現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

川上未映子「いちご畑が永遠につづいてゆくのだから」愛の夢とか所収

2017-07-28 04:49:33 | 参考文献
 ストーリーはなく、ささいなことでいさかいを起こしたと思われる男女の関係を、女性からの視点で、以下のタイトルの短文でつづっています。
 待機。結局。訓練。内部。冷蔵庫。見惚れる。却下。復讐。決定。寝室。夜の底。
 散文というよりは、連作詩のような味わいがあります。
 普通の散文の短編集の中に突然このような作品があると、ドキッとします。
 児童文学の世界では、ストーリーがなく発想の連鎖で書かれた作品としては、岩瀬成子の「あたしをさがして」が有名ですが、あの作品は発想がどんどん外へ向かっていったのに対して、この短編は男女関係の内部に収斂していく感じで、児童文学でもこのようなタッチで子どもたちの関係を描いたらどのようになるのかと興味がわきました。


愛の夢とか
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講談社
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万城目学「法家弧憤」悟浄出立所収

2017-07-25 11:06:09 | 参考文献
 時代はさらにさかのぼって、秦の始皇帝の時代です。
 今回の主役は、他の短編と違って歴史上有名な人物ではなく、架空の一小官吏です。
 主人公と名前が同音のために、彼と人生が入れ替わってしまったテロリストとの運命が交錯します。
 法治国家の建設とテロリストを英雄視する市井の人々といった、現代でも世界のどこかで行われているような事件を、紀元前の世界を舞台に描いています。
 ただ、登場人物になじみがないせいか、全体に地味な印象を受けました。
 児童文学でも、無名の人物を主人公にした時代物の作品はありましたが、架空の国でのファンタジーが全盛の現在では、ほとんど出版されていません。
 
悟浄出立
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新潮社
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二宮由紀子「あるひ あひるがあるいていると」

2017-07-25 11:02:56 | 作品論
 「あいうえおパラダイス」シリーズの第一作目です。
 以下の五つの短編が含まれています。
 「ある日 あひるが 歩いていると」
 「いつも いっしょの イカと イルカ」
 「うれしくなった ウシ」
 「えびと えんどうまめと えんとつと」
 「お客さまは おおかみさん」
 もう分かりますね。
 それぞれの短編で使われているすべてのことばが、「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」で始まっている言葉遊びの本なのです。
 やや固有名詞(あひる、イカ、イルカなど)に頼っているきらいはありますが、それぞれナンセンスなお話にまとめ上げている腕前はなかなかのものです。
 ただし、「お客さまは おおかみさん」は、丁寧語の接頭詞の「お」に頼りすぎていて、それはずるいよなという感じです。
 この「あいうえおパラダイス」シリーズは好評なようで、他に以下の8作があります。
 「からすと かばの かいすいよく」
 「さかさやまの さくらでんせつ」
 「たぬきの たろべえの たこやきや」
 「なぎさの なみのりチャンピオン」
 「はるは はこべの はなざかり」
 「まくわうりと まほうつかい」
 「やさいぎらいの やおやさん」
 「らった らった らくだの らっぱ」


あるひあひるがあるいていると (あいうえおパラダイス あ)
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村中李衣「わたしの「ズッコケ」体験記」日本児童文学2005年1-2月号

2017-07-20 16:19:24 | 参考文献
日本の児童文学におけるエンターテインメントシリーズの最初の成功作である「ズッコケ」シリーズが終刊するに伴って、雑誌「日本児童文学」で特集された際のエッセイの一つです。
 まず、「ズッコケ」がスタートした1978年からの約25年の間に、子どもたちを取り巻く環境が大きく変化したことを三つのキーワードをあげて述べています。
 一番目は、シリーズの主人公である「三人組」です。
 かつては、子どもたちの世界で存在していた個性の異なるメンバーで構成されていた小グループが消滅して、人間関係がより単純化される「ペア」か、人間関係があいまいな「みんな」になってしまっていると指摘しています。
 その原因として、お題目のように「個性を伸ばす」といいながら、実は子どもたちを没個性化させている学校教育をあげて、、那須正幹が作品内でデフォルトしたキャラクターだとはいえ、今の時代(2005年)では、ハチベエもモーちゃんもハカセも、学校では問題児として取り扱われるだろうとしています。
 この文章が書かれてから十年以上がたち、この傾向がますます顕著になっているのは言うまでもありません。
 二番目は、「身体知」です。
 何事にも、三人が体当たりで経験していくのがこのシリーズの魅力なのですが、勉強も遊びも大人がおぜん立てをした範囲でしか体験できない子どもたちからは、「身体知」を得る機会は奪われて、受け身の「学問知」や情報ラッシュに押しやられ見る影もないと嘆いています。
 この文章が書かれたときにはまだ普及していなかったスマホが、すでに小学校高学年の子どもたちに普及していて、子どもたちが「身体知」を得るチャンスはますます失われています。
 なにしろ、かつてのスーパーコンピュータよりもはるかに優れた性能を持った機器を、子どもたちは常に携帯しているのですから。
 今では、「学問知」や情報ですら他人に問う必要はなく、SiriやGoogleに尋ねているのです。
 さらにAI機器の小型化高性能化が進めば、「問う」という行為さえいらなくなるかもしれません。
 過去の傾向から導き出されたその人にとっての最適な行動が、自動的に機械から指示される時代が来るのです。
 三番目は、「商店街」です。
 かつての地域社会を構成していた商店街における人間関係は完全に失われ、コンビニと無個性な大型ショッピングモールに二極化された消費社会において、子どもたちは親や教師以外の大人たちとは全く切り離された形で成長せざるを得なくなっています。
 最後に、作者はズッコケシリーズの登場人物が、巻を追うごとにどんどん饒舌になっていっていることを指摘しています。
 かつては、子どもたちに共有されていたコモンセンスが失われ、それぞれが切り離された形で存在しているために、より事細かに情報を伝達しなければ、人間関係が成立しなくなっているのです。
 この傾向は、児童文学に限らず一般文学でも、特にエンターテインメント系の作品では、顕著になっています。
 他の記事にも書きましたが、文学作品から描写がどんどん失われて、モノローグやダイアローグの形で、作者が伝えたいことがより説明的に表現されるようになっています。
 これは、読者の受容力や文学に何を求めるかが変わってきているのも、その原因の一つだと思われます。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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川上未映子「お花畑自身」愛の夢とか所収

2017-07-19 08:59:02 | 参考文献
 夫の事業の失敗で、丹精込めて手入れしていた自宅と庭を失うことになった五十代後半の主婦の話です。
 今はウィークリーマンションに身を寄せている主人公は、家があきらめきれずに時々のぞきに行っています。
 そこでは、新しい住人の三十代独身の女性作詞家が一人で暮らしています。
 作詞家が外出した時に、主人公は我慢できずに庭に水やりをしてしまいます。
 家や庭への執着が強いあまりに、精神のバランスを崩しているのかもしれません。
 帰ってきた作詞家と出くわして対決する羽目になります。
 最後に、庭への未練を断つためと称して、主人公は作詞家に庭へ埋められます(顔は外に出ているので、殺されたわけではありません)。
 全体を通して、作詞家という有職女性を通して、川上の専業主婦に対する蔑視感が強く表れています。
 特に主人公の場合、子どもがいないので専業主婦で人生をおくってきたことに正当性を主張できません。
 しかし、主人公は五十代後半で、夫はそれより年上なので団塊世代なのでしょう。
 その年齢の夫婦が、夫を仕事に集中させるために女性を専業主婦化させた社会的ないし政治的背景(その方が会社も国も効率が良かったのです)が無視されていて、この書き方は主人公にとってむごい気がします。
 たしかに、三十代のどちらも成功した作家夫婦である川上からすると、このような女性に対する優越感はあるのでしょうが、もう少し相手の世代の立場に立った視点が必要だったのではないでしょうか。
 児童文学にも多くの専業主婦が登場しますが、それを既得権のように主張したり若い世代が反動的にそれに憧れたりするのは決して肯定できませんが、前述したような歴史的な背景を理解した上で書かれるべきだと思います。
 
愛の夢とか
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石井直人「児童文学補完計画3-速度」日本児童文学2015年11-12月号所収

2017-07-18 19:46:55 | 参考文献
 児童文学における速度の変化について述べています。
 ここであげている速度については二つの意味があり、一つは作品世界の中を流れる時間の速度であり、もうひとつは読者の読む速度です。
 ただし、この文章では、次第に主題からそれて別の話題になり、論考としてはまとまりのないものになっています(作者はエッセイのつもりで書いているのかもしれませんが、読者が児童文学研究者である作者に求めているものは、もっときちんとまとまった文章でしょう)。
 作品の中を流れる時間が、かつての児童文学と比べて速くなっている(描写を省いて物語の筋を追うようになっている)ことをフィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を例にしてあげていますが、この点はまったく同感です。
 トムが真夜中に訪れる邸宅(今は分割されてアパートになっています)にかつてあった素晴らしい庭やイギリスのビクトリア王朝時代の低地地方の描写を割愛したら(あるいは読者が読み飛ばしたら)、作品の魅力、特にラストでトムがバーソロミューおばあさん(真夜中の庭の世界の少女ハティ)と抱擁を交わす感動的なシーンを真の意味では味わえないでしょう。
 他の記事にも書きましたが、児童文学に限らず、一般文学でもエンターテインメント作品は、描写をできるだけ省いて説明的な文章を多用して、物語の筋だけをスピーディに追う作品が一般的になっています(「蜜蜂と遠雷」(その記事を参照してください)のような例外もありますが)。
 それは、読者が文学、特に児童文学やエンタテインメント作品に何を求めるか(優れた描写や文章よりもスピーディな物語展開)が大きく変わったためだと思われます。
 しかし、それならば、文学ではなくゲームや動画やテーマパークのアトラクションの方が、そういった点では本質的に優れているのではないでしょうか。
 次に、「アナと雪の女王」などを例にして、物語のなかでの時間の圧縮を、アニメのような、作品の中での時間と観客の実時間が同一な(作者の言葉を借りると没入型の)作品の特質としてあげていますが、これは現代児童文学ではなく民話や昔話などを例に挙げれば、もっと大胆な時間の圧縮をしている例はいくらでもあるので、特に新しいことではありません。
 次に、福永信の「コップとコッペパンとペン」を例に、作品世界の時間が異様に速かったりテンポが一定でなかったりする例を挙げて、速度が物語を無力化する可能性を示唆していますが、このような実験的な作品を示して一般化するのは無理があります。
 次に、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」(その記事を参照してください)を例にあげて、物語が深まるにつれて同じシーン(この場合は四百メートルリレーにおいて主人公が百メートル走る間)がより詳しく描写されてあたかも時間がスローモーションになったようだと述べていますが、こんなことは少年漫画のスポーツ物(あるいは戦闘物)では常識的な手法で、これまた特に新しいことではありません。
 次の節で二宮由紀子の「あるひあひるがあるいていると」などを例に、このような言葉遊びの本は読み飛ばしを許さずに読者の読む速度を一定化すると述べています。
 最後に、藤野恵美の「雲をつかむ少女」を安藤美紀夫の「風の十字路」(その記事を参照してください)と対比して、SNS時代の人間のつながりを描いた作品は、かつてのような中心点(「風の十字路」の場合は同級生の自殺)を持たない仮想空間が描かれる可能性を示唆していて興味深いですが、主題である速度とは直接的なつながりはありません(作者は「それぞれが人生を歩く速度」とこじつけていますが)し、論考も不足していて読んでいて消化不良を起こしました。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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万城目学「虞姫寂静」悟浄出立所収

2017-07-18 08:54:30 | 参考文献
 時代はさらにさかのぼって史記の時代です。
 ここでも、天下を競った項羽でも劉邦でもなく、項羽の寵姫、虞美人にスポットをあてています。
 有名な垓下の戦いにおける「四面楚歌」の故事や項羽の垓下の歌(最後に決死の戦いの後の虞美人の行き先を心配しています)、虞美人草(ヒナゲシの別名)のいわれなどをちりばめながら、極限状況における男女の愛情と生きざまを描きます。
 三国志と違って史記には疎いので、どこまで正確に作品世界を味わえたか心もとないのですが、虞美人の女の意地は小気味よく感じました。
 それぞれの故事のいわれを知らない大半の読者のためには、注釈があった方がいいかもしれません。

悟浄出立
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万城目学「悟浄出立」悟浄出立所収

2017-07-17 08:15:02 | 参考文献
 西遊記において、三蔵法師のお供のトリオの中で最もマイナーな沙悟浄の視点から、他のメンバー、特に猪八戒の前世を見つめることにより、新たな世界が広がります。
 特にクールな観察者に設定された沙悟浄が、新たな生き方へ踏み出すラストが感動的です。
 児童文学の世界でも、古典のパロディ的なたくさん作品はありますが、このようなまじめで哲学的な思索を込めたオマージュ的な作品はあまりないかもしれません。

悟浄出立
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ブリッジ・オブ・スパイ

2017-07-15 17:27:07 | 映画
 2015年のアメリカ映画です。
 1957年の米ソ冷戦下において、アメリカで逮捕されたソ連のスパイの弁護を担当した実在の弁護士の人道的な活躍(アメリカ人からは裏切り者扱いをされ、家に銃弾も打ち込まれました)を描きます。
 ソ連で捕虜になった偵察機のパイロットと、彼が弁護して死刑を免れたソ連のスパイとの交換の交渉も、主人公の弁護士が担当することになります(映画なのでそのへんのいきさつは省かれているので、なぜ民間人の彼がやらなくてはならないのかは、史実に疎い私には分かりにくかったです)。
 お話のミソとしては、単なるアメリカとソ連の捕虜の交換としてではなく、そのころに東独で拘禁されていたアメリカ人学生の解放も絡めたことによって、よりヒューマニティが強調されています。
 監督のスピルバーグの抑えた演出によって、アメリカ、ソ連、東独のどの国に対しても、極端に美化したり非人道的にしたりすることなく、それゆえ国家によって個人がいかに脅かされているかという、より普遍的なテーマが描き出されています。
 こうした映画の主役の常連であるトム・ハンクスの演技力は言うまでもありませんが、この作品でアカデミー賞助演男優賞を獲得したソ連のスパイ役のマーク・ライランスの渋い演技が光っています。

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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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ばんひろこ「いちねんせいにも ひみつは ある」まいにちいちねんせい所収

2017-07-15 16:05:38 | 作品論
 ゆきとたつやを描いた連作短編集の最終編です。
 たつやは自分の秘密の「白眉(一本だけ長く生えている白い眉毛のことで、これが生えていると頭が良くなるとたつやは思い込んでいます)」を教える代わりに、「給食のエビチーズ春巻きのお代わりをよこせ」と、ゆきに要求します。
 エビチーズ春巻きの取り合いのドタバタの最中に、ゆきがたつやの白眉を抜いてしまいます。
 がっくりしているたつやを励ますために、ゆきはモモちゃんと二人だけの秘密だった神社の不思議な力があると信じている塀の穴を教えてあげます。
 この作品でも、仲良しの二人の様子が生き生きと描けていますし、子どもたちの大好きなおいしそうな給食のメニューがたくさん出てきて、楽しい仕上がりになっています。
 ただ、なぜ給食のお代わりの権利をゆきにお願いするのかが最後までわからなかったので、もうひと工夫あった方がいいかなと思いました。

まいにちいちねんせい (ポプラちいさなおはなし)
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パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

2017-07-15 16:02:53 | 映画
 人気シリーズの第五弾です。
 ジョニー・ディップ演じるジャック・スパロウを初めとした、お馴染みのメンバーが大活躍します。
 CGの技術進歩に伴い、アクションシーン、海の中、亡霊などの映像はどんどん迫力が増しています。
 その分ストーリーが弱くなっていますし、主要メンバーも年齢が高くなり魅力は失われています。
 この作品では、その部分を親子の愛情物語(父と息子、海賊の父と娘)や若者同士の恋愛感情などで巧みに補って、ストーリーを展開していきます。
 マンネリ化していて退屈な部分もあるのですが、全体としては楽しいエンターテインメント作品に仕上がっています。

パイレーツ・オブ・カリビアン:ブルーレイ・4ムービー・コレクション(期間限定) [Blu-ray]
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ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
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ばんひろこ「いちねんせいの 口は、あけられない?」まいにちいちねんせい所収

2017-07-14 07:06:21 | 作品論
 ゆきとたつやを主役にした連作短編集の二編目です。
 乳歯の前歯が抜けてしまったゆきは、恥ずかしくて口を開けられません。
 そんなゆきをたつやは挑発するのですが、ゆきは何とか口を開けないでこらえます。
 ゆきの傘を破ったり、悪ふざけをしても、たつやはダジャレを連発して悪びれません。
 そんなたつやは、クラスのみんなに糾弾され、それでも悪ふざけのダジャレを続けたので、とうとう先生に呼び出しを受けてしまいます。
 雨の帰り道、いつになく元気がないたつやを励ますために、ゆきはあれほど隠していた歯抜けの口を開いて笑わせます。
 歯が抜けたときのこの年齢の子どものかわいらしさや、みんなが大好きなダジャレを使って、読者や媒介者(親や先生たち)にたっぷりサービスした、楽しいお話に仕上がっています。
 いつも元気なたつやが先生に叱られたぐらいでしょんぼりするのはやや不自然な気がしましたが、まだ異性を意識する以前の子どもたちの仲良しな雰囲気がうまく書かれています。
 ただ、私自身や私の子どもたちがそのくらいの年齢だったころの記憶をたどると、十分に異性は意識していたので、ゆきとたつやの関係にもそのあたりの微妙な雰囲気を出したらもっと面白くなるかもしれません。

まいにちいちねんせい (ポプラちいさなおはなし)
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ばんひろこ「いちねんせいの ランドセルは、ピッカピカ?」まいにちいちねんせい所収

2017-07-12 09:44:53 | 作品論
 連作短編集の巻頭作なので、主人公のゆきやたつやのキャラクター設定がなされています。
 ゆきは、心がやさしくよく気がつく女の子です。
 たつやは、ガサツなとことはありますが、これもまたやさしい所のある男の子です。
 ふんだんに描かれている長谷川知子の挿絵も、二人のキャラクターの魅力をよく表していて、ゆきはかわいいし、たつやは元気いっぱいです。
 作者や画家の子どもたちに対する観察眼は定評がありますし、この作品でも十分に発揮されていると思います。
 しかし、これらのキャラクター設定はいささか古い感じもします。
 女の子は「やさしく気がきいて」、男の子は「元気だけどやさしい所もある」、こういった設定の本はもうたくさん書かれているでしょう。
 また、少し大げさに言えば、ジェンダー観の固定化にもつながり、子どもの自由な成長を阻害しかねない気もします。
 作者には、従来のパターンを壊すような冒険をしてもらいたかったなと思いました。
 ストーリーは、登校前にたつやが子猫を拾い学校へ連れて行くことで起こるドタバタを中心に進み、大きな破綻もなくきちんとおさまるところにおさまります。
 ここでは、低学年の読者が読む上で問題だったと思った点を指摘しておきます。
 まず、お話の起承転結が弱い気がしました。
 読者が低年齢になればなるほど、ストーリーのメリハリがないと読者は飽きてしまいます。
 この作品では、障害をクリアする個所があっさりしすぎていて、読者が主人公たちに感情移入しにくいと思いました。
 このお話の場合、障害として考えられるのは、「猫を教室に持ち込んだことに対する先生の対応」、「子猫の行く末をどうするか」だと思います。
 しかし、このお話では、前者は先生が物わかりが良すぎて障害にならず、後者は偶然その子猫のことを知っている上級生のおねえさんと出会う事であっさり解決してしまいます。
 これでは、どうなることかとドキドキしていた読者(彼らは主人公たちと一緒に問題を解決したいのです)は肩透かしを食った感じがしてしまいます。
 年少の読者のための配慮として細かいことを指摘すると、「学校のシーンからゆきの家のシーンに場面転換する箇所が行空きされていない」、「上級生のおねえさんの最初のセリフが誰が話したのかわかりにくい」など、ひっかかるところがいくつかありました。
 この作品は同人誌の合評会に出されたものではなく、一つの商品なのですから、作者と編集者は細心の注意を払うべきでしょう。
 もちろんこの作品には、ゆきが教室で子猫の鳴き声をごまかしたり、子猫がうんこ(小さい子たちは大好きです)をしてしまい騒動になったりと、作者ならではの楽しいシーンがたくさんあって魅力的なのですが、この二人が年少の読者たちにとってかけがえのない「友だち」になるためには、より一層の努力がいるように思いました。

まいにちいちねんせい (ポプラちいさなおはなし)
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小野正嗣「悪の花」九年前の祈り所収

2017-07-10 09:29:03 | 参考文献
 他の作品とほぼ同じ場所と時間を、老婆の視点で書いています。
 ほとんど老婆のモノローグで語られているので、土着性や呪術性は増しましたが、ストーリー性はまったくないので、この作品集の中では一番読みにくくなっています。
 アプローチが同人誌的(発表されたのは早稲田文学です)で、かなり読者が限定されています。
 児童文学でも、商業出版でなく同人誌ならば、このような思い切った手法で描く作品もあってもいいのではないかと思います。

九年前の祈り
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藤田のぼる「僕の「現代児童文学史ノート」日本児童文学1984年3月号所収

2017-07-08 09:57:36 | 参考文献
 日本児童文学2013年1-2月号から「現代児童文学史ノート」を三回連載した藤田のぼるには、30年前に同じ様なタイトルの論文を同じ日本児童文学に発表しています。
 そこでは、主として六十年代と七十年代の現代児童文学について、藤田がどのように考えるかが、執拗に追及されています。
 作品からの引用が多かったり、未整理な点がありますが、藤田がこの時代の現代児童文学についてどのように考えるかが繰り返し語られています。
 紙数の違いはありますが、2013年の連載でも、もっと藤田の見方を前面に出した書き方にしてもらいたかったと思いました。
 1980年代から1990年代に、主として日本児童文学誌上において、盛んに評論を発表したり座談会をしていた当時の若手評論家たち(佐藤宗子、宮川健郎、石井直人、村中李恵など)は、その後大学教授などの収まる所へ収まってしまい(そのころは児童文学関連の講座を開設する大学が増えていました)、佐藤を除くと最近はほとんど論文を書かなくなってしまいました。
 その後の世代は、今度は常勤の大学教員などの仕事が得られずに(少子化や文学・教育関連の学部の縮小によります)、生活のためにより仕事が得やすい英米文学や近代文学へ流れています。
 また、日本児童文学誌自体も、かつての月刊で一般の書店にも並んでいた時代から、隔月刊で児童文学者協会の周辺の人たち向けの機関誌という本来の状態へ縮小されてしまいました。
 当時から、一貫して日本児童文学者協会で働いている藤田には、より当事者意識を発揮して、現在の会員たちを啓蒙してもらいたいと思っています。



日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
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小峰書店
 
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