奇妙なタイトルは、バラージュ=ベラの「ほんとうの空色」の主人公の少年が、半ズボンをはくのをやめた時に子ども時代が終了したことから、半ズボンを子どもの象徴として使っています。
「ほんとうの空色」は、いずれも児童文学の大きなテーマである「子ども時代にサヨナラする時」と「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」を、同時に鮮やかに描いた1920年代のハンガリーの傑作で、児童文学者(例えば今江祥智など)にもファンが多い作品です。
著者は、ここからスタートして、アリエスや柄谷行人を引用して、「子ども」ないしは「児童」という概念が近代(西洋の場合はフランス革命以降、日本の場合は明治維新以降でしょう)に発見されたものであり、半ズボン(現在の子どもは半ズボンはあまりはかないので、今ならハーフパンツか)が子どものために用意されたように、児童文学も子どものために書かれた文学として誕生したとその起源を明らかにしています。
さらに、巌谷小波の「こがね丸」から初めて、小川未明、赤い鳥、プロレタリア児童文学、坪田譲治、宮沢賢治と、1950年代にスタートした現代児童文学までの日本児童文学の歩みを足早に概観しています。
このように先行研究を網羅的にながめて要領よく短い紙数でまとめあげるのは、著者の論文の非常に優れた特長です。
ただ、母上(児童文学作家の宮川ひろ氏)と違って実作の経験がない(あるいは乏しい)ためか、文学理論が先行していて作家の創作における内的必然性(それには、当然、作家を取り巻く社会や経済の問題が影響しています)が軽視される傾向が著者の論文にはあるので、そのことに注意して読んでいく必要があります。
この本は、全体をまとめた形で書かれたのではなく、いろいろな形で発表された論文などが下敷きになっているので、それぞれの章を独立した論文として読んでいきたいと思います。
「ほんとうの空色」は、いずれも児童文学の大きなテーマである「子ども時代にサヨナラする時」と「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」を、同時に鮮やかに描いた1920年代のハンガリーの傑作で、児童文学者(例えば今江祥智など)にもファンが多い作品です。
著者は、ここからスタートして、アリエスや柄谷行人を引用して、「子ども」ないしは「児童」という概念が近代(西洋の場合はフランス革命以降、日本の場合は明治維新以降でしょう)に発見されたものであり、半ズボン(現在の子どもは半ズボンはあまりはかないので、今ならハーフパンツか)が子どものために用意されたように、児童文学も子どものために書かれた文学として誕生したとその起源を明らかにしています。
さらに、巌谷小波の「こがね丸」から初めて、小川未明、赤い鳥、プロレタリア児童文学、坪田譲治、宮沢賢治と、1950年代にスタートした現代児童文学までの日本児童文学の歩みを足早に概観しています。
このように先行研究を網羅的にながめて要領よく短い紙数でまとめあげるのは、著者の論文の非常に優れた特長です。
ただ、母上(児童文学作家の宮川ひろ氏)と違って実作の経験がない(あるいは乏しい)ためか、文学理論が先行していて作家の創作における内的必然性(それには、当然、作家を取り巻く社会や経済の問題が影響しています)が軽視される傾向が著者の論文にはあるので、そのことに注意して読んでいく必要があります。
この本は、全体をまとめた形で書かれたのではなく、いろいろな形で発表された論文などが下敷きになっているので、それぞれの章を独立した論文として読んでいきたいと思います。
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日本放送出版協会 |
もともとローティーンのための服装です。
「ア ボーイ ミーツ ア ガール」はしてみたけれども、まだ同性の友達と群れて遊びたい盛りである、という年齢に最もよく似合います。
中学生です。
最近の子どもたちで、最も半ズボンを嫌う子どもたちは、早々に子ども時代にサヨナラし、「ア ボーイ ミーツ ア ガール」の域に達したことを誇りにしています。
そういう子どもたちがあまりにも多いものだから、子ども時代にサヨナラせず、「ア ボーイ ミーツ ア ガール」に興味を示さない子どもは、同世代の群れからはぐれることになります。
今の世の中、半ズボンを穿くということは、同世代の群れからはぐれることを意味します。
勿論、思春期前の服装決定権は通常母親にありますから、「子どもは未熟なだけ」「『ア ボーイ ミーツ ア ガール』ができて初めて人間である」と母親から教わっているのでしょう。