現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

トゥルー・ロマンス

2018-09-30 17:33:58 | 映画
 暴力とセックスで描いた純愛物語って感じの、1993年のアメリカ映画です。 
 偶然知り合ったコールガールの女と結婚した、エルビスの熱烈ファンのビデオショップ店員の男が、ヒーロー気取りで女のヒモと話を付けに乗り込んで、成り行きでヒモとその相棒を殺してしまいます。
 男が、女の衣装と間違えて持ってきたスーツケースには、コカインがぎっしり詰まっていました(ヒモと相棒が仲間を殺して奪ったものです)。
 二人は、男の父親(元警官です)の家に寄って、自分たちが警察に疑われていないことを知ると、麻薬をさばきに男の幼なじみが住んでいるハリウッドへ向かいます。
 麻薬を売った金で、メキシコのカンクンへ逃げようというのです。
 その後を、麻薬の持ち主だったギャングの手下が、男の父親を殺して、さらにハリウッドへ追ってきます。
 幼なじみのつてで、大物映画プロデューサーに麻薬を売ることになった二人は、交渉場所のホテルへ行きますが、それをすでに聞きつけていた警察がホテルの部屋に乗り込んできます。
 警察とプロデューサーのボディーガードたちが、銃を構えながら睨み合っているところへ、ようやく追いついたギャングの手下たちが乗り込んできて、三すくみの激しい撃ち合いが始まり、ほとんどみんなが死んでしまいます(男の幼なじみだけが、運よくその場を逃げ出せます)。
 最後に生き残った刑事も、男も死んだと思って絶望した女に打ち殺されます。
 死んだと思った男は顔を撃たれたものの生きていて、二人はどさくさまぎれに金を持ってホテルを抜け出し、メキシコへ向かいます。
 ラストでは、メキシコのビーチ(おそらくカンクン)で幸せに過ごす二人(男は片目を失ったようですが)とエルビスと名付けられた息子が映し出されて終わります。
 まったくご都合主義な脚本を担当したタランティーノごのみの、やたらと血が出るヴァイオレンス映画なのですが、どこか滑稽で後味は悪くないです。
 特に、一番弱いはずの女が大活躍(途中でギャングの斥候役につかまって半殺しにされるのですが、すきを見つけて逆襲して殺します)して生き残り、全く軽薄極まりないこのカップルにハッピーエンドが訪れるラストには、アメリカ社会の底辺で苦しんでいる若い男女の観客はスカッとして喝采したことでしょう。

トゥルー・ロマンス ディレクターズカット版(字幕版)
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児童文学の時代設定はどうすべきか

2018-09-28 20:01:41 | 考察
 一般に、児童文学の作品を書く場合の時代設定は、特に歴史物や未来物として書く場合を除くと、漠然と「現在」に設定されることが多いと思われます。
 この「現在」という概念は、人によって非常にバラつきがあって、今年だけに限定されている場合も、二十年ぐらい前までの長い期間を含む場合もあります。
 私が二十代の時に児童文学を書き始めた時には、自分の「少年時代」は本当に地続きの「現在」、あるいはつい昨日のように近い「過去」の事として描くことができました。
 ですから、自分の「少年時代」を「現在」であると称しても、そんなに不都合はありませんでした。
 それが、三十代になって少年時代が過去へ遠ざかった時、作品の時代設定として取る道は二つありました。
 ひとつは、自分の少年時代(私の場合1960年代から1970年代にかけてでした)を時代設定として採用する方法です。
 もうひとつは、現在(1980年代でした)を舞台にして、自分の少年時代とは切り離して作品を描くことです。
 結論から言うと、私は後者を選びました。
 まだ子どもたちの新しい風俗についていけると思っていたことと、当時は子どもの成長が年々早くなっていると信じられていたので、自分の少年時代を少しアレンジして(中学時代の体験を小学生を主人公にして描くなど)書くと、現在の風俗によくマッチしたからです。
 その後、自分の子どもたちを得てからは、彼らやその友達の少年時代(1990年代から2000年代にかけてでした)に取材して、作品を書くことができました。
 その子どもたちも成人すると、なかなか「現在」にフィットした作品を描くのがつらくなってきました。
 子どもたちの新しい風俗も、体感としてはつかめなくなっています。
 この場合に、作品の「時代設定」として取る方法は二つあると思います。
 まずひとつめは、「現在」という概念を広げて、20年ないしは30年間は通用する普遍的なテーマやモチーフを選ぶことです。
 もうひとつは、自分自身もしくは子どもたちの少年時代に時代設定して、当時の風俗で作品を描くことです。
 この二つの方法は二元論ではなく、テーマやモチーフに合わせて使い分けることができると思っています。
 
1989年の因果 昭和から平成へ時代はどう変わったか (中公文庫)
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中央公論新社
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小沢正「たまごに ごちゅうい」目をさませトラゴロウ所収

2018-09-27 18:30:38 | 作品論
 りょうしが、トラゴロウに「だちょうのたまご」だとだまして渡した爆弾をめぐるドタバタ大騒動です。
 ラストでトラゴロウが爆発寸前の爆弾をガリガリかじって食べてしまったところは面白いのですが、トラゴロウがいつものトリックスターではなくいい子すぎるのでつまらない感じでした。

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小沢正「はちみつか みつばちか」目をさませトラゴロウ所収

2018-09-26 17:19:00 | 作品論
 くまがはちみつをなめているのを見てうらやましくなったトラゴロウは、発明家のきつねに頼んでインスタントはちみつ800人分を作ってもらいます。
 ところが、きつねが計算を間違って、巨大なインスタントみつばちができてしまいます。
 みつばちに追われたトラゴロウときつねとくまは、地球をぐるぐるとエンドレスで回り続けます。
 お話としてのできはあまり良くはないのですが、作者は、読者たちに向かって、次のお話を読みたかったら、みつばちに追いかけるのをやめてくれと頼むように頼むという禁じ手を使ってみせます。

目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
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理論社
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神沢利子「青空と少年」いないいないばあや所収

2018-09-26 09:50:43 | 作品論
 いつも一緒のにいさんやねえさんたちがいない一人ぼっちの我が家の庭。
 四季の移り変わりとともに、隣家の少年への恋心とも呼べぬ淡い思いが、克明な記憶のもとに描かれています。
 誰もが心の奥に持っている不思議な記憶を鮮やかに再現して見せるのは、真の児童文学作家の腕前なのでしょう。

 
いないいないばあや (岩波少年少女の本)
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岩波書店
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小沢正「はこの中には」目をさませトラゴロウ所収

2018-09-21 08:59:46 | 作品論
 いつものようにおなかをすかせていたトラゴロウは、通りかかったりょうしをつかまえて食べようとします。
 でも、りょうしが鍵を差し出して、遠くの松の木の下に埋まっている箱をこの鍵であけると、トラゴロウの好きな物が入っていると言うので助けてやります。
 なまけもののトラゴロウは、自分で行くのが面倒なので、通りかかった動物を片っ端からつかまえて、代わりに箱の中身を取りに行かせます。
 でも、うさぎが行くと箱の中にはにんじんが、さるが行くとりんごが、くまが行くと蜂蜜の入ったツボが出てきます。
 どうやら箱を開けた者の好きな物が入っているらしいと、ようやく気づいたトラゴロウが最後に自分で行くと、箱の中からは鉄砲を構えたりょうしが入っていて、トラゴロウ目がけて撃ちだします。
 でも、そんな鉄砲の弾なんか、みんなきばで跳ね返して、今度こそトラゴロウはりょうしを飲み込んでしまい、ついでに鉄砲もばりばりと食べてしまいます。
 このお話でも、「自分の欲しいもののためには、自分でやろう」という教訓(?)もありますが、それよりも物語の面白さやトラゴロウの魅力の方が前面に出ています。
 子ども読者の好きな繰り返しの手法を多用し、ユーモア(調子にのったトラゴロウが自分よりも大きなくまにまで命令し、つられたくまもそれにすなおに従います。りょうしはこんなめんどうなことをせずに、最初の時にさっさと食われてしまえばよかったのにと、トラゴロウは思います。など)にあふれています。
 また、前のお話ですでに紹介されていたトラゴロウのきばの無敵さや、不良っぽさ(なまけものでたばこをふかしてばかりいる)は、読者の子どもたちも内心はあこがれています。

目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
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理論社
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蔡宣静「『氷河鼠の毛皮』の<鉄道>空間の設定と列車映画との関連」

2018-09-21 08:12:41 | 参考情報
 宮沢賢治学会イーハトーブセンター冬季セミナーin東京「宮沢賢治と映画」で行われた講演です。
 これは、宮沢賢治研究 Annual Vol.22に掲載された、蔡の同名の論文をもとにしています。
 蔡も述べていますが、賢治の作品は視覚的な描写の印象が強く残ります。
 この分野での研究は進んでいて、1996年には「宮沢賢治の映像世界」(その記事を参照してください)という本もが出版されています。
 ここでは、蔡はそれらの先行研究をふまえて発表しています。
 『氷河鼠の毛皮』は、賢治が27歳の時に、1923年4月15日の岩手毎日新聞に発表された作品です。
 先行研究で明らかになっているように、賢治が25歳だった1921年の7ヶ月間の東京滞在中に、彼のほとんどの童話の原型は作られました。
 私が大学の児童文学研究会の分科会である「宮沢賢治研究会」に入っていたころ聞かされた、様々な賢治の伝説のひとつである「ひと月で三千枚の原稿を書いた」というのもそのころのことです。
 「宮沢賢治年譜」によると、賢治はこの作品発表後の1923年8月に、当時日本領だった樺太に鉄道旅行をしています。
 そのころの樺太には、日本人だけでなくロシア人もたくさん住んでいましたから、賢治はこの作品に書かれているような無国籍の雰囲気を実際に味わっていたかもしれません。
 賢治は鉄道好きで、童話の10分の1、詩の5分の1に鉄道関連の言葉がでてくるそうです。
 この作品は、1903年に作られたアメリカ映画「大列車強盗」の影響を色濃く受けていると思われます。
 ここで、蔡は、DVDで「大列車強盗」の全編を上映してくれました。
 映画が発明されて10年後に作られた「大列車強盗」は、14のシーンからなる約10分の映画ですが、起承転結のはっきりした本格的な劇映画です。
 列車強盗、格闘、ダンス、馬による追撃、銃撃戦など、西部劇(もっとも、アメリカの西部で映画が作られたのは1910年からで、これは東部で撮影されたそうです)の構成要素を含んでいて、後の映画に大きな影響与えたとのことです。
 賢治の映画鑑賞体験は不明なのですが、盛岡中学にいた1910年代後半にはかなり洋画を見ていたことが推察されています。
 また、東京や仙台などへの旅行中にも映画を見たようです。
 その中に、この「大列車強盗」が含まれていたとしても不思議はありません。
 蔡は、『氷河鼠の毛皮』の中に、「大列車強盗」や1911年のフランス映画「ジゴマ」などの影響が見られると推定しています。
 蔡自身が言うように、まだ未確認の部分も残っているので、これからの研究に期待したいと思います。


氷河鼠の毛皮 (珈琲文庫 (10))
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ふゅーじょんぷろだくと
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津村記久子「ポースケ」ポースケ所収

2018-09-20 08:28:16 | 参考文献
 連作短編集の最終短編です。
 それまでの短編に出てきた人物たちが総登場で、大団円といった趣ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。
 津村の今までの作品は、働く女性だけでなく男性も描けているところが魅力でした。
 しかし、この短編集では、明らかにL文学(女性作家が女性を主人公にして女性読者のために書いた文学)への傾斜が感じられます。
 マーケティング的にはその方が正解なのでしょうが、津村の作品の個性が失われないかと危惧しています。
 L文学の書き手はすでに腐るほどいるので、注意しないとその中に埋没してしまう恐れがあります。

ポースケ
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中央公論新社
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よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」さきちゃんたちの夜所収

2018-09-19 08:46:37 | 参考文献
 双子の兄を航空機事故で亡くした35歳のさきちゃんが、義姉に恋人ができたことにショックを受けて家出をした姪の10歳のさきちゃんと、一夜をすごす話です。
 義姉のと電話中に、主人公が急にチャタリングを始めて、兄に代わって義姉の新しい恋に対して理解を示すシーンにはびっくりしました。
 スピリチュアルな話は、よしもとの読者である若い女性は大好きなのですが、一瞬よしもと自身があちらの世界へ行ってしまったのかと、背筋がぞっとしました。
 また、よしもとは自分の容姿にコンプレックスがあるのでどの話でも男好きのする美人を敵役にするのかと思いましたが、よく考えてみると大半のよしもとの読者は普通の容姿なのですから、ここでも彼女たちにサービスしているのでしょう。


さきちゃんたちの夜
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新潮社
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青山文平「遭対」つまをめとらば所収

2018-09-18 08:42:08 | 参考文献
 「遭対」とは、無役の旗本が、幕府の権力者(老中、若年寄など)の屋敷に日参して顔を覚えてもらい、出仕(役付きになること)に結びつけようとすることです。
 実際には、ほとんど出仕に結びつくことなく、屋敷の主人に声すらかけてもらえません。
 まあ、江戸時代の一種の都市伝説のようなものかもしれません。
 それでも、主人公の親友は、わずかな望みにかけて遭対を十二年も続けています。
 ひょんなことから、主人公は友人と一緒に遭対に参加し、一発で出仕のチャンスをつかみます。
 ラストで、主人公は、出仕と引き換えに、親友との変わらぬ友情と町人の女性との恋愛を成就させます。
 江戸時代の算学、苦界に沈まぬためにお妾さんになるという江戸時代の女性の処世術、阿弥陀参り、そのころ登場した鰻丼などの、興味深い江戸時代の風物を散りばめ、友情や恋愛を軸にして読み味もいいのですが、どうもこの作者のラストはバタバタしすぎで、読後の余韻が残りません。

つまをめとらば
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文藝春秋
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小沢正「きばをなくすと」目をさませトラゴロウ所収

2018-09-17 18:24:04 | 作品論
 トラゴロウは、遊んでいるうちに右のきばをなくしてしまいました。
 そのために、「うちの子じゃない」と、おかあさんに家を追い出されてしまいます。
 しかたなく、トラゴロウは右のきばを探しに出かけます。
 きばが片方しかなくて普段の力を失ったトラゴロウは、にわとりにみみずを、ぶたにくさったじゃがいもを、ひつじにかれくさを、きこりときこりのおかみさんにトラゴロウのきばでだしをとったスープを、嫌々ながらに飲まされます。
 最後に、右のきばを取り戻して口にはめたトラゴロウは、普段の力を取り戻して、きこりときこりのおかみさん、ひつじ、ぶた、にわとりを次々に一飲みにしてしまいます。
 満腹して家に戻ったトラゴロウに、おかあさんはびっくりして、「そ、そんなに いっぺんに たべると おなかを、こわしますよ」って、言えただけでした。
 力を失ってみんなに嫌な目に合わされていたトラゴロウが、力を取り戻してみんなを食べまくる姿は痛快です。
 でも、そうした魅力的なお話の中に、「自分とはなんだろう?」「他人が評価する自分とは?」といった子どもだけでなく大人でも日常で直面するシリアスな問題への問いかけが、巧妙に潜まされています。

目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
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理論社



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マージョリー・ワインマン・シャーマット「雨もり」ソフィーとガッシー いつもいっしょに所収

2018-09-17 09:04:26 | 作品論
 ガッシーは、家が雨漏りしたのでソフィーに電話をしました。
 ソフィーが駆けつけると、ガッシーは修理を手伝ってもらおうと思ったのではないのです。
 二人で、雨漏りの見張りをしようというのです。
 二人は雨漏りを見張りながら、チョコを食べたり、チェッカーをしたり、歌を歌ったりしながら、楽しく過ごします。
 雨が止んで家に帰りながら、ソフィーは雨漏りの見張りを思いついたガッシーに感心しました。
 仲良し同士が、たわいないことで楽しむ様子がうまく描けています。
 今も昔も、仲良しの女の子同士(男の子たちも同じです)が、グダグダ一緒に過ごす楽しさは変わりません。

ソフィーとガッシー いつもいっしょに
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BL出版
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佐藤宗子「「成長」という名づけ」――児童文学における読者の期待と読書の満足をめぐって」

2018-09-16 09:07:54 | 参考文献
 日本児童文学1995年9月号の「<成長テーマ>を問い直す」という特集の中で発表された論文です。
 児童文学において、オールマイティ的に扱われてきた「成長」という語を見直しています。
「「成長」。――まるで強迫観念のようにそれを読み取ろうとする、読者。」
と、佐藤の「成長」に関する読者論が始まります。
 読者が「読書体験」を肯定的なものにし、また媒介者が「児童文学」をすすめるのもその「読書体験」が肯定的なものであることが大前提だとして、以下のように述べています。
「媒介者からの示唆も含め、読者の中にそなえられた「成長」という概念は、「児童文学」を読書する際に「期待」としても機能し、「満足」としても働くことになるのである。」
 「変化」を「成長」と捉えられるわかりやすい例として、ノーソフの「ヴィーチャと学校友だち」、八束澄子の「青春航路 ふぇにっくす丸」、薫くみこ「十二歳の合い言葉」をあげています。
 しかし、村中李衣の「デブの四、五日」(『小さいベッド』所収、詳しくはその記事を参照してください)や川村たかしの「昼と夜のあいだ」所収の短編のように、「変化」の過程そのものは描かれず、前後をつなげば「変化」は確認できるが、その途中に空白があり、それが「成長」と読まれる作品も多いことを指摘しています。
 作品の最後に「空白」がおかれた例として、後藤竜二の「少年たち」や「14歳―Fight」をあげて、「それを事態解決への「予感」とし、やはりそこに、個人の、ないし人間関係の「成長」を認めようとするだろう。」と、読者が、自分の「読書体験」を空無にしたくないからだと主張しています。
 「幼年向の作品の場合、読者は、もう少し容易に「成長」を読むことができる。」としています。
 例えば、松谷みよ子の「小さいモモちゃん」では、「一話ずつの中で「成長」の過程が描かれているわけではないのに、短編集としては「成長物語」になっている。」と、指摘しています。
 その一方で、幼年向けの作品が、「「成長」が繰り返される、「遍歴物語」となっている。」場合もあることにも言及しています。
 そのことは、児童文学全体にも言えて、読者がいろいろな作品で「成長」を読み取ろうとして、読書の満足の「遍歴」化に陥っていく状況も指摘しています。
 そこで、佐藤は、「「成長」という名づけをいったん停止する」ことを提案しています。
 例えば、「「成長」の記号で読まれることが少なからずあったであろうル=グウィン「ゲド戦記」やペイトン「フランバーズ屋敷の人びと」のシリーズ」を、別の視点で読み直すことによって、「陥っていた読書の満足の「遍歴」化から脱けることができるのではないだろうか。」としています。
 他の「成長」の例として、しかたしん「国境」や神沢利子「銀のほのおの国」をあげ、それらと異なり「「成長」を読むことを拒む構図を、備えている」作品として、内山安雄「樹海旅団」をあげています。
 また、「作者―作品―読者のあり方そのものを変える、そのなかで「成長」観を変えることをはかる」作品として、水野良「ロードス島戦記」をあげて、読書のしくみそのものの見直しの問い直しを提案しています。

「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
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久山社



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エンタ―テインメント作品の書き方

2018-09-15 10:21:32 | 考察
 児童文学のエンターテインメント作品には、それに適した書き方があります。
 いくら文章や会話や描写がすぐれていても、それだけでは優れたエンターテインメント作品にはなりません。
 いや、最近のエンターテインメント作品では、かえってそのために古い感じがして、読者から敬遠されるかもしれません。
 そこでは、大人のエンターテインメント作品と同様に、偶然の多用、荒唐無稽な設定、極端にデフォルメされたキャラクターなどが、スピーディなストーリー展開と読者の興味をつないでページをめくらせるために有効です。
 さらに最近では、ストーリーの一貫性よりも、個々のシーンがいかに読者にうけるかが重要になっています。
 一番大事な点は、作者がエンターテナーに徹して、芸術性、社会性などの文学に求められる他のエレメントを捨てて、消費財としていかに読者を楽しませることができるかに注力することです。

物語の世紀末―エンターテインメント批評宣言
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集英社
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小沢正「一つが 二つ」目をさませトラゴロウ所収

2018-09-14 16:06:31 | 作品論
 1965年に出版された幼年童話の古典的な短編集の巻頭作品です。
 きつねが発明した「一つの物を二つにする」機械で、動物たちはそれぞれ自分の好きな物(さるはりんご、うさぎはにんじんなど)を二つにしてもらいます。
 でも、何も持っていなかったトラノ・トラゴロウは、自分自身を二つにしてもらいます。
 自分が昼寝をしている間に、もう一匹の自分に好物のにくまんじゅうを探してもらおうと思ったからです。
 きつねは躊躇したもののトラゴロウを二匹にしてあげます。
 でも、どちらのトラゴロウも昼寝をするのは自分だと主張して、大ゲンカが始まります。
 きつねがあわてて作った「二つの物を一つにする」機械で、無事にトラゴロウは一匹に戻ります。
 作者の動物ファンタジーの特長として、動物たちには特にユニークな個性は持たせずに、それぞれの既存のイメージ(きつねは賢い、うさぎはにんじんが好き、トラは乱暴者など)の範囲で、優れた発想とよく練られた構成でお話を展開します。
 このお話も、幼児でも楽しめる簡単な展開(面白い小道具、繰り返しの手法、意表を突くオチなど)で作られています。
 しかし、その裏には、読者に込められた作者ならではのメッセージが込められているのは、ラストのトラゴロウの言葉からも容易に想像できます。
「ほんとうの トラゴロウは ぼくだけだ。だから、ひるねをしている あいだは にくまんじゅうを さがしに いけないし、にくまんじゅうを さがしているあいだは ひるねができない。(後略)」
 作者がトラゴロウ童話に込めた思いは、以下の「はじめに」の文章でも明らかです。
「<トラゴロウは、きみたちです>って、いいたいけど やめた。トラゴロウは きみたちのまわりにはいない。きみたちが、トラゴロウにあうのは トラゴロウのおはなしを よむときだけだ。」
 作者が、トラゴロウ童話を始めた学生時代は、60年安保闘争の異様な高揚と痛烈な敗北を経て、虚無的な空気がキャンパスには漂っていたと思われます。
 そうした状況に絶望しつつも、次世代を担う子どもたちへの期待を込めて、トラゴロウ童話は書かれたのでしょう。
 それは、十数年後に同じキャンパスで、70年安保闘争敗北後の荒涼とした雰囲気(セクト間の内ゲバで死者が出て、その後の混乱の中で入学式も中止になりました)を味わった人間としては、痛切な思いで受け止めざるを得ません。


目をさませトラゴロウ (新・名作の愛蔵版)
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理論社
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