現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

庄野潤三「カーソルと獅子座の流星群」絵合わせ所収

2020-11-30 17:22:28 | 参考文献

 「文学界」昭和46年3月号に掲載されて、短編集「絵合わせ」に収められました。

 この作品の構成は、以下の通りです。

一 中学三年生の良二が、獅子座の流星群を見に夜中に家を出た話

二 作者が軍隊で使っていて、子どもたち(結婚して家を出た長女も含めて)が代々使った計算尺のカーソルが壊れていたので作り直す話。

三 計算尺のカーソルを改良する話

四 良二が、これも壊れた望遠鏡を持ち出して土星を見た話

 作品は、良二を中心に浪人生の兄の明夫も出てきます。

 しかし、長女の和子も含めて五人家族だったのが、四人になった寂しさは隠せません。

 この話は、表題作で巻末の作品である「絵合わせ」への通奏低音のような働きをしています。

 

 

 

 

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庄野潤三「戸外の祈り」絵合わせ所収

2020-11-30 17:07:21 | 参考文献

「婦人の友」昭和44年5月号に掲載され、短編集「小えびの群れ」に収められました。

 この短編の構成は、以下の通りです。

一 子供部屋における中学二年の良二と高校三年生の明夫のやり取り。

二 月のまわりに白い大きな輪を見つけて、高校を卒業して勤めている(?)姉の和子も含めた兄弟三人がお祈りする話。

三 良二がテレビで見た海鳥の親子の話。

四 「ざんねん」(いくらでも食べたいのに、お腹がいっぱいになって食べられなくなってしまうから)と呼んでいる豚肉の水炊きの残りで作る雑炊とその時の兄弟のやり取り。

五 不思議な経験についての明夫の話

 この作品でも、仲の良い三人兄弟の姿が、随所に浮かび上がってきます。

 しっかりものの一番上の姉、元気いっぱいで弟にちょっかいを出す兄、おっとりしている弟の個性がかみ合って、絶妙なハーモニーを奏でます。

 

 

 

 

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長嶋有「猛スピードで母は」猛スピードで母は所収

2020-11-29 13:51:49 | 参考文献

 「文学界」2001年11月号に掲載されて、翌年芥川賞を受賞しました。

 男勝りの母親と二人暮らしをしている男の子の成長物語です。

 いじめ、母親の失恋、祖母の死、祖父の病気などを通して、母親に主張できなかった少年が、次第に母親から自立します。

 成長物語という点では、一種の児童文学とも考えられます。

 「サイドカーに犬」の記事に書いたように、所々で、大人である作者の視点が主人公の男の子に混在しているのが気になりますが、回想物語でなく、男の子のリアルタイムな物語なので、ある程度セーブされています。

 主人公も、その母親も、作者が愛情を持って魅力的に書けているのが、この作品の一番良いところでしょう。

 

 

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池澤夏樹「ヤー・チャイカ」

2020-11-28 14:10:26 | 参考文献

 「スティル・ライフ」(その記事を参照してください)が芥川賞を受賞して、1988年2月に単行本化された時に、その抱き合わせで掲載された作品です。

 技術系の会社員とその娘の高校生の二人暮らしの様子を縦軸に、彼に接近してきた怪しいロシア人(KGB?ソ連崩壊前の話です)との交流を横軸にして話が進みます。

 淡々とした語り口は安定していますが、小説としての出来栄えは今ひとつです。

 特に、所々に挿入されている、娘が草食恐竜を飼うという妄想(?)部分が、全体に有機的な効果を発揮していません。

 

 

 

 

 

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池澤夏樹「スティル・ライフ」

2020-11-28 13:57:38 | 参考文献

 1987年に中央公論新人賞を受賞し、翌年芥川賞も受賞した短編です。
 英語の表題を直訳すると「静物画」ですが、作品の内容を見ると「静かな生活」とでも訳すべきでしょうか。
 同名の大江健三郎の小説(その記事を参照してください)もありますが、この作品では、パソコンを使った株取引でお金を稼いで、人とは交わらず、家財も持たずに、各地を転々として暮らしている奇妙な友人との同居生活(主人公も株取引を手伝います)を描いています。
 男性同士の同居生活といっても、巨大な住居(主人公の叔父の持ち家です)で、今の言葉で言えばソーシャル・ディスタンスを十分すぎるくらい保った、同性愛的要素はまったくない関係です。
 というよりは、異性愛も含めて、性的には全く漂白された生活が描かれています。
 他の記事にも書きましたが、私自身はソリタリー気質なので、こうした生活には常に憧れがあり、現在はそれに近い生活をしていますが、妻や子どもたちやごく親しい友人との関係は保っています。
 それに対して、この作品で描かれている世界は、あまりに淡白で無機質な感じを受けてしまい、どこかに破綻を予感させる危うさを秘めています。
 作者はその後も安定した文学活動(創作だけでなく)を続けていますので、作者自身の生活は、おそらくこれとはかなり違ったものなのでしょう。


 

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ダイ・ハード3

2020-11-27 20:22:04 | 映画

 1995年に公開された、人気アクション映画シリーズの第3作です。
 季節もクリスマスではないし、主演のブルース・ウィルス(髪が薄くなり始めています)以外の出演者も違うので、かなり雰囲気は変わっています(ただし、監督は第1作と同じです)。
 この作品では、主人公は警察の一員(ただし、事件が起こったときには停職中でしたが)として活動するので、前二作の権力者への批判は影を潜め、たんなるテロリストとの戦いになっています。
 また、妻も事件には巻き込まれていない(電話でしか登場しない)ので、彼の活躍の最大の原動力であった彼女への愛情も関係なく、彼がここまで体をはってテロリストと戦うモチベーションには説得力はありません。
 そうしたストーリー上の弱さを補うようにして、「Simon Saids」(サイモン云わく)で始まる犯人の謎掛けと、それを主人公と相棒の黒人の民間人が必死で解くという味付けがなされています。
 この「Simon Saids」は、日本人には馴染みがないのですが、アメリカ人などには定番の言葉(誰かの支持に他の人たちが従がう遊びなどに使われます)ですし、謎掛けにはやはり欧米人には馴染みのあるマザー・グースのパロディや昔のアメリカ大統領の名前などが使われています。
 でも、「Simon Saids」と聞くと、私などのオールド洋楽(死語ですね)ファンは、1967年に発売された1910フルーツガム・カンパニーのこの題名の曲の軽快なメロディが浮かんできてしまいます。
 話が脱線しますが、この曲を皮切りにその頃はやった内容はないがノリのいい音楽は、バブルガム・ミュージックと呼ばれました(他に私が好きだったのは、オーシャンの「サインはピース」やエジソン・ライトハウスの「涙のハプニング」などです)。
 こうした曲の音源はディジタルにエンコードしてあるので今でもたまに聴いていますが、現在ではそんなことをわざわざしないでもYouTubeで簡単に聴くことができます。

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庄野潤三「野菜の包み」絵合わせ所収

2020-11-24 17:36:33 | 参考文献

「群像」昭和45年4月号に掲載されて、短編集「小えびの群れ」に収められた短編です。

 数年前に、ねずみを台所に閉じ込めたことを書いたノートをもとに、その時のことを思い出しています。

 といっても、それは全体の枠組みにすぎず、そこから連想される以下のような様々な事柄を描き出していきます。

・童話「ハメルンの笛吹き」

・中学二年の下の息子の笛の練習がはかなく聞こえること

・17世紀のオランダの銅版画「ねずみ捕りの男」

・小さいころに父親(帝塚山学院の創始者です)に海外旅行土産にもらったドイツの漫画(老夫婦を相手にねずみが大暴れします)

・下の息子が小学六年の時に習った唱歌「三びきのねずみ」

こうした時代も場所も違う作者の思い出を有機的に結び付けて、ひとつの優れた文学作品を紡ぎ出しています。

 

 

 

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翌朝のハチ

2020-11-24 15:37:05 | 作品

「へい。パス、パス」
 浩二からのタイミングのよいパスをうけると、良平は相手のディフェンスをかわして、ジャンプシュートした。
 ザンッ。
 気もちのいい音をたてて、ボールはゴールネットにすいこまれた。
「ナイスシュー!」
 両手をあげて喜んでいる浩二のてのひらに、バチンとハイタッチ。
 ここのところ放課後に、良平たちは3オン3(ひとつのゴールだけを使って、三人対三人でやるバスケットボールのゲーム)をやっている。
 といっても、本物のコートがあるわけではない。バスケがブームだったはるか昔に、当時の高校生たちが公園の街灯にゴールをとりつけたのだった。ネットなんかとうになくなっていたが、リングだけはしっかり残っていた。そこに、みんなで金を出し合ってスポーツ用品店で買ってきたネットを取り付けると、新品同様のゴールが出来上がった。
でも、良平たちがいつもやっている小学生のミニバスケットよりも、ゴールの位置が高いので、なかなかシュートがきまらない。それにバックボードがないので、リングに直接入れる、いわゆるスプラッシュシュート(ボールが入ったはずみに、ネットが水しぶきのように跳ね返るのでそう呼ばれている)しか入らなかった。
「ちぇっ、8対12か」
 十メートルぐらいはなれた所から、こんどは相手チームの攻撃開始だ。
「良平、そっちそっち」
 浩二の指示で、良平は大きく両手をひろげて、相手のシュートをふせぎにいった。たくみに相手に体を寄せて、しだいに外側へおいこんでいく。
 苦しまぎれにはなったシュートが、リングにあたってはずれ、浩二がジャンプしてつかんだ。
「よしっ、こっちボールね」
 3オン3では、守備側がボールをうばうと攻守交代になる。
「白井くーん。がんばってえ」
 公園の向こう側で、バドミントンをやっていた五、六人の女の子たちが、いっせいに声をそろえて浩二に声援をおくった。
「おおっ、まかしとけって」
 両手でVサインをして、浩二は攻撃開始の位置へもどっていく。
「良ちゃんも、がんばってえ」
 女の子たちの中から、わざわざ前に出てきて、良平にも声援をおくった子がいた。
美津代だ。バドミントンのラケットを大きく振っている。
 でも、良平は浩二とは対照的に、てれくさそうに他の子のかげにかくれてしまった。
「ヒュー、ヒュー」
 浩二が、からかうように口笛をふいた。
(ちぇっ、美津代のやつったら)
 良平と美津代は、幼稚園以来の幼なじみだ。
 いや、かあさんの話によると、まだヨチヨチ歩きのときに、二人ともバギーにのせられて公園で出会ったのが最初だという。
そのせいか、美津代は良平に対していやになれなれしい。

「ふーっ、うめえ」
 500ミリリットルボトルのコーラを、浩二は一気に半分以上飲みほした。そのとなりで、良平はアイスを口いっぱいにほおばっている。たっぷりバスケをやってから、そばのコンビニで買い食いするのが、すっかり習慣になっていた。
「あさっての大会、絶対に勝とうぜ」
 浩二が、今度は少しまじめな顔をしていった。
 二人がはいっているミニバスケットのチーム「若葉ランニングファイブ」は、春の郡大会では決勝で敗れて、おしくも優勝をのがしていた。それ以来、秋季大会での優勝をめざして練習してきた。
「あーあ、いけないんだあ。良ちゃんたちったら、買い食いなんかしちゃって。先生にいってやろう」
 向かいの文房具屋から出てきた美津代たちに、また見つかってしまった。
「うるせえなあ」
 良平は、あわてたようにそっぽをむいた。
「アイス一個ずつで、買収されてやってもいいよお」
 美津代がちゃっかりいったので、ほかの女の子たちはクスクスわらっている。
「それよりさあ。おれたち、あさって、広川小の体育館で試合なんだ。応援にきてくれよな」
 浩二が、タイミングよく話題をかえてくれた。
「うん。いくいく」
 女の子たちが、声をそろえるようにしていった。 
「絶対、応援にいくよ。みんなでおそろいのピンクのポンポン作って、はでに応援しちゃう。でも、白井くんはいいとしても、良ちゃんは試合に出られるのお?」
 美津代がからかうような表情で、良平の顔をのぞきこんできた。

「ただいま」
 二階にある祖父母の家の玄関につながる外階段の下に、自転車をつっこむと、そばにいたとうさんに声をかけた。とうさんは、外階段が折り返しになっているおどり場で、何かをながめていた。
「良平、ちょっと来てごらん」
 とうさんが、声をひそめて手まねきしている。
「なーに?」
 とうさんが指さす方を見ると、外階段の一番上のところにハチが一匹いた。黒と黄色の縞模様の大きなハチだ。ハチは羽をふるわせて、空中の一個所に浮かんでいる。しばらくすると、外階段の手すりにとまり、家の外壁とのすきまにはいっていった。
 それと入れ替わるようにして、庭の方からもう一匹が飛んできた。同じように空中でしばらくホバリングした後で、やはり手すりの上からすきまにもぐりこんでいく。どうやら、外階段と家の外壁との間に、ハチが巣を作ってしまったようだ。
 良平はとうさんとならんで、ハチがもぐりこんだあたりをじーっとながめていた。
 しばらくすると、中からハチがいっぺんに二匹出てきた。しばらく、手すりの上で様子をうかがうようにしてから、飛び立っていく。
「あれじゃ、入り口が狭くって、とても巣はとりのぞけそうにないな。下からバルサンでもたかなきゃだめかな」
 良平が見ても、手すりと家の外壁との隙間は1、2センチしかない。
でも、きっと下の方にはもっと大きな空洞が、巣を作れるように広がっているのだろう。
 ブン。
いきなり、耳もとで大きな羽音がした。
「良平、動くな。はらうとかえって刺されるぞ」
 思わず手ではらおうとした良平を、とうさんがあわててとめた。
 間近に見るハチは、びっくりするほど大きかった。胴体だけで3、4センチはあるように見える。これに刺されたら、本当に大変なことになりそうだ
 良平ががまんしてじっとしていると、ハチはやがて巣へ戻っていった。
 その後も、ハチはひっきりなしにすきまから出入りをくりかえしていた。巣の中にいるのは、とても二、三匹だけとは思えない。いつのまにか、かなり大きな巣を作ってしまったようだ。
 ハチは巣から出てくると、いつも物置の方へ飛んでいく。そのそばには、竹ぼうきを逆さに立てたような形のムクゲの木がある。白い花がちょうど満開で、まるで大きな白いたいまつのようだった。どうやらハチは、ムクゲの花と巣の間を往復しているようだ。
 でも、ハチはミツを集めているのではないようだ。そのまわりを飛び回っているだけだ。
「早く退治しなけりゃなあ」
 とうさんは、じっくりとハチを観察してからいった。
「なんだか、かわいそうだなあ。ほっときゃ、いいんじゃないの?」
 良平がそういうと、
「だめだよ。あいつらはスズメバチなんだから。凶暴で毒もすごく強いから、年よりや小さな子が刺されたら、とんでもないことになる。肉食だから、ああしてムクゲの花に集まってくる他の虫を狩りしているんだ。」
 とうさんは、いつになく真剣な顔をしていた。
 たしかに、良平の家にはおじいちゃんとおばあちゃんもいるし、弟の孝司はまだ一年生だ。
 そういえば、この前、庭仕事をしていたおじいちゃんが、
「今年はいやにハチが多いなあ」
って、いってたっけ。
「それに、ハチ毒アレルギーも怖いし」
「何? ハチ毒アレルギーって?」
「一度刺された人がハチの毒のアレルギーになると、二度目に刺されたときショック症状を起こすんだ」
「それって、危険なの?」
「ああ。死ぬこともあるんだってよ」
「へーっ、怖いんだなあ」
 良平はあらためて、巣の近くでホバリングしているハチをながめた。

「浩二、もっとみんなに声を出させろよお」
 長崎コーチの声が、体育館にひびきわたった。女性のコーチだけれど、体育大学の現役学生のせいか、すごく元気がいい。
「ナイスシュー」
「元気出していこうぜ」
 みんなのかけ声が、あわてたように大きくなった。
キャプテンの浩二を先頭にして、大きな二つの輪を作るようにしてまわりながら、リターンパスとランニングシュートの練習をしている。
「じゃあ、明日のスターティングファイブね。センターは慎一、フォワードは雄太と達樹。そして、ガードは浩二と良平ね」
 ウォーミングアップが終わると、長崎コーチはまわりにみんなを集めていった。
 となりの浩二が、ニヤッとわらいかけてくる。良平も、ボールをチェストパス(胸の前からまっすぐ投げるパス)をするしぐさでこたえた。最近は、この二人のガードが、ランニングファイブを引っ張っている。シュートをうって得点を入れるポジションであるシューティングガードの浩二、パスまわしの中心になってゲームを組み立てるポイントガードの良平。なかなかいいコンビだった。
「でも、ゲーム中、いつものようにどんどんメンバーを変えていくからね。他のみんなも、五人に頼らないでがんばるんだよ」
 長崎コーチはノートを閉じると、他のメンバーにもハッパをかけた。
「よし、いくぞお!」
 浩二の号令のもと、ランニングファイブの練習が再開された。

 その日の夕方、良平が弟の孝司とゲームをやっていると、
「おーい。だれか、これを着るの、手伝ってくれえ!」
 玄関から、とうさんの呼ぶ声がした。二人がそのままゲームを続けていると、何度でも呼んでいる。かあさんは、買物にでもいっているのかもしれない。
「えー、なあに?」
 ようやく二人で出ていくと、とうさんはダンボール箱の中から、銀色に光るコートのような物を取り出していた。ぶ厚い生地でできていて、まるで消防士の防火服か何かのようだ。そばには、同じ色のヘルメットと手袋も置いてある。ヘルメットの顔の部分は、細かい金属の網がついていた。
「何、これ?」
 良平が、手袋をつまみあげた。孝司は、ぶかぶかのヘルメットを頭にかぶっている。
「防護服っていうんだってさ。スズメバチを駆除するっていったら、町役場で貸してくれたんだ」
「今からやるの? もう、外は暗くなってるよ」
「うん、暗い方がいいんだ。ハチは、夜は活動しないんだって。それに、巣にぜんぶ戻ってるから、一網打尽にできるし」
「ふーん」
「下からバルサンをたいて、上からは殺虫剤をまけば、きっと逃げ場がないだろう」
 上下つなぎになっている服を何とか着こんだとうさんに、二人がかりでヘルメットをかぶせ、手袋もはめさせた。
「うわーっ、かっこいい!」
 テレビのヒーロー物を熱心に見ている孝司が、うらやましそうに叫んだ。
「そうかあ?」
 とうさんも、まんざらでもないような声を出している。
 ヘルメットも手袋も、防護服にジッパーで取り付けるようになっているから、さすがのスズメバチもこれなら入りこめそうにない。
「良平、玄関、あけてくれ。それから、いいっていうまでは、絶対、外へ出てくるなよ」
 とうさんは、最後になんとかブーツをはくと、右手に大きな殺虫剤、左手に懐中電灯を持って、玄関から外へ出て行った。
「おとうさん、がんばって」
 声援を送る孝司に軽く手を上げて、さっそうと出ていった。
 と、いいたいところだけど、歩きにくいのか、なんだかヨチヨチしている。これじゃあ、正義のヒーローというよりは、せいぜいまぬけな宇宙飛行士ってところだ。良平はふきだしそうになるのを、けんめいにこらえていた。
 とうさんを送り出すと、
(どうする?)
って顔で、孝司がこちらを見た。
 良平はコクンとうなずくと、すばやくダッシュした。二階の祖父母の家へは、外階段だけでなく玄関わきの内階段でもつながっている。
「ずるい、良ちゃん。待ってえー」
 うしろから、半分泣き声をあげながら孝司が追いかけてくる。
 二階の玄関の出窓から、二人で重なるようにして外をのぞいた。そこからだと、外階段がよく見える。
 とうさんは、階段の下にでもいるのか、まだ姿が見えなかった。
 二人はなんとか下をのぞきこもうとして、窓ガラスに顔をおしつけた。鼻がつぶされてしまって、外から見たら二匹のコブタみたいな顔になっていたかもしれない。
 やがて、下の方から白い煙がたちのぼってきた。バルサンをたきはじめたのだろう。煙は外階段をつつみこむようにしてあがってくる。外階段と家の壁とのすきまからも、しだいに煙があふれて出てきた。
 しばらくして、とうさんが階段をあがってきた。銀色のヘルメットをかぶり防護服を着たまぬけな宇宙飛行士は、一歩一歩、やっとバランスをとりながら外階段の一番上にたどりついた。そして、ハチがもぐりこんでいたあたりを、懐中電灯で照らしている。
 そこからいつハチが出てくるかと思って、良平はドキドキしてしまった。
 でも、すっかりねむってしまっているのか、ハチは一匹もあらわれない。とうさんは出入口と思われるところにノズルをつっこんで、殺虫剤をまきはじめた。
 それでも、ハチはなかなか姿をみせなかった。
「下にも、ハチの出入口があるのかなあ」
 良平がそういうと、今度は孝司がすばやく先に立ってダッシュした。良平もすぐに後に続く。
 下の玄関脇の部屋の窓から、また二人で押し合いへしあいしながらのぞいた。
 でも、バルサンの煙が立ち込めているだけで、やっぱりハチの姿は見えない。
 と、そのとき、いきなりスーッと黒いものが上から落ちてきた。
 つづいて、もうひとつ。それは、窓わくに落ちた。
 ハチだ。ハチが巣から落ちてきたのだ。まだ、羽をかすかにふるわせている。
 それからは、まるで大つぶの雨のように、ハチがどんどん落ちてきた。あまりにたくさん落ちてくるので、はじめは「おーっ」とか、「すげえ」っていっていた二人も、しだいにだまってしまった。
 窓わくや階段下にとめてある二人の自転車のカバーの上に、びっくりするほどたくさんのハチが落ちている。
 かなりいるような気がしていたものの、こんなにたくさんのハチがあの狭いすきまの下にひそんでいたとは思わなかった。
 とうさんの殺虫剤や、バルサンの煙にやられたのだろう。みんな、もう死んで動かなくなっている。死んだスズメバチは、飛んでいたときとは違って、ずいぶん小さくなって2センチぐらいしかないように見える。丸くちぢこまって、まるで違う生き物のようだった。
「なんだか、かわいそうな気がするなあ」
 孝司が、いつかの良平のようにつぶやいていた。

 郡の秋季大会には、全部で十八チームが参加していた。会場の広川小には、朝早くから各チームのメンバーや応援の人たちが集まってきていた。
 ピーー。
センターサークルでのジャンプボールで、川原イーグルスとの一回戦が始まった。
「ナイス、慎一」
 コートサイドから、長崎コーチの声がひびく。チームで一番のっぽの慎一がけんめいにのばした指先でタップしたボールが、うまく浩二の手にわたっていた。浩二はすばやいドリブルで敵陣を突進すると、右サイドの良平にパス。良平はゴール下で待つ達樹にパスするとみせかけて、すばやく浩二にリターンパスした。
「シュート!」
 長崎コーチの声に合わせるように、浩二がジャンプシュート。ボールはきれいな放物線を描くと、バックボードにも、リングにもふれずに、スポッとゴールに入った。ゴールのネットが水しぶきのように跳ね返る。スプラッシュゴールだ。
「やったあ!」
 ランニングファイブの応援席は、早くも大騒ぎだ。その中には、良平のとうさんやかあさんもいる。
「おにいちゃん、がんばれえ」
 孝司の声も聞こえてきた。
応援席の前では、美津代たち、四、五人の女の子たちが、チアガールが使うようなピンクのポンポンを本当に持ってきていて、うれしそうに飛び跳ねている。
 こうして第一試合は、ランニングファイブのペースでスタートした。
 けっきょく一回戦は、26対11で快勝した。ランニングファイブの調子は上々だ。みんな、練習どおりにいきいきと動けている。

 短い休憩をはさんで、すぐに二回戦が行われる。対戦相手は串野ブルズ。
 良平たち、先発の五人が、コートに出てきた。
「フレフレ、ランファイ。がんばれ、がんばれ、ランファイ」
 観客席の声援も、一段と熱が入っている。美津代たちチアガールも、そろいの振り付けで応援してくれている。
「白井くーん、がんばってー」
 黄色い声の声援に、浩二が手をあげてこたえている。
「良ちゃーん、ファイトー」
 美津代の声も聞こえてきた。
 良平はのっぽの慎一の陰に隠れて、聞こえないふりをした。
 ピーー。
ホイッスルとともに、二回戦が始まった。
 このゲームでも、ランニングファイブは、浩二と良平を中心にゲームをすすめていった。
 良平の早いパスまわしから、一気に速攻をしかける。相手のディフェンスをくずしておいて、フリーになったシューターの浩二にボールを集める。
 ロングシュート、ミドルシュート、カットインしてのレイアップシュートと、面白いように得点を重ねていく。
 たまにシュートが外れても、慎一たちがリバウンドをがんばって、ボールをキープしつづけていた。
 けっきょく、31対8と一方的な大差で勝って、ランニングファイブは楽々と午後の準決勝に進出した。

 準決勝と決勝は、お昼の休憩をはさんで午後に行われることになっている。
 良平はランニングファイブの仲間たちと一緒に、荷物を持って体育館の外へ出て行った。
 体育館の中では気がつかなかったけれど、気持ちよく晴れ上がっている。日差しは強かったものの心地よい風が吹いていて、お弁当をひろげるのにはもってこいだった。
「ここで食べようぜ」
 浩二が、校庭のはずれにあるコンクリートの段々に腰をおろした。良平や他のメンバーも、そのまわりにすわった。校庭のあちこちには、他のチームもお昼を食べに集まってきている。
「私たちも入れてよ」
 美津代が、他の女の子たちと一緒にやってきた。
 こうしてみんなでお弁当を食べていると、まるで遠足に来たかのようにのんびりしてくる。思わずバスケの試合で来ていることを、忘れてしまいそうだ。
 そのときだった。 
「良ちゃん、一本ぐらいシュート決めてよ」
 いきなり、美津代にズバリといわれてしまった。冗談ぽいいい方だったけれど、けっこうグサッときて、何もいいかえせなかった。各試合の得点を見てもわかるように、浩二を筆頭にみんなが好調にシュートを決めていた。
 ところが、どういうわけか良平だけは、二試合ともに無得点だった。特別調子が悪いとも思えないのだが、シュートがことごとくリングにあたって外にこぼれてしまう。長崎コーチのことばを借りると、「リングに嫌われてる」っていう奴だ。
「わかっちゃないなあ。だから、素人はいやなんだ。良平はアシスト(得点をおぜん立てするパスのこと)やスチール(相手のパスをカットして奪うこと)で、今日も大活躍してんだぜ」
 となりにいた浩二が、代わりにいいかえしてくれた。  
「そんなの、あたしだって知ってるわよ。でも、一本ぐらいシュートが入ったって、いいじゃないの」
 美津代は、わざとふくれっつらをしてみせた。

準決勝でも、ランニングファイブは相手を大きく引き離していた。この試合でも、浩二を中心として、着々と得点を重ねている。
 でも、良平だけは、あいかわらず無得点だった。
さっき浩二がいっていたように、パスやリバウンド、ドリブルなどは絶好調で、ゲームは実質的に良平がコントロールしているようなものだった。相手の意表をつくたくみなパスまわしで、みんなの得点をアシストしていた。
 だけど、自分のシュートだけは、どうしてもうまく入ってくれない。
 試合時間が、残り一分を切った。得点は18対9。ダブルスコアでリードしている。
 相手選手のシュートがはずれて、味方ボールになった。リバウンドを取った慎一から、良平にパスがきた。
 もう急ぐ必要はない。良平はゆっくりとしたドリブルで、相手コートに入っていった。ゴールの右側には浩二が、左側には雄太がパスを待っている。
 良平は浩二にパスを出すと見せかけて、急に早いドリブルで相手ゴールに切り込んでいった。
 左四十五度からのジャンプシュート。良平の得意のプレーだ。ボールはきれいな放物線を描きながら、ゴールへむかっていく。
(入ってくれえー)
 必死の願いもむなしく、良平の放ったシュートは、リングにあたっておしくもはじかれてしまった。
「おしいなあ。良平、ファイト」
 長崎コーチの、残念そうな声が聞こえてくる。
 ピピーー。
試合終了の笛が鳴った。これで、ランニングファイブの決勝進出が決まった。

 決勝戦の相手は、春季大会と同じ広川ロケッツだった。中学生なみに背の高い選手が多く、春の試合ではリバウンド(ゴール下でのボールの取り合い)で負けて、ゲームの主導権を握られてしまった。
 16対18。わずか2点差で敗れて、ランニングファイブは優勝をのがしていた。
 それ以来、「打倒ロケッツ」が、チームの合言葉になっていた。秋季大会でロケッツに勝つために、夏の合宿を初めとした苦しい練習にもたえてきたのだ。
 長崎コーチがメンバーに指示していたのは、浩二と良平を中心とした速攻で対抗する作戦だった。良平たち、ランニングファイブは、その名のとおり、走り合いならどこのチームにも負けない自信があった。
「これから決勝戦を始めます」
 場内のアナウンスとともに、両チームのスターティングファイブがコートに姿をあらわした。
「がんばれ、ロケッツ!」
「ファイト、ランファイ!」
 両チームの応援席から、いっせいに声援がとぶ。
 チラッと見たら、応援席の前では、美津代たちがポンポンを持ってならんでいる。彼女たちも緊張しているようだ。
 あらためてセンターサークルの近くでながめると、やっぱりロケッツの連中は大きかった。センターやフォワードの選手たちは、ランニングファイブで一番ノッポの慎一よりも背が高い。比較的小柄なプレーヤーが多いガードポジションまで、長身の選手で固めていた。
 良平たちは、体格では劣っても気合だけは負けないように、自分の向かい側の相手選手をにらみつけた。
 試合は、予想どおりの大接戦になった。
 ロケッツは、じっくりとした球まわしでディフェンスのすきをうかがう。そして、フリーになった選手が、遠目からでもどんどんシュートを放ってくる。ゴールすればそれでOKだし、はずれても背の高さをいかしてこぼれ球をリバウンドで確保する作戦だ。
 それに対して、ランニングファイブは作戦どおりに速攻で勝負していた。ボールを良平に集めて、すばやいドリブルで敵陣に攻め込む。もちろん、浩二や他の選手たちも、全速力でゴール目指して走りこんでいく。
 たがいにチームの長所を生かしたシーソーゲームになっていた。 
「浩二ーっ!」
 相手ボールを奪った慎一からパスを受けた良平が、大声で叫んだ。
 全速力のドリブルで突っ走りながら、逆サイドの浩二にロングパス。浩二はまだ誰ももどっていない相手ゴールに、楽々とシュートを決めた。
「ナイスシュー!」
 応援席で、歓声がおこる。これで、7対6と逆転だ。
「白井くーん、かっこいいーっ!」
 美津代たちが、声をそろえて浩二に声援を送った。浩二は、派手なガッツポーズをしながら戻ってくる。
「良平、ナイス、アシスト」
 声をかけてくれた長崎コーチに軽く手を上げながら、良平もすばやく自陣に戻った。
 ゲームはその後も、一進一退の攻防が続いた。
「ラスト30秒!」
 長崎コーチの叫び声がコートにひびいたとき、ちょうど相手のシュートがはずれて味方ボールになった。
 得点は19対18。ランニングファイブのリードは、わずかに一点だけだった。
 でも、このままボールを取られなければ、優勝だ。
「浩二、キープ!」
 長崎コーチの声は、興奮ですっかり裏返っている。もう時間がないから、シュートをしないで、そのまま味方
でボールをキープして逃げ切る作戦だ。
 さっきまでとはうってかわって、浩二がゆっくりと敵陣にむかってドリブルしていく。
「オールコートディフェンス! 時間がないよお」
 相手方のコーチが必死にさけぶ。コート全体をマンツーマンでボールを取りにくる激しいディフェンスのことだ。ロケッツの選手が、猛烈な勢いで浩二にむかっていった。
 でも、浩二はあわてずにフェイントで相手をかわすと、良平にパス。良平は少しドリブルしてから、フリーになっている達樹にパス。達樹は、すぐに浩二にボールをもどした。浩二がまたゆっくりとドリブルしてから、良平にパスした。ドリブルのうまい浩二と良平を中心に、ボールをまわしながらキープする。これが時間を稼ぐときの、ランニングファイブのやり方だった。
「くそーっ!」
 ロケッツの選手の一人が、いちかばちかって感じで、良平に飛びかかってきた。良平が軽く体を入れかえると、勢いあまってころんでしまった。目の前には、がら空きの相手ゴールが、……。
 次の瞬間、良平は、ドリブルでゴール下にカットインしながら、シュートしていた。
 だめおしのゴール。飛び上がって喜ぶとうさんたち。
そして、
「良ちゃーん、かっこいーい」
って、叫ぶ美津代の声が、聞こえてくるはずだった。
 ところが、ボールはリングのまわりをグルリと一周してから、外にこぼれてしまったのだ。練習なら絶対に入るイージーシュートなのに、わずかに力が入りすぎたのかもしれない。
「リバウンド!」
 両方のコーチが、同時に叫んだ。慎一と達樹がけんめいにボールにむかってジャンプをしている。
 でも、ボールを取ったのは、相手チームの選手だった。
「速攻!」
 今度は、ロケッツのコーチの声が裏返っている。
 思い切ったロングパスが、飛んでいく。けんめいに飛びつく浩二の手をかすめて、ゴール下で待つロケッツの選手にパスがとおった。
(まさか、まさか)
 良平の願いもむなしく、ロケッツの選手のジャンプシュートは、ゴールへすいこまれていった。
 ピピーー。
次の瞬間、試合終了の笛が鳴り響いた。
 19対20。終了寸前のまさかの大逆転だった。
「うわーっ!」
 大声で喜び合うロケッツの選手たちとは対照的に、良平たちはぼうぜんとしてコートに立ちつくしていた。

「飲む?」
 帰りのバスでぼんやりと窓の外をながめていると、浩二がペットボトルのコーラを差し出してくれた。いつになくやさしい声だ。良平は黙って首を振った。
 ほかのチームのみんなも、良平の失敗を少しもせめないでくれていた。あのままボールをキープしていたら、百パーセント優勝だったのに。
 ゲームが終わって応援席に戻ったとき、
「よくがんばったぞお」
「ナイスゲーム」
 応援席からも、はげましの声がかかった。
 でも、良平はみんなの顔を見られずに下をむいていた。
「ドンマイ、ドンマイ」
 そのとき、長崎コーチが走りよってきて良平の肩をたたいてくれた。
 でも、あと一歩で優勝を逃したことを、コーチを含めたみんながどんなにがっかりしているか、なんとなく伝わってきてしまうのだ。
 それが、良平にはたまらなくつらかった。いっそのこと、思いきり失敗を責めてくれた方が、気が楽になったかもしれない。

 バスが、良平たちの学校前の停留所についた。
 チームのメンバーは、みんなそろってバスを降りていく。良平だけは、なかなか席を立てずにぐずぐずしていた。
 ようやく、良平が最後に降りてきたとき、
「良ちゃーん」
車で先に帰っていた美津代が、向こうから走りよってきた。
「ごめんね。あたしが、よけいなこといっちゃったから」
 いつも元気な美津代が、泣き出しそうな顔をしていた。
「……」
良平は何も答えることができずに、無理して美津代に笑顔を見せようとした。
「じゃあな」
「明日、学校でな」
良平は、チームのみんなや美津代とおぐり公園の前で別れた。 
「ただいま」
 良平が家に戻ると、
「お帰りなさい」
 かあさんが、いつものようにユニフォームやタオルなどの洗濯物が入ったバッグを受け取った。
 かあさんも、居間でテレビを見ていたとうさんも、そして、そばにいた孝司でさえも、今日の試合の話題にはふれないでくれた。

 翌朝、良平はめざましがなる前に眼がさめてしまった。いつものように、ふとんの中でぼんやりと今日は何曜日だったかを思い出す。
(月曜日か。あーあ、休みじゃないんだ)
 と、その時、急に昨日の失敗を思い出した。シュートがリングのまわりをグルリと一周してから外へこぼれていくのが、録画されているかのように頭の中によみがえってくる。
 月曜日の朝がゆううつなのはいつものことだけれど、その瞬間、大げさにいえば生きていくのがいやになった。学校で、浩二や美津代と顔を合わせたくない。もうこのままずーっと、ふとんにもぐりこんだままでいたい。
 そう思いながら、ギューッと目をつぶった。
(なんであんなシュートしちゃったんだろう。あのままキープするだけでよかったのに)
 自分でも、今だにわからない。やってはいけないことはわかっているのに、あの時は体が自然に動いてしまった。シュートをきめてさっそうともどっていく浩二の姿や、昼休みの美津代のことばが、やはり心のどこかにひっかかっていたのかもしれない。
(あー、もう一度あのときに戻れたら)
 ゆっくりとドリブルしながら、ボールをキープする。タイムアップのホイッスル。大喜びで良平にだきついてくる浩二。歓声をあげながら飛び上がっている美津代たち。
 だけど、それはもうかなわぬ夢だ。
 まくらもとの時計を見ると、七時十分前になっている。あと十分でめざましも鳴り出すだろう。
 でも、もうしばらく横になっていたら、本当に立ち上がれなくなってしまうような気がしてきた。ずる休みしたい気持ちをふりはらうようにして、めざましのアラームをオフにすると、良平はなんとかベッドから起き上がった。
 「おはよう」
 良平は一階に降りてくると、台所のかあさんに声をかけた。
「良ちゃん、おはよう。めずらしく早いじゃない」
 かあさんは、いつものように朝食のしたくをしているところだった。
隣の洗面所からは、とうさんの電気カミソリの音が聞こえている。
「おはよう」
 洗面所のとうさんにも声をかけた。
「おにいちゃん、おはよう」
 とうさんは、ひげそりをしながら答えた。
 良平は手早く着替えると、いつもの自分の役割を果たすために、玄関のドアを開けて新聞を取りに外に出た。
 良平の心とはうらはらに、今日も空はすっきりと晴れ上がっている。空気がすんでいて、大きく深呼吸すると気持ちがよかった。
 郵便入れに近づいて、差し込まれていた朝刊をぬきとった。月曜日はちらしがはさまっていないので、いつもより軽い。
 玄関に引き返そうとしたとき、物置のあたりで何かがピカッと光ったような気がした。
 よく見てみると、いつのまにできたのか、物置とムクゲの木の間に、大きなクモの巣がかかっていた。朝日を受けて銀色にキラキラと輝いている。
(あれっ?)
 良平は、玄関に入るのをやめて立ち止まった。クモの巣に、ハチが一匹、ひっかかっていたのだ。黒と黄色のしまもよう、スズメバチのようだ。もしかすると、おとといの生き残りかもしれない。
 良平はもっとよく見えるように、ムクゲの木に近づいていった。
 今かかったばかりなのか、ハチはけんめいに羽をふるわせてのがれようとしている。
 でも、もがけばもがくほど、クモの糸がからみついてくるようだ。
 と、そのとき、巣の反対側に一匹のクモがいるのに気がついた。足に白黒のまだらもようのある大きな奴だ。だんだんハチに近づいていく。このままだと、ハチはクモにやられてしまうかもしれない。
「あっ!」
 思わず、声を出してしまった。どういうはずみかくもの巣がちぎれて、たれさがったくもの糸にハチが宙ぶら
りんになったのだ。
 ここぞとばかりに、ハチは必死にもがいている。
(がんばれ!)
 良平は、心の中で思わず声援を送ってしまった。
 その願いが通じたように、からまっていた糸がとうとうはずれて、ハチはそのまま下へ落ちていった。
 近づいてみると、地面に落ちたショックなのか、ハチはしばらくあたりをうろうろと歩きまわっている。クモの巣からのがれるのに、力を使い果たしてしまったのかもしれない。
 良平は、そのままじーっとハチの様子をながめていた。
 しばらくして、ハチはようやく地面から飛び立つことができた。
 でも、どことなくフラフラした飛びかただった。いつものように一直線に飛べずに、ユラリユラリとした感じだ。高度もなかなか上がらない。
 良平は、ハチの飛んでいる姿を目で追っていった。
 ようやく少し高く飛べるようになったハチは、あの外階段にあった巣ではなく、どこか遠くへむかっていく。もしかすると、もうあの巣はあきらめて新天地をもとめてゆくのかもしれない。
 良平はなんだかホッとしたような気分で、遠くへ飛び去っていくハチを見送った。

 良平が食堂にもどると、テーブルの上にはもう朝食がならんでいた。
 ネクタイをしめていつもの席にいるとうさんに、良平は何もいわずに新聞を手渡した。
「良平。たしか、おぐり公園にバスケのゴールがあったよな」
 とうさんは、コーヒーを飲みながら良平にいった。
「うん」
 良平がうなずくと、
「今度、おとうさんとやってみないか?」
 とうさんはコーヒーカップをおろすと、良平の顔を見ながらいった。
「えー。ぼくもやりたい」
 起きてきたばかりの孝司が、話しに割り込んできた。まだパジャマ姿のままだ。
「しょうがないなあ。じゃあ、三人でやるか」
 とうさんはそういうと、新聞を読みながら朝食を食べはじめた。
 テーブルの上には、湯気を立てている紅茶と、二つ目玉のハムエッグが置いてある。それを見たら、良平も急におなかがすいてきた。
「いっただきまーす」
 良平は、あつあつのトーストにガブリとかぶりついた。

      

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アーネスト・ヘミングウェイ「殺人者」江戸川乱歩編「世界短編傑作集4」所収

2020-11-24 13:10:06 | 参考文献

 作者は「武器よさらば」などで有名な大作家ですが、この作品のエンターテインメントとしての出来栄えもなかなかのものです。
 この作品に登場する二人の殺し屋(黒ずくめの衣装、乱暴ではないのに冷酷さが伝わってくる話し方、ビジネスライクで手際のいい仕事(殺人)の手順など)は、プロの殺し屋のイメージを確立して、その後もこれを超えるものは現れていないと言われています(無数の追随者やパロディを生み出しました)。
 編者によれば、この殺し屋のイメージとハードボイルドな文体は、その後の推理小説(特にハードボイルド系)に多大な影響を与えているとのことです。

世界短編傑作集 4 (創元推理文庫 100-4)
クリエーター情報なし
東京創元社

 

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庄野潤三「尺取虫」絵合わせ所収

2020-11-23 15:38:06 | 参考文献

 「季刊芸術」昭和43年冬季号に掲載されて、短編集「小えびの群れ」に収められた短編です。

 この作品の構成は、以下の通りです。

1 尺取虫をめぐる家族のやり取り。

2 小学校六年生の下の息子である良二の友達の宇田くんの話。

3 ムラサキシキブをめぐる家族のやり取りと、良二のともだちの話。

 この時期になると、作者の家族小説のスタイルは確立されて、家族とその周辺(この作品の場合は良二の友達)に関する日々の出来事から構成されるようになっています。

 フィクション性はほとんど失われて、限りなくエッセイに近づいているかもしれません。

 しいて小説としての文学性をあげるとしたら、題材の組み合わせの妙や作者の滋味あふれる文章ぐらいです。

 

 

 

 

 

 

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葬送

2020-11-22 13:35:34 | 作品

 また朝が来た。
 芳樹は、やっぱりいつものように気分がすぐれなかった。胸がむかむかして、とても起き上がれない感じだった。今日も学校には行かれそうにない。
 芳樹はベッドの中で、いつまでもぐずぐずしていた。
 その時、ドアを控えめにノックする音がした。
「なに?」
 芳樹がベッドの中から返事をすると、
「よっちゃん、ちょっといいかな」
 とうさんの声がした。
(えっ?)
 枕もとの目覚まし時計を見た。もう七時半を過ぎている。いつもなら、とうさんはとっくに会社にでかけている時刻だ。
「うん、なんだよ」
 芳樹は、いつものように不機嫌な声を出してみせた。
「今日は熊谷のおばさんの葬式なんだけど、よかったら一緒に行かないかと思って」
 とうさんは、ドアの向こう側から遠慮がちに言った。おばさんというのはおとうさんからみてなので、芳樹には大おばさんにあたる。おととい、老衰のために九十二歳で亡くなったことは、かあさんから聞いていた。
「うーん、どうしようかな」
 芳樹は、枕を胸にかかえこんだ。芳樹が小学校低学年のころ、毎年夏休みに遊びに行った時に、大おばさんにはかわいがってもらっていた。
 それに、どうせ今日もこれといってやることはなかった。
 しばらく黙っていたが、
「……、じゃあ、行くよ」
 と、とうさんに返事をした。

 芳樹は了解したのをきっかけにするようにして、ようやくベッドから起き上がった。
 すると、不思議なもので、さっきまでのむかむかした気分はすっかり消えていた。
 すぐにパジャマを脱いだが、手が止まってしまった。
(どうしよう。どんな格好でいけばいいのだろう)
 おじいちゃんのお葬式の時は小学生だったし、それ以外にはお葬式に出たことがなかった。
 少し迷ってから、久しぶりに学校の制服を着た。
 一階に降りていくと、すでにかあさんが朝食を作ってくれていた。目玉焼きとソーセージとブロッコリー、それにトーストとグレープフルーツジュースと牛乳だ。
 芳樹はグレープフルーツジュースを一口飲むと、朝食を食べ始めた。
 テーブルの向かい側では、おとうさんがコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる。もう他の家族は、朝食は食べたのだろう。
 いつもなら、おとうさんは七時過ぎには、車で会社へ行っている。二つ年上の兄の正樹も、都内の私立高校へ通っているので、とっくに原付きで最寄駅まで行っているはずだ。
おかあさんも、二人のどちらかと一緒に朝食を食べたのだろう。前は、三人の中で出かけるのが一番遅い芳樹と一緒に食べていたけれど。
 最近の芳樹にとっては、いつもよりもかなり早い時間の朝食だったが、残さずにおいしく食べられた。

 先月から、芳樹はまったく学校へ行かなくなっていた。いわゆる不登校というやつだ。
 朝、学校へ行こうとしても、ベッドから起き上がることができなかった。無理して起きようとすると、気分が悪くなってしまう。
(学校へ行かなくては)
 そう思うと、すっぱい液体が口の中にこみあげてくる。無理に起き上がると、吐いてしまいそうだ。
「よっちゃん、時間よ」
 毎朝、部屋の外から、かあさんの遠慮がちな声が聞こえてくる。
「うーん」
 どうしても起き上がることができない。芳樹はそのままベッドに横になっていた。
「どうする?」
 しばらくして、かあさんがまたたずねてきた。
「無理みたい」
 芳樹が答えると、
「ごはんはどうするの?」
「うーん、後で」
 芳樹は、またふとんをかぶって眠り始めた。
 学校へ行かないと決めると、なんだかほっとしたような気分だった。芳樹は安心して、またぐっすりと眠った。

 次に芳樹が目を覚ますのは、いつも昼過ぎだった。たっぷり寝たせいか、朝とは違って気分はすっきりしている。
 芳樹は、さっさとベットから起きだした。いつのまにかすっかり元気になっている。
 食堂へ行くと、かあさんが仕事へ行く前に用意してくれた朝食が、ラップをかけられて置かれている。
 朝食のメニューはいつも決まっている
 卵(目玉焼きかスクランブルエッグ)にカリカリに焼いたベーコンかハムかウィンナ。それに、ホウレンソウやにんじんなどの野菜のソテーだ。
 朝食を食べるのは、お昼のバラエティ番組をやっているころだ。芳樹は、毎日、この番組を見ながら、朝ごはんを食べていた。
 テレビを見ながら、食パンを二枚オーブントースターに入れて、トーストを作る。
 パンが焼ける間に、冷蔵庫からオレンジジュースと牛乳のパックを出して、コップに一杯ずつそそぐ。
 オーブントースターがチンと鳴って、パンが焼きあがると、トーストの表にたっぷりマーガリンをぬって、朝食が出来上がる。
 おなかぺこぺこだった芳樹は、いつもがつがつと食べ始めた。
 三分後、芳樹は、あっという間に、朝食を食べ終わってしまう。いつもまだおなかがすいている。
(今度はお昼ご飯だな)
と、思いながら、カップ麺が入っている棚に手を伸ばす。
 かあさんが、学校へ行かなくなった芳樹の昼食のために、いろいろな種類を買っておいてくれていた。
 芳樹は、選んだカップ麺に勢いよくお湯を注いだ。


 埼玉県の熊谷は、芳樹のとうさんの生まれ故郷だ。
 といっても、とうさんは小さいころに、東京の下町に引っ越してしまったので、そのころの記憶は全くないのだそうだ。
 でも、熊谷には、今でもとうさんのいとこやその子どもたちが、たくさん住んでいる。
 熊谷は、東京駅から新幹線に乗れば、ほんの四十分ぐらいで着いてしまう。芳樹も、小学校低学年のころまでは、夏のお祭りのときなどに毎年行っていた。
 田舎のない芳樹にとっては、擬似「故郷」のようなものかもしれない。
 「熊谷のおばさん」というのは、四年前に亡くなった芳樹のおじいちゃんの、一番上のおにいさんの奥さんだそうだ。だから、芳樹にとっては、大おばさんにあたる。
芳樹が小さいころに遊びにいったときには、大おばさんはまだ元気で、ごはんを作ってもらったこともある。
 一年ぐらい前から寝たきりだったのだが、とうとうおととい亡くなったのだ。
 大おばさんは、五人の子どもと、十人の孫と、十三人のひ孫に恵まれていた。とうさんに言わせると、立派な大往生なのだそうだ。
 芳樹ととうさんは、中央線で東京駅まで出て、そこで上越新幹線に乗り換えた。
 熊谷までの停車駅は、上野と大宮しかない。新幹線は、あっという間に熊谷に着いてしまった。
 駅前でタクシーに乗った。
「メモリアル彩雲までお願いします」
 とうさんが運転手にいった。それが葬儀場の名前らしい。
「あんまり変わりばえがしないなあ」
 車窓から見える市内の風景を見ながら、とうさんがつぶやいた。とうさんの話だと、浦和と大宮が合併してさいたま市ができて完全に埼玉県の中心になって以来、昔は県北部の中心地であった熊谷市はますますさびれているらしい。


 葬儀場には、十分ぐらいで着いた。
 入り口付近には、もう大勢の人たちが集まっている。
「やっちゃん、遠くからどうも」
 芳樹たちがタクシーから降りると、喪服を着た美代子おばさんが声をかけてきた。とうさんのいとこで、大おばさんの子どもの一人だ。芳樹が遊びに来た時には、この人に一番世話になっている。
「このたびはご愁傷様です」
 とうさんが頭を下げている。芳樹も一緒に頭を下げた
「あれ、おにいちゃんの方かしら?」
 おばさんが、芳樹を見ながら言った。
「弟の芳樹。学校が休みだったから連れてきた」
 とうさんが、うまく説明してくれた。まさか、芳樹が不登校になっているなんて、元気な小学生だったころしか知らないおばさんには、ぜんぜん想像できないだろう。
「あらー、大きくなっちゃって。おにいちゃんの方かと思ったわよ」
 美代子おばさんは、大げさに驚いてみせている。 
 芳樹はとうさんに続いて、葬儀場に入っていった。
 式場の正面に祭壇が飾られ、黒枠の額に入ったおばさんの写真が笑っている。
 まわりにはたくさんの花が飾られて、両側にもたくさんの花かごが並べられていた。その中には、とうさんの名前が書いてある花かごもあった。


「それでは、お別れをお願いします」
 係りの人が、まわりを飾っていた花をちぎってお盆の上にのせた。それを、みんなでお棺の中に入れる。大おばさんは、お棺の中でたくさんの花に囲まれた。
 芳樹も、おとうさんと一緒に、花を一握り、お棺に入れた。
 その時、初めて遺体と対面した。
 死んだ人を見るのは、初めてではない。おじいちゃんの葬式の時に、おじいちゃんの死に顔を見ている。
 でも、ほほのこけた大おばさんの顔はまるで骸骨のようで、ちょっと薄気味悪かった。
「それでは、これでお別れです」
 係の人はそう言うと、お棺のふたを閉じた。美代子おばさんも含めた何人かの女の人たち、おそらく娘や孫娘たちだろう、が泣き出した。
 台車に載せられて運ばれていくお棺の後を、みんなが続いていく。芳樹もおとうさんと一緒に一番後ろから歩いて行った。
「ここの葬儀場はよくできてるんだぜ」
 隣からとうさんがささやいた。
「えっ?」
 芳樹が聞き返すと、
「あのさあ。火葬場は道路を隔てて、すぐ向かいにあるんだ」
「ふーん」
「だから、お棺を霊柩車で運ぶ必要がないんだ」
「でも、どうやって運ぶの?」
「実は、葬儀場と火葬場が地下通路で繋がっているんだ。だから、お棺は台車に載せたまま、直接火葬場まで運べるんだよ」
「へー!」
「参列の人たちも、そこを通っていけるから、雨の日なんかはすごく便利なんだ」
「でも、地下道にはどうやって行くの?」
 芳樹がたずねると、
「大きなエレベーターが二台もあるんだ。それで、お棺を載せた台車や参列の人たちを一気に地下まで運ぶんだよ。そして、火葬場の地下にも同じようなエレベーターが二台あるから、みんなで直接火葬場まで行けるんだ」
「すげえな」
 芳樹は感心して答えた。

 おばさんがお骨になるまで、みんなは待合室に待機していた。テーブルには簡単な料理やお菓子が並べられ、ビールやジュースなどもある。
喪主の美代子おばさんやその兄弟たちが、みんなにビールをついで回っている。
「やっちゃん、お花をありがとうね。」
 美代子おばさんは、芳樹のとうさんにもビールをついだ。
「いやあ、俺ばかりでなく、子どもたちもおばさんには世話になったから」
 とうさんはそう言うと、うまそうにビールを飲み干した。
 それを見て、芳樹もジュースに口を付けた。
 そばでは、おばさんのひ孫にあたる小さな子どもたちが、緊張から解放されたのか、お菓子を手に走り回っている。さっきまで泣いていた女の人たちも、気持ちの区切りがついたのか笑顔でおしゃべりしている。男の人の中には、早くもビールで顔を赤くしている人までいた。
「準備ができました」
 しばらくして、係の人の声掛けでみんなは火葬室へ戻った。
 そこには、すでに、熊谷のおばさんのお骨が拡げられていた。
 係の人が、大事な骨の幾つかを、そばにいる美代子おばさんたちに説明した後で、二人一組になって、長い箸のようなものでお骨を拾い上げて骨壺に収めていく。
 芳樹も、おとうさんと組になって、大きめの骨を骨壺に入れた。
「働き者だったから、高齢にもかかわらず骨がしっかりしているんだよ」
 終わってから、おとうさんが芳樹にささやいた。
 確かに、あんなに小さくしなびたようになっていたおばあさんだったのに、お骨は、骨壷に入りきれないほどだった。
「それじゃあ。精進落としの会場までは、マイクロバスで移動願います」
 美代子おばさんの夫のヤマちゃんが、大きな声で火葬室を出たみんなに声をかけている。ヤマちゃんの顔は、待ち時間に飲んだビールですでに赤かった。みんなは大きな声で話しながら建物外へ向かっている。
「さすが92歳の大往生のお葬式だねえ。ぜんぜん湿っぽい様子がないなあ」
 とうさんが、隣で感心したように言った。
「92歳か」
 芳樹もつぶやいてみた。14歳の芳樹から考えると、はるかかなたのことのようだ。そう思うと、ちょっぴりだけ元気をもらえたような気がしていた。

   

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6分30秒3

2020-11-21 17:38:15 | 作品

 中間地点を過ぎた時に、恵一には目標の6分35秒を破れないことがわかった。体がいつもより重く感じられ、ストライドものびなかった。
 ハーッ、……、ハーッ。
 呼吸もいつもより乱れている。ランニングシャツが、汗でベッタリとはりついて気持ちが悪かった。
 やっぱり調整に失敗してしまったのだ。今日の区大会の部内選考会を気にしすぎて、最近の練習がオーバーワークになっていたのかもしれない。
 思うようにスピードが出ない。その焦りが、さらに手足をこわばらせる。それがまた、スピードがでない原因になる負のスパイラルに陥っていた。最悪のパターンだ。
 次の角を曲がったときに、いっしょに走っている一年の村下の姿が、後方にチラッと見えた。
 三十メートルぐらいうしろだ。差はあまりひろがっていない。いや、前の角のときより、接近しているように感じられた。このままでは、追いつかれてしまうかもしれない。 
 あと二百メートルになってから、恵一は必死にラストスパートをかけた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 最後の角を曲がる。遠くのゴール地点に立つ、長身の笹岡先生の姿が見えた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 上体が、ガクガクッと左右にぶれる。あごがあがる。苦しいときに出る悪い癖だ。
 でも、それを直している余裕はなかった。
 あと百メートル。恵一は、けんめいにもう一度ラストスパートをかけようとした。
 ハーッ、ハーッ、……。
 しかし、スピードはあがらない。
 あと五十メートル。額の汗が目にしみこんでくる。それをぬぐうひまはなかった。笹岡先生が、ボーッとにじんで見える
 ハーッ、ハーッ、……。
 あと二十メートル。足がもつれてくる。
 恵一は、なかなかゴールまでたどり着けなかった。
「6分40秒3」
 笹岡先生が、ストップウォッチを確かめながらつぶやいた。そして、わきの下にはさんでいたノートに、すばやくタイムを記入している。
ハーッ、ハーッ、……。
 恵一は、学校の鉄製のフェンスにつかまってしゃがみこんだ。吐き気がして立っていられない。エネルギーを使い果たして、体中の力が抜けてしまう。
 フェンスの向こう側の校庭では、走り高飛びと走り幅跳びの選考会が行われていた。
 歓声が起こった。誰かがバーをクリアしたようだ。
拍手が起きている。
 すぐそばに村下がやってきた。恵一よりも、約十秒遅れでのゴールだった。
ハーッ、ハッ、……。
 村下も荒い息を吐いている。
 村下のタイムを記入し終えた笹岡先生は、陸上部の顧問の大川先生に報告するために、すぐに行ってしまった。
 恵一は荒い息を吐きながら、まだ道路にしゃがんでいた。隣では、村下も苦しそうに下を向いている。
 時間がゆっくりとすぎていく。
 校庭では、また歓声がおきていた。走り高跳びと幅跳びの選考会は、佳境にさしかかっているのだろう。好記録が出るたびにさかんな拍手も聞こえてきた。
 息が整ってからも、恵一はしばらくそこに座り続けた。
 いつの間にか、村下はいなくなっていた。
 やがて校庭の選考会も終わったようで、後片付けが始まっている。
 恵一は、ようやくノロノロと立ち上がった。
(やっぱりだめだったか)
 すべての力が抜けてしまったような気がする。
(目標にしていた区大会出場が、これで事実上不可能になってしまった)
絶望的な気分が、胸の中にひろがっていく。
 でも、恵一にとって、これですべてが終わったわけではない。今日のレースで目標タイムを下回ったとはいえ、恵一にはもう一回チャンスが残されていた。
 陸上部以外の生徒と競う一般選考会だ。そのレースの五位までが、区大会に出られる。
 しかし、恵一には、五位以内に入る自信がぜんぜんなかった。

 区の総合体育大会は、毎年十月に行われている。体育祭と中間テストの間の一大イベントだ。競技は、野球、バレーボールなど、全十五種目にもわたっていた。
 クライマックスは、十月の第三金曜日に行われる陸上競技だ。
 他の競技の会場は、各校持ちまわりで学校の施設で行われている。応援も、その部活に関係する人たちだけに限られていた。
 各競技とも、区内に13ある中学校のすべてに部活動があるわけではないので、八校とか、七校とかだけで行われるのだ。都内にある中学校の宿命でどこも校庭が狭いので、サッカーなどはわずか三校しかなくひっそりと行われていた。
 ところが、陸上競技だけは違った。陸上は基本的に個人競技だし、運動能力が高ければ陸上部以外の生徒でも出場できるからだ。そのため、すべての中学校の全生徒が参加して盛大に行われるのだ。
しかも、開催場所は、区の陸上競技場がないせいもあって、あの神宮の国立競技場だった。当日は、各校の全生徒が一日がかりで応援する大がかりなイベントになっていた。
 この大会では、単に個人の記録を競うだけでなく、学校対抗の団体得点も争われる。だから、出場する生徒はもちろん、学校全体の関心が集まっていた。
 東京オリンピックの舞台での陸上競技大会。ふだんは地味な練習を繰り返している陸上部員たちにとって、この大会は年に一度の晴れ舞台なのだ。
 恵一のU中学では、昨年まではこの大会に、三年生の陸上部員は、一名一種目は無条件に出場できた。それが、もくもくと三年間努力してきた陸上部員たちへのはなむけだったのだ。
 他の選手は、一般の生徒も含めた選考会で決められていた。
 陸上部員と、それ以外の運動能力の高い生徒たちとの混成チーム。それが、去年までのU中学のメンバー構成だった。
 ところが、今年は違った。
 ここ数年の不成績に業をにやした校長が、
「今年は、全選手、選考会で決定」
という案を打ち出してきた。
 これには、陸上部の顧問の大川先生が猛反対した。
「能力に恵まれているかは別として、地道な練習に耐えてきた三年生の部員たちのことを考えてください」
というのが、大川先生の主張だった。
 激しい議論の末、結局、次のような妥協案に落ち着いた。
 陸上部の生徒には、二回チャンスが与えられる。
 一回は、部内選考会。ここで一定の標準記録を上回れば、優先的に出場できる。標準記録に達しなかった者は、一般選考会で他の生徒たちと選手の座を争うことになる。
 標準記録は、過去の区大会の記録を参考に決められた。
 恵一が出場を狙う二千メートル競技の標準記録は、6分35秒になった。このタイムは、大川先生が、恵一のベストタイムである6分33秒4を考慮して、甘めに設定してくれたのにちがいない。なにしろ恵一以上のタイムを出せる生徒は、全校で十人以上はいるのだ。そんなわけで、恵一が一般選考会で五位以内に入るのは絶望的なのだった。

 恵一が陸上部に入ったのは、かっこのいい理由からではない。
 よく長距離を始めた理由を聞かれて、箱根駅伝にあこがれてだとか、オリンピックのマラソンを目標にとかいう人たちがいる。
 でも、恵一は、
(本当かな?)
と、思ってしまう。
 今の中学校では、運動神経が良く、スポーツ万能の男子生徒は、ほとんどは野球部やサッカー部に入っている。女の子たちには、バスケットボール部やバレーボール部の人気が高い。これは、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボールといった、小学生を対象とした地域クラブチームがあることの影響が大きい。
 恵一自身も、小学四年から少年野球チームに入っていた。
 でも、とうとうレギュラーにはなれなかった。六年の時でさえ、ねらっていたポジションを、あっさりと五年生の子に取られてしまったのだ。
 恵一は、週二回の平日の練習も、土日の試合にも休まず参加していた。毎年三月に行われるチームの総会で、三年続けて皆勤賞のメダルをもらったのは、恵一だけだった。
 しかし、ホームラン賞にも、首位打者賞にも、もちろん無縁だった。
 恵一は、チームメイトたちがU中学の野球部に入った時、一人だけ野球をやめることにした。彼らと争って、レギュラーを取れる自信がなかったし、もう三年間、彼らの控えとして野球を続けていくことも、自分にはできないと思ったからだ。
 恵一は、部員が少ない陸上部に入った。ここなら、いろいろな種目があって、他の人と競うことがない。
 半年後に、専門を長距離に選んだのも、他に希望者がなく、三年になれば自動的に区大会に出られることがわかっていたからだった。

 陸上部の公式練習日は、週二回だけだった。七十メートル四方の小さな校庭しかない都会の中学校の宿命で、狭いスペースを多くのクラブと交替で使っているからだ。
 とうぜん、恵一の練習はロードで行われている。
 でも、恵一は絶好のトレーニングコースを持っていた。
 U中学の道路を隔てた向かいは、国立博物館だった。ここの広大な敷地の外周が、恵一のトレーニングコースなのだ。
 一周約二キロ。緑が豊富で、平坦な美しいコース。車の多い正門側には広い歩道があるし、裏手はめったに車が通らない。だいいち、ひとつも信号を通らずにすむのがよかった。
 ここで練習しているのは、恵一だけではない。他のクラブも、ウォーミングアップに使っている。さらには、校庭が狭いので、体育の授業でも利用していた。長距離走のタイムをここで測定していたのだ。 
 学校側のフェンスには、二千メートルのタイムを測るために、スタートとゴールの位置に印がつけてあった。
 これは、恵一がタイムを計るときにもすごく便利だった。
恵一は、このコースで毎日練習していた。公式の練習日には、一年生の村下と一緒に走った。それ以外の日も、一人で練習している。
 準備体操のあと、ゆっくりしたペースでまず一周する。
ひといきいれてから、毎日一回だけ、二千メートルのタイムをとる。
この時、左手にはめたストップウォッチつきの腕時計が活躍した。陸上の雑誌の記事で読んだオリンピック選手愛用の時計と同じブランドだった。
それから、学校の前を往復しながら、インターバル走でスピード強化をはかったり、筋トレをやったりしている。
 顧問の大川先生は、砲丸投げが専門なので、あまりアドバイスはしてもらえない。「ランナーズ」とか、「陸上競技」などの雑誌を参考に、自分でメニューを工夫してやらなければならなかった。

 恵一の二千メートル走のタイムは、ここのところほとんど伸びていない。記録を示す折れ線グラフは、ずっと横ばいを続けていた。
 一枚のグラフ用紙には、五十回分のタイムが記録されている。二年間に、そんなグラフがもう十枚以上もたまっていた。
 グラフは、おととしの九月七日から始まっている。
タイムは、7分43秒6。赤のボールペンではっきりと囲ってある。
 初めのころは、順調に記録が伸びていた。その月のうちに、7分30秒を切っている。
 その後も、グラフは順調に右肩下がりになっている。
 初めて6分台を記録したのは、去年の二月二十一日だった。その日の帰りに、スポーツドリンクでささやかな祝杯をあげたことを恵一は覚えている。
 半年前までは、それでも少しずつタイムが良くなっていた。恵一は、折れ線グラフが少しずつ下がっていくのをはげみに、練習を続けていたのだ。
 ところが、三年生になると、記録は6分35秒前後で足踏みを続けるようになってしまった。最高タイムの6分33秒4は、もう三か月も前に出したものだった。
練習方法が悪いのか? 走るフォームが悪いのか? 恵一は、陸上の雑誌や専門書の長距離走の記事や章に載っている内容を参考に、いろいろと工夫をしてみた。
 しかし、成果はなかなかあがらなかった。こんな時、専門のコーチや仲間からアドバイスをもらうことができないのがつらかった。いっしょに練習している一年の岩下はまだアドバイスできるまでのレベルに達していないので、恵一は一人で苦しんでいた。また、学校には陸上部が使えるビデオ装置もないので、自分でフォームをチェックすることもできなかった。

 毎日走り続けていたものの、恵一には、自分が本当に長距離を好きなのかどうか、よくわからなかった。
 月、水、金曜には、野球部が校庭で練習している。
「バッチ、こーい」
「へい、へい、しっかりいこうぜ」
 部員たちは、互いに声をかけあっている。その中には、小学校のときに一緒のチームだったメンバーもいた。
 それを横目に見ながら、恵一は一人でわきを走り抜けていく。
(楽しそうだなあ)
と、感じるときもある。
 そんな時などには、
(補欠でもいいから、野球を続けるべきだったかもしれない)
と、思うことさえあった。
 長距離の練習は、孤独で苦しかった。特に、二年生の時は、一年にも三年にも長距離をやっている者がいなかったので、まったく一人で練習していた。
 全力を出してラストスパートをした後、国立博物館の塀にもたれながら息を整えている時、
(おれは、なんでこんな苦しいことを、一人でやっているのだろう?)
と、思ったりもしていた。
 
 部内選考会の結果は、翌日の放課後に発表された。
 教室には、陸上部の部員が全員集められた。
 大川先生は、ノートを片手にみんなの前に立った。それには、代表選手たちの選考会の記録が書かれているのだろう。
「それじゃあ、代表選手を発表します」
 先生は、みんなの顔をグルリと見まわした後、ノートに目をやった。 
「走り高飛びの岩瀬、一メートル六十。……、走り幅跳びの吉田、四メートル九十八、百メートルの高木、十二秒九。……、」
 一人一人、名前と記録が呼び上げられていく。そのたびに、みんなから小さな拍手が送られる。
 呼ばれた生徒たちは、教室の前へ並んだ。
大声で返事をして、ニコニコといかにもうれしそうに行く者。
喜びを隠して、わざと無表情を装う者。
照れて頭をかきながら出ていく者。
すでに標準記録をクリアしたことを知っているとはいえ、あらためてうれしさをかみしめている。
 そんな中で、恵一は机の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。そして、早く発表が終わるのを願っていた。
「次、二千メートルの山口、6分30秒3」
(えっ!?)
 恵一は驚いて、大川先生の顔を見た。
 先生は、うながすように笑顔を浮かべている。
 恵一は、狐につままれたような顔をして、前へ出て行った。
「山口、がんばったな。ベスト記録じゃないか。おまえが、ここ一番にこんなに強い奴だなんて、知らなかったよ」
 大川先生は、恵一だけにはわざわざ声をかけてくれた。部員たちも、他の選手たちより大きな拍手をおくっている。
「次は女子。……」
 きっと笹岡先生が、間違って報告したんだ。40というべきところを30といったのだろうか。もしかしたら、大川先生の方の聞き違えかもしれない。
 恵一は記録が誤っていることを言おうと、大川先生の顔を見た。
先生は、そんな恵一の気持ちを知らずに、女子の選手たちの名前を次々と読み上げている。
 恵一は、とうとう最後まで、自分の記録を訂正することができなかった。
 男女合わせて十六名の選手がそろい、他の部員に向かって礼をした。
 その時、恵一は、村下が不思議そうな顔で、こちらを見つめているのに気づいた。

「山口、ちょっと待てよ」
 恵一は、げた箱の所で後ろから声をかけられて、ドキッとした。
呼び止めたのは、陸上部のキャプテンの岩井だった。
恵一は、緊張した顔で岩井を見つめた。
「一緒に帰ろうぜ」
 岩井は手早くくつをはき替えると、先に立って歩き出した。
「山口、本当に良かったな」
「何が?」
 恵一は小声で答えた。
「何がって、大会に決まってるだろ」
 恵一が黙っていると、岩井は思い切ったようにいった。
「おれよう、ほんとはおまえはだめかもしれないって思ってたんだ。だっておまえ、ここんとこ調子出てなかったからなあ」
 恵一は、警戒して岩井の様子をうかがった。
 でも、岩井は、心からうれしそうな顔をしているように見える。
「おれ、ほんとにホッとしてるんだ。三年が全員出られたからな」
 恵一は自分のことしか頭になかったから気づかなかったけれど、確かに三年の部員は全員選手に選ばれていた。もちろん岩井も八十メートルハードルの選手で、U中学の数少ない優勝候補のひとりだった。
「ゲンキさんもうれしそうだったな」
 ゲンキさんというのは、大川先生のあだ名だ。
 何かというとすぐに、
「ほら、もっと元気出せ」
って、いうのが口ぐせなのだ。
(もしかすると?)
 その時になって初めて、恵一は、大川先生が温情で自分を選んでくれたのかもしれないと思った。

 数日後に行われた一般選考会で、他の選手も決定された。
 二千メートルの一位は、サッカー部の守山で6分11秒8。四位は野球部の今井で6分28秒7だった。恵一の6分30秒3は五位相当だったから、かろうじて面目を保てた。
 しかし、恵一の本当の記録である6分40秒3では、なんと十三位になってしまうのだった。
 各種目の選手たちは、区大会に備えて、すぐに特別練習を始めた。所属する部活以外にも、放課後に練習することが認められたのだ。
二千メートルの選手たちは、一緒にトレーニングをしていた。例の周回コースを、一団になって走っている。
 でも、恵一だけは、みんなから離れて、いつものように一人で走っていた。
 大会が近づくにつれて、恵一は、ますます練習量を増やしていった。
 放課後の練習だけでなく、毎日六時から早朝トレーニングを始めたのだ。本当は、こういった正規の部活の活動時間以外の練習は認められていなかった。
 しかし、総合体育大会の前ということもあって、学校にも黙認されていた。
恵一は、朝練のために毎朝五時におきて、誰もいない学校に一人きりで登校してきていた。
 もちろん、まだ校門は開いていない。恵一は、トレーニングウェアを制服の下にきて登校していた。そして、かばんや脱いだ制服は校門の横においておいた。
 軽くウォーミングアップをしてから、いつもの博物館まわりのトレーニングコースを走り出した。
 恵一のタイムは少しずつだったが良くなり、コンスタントに6分35秒が切れるようになってきた。なんとか大会までに6分30秒3を破って、大川先生の温情にこたえたかった。
 恵一は、村下や岩井、さらに大川先生までも、意識的に避けていた。村下には何かいわれそうで、顔を合わせるのが怖かった。大川先生や岩井に対しては、6分30秒3をクリアできていないのが、負い目になっていた。

 大会前日の金曜日の放課後、選手全員が体育館に集められた。大会用のユニフォームが渡されるのだ。
 恵一には、Mサイズのグリーンのランニングシャツとパンツが手渡された。グリーンは、U中学のスクールカラーだった。
 選手たちは、更衣室でさっそく真新しいウェアに着替えている。もちろんこれは大会用のユニフォームなので、それを着て練習をするわけではなかった。
 でも、ちょっと着てみたかったのだ。
 恵一も、みんなと一緒にグリーンのウェアに着替えてみた。やせている恵一には、ランニングシャツもパンツも少し大きめでゆるかった。
「よっ、山口。なかなかにあうぞ」
 うしろから、岩井が元気よく声をかけてきた。彼もグリーンのウェアを着ていた。彼こそグリーンのユニフォームがよくにあっているし、それにふさわしい選手だ。
「そうかなあ」
 恵一は、ちょっと照れたようにいった。
「うん、にあう、にあう」
 岩井はきげん良くそういうと、すぐに更衣室を出ていった。恵一は、岩井のがっしりした後ろ姿をだまって見送っていた。
 恵一は、岩井のうしろ姿を見ていて、本田先輩のことを思い出した。
 本田先輩は、恵一が一年の時の三年生で、やはり長距離をやっていた。区大会でも、確か十位以内に入ったはずだ。
 本田先輩は受験勉強が忙しくなったので、十一月に入ると部には来なくなってしまった。恵一と一緒に走ったのは、四月からの半年に過ぎない。
 その年の区大会が終わって、最初の練習日だった。
(あっ!)
 校門の近くでウォーミングアップをやっていた恵一は、遅れてやってきた本田先輩を見て目をみはらされた。大会用のグリーンのウェアを着ていたからだ。
 本田先輩だけではない。大会に出場した三年生たちは、みんなグリーンのウェアを着ていた。U中学では、区大会出場の三年生は、大会後はグリーンのユニフォームで練習するのが伝統になっていたのだ。それが、三年間、苦しい単調な練習を続けてこられたことのあかしだった。
大会で好成績をあげたかどうかは、問題ではない。去年までは全員が区大会に出場できたので、三年生みんなが、この日からグリーンのユニフォームで練習する。区大会に出場したことが、三年生たちの誇りだったのだ。
「かっこいいなあ」
 一年の部員のひとりがつぶやいた。他の後輩部員たちも尊敬のまなざしで、三年生たちを見ている。
「じゃあ、行くか」
 軽く体操をした本田先輩は、恵一に声をかけて走り出した。
「は、はいっ」
 恵一もあわてて後を追った。
 二人は、肩を並べて走っていった。はじめは、本田先輩もウォーミングアップでゆっくり走っているので、恵一もついていける。恵一と本田先輩とでは、走るスピードがぜんぜん違う。二人が並んで走れるのは、先輩がゆっくり走っている間だけだった。
 最初の角がきた。そこから、先輩はスピードを上げる。恵一は、みるみる引き離されてしまった。
 本田先輩は、少し左右に揺れながらスピードをあげていく。恵一は、しだいに遠ざかっていく先輩のグリーンのユニフォームの背中を見ながら、二年後に同じユニフォームを着ている自分を夢見ていた。

 その日の午後、選手たちを校庭に集めて、入場行進の練習が行われた。
 授業中だったのにもかかわらず、いくつかの教室の窓からは生徒たちの顔がのぞいている。
 ターンタンタンターンタン、……。
 軽快なマーチがスピーカーから流れてくる。
 校旗をかかげて、岩井が先頭を歩いていく。堂々として、見るからにさまになっている。
 それに続いて、グリーンのユニフォームを着た選手たちが、二列に並んで行進していった。照れくさいせいもあって、みんなぞろぞろとふぞろいだった。
「ほらほら、それじゃ、まるでお葬式みたいだぞ。もっと、元気だしていこう」
 指導にあたっている大川先生が、おきまりのせりふでハッパをかけている。
 行進の練習は、何度も繰り返し行われた。時間がたつに連れて、しだいに全員の足がそろってきた。恵一もグリーンのユニフォームを着て、他の選手とならんで行進していた。できるだけ胸をはって、みんなと歩調を合わせるように努めている。
 各教室から、手拍手がおこった。
かんだかい口笛や声援もおくられる。
中には、紙ふぶきを投げて、先生におこられている者さえいた。
そんな中で、恵一は、記録に達しないのに選ばれた後ろめたさよりも、選手になった喜びの方が大きくなっていることを感じていた。

 ほとんどの選手は、その日の練習をウォーミングアップていどにしていた。明日の試合のために、体を休めるためだ。いまさら、ハードな練習をやっても逆効果になるだけだ。
 そんな中で、恵一だけは、いつもどおりの練習をやっていた。
 最近は、一年生の村下とも離れて、一人で走っていたる
 まず、たんねんに準備体操をして、体をほぐしていく。
 そのあと、例によって、ウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前を通り、京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ、……。
 安定したリズムで走れる。
 一周まわってから、恵一はひといきついていた。
(どうしようか?)
 最後にもう一回、タイムを計るかどうかで、迷っていた。試合前日だというのに、オーバーワークになるのが怖い。
 でも、まだ目標タイムを達成していないことのプレッシャーの方が大きかった。けっきょくタイムをとりながら全力で走ってみることにした。
 しかし、恵一は、今回も6分30秒3を上回ることはできなかった。

 大会の当日は、十月らしい好天気だった。
 恵一は、他の選手といっしょに、国立競技場の入場門の近くに整列していた。選手以外の生徒たちは、すでにメインスタンドに陣取っている。かつては、この五万人収容の大スタジアムのメインスタンドだけでは足りなく、バックスタンド側にも生徒たちが詰めかけていたものだった。でも、少子化の影響で今ではメインスタンド側の一部を占めるだけになっていた。
 入場行進のマーチが、スピーカーから鳴り響いた。練習で使ったのと同じ曲だ。
 前年度総合優勝のO中学を先頭に、開会式の入場行進が始まった。O中学では、旗手に続く選手が優勝カップを胸にだいている。
「入場行進が始まりました。盛大な拍手をお願いします」
 場内アナウンスに合わせて、観客席から拍手が起こる。今日は場内アナウンスも、正式な競技場の人がやってくれているので、まるで日本選手権のような雰囲気だ。
「先頭は、前年度優勝のO中学です。今年も連覇を目指してがんばりたいとのことです」
 各中学の選手たちは、チームごとにきちんと整列している。
 次に行進する中学は、もう足ぶみを始めている。
 U中学の順番はまだだ。
 恵一は列の後ろのほうで、チームカラーのグリーンのはちまきを、もう一度しめなおした。
 前年の成績順なので、U中学の入場は五番目だった。入場の順番がだんだん近づいてくるにつれて、恵一の胸の鼓動は、次第に速くなっていた
 ようやく、次がU中学の順番になった。みんなは旗手の岩井を先頭にして、足ぶみを開始した。恵一もみんなに続いていく。
「続いての入場はU中学、今年は最後まで優勝争いをすることが目標だそうです」
 チームの紹介と共に、U中学の選手たちが競技場に入ってきた。
 スピーカーからながれるマーチに合わせて、二列にならんで行進していた。恵一も、けんめいにみんなに足をそろえている。
 U中学の選手たちが、メインスタンド前にさしかかる。岩井は、大きく校旗をひるがえすと、前方に突き出した。
「うわーっ!」
 観客席のU中学の生徒たちが、熱狂的な声援を送ってくれた。
「いわーい!」
「たかぎーっ!]
 有力選手には、一人一人、声援がかかる。選手たちの中には、手を振ってこたえる者もいる。そんな中で、恵一は、まるでオリンピックにでも出場したかのような感激を味わっていた。思わず、涙がにじんできさえしているほどだった。

 行進を終了した選手たちは、国立競技場の広いフィールドに、学校ごとに整列した。
「……、さいわい晴天に恵まれ、……」
 大会役員のあいさつや来賓の祝辞が続いていく。
 恵一はそれらを聞きながら、今日のレースのことを考えていた。
 今日の目標には、あの6分30秒3を破ることをおいていた。順位なんかぜんぜん関係ない。たとえビリになったって、あの記録さえ破れればいい。
 二千メートル走は、四百メートルトラックを五周する。だから、一周につき1分18秒で走れれば、ぴったり6分30秒になる計算だ。
 国立競技場の電光掲示板には、経過時間が大きく表示される。恵一は、一周ごとにペースをチェックするつもりだった。
「それでは、前年度優勝校の……」
 O中学の主将が、優勝カップを手に前に走り出てきた。
「優勝杯返還」
 優勝カップが、主将から大会委員長に手渡された。
観客席からは、盛大な拍手が起こる。開会式のふんいきが、だんだん盛り上がってきた。

 男子二千メートル競争には、予選レースはなかった。各校五名ずつの選手が、全員出場する決勝だけの一本勝負だ。
 このレースが、大会の最後を飾るレースだった。だから、総合優勝をめぐって、毎年、激烈な得点争いが行われている。今年も、ここまでトップのS中と二位のK中との得点差は、わずかに四点しかなかった。このレースの結果しだいでは、逆転もありそうだ。
「うわーっ!」
 観客席全体から、歓声がわきおこってくる。
「がんばれ、がんばれ、S中」
「フレー、フレー、K中」
 優勝をあらそう両校からは、特に熱狂的な応援が送られている。まだレースが始まらないのに、両校の生徒たちは総立ちになっていた。
 恵一たちのU中学には、すでに優勝の可能性はなかった。今年も、いつもどおりに全体の中ほどの順位になりそうだった。
 でも、このレースの結果しだいでは順位が上下するので、やはり応援に熱が入っている。
「U中、ファイト!」
 誰かが叫んでいる声が、恵一にも聞こえてきた。
 スタートラインに選手が勢ぞろいした。
各校五名ずつ、計六十五人。人数が多いので、学校ごとに縦一列に並ぶ。U中学で五番目の選手である恵一は、一番うしろだった。
 選手たちは、各校から選ばれただけあって、さすがに引き締まったいい体をしている。恵一は、そんな彼らに圧倒されている自分を感じていた。
「位置について」
 選手たちは、いっせいに前傾姿勢を取った。
「……、よーい」
 スタートのピストルが鳴った。
 その瞬間、恵一は何が何だかわからなくなってしまった。
夢中で他の選手をかき分けて前へ進んでいく。他の選手たちも夢中になっているのか、たがいにひじで押し合ったりしている。
 激しい順番争いが終わって、向こう正面で列が整った時、先頭は、黄色のユニフォームのS中の選手だった。ついで紫のK中の選手。
そして、恵一はいきなり三番手になっていた。思っても見なかった展開だ。これからどうするか、のぼせ上がってしまった恵一には考えがまったくなかった。
 一周回ってホームストレッチへ。
「うわーっ!」
 各校の声援が大きく盛り上がる。
 恵一はスピードを上げると、先行する二人を抜いてトップにたった。
U中学の生徒たちは大喜びだ。
「やまぐちーっ」
「けいいちーっ」
「やまぐちさーん」
 黄色いのやら、ガラガラのやら、様々な声が恵一に飛んだ。
 電光掲示板に、一周目のラップが表示された。
1分9秒17。計画タイムを9秒も上回っている。明らかにオーバーペースだ。
 しかし、恵一は、ラップタイムを見ようともしなかった。
 二周目に入っても、恵一はトップをキープしていた。手足がいつもよりも軽く感じられる。
(奇跡だ。もしかすると、自分でも気がつかない力があったのかもしれない)
 六十四名の各校の代表選手を従えて、先頭を走っていく。恵一にとっては、生まれて初めてといっていい晴れがましい最高の気分だった。

 三周目に入ると、ピタリと後ろについていたS中の長身選手が、恵一をかわしにかかった。
恵一も、抜かさせまいとして、ピッチをあげようとする。
(あっ!)
 その時、恵一は、やはり奇跡はおこっていないことを思い知らされた。さっきまで、あれほど軽かった手足が、みるみる重くなっていく。
ハーッ、ハッ。……。ハーッ。
息づかいも、荒く不規則になってきた。
あっという間に、S中の選手に抜かれてしまった。
(くそーっ)
恵一は、けんめいに後を追いかけようとした。
でも、スピードがぜんぜんあがらない。
(だめだ!)
と思ったら、後は気が抜けたようにズルズルと後退していった。
 恵一は少しペースを落として、呼吸を整えようとした。今までも練習中にオーバーペースになった時に、よくこの手を使ったのだ。その横を、他校の選手たちが次々と抜いていく。
でも、恵一は、もうその後を追うことはできなかった。
「やまぐちーっ」
「がんばれーっ」
 その時、再びU中学の大声援が聞こえてきた。いつの間にか、またホームストレッチにきていたのだ。
「もりやまーっ、がんばれー」
 恵一がちょっと振り向くと、すぐ後ろに同じU中学の守山があがってきていた。守山はすぐに恵一に並ぶと、そのまま追い抜いていこうとした。恵一は、思わずまたスピードをあげようとしてしまった。
「あっ」
 恵一は守山に接触しそうになって、足がもつれて前へのめってしまった。
(かっこ悪い。なんてぶざまなんだ)
 スタンドのみんなの目が、恵一に集まったような気がした。
 次の瞬間、恵一はまるで足がつったかのように、数回、右足を引きずって、その場をごまかそうとしてしまった。
 守山は、なにごともなかったかのように恵一を引き離していく。他の選手たちも、どんどん恵一を追い抜いていった。
 恵一は、もう冷静にペースを落として呼吸を整えることもできず、ただあせってもがくだけだった。
 S中とK中の選手が、ゴール前で激しいデッドヒートを演じて、応援の生徒を熱狂させているころ、恵一はやっとバックストレッチに入ったところにいた。

 レース結果はみじめだった。六十五人中、六十五位。
 タイムは6分58秒6。目標の6分30秒3には遠く及ばない。
全選手の中で、ダントツのビリだった。
 恵一は、疲れきって控室へ戻ってきた。
「山口、足は大丈夫か?」
 大川先生が、恵一を抱きかかえるようにして迎えた。
「はい、ちょっと」
「つったのか?」
「ええ」
 恵一は、小さくうなずいてしまった。
 先生は、恵一の足をていねいにチェックしてくれた。
「そうか、オーバーペースだったな」
「はい」
 今度は、はっきりと返事した。
「足は大丈夫なようだけど。棄権してもよかったんだぞ。あんまり無理するな」
 恵一は、黙って目をつぶっていた。

 月曜日の朝、恵一が教室に入っていくと、みんなの視線がいっせいにそそがれた。恵一は、それに気づかないふりをして、自分の机にかばんをおろした。
 ひょうきん者の大谷が、すぐに恵一の席にやってきた。
「おい、演技派」
 大谷がニヤニヤしながらいった。
「なんだよ?」
 恵一は、何のことかわからずに、大谷にたずねた。
「なかなかうまかったぜ。足をひきずるのがよ」
 大谷は、恵一のまねをして、右足をひきずってみせた。
クラス中のみんなが、ドッと笑った。
「本当につったんだよ」
 恵一はやっとの思いでいった。
 しかし、恵一の赤くなった顔は、大谷の言葉を裏づけてしまっていた。
「まったく、学校の恥だったぜ」
 大谷はそうすてゼリフを残すと、自分の席に戻っていった。恵一は、だまってそれを見送るよりしかたがなかった。
「おっ、いたいた」
 休み時間ごとに、他のクラスの生徒までが恵一をからかいにきた。
「山口、二千メートルの時、演技したんだって?」
 どこから聞きつけたのか、大谷と同じようなことをいっている。
「そんなことないよ。足がつったんだよ」
 恵一は、けんめいに弁解した。
「そうか? でも、走り終わった後、何ともなかったっていうじゃないか」
(そんなことまで、うわさがひろがっているのか)
 恵一は、ぼうぜんとしてしまった。
 その後も、いれかわりたちかわり、いろいろな生徒にからかわれた。
「無理して先頭に立ちやがって」
「けっきょくビリじゃないか」
「U中学の恥」
「あんなタイムなら、他の奴を出せばよかった」
 いろいろな言葉があびせられた。
 恵一はもう何もいわずに、じっと机の上をみつめていた。

「山口、ちょっと」
 昼休みに、岩井が教室にやってきて入口の所から声をかけた。
 恵一が、そばへ行くと、
「ちょっと、来てくれ」
といって、先に立って歩き出した。
 恵一は、しかたなくその後についていった。
 岩井が恵一を連れてきたのは、陸上部の部室だった。
 ドアを閉めると、岩井はすぐに話を切り出した。
「山口、変なうわさがあるんだ」
 恵一はドキッとして、岩井の顔を見た。
「部内選考会でのお前のタイムは、標準記録をクリアしてなかったっていうんだ」
 恵一には、選手発表の時の村下の不思議そうな顔が浮かんできた。
「もちろん、うわさをたてた本人には、おれからくぎをさしておいたけどな」
 岩井は、しばらく恵一の顔をながめてから、ズバリといった。
「山口、本当のところはどうなんだ?」
 恵一は、しばらく黙っていた。
「えっ、どうなんだよ?」
 岩井は重ねてたずねた。
「……、自分でもどうしてだかわからないんだけど、……」
 岩井の真剣な表情に負けて、十秒のタイム差について告白してしまった。
「やっぱり、本当なのか」
 岩井は、がっかりした顔をしていた。
 恵一は、だまってうなずくしかなかった。
「ゲンキさんも、グルなのか?」
「わからない。ただの勘違いかもしれないし、ぼくだけ落ちるとかわいそうだから、わざとしてくれたのかもしれない」
 恵一は、泣き出しそうになりながらも、けんめいに説明した。
「ゲンキさんなら、そうするかもしれないなあ」
 岩井はそういうと、急に表情をひきしめた。
「でも、おれだったら、そんなお情けにはすがらない」
 岩井はきっぱりというと、さっさと部室から出て行ってしまった。
 恵一は、しばらく部室を離れられなかった。

 長い一日が終わった。
恵一は、
(まっすぐ家へ帰ろうか?)
とも思った。
 でも、やはり部室へ来てしまった。
 ドアを開いた。他の部員が、いっせいにこちらを見る。
「ちわー」
 恵一は小さな声でいった。
 でも、誰も返事をするものはいない。今度は、みんなが恵一から目をそらしている。すでにうわさを聞いたのか、みんなが恵一を無視していた。ただ、おそらく岩井からくぎをさされていたのか、昨日のことは何もいわれなかった。
 恵一は、部屋の隅に行って、一人で着替えを始めようとした
 バッグを開けると、グリーンのユニフォームが入っていた。まわりを見ると、他の三年生たちは、当然のような顔をして、グリーンのユニフォームに着替えている。
 でも、恵一は、ちょっと迷っていた。
 やがて、グリ-ンのユニフォームでなく、いつもの白いトレーニングウェアの方に着替えた。そして、黙って部室を出ていった。
 部室から校庭へ出ると、そこではいつものように野球部が練習していた。その横を通って、恵一は学校の外へ出ていった。
 校門の前で、入念にウォーミングアップをはじめた。週末の間、久しぶりに練習を休んでなまった体を、順々にほぐしていく。
 両方の足首をたんねんにまわす。ふくらはぎのストレッチ。もものうらのストレッチ。股関節のストレッチ。上半身のストレッチ。
 二十分もたつと、ようやく体中の筋肉や関節がほぐれてきた。そして、それとともに、自分がリラックスしてきたのを感じていた。
 校門の前なので、他のクラブや帰りがけの生徒たちが、恵一をジロジロ見ながら通っていく。みんな、昨日のことは知っているようだ。
 中にはわざと聞こえるように、
「演技派」
「U中の恥」
などと、いっていく者もいる。
 しかし、恵一は不思議ともう気にならなかった。ただもくもくと、一人で走る前のウォーミングアップを続けていた

 恵一は走り出した。
 例によって、まずウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前に差し掛かった。レリーフをほどこした重々しい建物が、右手にそびえている。
 京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ。……。
 安定したリズムで走れる。
 いつものように、国立博物館を一周して学校まで戻ってきた。
 校庭では、野球部が練習を始めていた。
「バッチ、こーい、バッチ、こーい」
 ノックを受けている部員のかけ声が聞こえてくる。
 すでに二週間前に大会が終わっている野球部には、三年の部員は来ていなかった。小学校時代に恵一をおさえてレギュラーをしていた連中は、今は受験勉強に精を出しているのだろう。
 二周目を走り始めた時、恵一は、いつもの習慣で、ストップウォッチのボタンを押していた。
 しかし、すぐに止めてしまった。
(もうタイムを計る必要はない)
 恵一は、好きなペースで三周だけ走ろうと思った。
 だんだんにスピードを上げて走っていく。
 図書館の前をすぎる。京成電鉄の駅跡の角を曲がった。
 国立博物館の正門前にさしかかる。閉館時間なので、たくさんの人たちが出てきた。恵一は、その間を上手にすりぬけた。
 博物館の角を曲がる。次はJRの鶯谷駅のそばの角だ。
 そこを曲がると、やがてゴールのU中学の校舎が見えてくる。
 三周目に入った。
 恵一は、相変わらず快調なペースで走っている。
(大会の時に、こんな風にリラックスして走れていれば、……)
 かすかに後悔にも似た感情がわいてきた。
 博物館の正門の前に来た時、急に雨が降り出した。大粒の雨で、すぐに本降りになった。恵一は、ずぶぬれになりながら走り続けた。
 予定の三周が終わった。
 でも、恵一は止まる気になれずにそのまま走り続けることにした。
 次の一周は、さすがに途中から苦しくなってきた。恵一は乱れ始めた呼吸をけんめいに整えながら、自分は本当に長距離が好きなのかもしれないと思い始めていた。

 

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ボス・ベイビー

2020-11-20 16:30:19 | 映画

 生まれてきた赤ちゃんが、「赤ちゃん」を製造(?)しているベイビー社の経営者のボス・ベイビーだったという奇想天外な設定のアニメです。
 両親の愛を独り占めしていた主人公の男の子が、ボス・ベイビーにその座を奪われて苦悩する前半は、よくあるパターン(児童文学でも「トロットの妹」以来、多くの作品で描かれているテーマです)で、やや退屈でした。
 しかし、家庭における「赤ちゃん」のライバル(?)である「子犬」を製造する会社の経営者との戦いを描いた後半は、スリルのあるアクションと赤ちゃんたちのかわいらしさが全開でかなり楽しめます。
 兄弟愛に目覚めるラストもよくあるパターンなのですが、お約束のハッピーエンドなのでファミリーで楽しめる作品になっています(春休みのせいか、場内は子どもたちや親たちの笑い声が、上映中たえず響いていました)。

The Boss Baby [DVD] [Import]
クリエーター情報なし
Dreamworks Animated
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コイン

2020-11-19 15:25:21 | 作品

 鋭士の人差し指にはじかれた百円玉は、きれいにみがかれた大きな机の対角線上を、スルスルと音もなくすべっていく。
 コツン。
 軽やかな音をたてて、反対側の角にあった富永の百円玉にあたった。
 富永のコインは、はじきとばされて机の下に落ちた。
 一方、鋭士のコインは、ねらいどおりにピタリとその場に残った。
 正確に、コインの真ん中にあたったからだ。
 理科でならった物理の法則でいうならば、鋭士のコインの持っていた運動エネルギーは、すべて富永のコインに伝達されたってわけだ。
「クソーッ、サーブでやられちゃ、手のうちようがねえよな」
 富永は、両手を広げて大げさにくやしがっている。天パーの髪を長くのばし、まぶたは二重というより三重か四重ぐらいにみえる。ほりも深くて、ちょっと日本人ばなれしたルックスをしていた。
「へへ、いただき」
 鋭士はすばやくコインを拾い上げると、胸のポケットにしまいこんだ。胸のポケットはもうたっぷりふくらんでいて、ジャラジャラと重かった。今日のもうけは、すでに二千円近くいっているはずだ。いつものように、鋭士のコインバトルのプレーは絶好調だった。
 二学期の終業式後の図書室。もう利用者もなく、あたりはガランとしている。さっきまで蔵書の整理をしていた、下級生の図書委員たちは、じゃまになるので先に帰らせていた。あとには、コインバトルをやっている、鋭士、富永、高崎、大谷、それに高田ブーしかいない。 
 専任の司書のいないこの学校では、図書委員長である鋭士が、いつもこの部屋の鍵をあずかっている。だから、図書室は鋭士たちのかっこうの溜まり場になっていた。煙草をすったり、スマホでアダルトサイトを見たりもしていたけれど、最近はコインバトルがはやっている。
 コインバトルというのは、コインをおはじきのようにはじいて、相手のコインを落とすゲームだ。
 もちろん、落としたコインは自分のものになる。つまり一種のギャンブルなのだ。
 相手のだけを落として、自分のコインは机の上に残さなければならない。自分のも落ちたらファールになって、そのコインは賞金としてプールされることになる。だから、コインをはじく方向性だけでなく力のコントロールも重要だった。
 最近ではみんなの腕前があがりすぎて、教室の机ではおたがいに一発でおとせるようになっていた。サーブをだれがやるかで勝負が決まってしまうので、これではゲームがなりたたない。それで、図書室にある大きな机でやるようになったのだ。
 しかし、自他共に認める学校一のコインバトルの名手である鋭士は、ここでもかなりの確率で、サーブで相手のコインを落とせるようになっていた。
 おかげで、最近は小遣いにはまったく不自由しない。
 でも、もうけた金は、ケチケチせずにパーッとみんなにおごっている。独り占めにして、友だちを失うようなへまはしなかった。
 学校の帰りに、いつも立ち寄るコンビニがある。本当は、寄り道や買い食いは禁止されているけれど、そんなことは知ったこっちゃない。
コンビニの前を通りかかると、鋭士はいつもみんなを誘う。
「ちょっと、寄っていこうぜ」
「お前にやられてスッカラカンだよ」
 高崎が口をとがらせて文句を言う。
「だから、おれがおごるよ。なんでも買っていいぜ」
 鋭士は、コンビニのドアを開けながら、みんなの方を振り返る。
「いつも悪いなあ」
 富永がニヤニヤしながら言うと、みんなはドヤドヤとコンビニの中に入ってくる。
 アイス、コーラに、たこ焼きやアメリカンドッグ。
 みんなが持ってきたものを、まとめてレジに出す。
「まとめておねがいします」
 そう言いながら、胸のポケットから今日の稼ぎのコインをつかみ出す。これが毎日のお約束の日課だった。

鋭士は、今、中学三年、十五才。
夏休み前に、野球部も引退してしまったし、他の連中のように塾にも通っていないので、すっかり暇を持て余している。
学力テストの成績は学年でトップなので、担任は国立の付属や開成などのいわゆる超難関校をすすめるけれど、鋭士にはぜんぜん興味はない。だからといってもちろん都立にいくつもりもない。もう受験なんかとはおさらばしたかったから、志望校は私大の付属一本にしぼっていた。このレベルならば、ほとんど受験勉強しなくても受かる自信が鋭士にはあった。せいぜい直前になって、一回過去問を解いてみる程度で十分だろう。これ以上誰かと競争して受験勉強にはげむなんて、鋭士にはぜんぜん性にあわなかった。
 先生たちも、いい成績をとっている限りは、鋭士には干渉しなかった。
 それに、私立志望の鋭士には、内申書というやつらの切り札がきかないことを知っているので、あえてふれないようにしているみたいだ。
 鋭士は、自慢でもなんでもなくほとんど勉強したことがなかった。
クラスのやつらから、それでも成績がいい理由を聞かれると、
「何かを読むと、一度で内容を理解して、それをそっくりいつまでも覚えてられるんだ」
って、説明することにしている。まあそれは少し大げさとしても、教科書は一回読んだだけで内容は完璧に理解して記憶することができた。
 毎年、学年の最初にまとめて配られる教科書。ひまつぶしにその日のうちにほとんど読んでしまう。そうすれば、ふだんは勉強しなくてもOKだった。もしかすると、鋭士の理解力や記憶力は、異常に強いのかもしれない。

 ガララッ。
 大きな音を立てて、いきなり図書室の入り口の扉が開いた。
(やばい)
 鋭士たちはすばやく机の上のコインを拾い上げると、ポケットの中につっこんだ。お金をやり取りするコインバトルは、もちろん学校で厳重に禁止されている。
 でも、入り口から顔を出したのは先生ではなく、三組の青木だった。
「おっ、いたいた。やっぱりここか」
 青木は、まっすぐに鋭士の方にやってきた。
「エイシ―っ。おまえ、社会の成績、いくつだった?」
 青木は他のメンバーは無視して、唐突に鋭士にたずねた。
「なんだよ。いきなり」
「いいから、教えろよ」
「えーっと、なんだったけな」
 カバンの中に突っ込んだままの通知票を取り出した。
「おっ、4だった」
 通知表にはあまり興味がなかったので、まだ見ていなかった。
「ふーん、やっぱりな。おまえ、期末は何点だった」
「100だよ」
 ヒューッ。
 富永が小さく口笛を吹いた。
「中間は?」
「やっぱ、100だよ」
 さすがに、今度は他の奴らまでが驚いたようだった。いつも、成績のことで母親にガミガミいわれている大谷なんかは、引きつったような顔をしている。
「おまえ、それで文句ないのかよ?」
 青木が怒ったような顔をして言った。
「なんで?」
「だって、中間も期末も100点なのに、なんでおまえまでが5じゃないんだよ」
 青木は中間が95で、期末が100で合計195点だったのだそうだ。それで、当然5がもらえるだろうと思っていたら4だったので、頭に来ていたってわけだ。
「山崎の野郎、やっぱり女にしか5はつけないって、うわさはほんとだったんだな」
 青木がはきすてるように言った。
 社会担当の山崎は、もちろん最悪な奴だ。
 クラスの女の子、特にかわいい子たちを舌なめずりしそうな顔をして見ていることは、みんなが知っている。
(学区外のどこかで、援交でもやってるんじゃないか)
って、もっぱらの評判だ。
「なんだよ、青木。今ごろ、そんなこと知ったのか。そんなの常識じゃねえか。一学期だって、おんなじだったぜ」
 自慢のように聞こえるかもしれないが、中学に入ってからの定期テストで、社会は100点以外をとったことがない。もちろん、一年の時から成績はぜんぶ5だった。
 山崎に初めて4をつけられたときには、
「おや?」
って、思ったけれど、学校の成績にはあんまり関心がないのでだまっていた。
 ものぐさな山崎は、ドリルなどの答え合わせの時、自分でやらないで、鋭士に答えを言わせている。解答集を見なくても、鋭士が間違えるはずがないことを知っているからだ。そのくせ、鋭士の成績には5をつけないのだから、本当ならば文句を言ってもいいところだ。
「……」
 それを聞くと、青木はエイリアンでも見るような目つきで鋭士をにらんでから、そのまま図書室を出ていった。
「なんだよ。青木の奴、せこいなあ」
 扉が閉まると、大谷が馬鹿にしたように言った。
 でも、本当は青木が鋭士だけに試験の結果を聞いて、大谷たちを無視したのがくやしかったのだろう。

 鋭士たちがコインバトルをやるようになったのは、三年になってからだ。夏休みにはいったん下火になったものの、二学期になってからはいっそうはやるようになっていた。
 初めは十円玉でやっていたのが、鋭士たちの間では、すぐに五十円玉や百円玉にエスカレートした。もっとも、他の連中のしけた勝負では、今でも十円玉が使われているみたいだった。さすがにそこでも、五円玉でやろうというと、馬鹿にされているようだ。
 いつも最高レートでやっている鋭士たちのグループでは、ついには五百円玉も登場した。
 でも、こいつは大きすぎてねらいやすいので、かえって餌食になりやすかった。それに、さすがに一発で五百円がふっとぶ勝負は、中学生にはきつすぎた。
 初めは、グループ内での金の貸し借りもあった。
 だが、借金で首がまわらなくなった奴が続出して、学校で問題になってしまった。何度か借金棒引きの「得政令」が、学校側によって出てからは、その場でのキャッシュの精算になっている。
 鋭士たちのグループが、図書室でコインバトルをやっているのは、クラスでもなかば公然の秘密になっている。
 でも、鋭士はけっこう顔がひろいから、クラスの主だったメンバーに顔がきいた。だから、先生たちに告げ口される心配はなかった。
 それに、図書委員長の肩書きにものをいわせて、邪魔者は図書室から追い出してしまった。図書室担当の荒木先生は、図書室の運営を鋭士にまかせっきりだった。
 そんなことばかりやっている自分の事を思うと、
「小人、閑居して悪を為す」
なんて言葉が頭に浮かんでくる。
鋭士は、勉強だけが異常にできる小人なのだ。

 

 

 

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庄野潤三「丘の明り」絵合わせ所収

2020-11-18 13:54:31 | 参考文献

 「展望」1967年7月号に掲載されて、この作品を表題作とする短編集に収められました。

 この作品の構成は以下の通りです。

1 アメリカの民話「口まがり一家」の紹介と、家の裏の崖に光る物があり、それを作者以外の家族が見に行ったことをこの作品の本題とすること、その背景として家の近隣が団地の開発のために変貌していることなどが書かれています。

2 光る物についての次男の話。

3 長女の話

4 長男の話

5 長男の話の続きと、光る物の正体

 この作品では、1で紹介した民話とその後の子どもたちの話との結び付きは弱く、どちらかというと、家族の中でのそれぞれの兄弟の位置づけや性格を説明する方が強くなっています。

 それは、この作品が作者の家族小説の中では、比較的初期にあたるためだと思われます。

 作者の家庭小説は、独立した短編の集まりというよりは、全体としてある一家の歴史を物語る、一種の大河小説のような趣があります。

 これは、子どもたちがそれぞれ独立して家庭を持ち、そこに孫が生まれてからも続き、作者の最晩年の作品群にも引き継がれていきます。

 

 

 

 

 

 

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