用しています)」の覚醒と連帯を求める痛切な響きは、現在の困難な状況(格差社会、貧困、差別、いじめ、ネグレクト、学校や親の過剰な管理、孤独など)にある子どもたちにとっても力になるものだと思います。
 作者があとがきに述べている「人間の成長とは、その人間のいまだ歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展にほかならない」という主張は、児童文学に携わるすべての人間が自覚していなければならないことですが、現在の商業主義に偏った出版状況の中では、「歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展」に資する作品のどんなに少ないかを嘆かなければなりません。

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大野裕「はじめての認知療法」

2024-12-09 08:52:19 | 参考文献

 うつや不安などに有効な治療法(薬物療法と同等またはそれ以上に有効で、薬物療法との併用も可能)である認知療法(最近使われているこの言い方は認知症の治療法だと勘違いされるので、本来の「認知行動療法」を使う方が好ましいと思われます)を、この分野の日本における第一人者である筆者が、やさしく解説しています。
 認知療法が何かから始まって、活動記録表、問題リスト、問題解決技法、注意転換法、腹式呼吸、漸進的筋弛緩法、アサーション、コラム法、スキーマなどの、有効なツールや概念が紹介されています。
 特に、コラム法と問題解決技法は、患者だけでなく一般の人にも有効なツールなので、身に着けると確実に生活の質を改善できます。
 これらを身に着けるには、同じ筆者の「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(その記事を参照してください)の方が使い易いでしょう。
 ただし、問題解決技法とコラム法を結びつけるために、「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(2003年発行)の「七つのコラム」に対して、「はじめての認知療法」(2011年発行)の「コラム法」は、八番目のコラム(「残された課題」)が追加されていて、改善されています。

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こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
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森忠明「少年時代の画集」少年時代の画集所収

2024-12-08 10:09:59 | 作品論

 ぼくのおばあちゃんは、ガンで病院に入院しています。
 おばあちゃんが入院する前、家を建て直すために物置小屋を片づけていたおとうさんが、古いスケッチブックを発見します。
 今から三十年以上前のぼくと同じ小学校五、六年生だったころのおとうさんが、クレヨンで描いた数々の絵が画集に載っています。
 そこには、若いころのおばあちゃんがざぶとんで作ったサンドバッグの前で、ボクシングのポーズをとるおとうさんを描いた絵もありました。
 おばあちゃんがなくなり、おばあちゃんの遺体は、そこで暮らすはずだったできたてほやほやの隠居部屋に安置されます。
 おばあちゃんがお骨になって帰ってきた後の親戚だけの会で、おとうさんは十三歳も年上の義理のおにいさんをめちゃくちゃになぐりつけます。
 おじさんが、死んだおばあちゃんが臭かったと、不用意に言ったからです。
 ざぶとんのサンドバッグを前に美しいファイティングポーズをとっていた少年が、おとなになってからは弱い者に馬のりになってでたらめなパンチをあびせています。
 その姿を見て以来、ぼくはおとうさんのにこやかな顔や優しい言葉が信じられなくなります。
 自由画の時間に、ぼくはおばあちゃんの死に顔を描きます。
 しかし、図工の先生に、「おばあちゃんの昼寝顔にのどぼとけがあるのはおかしい」と、指摘されてしまいます。
 実際には、おばあちゃんののどには、死ぬ直前に男の人ののどぼとけのようなとんがりが出てきたのです。
「先生の大事な人が遠くのどこかへ旅立つ日、先生はぼくの絵がうそではないことに気づいてくれるのだろう」と、ぼくは思いました。
 1985年12月12日に発行された「少年時代の画集」の表題作です。
 「少年時代の画集」は、多感な子どもの目に映る世界を様々なタッチで描いた短編集です。
 この表題作は、この本以外にもいろいろなアンソロジーにも収められている、森忠明の短編の代表作です。
 他の作品と同様に、作者の実体験に基づいた独特の視点で、病的までに鋭い少年の感受性と、それに伴う大人たちへの不信感が鮮やかに描かれています。
 ただ、この作品では、おとうさんや先生に対する批判の描き方が、主人公の少年そのものの見方というよりは、大人になった作者の視点も一緒に表れてしまっているようで気になりました。
 おそらく、子どもの時にそのようなことを感じたことは事実なのでしょう。
 でも、この作品では、描き方が少し大人目線が含まれてしまっているような感じがします。
 それは、「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)や「花をくわえてどこへゆく」(その記事を参照してください)の主人公たちが、実際に行動として大人世界への拒否感を表したのに対して、この作品ではたんに批判的な視線をおくるだけなので、どこかシニカルな印象を読者に与えてしまうためだと思います。
 森忠明の一連の作品は、このあたりから質的な変化を遂げていきます。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
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森忠明「ふたりのバッハ」少年時代の画集所収

2024-12-07 09:21:20 | 作品論

 小学校の卒業アルバムに、森少年は六年三組のみんなとはべつの丸の中に写っています。
 しかも、お岩さんのように左のほっぺたにあざができています。
 顔面にデッドボールを受けて、学校を休んでいる間に記念撮影があり、森少年だけが自宅で撮影されたからです。
 しかし、デッドボール事件にもいいこともありました。
 保健室で、貧血で隣のベッド休んでいた同じクラスの水町玲子さんと知り合うことができたのです。
 もともと二人は、同じ「つくし」というあだ名がある関係でした。
 二人が休んでいる保健室には、バッハの美しい旋律が流れていました。
 男の子と女の子の淡い恋の想い出を、バッハの旋律、俳句、手紙といった、今の読者からすると本当に古風な小道具を使って描いています。
 森の大きな特長である子どものころの記憶の恐ろしく精密なディテールが、この作品でもいきています。
 「少年時代の画集」の記事で指摘したように、この短編集あたりから森作品はかなり変質してきています。
 現在を生きる子どもたちを描くよりも、過去の自分の少年時代を懐かしむ大人の森の視線がチラチラと現れ始めてきました。
 このノスタルジックな雰囲気は、その後の作品ではさらに顕著になっていきます。
 それにつれて、森作品は、現実に今を生きる子どもたちから離れていってしまったようです。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
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斎藤隆介作/滝平二郎画「八郎」

2024-12-05 09:02:28 | 作品論

 

 

 1967年発行の創作絵本の古典です。
 農民のために海を静かにさせた伝説の山男の姿を通して、民衆のエネルギーや人のために成長する姿を描いたとして、「現代児童文学」の代表作のひとつとされています。
 方言をいかした斎藤の文章と力強い滝平の切り絵が作品の持つエネルギーを巧みに表現しています。

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モスラ対ゴジラ

2024-12-04 09:10:36 | 映画

 1964年に作られた東宝の怪獣映画です。
 2014年は、1954年の作られた「ゴジラ」の60周年ということで、盛んに古い怪獣映画がテレビでも上映されました。
 この映画は、ゴジラシリーズでは第4作目で、先行して1961年に作られた「モスラ」と対決することになります。
 これは、第3作の「キングコング対ゴジラ」が好評だったのですが、キングコングはアメリカ産の怪獣だったので、東宝の自前の人気怪獣であるモスラと戦わせることにしたのでしょう。
 「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などの怪獣が単独で登場する初期の映画では、「核実験反対」「公害問題」「先住民問題」などの社会批判が作品に込められていましたが、対決シリーズになってからは、「人類の敵」ゴジラ対「人類の味方」モスラといった単純な構図になってしまい、娯楽色がさらに強くなりました。
 それでも、この映画のころまでは、ラストシーンなどに「より良い社会を作っていかなければならない」などの理想主義的なセリフがスローガンのように付け加えられていましたが、やがてそれもすっかりなくなりました。
 「現代児童文学」も同様ですが、当初は「社会の変革」などの意志を持って出発したどんなジャンルも、次第に商業主義に負けて娯楽色を前面に出していき、ついには陳腐なものに成り下がるようです。

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