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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

白土三平「誕生の巻」カムイ伝所収

2021-10-31 11:28:00 | コミックス

 「カムイ伝」(ここでは1964年から1971年まで、ガロに連載された第一部を対象にしています)は、江戸時代の寛永の末から寛文年間(1640年ごろから1670年ごろまで)にわたる約三十年間を舞台にした大河歴史漫画ですが、実際には時代背景は史実とはかなり自由に変えてあり、登場人物のメンタリティや言葉遣いは連載当時の日本人にかなり近いものです。
 当時の日本では、高度経済成長をバックに保守陣営と革新陣営が鋭く対立していたのですが、この漫画では現代を舞台にしては自由に書きにくい作者の主張(基本的には、マルクス・レーニン主義や社会主義に影響を受けていると思われます)を、身分社会であった江戸時代を舞台にすることでかなり自由に描いた作品です。
 こうした手法を作者の創作の動機から考えると、児童文学の世界で、リアリズムの世界ではいろいろと制約があるので、ファンタジーの世界でより自由に描くのに近いかもしれません。
 作者の主張が近いために、当時の革新陣営(特に若い世代)に強く支持されました(当時は今と違って、若い世代ほど革新陣営側の考えを持つ人が多く、保守的な考えを持つ人はどちらかというと少数派でした)。
 その後、日本社会が「一億総中流」と呼ばれるほど豊かになっていった1970年代以降に革新陣営が衰退するにつれて、「カムイ伝」の評価もかなり変わってきたのですが、バブル崩壊後に格差社会が進行している日本(未だに国民の意識は「一億総中流」なのですが)ではもう一度見直されてもいい作品かもしれません。
 また、や百姓に対する差別とそれに対する戦いもこの作品の大きなテーマなので、差別について考える意味でも重要な作品だと思われます(ただし、50年以上も前に書かれた作品なので、差別に対する認識が古くなっていたり、用語その他が現代では不適当な部分も含まれています)。
 「カムイ」というと、やがて抜け忍になる出身の忍者が有名ですが、アルピノであるがゆえに家族や群れから疎外されていた白オオカミも同じ「カムイ」という名前で、

 

 

作者の当初の構想は、封建制度の中での人間社会と、自然の中での動物社会を、並行して描こうとする壮大なのものでした。
 その背景には、作者が「忍者武芸帳」などの忍者漫画と並行して、「シートン動物記」などの動物漫画も描いていたことがあると思われます。
 しかし、実際には、白オオカミのカムイは次第に姿を消して、抜け忍のカムイもだんだん脇役に回り(彼の主な活躍場は、「カムイ外伝」へ移行していきます)、巻を追うに従って、百姓(その中でも最下層の下人出身)の正助が主役になっていきます。
 この巻では、主要な登場人物(オオカミもいますが)である、カムイ()、カムイ(白オオカミ)、正助(百姓)、草加竜之進(武士)などの誕生、登場、出会いなどが描かれています。

 

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山本周五郎 作品集

2021-10-31 11:22:25 | 参考文献

 作者の短編を集めた作品集です。

 大半は、江戸時代を舞台にしていて、一部は戦国時代や現代(といっても、戦前ですが)の物もあります。

 そこでは、武士の侍魂や市井の人々の職人魂や女性像が語られています。

 その多くは現代では失われてしまっていますが、どこか懐かしい感じがします。

 そのため、今でも高齢者の読者には読まれているのでしょう。

 

 

 

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2番目のキス

2021-10-30 12:38:27 | 映画

 2005年公開のアメリカ映画です。

 ドリュー・バリモア主演のロマンチック・コメディで、1997年のイギリス映画のリメイクです。

 熱狂的なボストン・レッドソックスのファンの恋人に振り回される女性を、彼女がかわいく演じています。

 イギリスで版ではサッカーだったものを、野球に置き換えています。

 どちらも、アーセナルのリーグ優勝やレッドソックスのワールド・シリーズ優勝といった劇的なシーズンを描いています。

 ただし、「バンビーノの呪い」などのマニアックな話題も出てくるので、日本人の場合はメジャー・リーグのファンでないと楽しめないかもしれません。

 

 

 

 

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サタデー・ナイト・フィーバー

2021-10-29 16:49:59 | 映画

 1977年のアメリカ映画で、映画そのものの評価よりも、そこから生み出されたディスコ・ブームやビージーズの数々のヒット曲や「フィーバーする」といった流行語を生み出したことで有名です。
 ストーリー自体は、先が見えない労働者階級の若者たちの絶望感と刹那的な快楽といった使い古されたもの(例えば、映画だったら「ウェストサイドストーリー」、小説だったらアラン・シリトーの「土曜の夜と日曜の朝」など)ですが、ジョン・トラボルタの若々しい魅力(馬面でイケメンではないけれど、スタイル抜群で決めポーズがカッコいい)あふれるダンス・シーン(今見ると結構ダサいのですが)が全編に散りばめられていて、バックに流れるビージーズの音楽とともに世界中で大ヒットしました。

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佐藤さとる「だれも知らない小さな国」

2021-10-27 17:29:29 | 作品論

 児童文学の世界では、言わずと知れた「現代日本児童文学」のスタートを飾ったされる二作品のうちのひとつです。
 同じ1959年に出版されたもうひとつの作品はいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」で、くしくもふたつとも小人が登場するファンタジーの長編です。
 もちの木を探しに山に出かけた「ぼく」は、泉のあるきれいな小山を見つけます。
 「ぼく」は、その場所を自分だけの秘密にします。
 昔、その小山に「こぼしさま」という小人が住んでいたと聞いてから、ぼくの心の中には「小人」が住むようになります。
 そして、実際に小人の姿も一度だけ見かけます。
 しかし、その後は小人に出会わないまま「ぼく」は大きくなっていき、だんだん小山のことは考えないようになります。
 やがて、戦争が始まり「ぼく」も大人になって、小人のことは忘れていきます。
 しかし、戦後、「ぼく」は久しぶりに小山に行き、その場所が子どものころと全く変わっていないことを喜び、何とか自分のものにしようと思います。
 その後、小人たちと再会し、彼らをスクナヒコノミコトやコロボックルの末裔だと思います。
 「ぼく」は、小人たちや幼いころにこの小山で出会っていて戦後再開した女性と協力して、小山を手に入れてコロボックルの国を築いていこうと誓います。
 1973年4月に大学の児童文学研究会に入会して最初の一年目には、内外の現代児童文学を集中して百冊以上読みましたが、この作品は山中恒の「赤毛のポチ」、「ぼくがぼくであること」、斉藤惇夫の「冒険者たち」などと並んで、もっとも印象に残った日本の作品でした。
 19歳の時に書いた「佐藤さとるの作品においての考察」(ビ-ドロ創刊号所収、その記事を参照してください)という文章の中でも、「「だれも知らない小さな国」は、おそろしく緻密な文章でかかれている。実際、それだけでも僕は打ちのめされてしまう。技巧だのなんだのと、いってはいられない。ストーリーの無理のなさ、その構成、心理や行動の描写の確実さには、圧倒されてしまう。ついに、日本にも、英米のファンタジー作品にも比肩しうる作品が生まれたといえる。」と、興奮気味に述べています。
 四十年ぶりにこの作品を読んでみても、この評価はほとんど変わりません。
 この作品は、時代の淘汰に耐えた現代児童文学の古典だといえるでしょう。
 佐藤さとる氏は、2017年2月にお亡くなりになりました、謹んでご冥福をお祈りいたします。

コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語)
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古田足日「軍国主義・児童文化・子ども」

2021-10-25 18:12:24 | 参考文献

 1968年8月に「作文と教育」に掲載された評論です。
 教科書や児童漫画雑誌が権力に支配されて、軍国主語的な内容が復活していることを批判しています。
 この時期には、中学生だった私はすでに少年漫画雑誌はほとんど卒業(もう買ってはいませんでしたが、書店で立ち読みはしていました)していたのですが、私が毎週少年サンデーを買っていた(近所の友達と交換して回し読みにしていたので、少年マガジンも少年キングも毎週読んでいました(少年ジャンプや少年チャンピオンはまだ出ていませんでした))ころ(1960年代半ば)は、もっと戦記物マンガや戦艦などの資料が多く載っていました。
 「ゼロ戦はやと」や「紫電改のタカ」(これは単純な戦記物ではなく主人公の悲しみのようなものが描かれていました)などが、記憶に残っています。
 著者は、それに対応すべき児童文学の無力さも、同時に指摘しています。
 ここに引用されている子どもの読書人口が5%だということは、私の経験からしてもうなづけます。
 その一方で、著者は自分の住む町の小学校三年生99人のうち、一学期の間に一冊も物語類(物語、童話、伝記)の単行本を買わなかった(買ってくれなかった)子どもが46人もいることを嘆いていますが、これは私にはむしろ驚きでした(どんなお金持ちの子どもたちが通う学校なのでしょうか?)。
 私の子ども時代に、参考書やドリル以外に親に買ってもらった本は、少年サンデー以外には「ゼロ戦の栄光と悲劇」(著者はこの文章にも出てくる撃墜王の坂井三郎です)ただ一冊でした。
 私の家は特に貧しくも教育に不熱心なわけでもなく、高校教師の父は、自分のために「世界文学全集」と「日本文学全集」と「古典文学全集」を、姉たちのために「講談社版少年少女世界文学全集」を全巻そろえていました。
 飛び抜けて優秀で美人だった姉たち(特に上の姉)を溺愛していた両親は、自家中毒で体が弱かった末息子はただ過保護にして何もさせない方針だったようです。
 おかげさまで、いろいろな事情で友だちもいず家で寝ていることが多かった私は、姉たちがほとんど見向きもしなかった「講談社版少年少女世界文学全集」を幼稚園のころから読みふけり(私の児童文学観はほとんどこの時期に形成されています)、小学校になってからはこれもほとんど手付かずだった「世界文学全集」と「日本文学全集」にまで手を伸ばすようになります(「古典文学全集」はさすがに手に余りました)。
 といっても、健康を完全に取り戻した小学校高学年からは、完璧なスポーツ少年になったので、児童文学の世界のことは高校二年に「子どもと文学」(その記事を参照してください)を読むまでは完全に忘れていました(大人の小説は、区立図書館で借りて読み続けていました)。
 私の周辺の子どもたち(男の子たちしか分かりませんが)も同様で、少年マンガ雑誌やアニメの話は熱心にしましたが、本の話など一度もしたことがありませんでした(むしろ本など読んでいるのは、女の子のようで恥ずかしい(ジェンダー観が古いですね)ことのように思っていました)。
 その後、多様な本が出版されるようになり、いろいろな読書運動も活発だった1970年代から1980年代には、子どもの読書人口も増大したと思われます。
 特に、那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズのようなエンターテインメント作品が、量的な拡大には貢献したと思われます。
 しかし、1980年代から1990年代に児童文学の「小説化」が進むにつれて、児童文学のコアな読者である小学校高学年(特に男の子)の児童書離れが進んだので、現在の子どもの読書人口は、学校などで無理やり読まされるのを除けば、当時の5%よりさらに低くなっているかもしれません。
 

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長谷川潮「終わりのない模索 安藤美紀夫小論」日本児童文学1990年9月号所収

2021-10-24 17:36:45 | 参考文献

 安藤美紀夫追悼特集に掲載された論文です。
 安藤に関する個人的な想い出を取り混ぜながら、主に安藤の創作活動について論じています。
 他の記事にも書きましたが、安藤は創作(「でんでんむしの競馬」(著者が文庫版のあとがきを書いています。その記事を参照してください)など)のみならず、研究(イタリア児童文学を中心にした世界児童文学と日本児童文学の両方)、評論(現代児童文学を中心に世界と日本の児童文学について)、翻訳(「マルコヴァルドさんの四季」(その記事を参照してください)など)、後進の教育(門下生は、この特集でも書いている村中李衣(その記事を参照してください)など)と、多面的に活躍した児童文学者です。
 著者は、創作者としての安藤美紀夫があまり論じられてこなかったとしています。
 その理由としては、「安藤が研究、評論、翻訳の分野で登場した」ためだとしている児童文学者の神宮輝夫の意見を紹介しています。
 著者は、それに付け加えて、安藤の作品が、素材(原風景である戦前の京都、18年暮らしていた北海道の諸問題、戦争体験など)だけでなく、方法の面においても多様性(リアリズム、ファンタジー、メルフェン、ファンタジーア・レアルタ(イタリア語で空想・現実を意味して両者が混在した世界)に富んでいて、作品の累積効果(例えば、佐藤さとるは、「だれも知らない小さな国」の基盤の上に「コロボックル」シリーズを築き上げているので、それによって「佐藤さとる」の世界をイメージできます)を安藤自らが拒否しているとしています。
 著者は、専門分野(関連する著者の論文の記事を参照してください)である戦争児童文学(「青いつばさ」、「七人目のいとこ」など)を中心にして、安藤の主な創作活動(他に「でんでんむしの競馬」など)を論じています。
 追悼特集中の論文にも関わらず、褒めるだけでなく、批判すべきところは批判している著者の書き方には好感が持てます。
 ただ、作品の評価が、著者自身のあとがきや児童文学研究者による文庫版の解説などに依存しすぎていて、作品そのものにどのように描かれていたかの言及があまりなかったのが物足りませんでした。
 また、作品を論ずるのに、「何」が書かれているか終始していて、どのように描かれていたか(登場人物のキャラクターや様々な描写)がほとんど論じていないのは、他の児童文学研究者(安藤美紀夫、古田足日、石井桃子、村中李衣などは除く)とも共通する実作体験の乏しさのせいなのかなという気もしました。
 それにしても、このような作家論が当たり前のように雑誌「日本児童文学」に掲載されていたころ(1970年代をピークにして1960年代から1990年代ごろまででしょう。これは、狭義の「現代児童文学」の時期と重なります(関連する記事を参照してください))と、作家論などほとんど書かれない現在とでは隔世の感があります。
 その理由としては、以下のような点が考えられます。
 まず、児童文学(一般文学も同様ですが)における評論の衰退があげられます。
 作品に評論が与える影響が、ますます小さくなっています(もともと評論家が思っているより小さかったのですが)。
 他の記事にも書きましたが、大学や専門学校などで児童文学(それ以外の文学も同様です)の講座が廃止縮小されて、児童文学の研究や評論では飯が食えなくなっているので、この分野の志望者は激減しています(いたとしても、現代の児童文学ではなく、より無難な英米児童文学や近代や古典を専門分野にしています)。
 出版される本の大半がエンターテインメントで、ほとんどの作品のみならずその作家までが消費財的に扱われていて、まとまって論じる対象とされていません(もともとエンターテインメント系の作品は評論や研究の対象にはならなかったのですが、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのような、まとまった論考がなされている例外もあります)。
 児童文学業界全体が長期的な斜陽産業であり、マーケットサイズが出版バブルのころからは大幅に縮小していて、文化的な側面をサポートする余力がなくなっています。
 このような時だからこそ、国や地方自治体のサポートが必要なのですが、ご存知のように橋本元府知事による大阪国際児童文学館の閉館・縮小(大阪府立図書館内に併設)など、ここでも切り捨てられる方向です。

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本田和子「児童文学における「伝え」の問題」児童文学研究No.1所収

2021-10-23 17:53:03 | 参考文献

 1971年に、日本児童文学学会の紀要に掲載された論文で、児童文学の「伝達性」について、当時の作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」などの戦争児童文学を中心にしています)を分析しています。
 当時の児童文学は、現在よりも「大人の作者が書いて、子どもの読者が読む文学」という性格が強かったために、「表現性よりも伝達性の強い文学である」という主張(著者が挙げている例としては、鳥越信など)があり、それに対して、作者が特定の読者に語りかける形で成立した古典的な作品(ここでは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」とリンドグレーンの幾つかの作品があげられていますが、有名なところではケネス・グレアムの「たのしい川辺」などもそうです)があるという理由で、「伝達の文学」ととらえるのは表面的だと批判しています。
 言葉の解釈に厳密な著者は、「伝達」(コミュニケーション)を、作者側から「伝える」(自動詞)と、読者側へ「伝わる」(他動詞)の二面からとらえる必要性を指摘しています。
 そう考えると、「伝達性」と「表現性」は対立する概念でなく、作品は作者の「自己表現」であると共に、読者によく「伝わる」表現でなければならないとしています。
 そうした観点で、七つの作品(松谷みよ子「ふたりのイーダ」、おおえひで「八月がくるたびに」、田中博「遠い朝」、早乙女勝元「火の瞳」、長崎源之助「ゲンのいた谷」、赤木由子「はだかの天使」、須藤克三「出かせぎ村のゾロ」で、最初の五作品は「原爆ないしは戦争体験」を、六作目は「発達障害児への関心と善意」を、七作目は「出かせぎ農村の現状」を「伝え」ようとしています)を例に挙げて、分析しています
 これらのすべての作品において、作者の「伝え」ようとする姿勢については、「求道的とすらいえるほどに真面目で」「作者をとりまく現実への真剣な関心が、これらの作品に溢れんばかりに反映されるのである」としています。
 一方で、「ふたりのイーダ」を除く六作品は、子ども読者に「伝わる」ための表現が不十分だとしています。
 第二から第五までの四作の戦争児童文学については、体験者(大人)は感動的で共感しやすい世界であるが、現代の子どもたちにとっては「歴史上の出来事」或いは「過ぎ去った時代を懐かしむ世代の追憶」としてしかとらえられないのではないかとしています。
 「ふたりのイーダ」に関しては、主人公の現代の少年の目を通して、読者も原爆や戦争の悲惨さを追体験できる表現がされていると高く評価していますが、一部の章では作者の生の体験が語られていて読者が追体験できないと指摘しています。
 そして、「作者の「伝え」の内容が、過去の事実に源をおくものである場合、その時間と空間をいかにして現代と重ね合わせていくか、という課題」があるとしています。
 残りの二作については、「「伝え」の内容を現在の時間枠に存在する事実にとっている」が、「事実を知らせる」という範囲を出ていなくて、それぞれの「事実」の当事者以外には、十分に伝わっていないとしています(これらについては、この論文では、詳しく分析・検討していないので、「改めて、より精細に論じる機会が必要である」としています)。
 再三、リリアン・スミスの「児童文学論」が引用されているように、著者の立場は、「子どもと文学」グループと同様に、英米児童文学に立脚しており、子ども読者にいかに「伝わる」かに重きを置いています(児童文学を、作者の自己表現としての文学よりも、子ども読者にとっての文学を重視しています)。
 しかし、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張が独り歩きして、「おもしろさ」や「わかりやすさ」ばかりが重視されている現在からながめると、「伝え」るべき事実の重要性も無視しているわけでなく、作者と読者の間の「伝え」のギャップを解決しようとする意志が強く感じられました。

 

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アダムス・ファミリー

2021-10-20 17:59:50 | 映画

 1991年に公開された、60年代に日本でも放映された人気テレビドラマの映画版です。
 人気コミックスを原作とした怪奇コメディです。
 ストーリーはなんてことはないのですが、ギャグシーンが満載です。
 かつてはこんなタッチのアメリカのテレビドラマが日本でもよく放送されていたのですが、現在では絶えて久しいです。
 また、ドラキュラ風の夫婦やフランケンシュタイン風の執事など配役がはまっています。

 当時としては最新のCGも、よく活かされています。

 

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ニューヨーク 親切なロシア料理店

2021-10-19 18:26:49 | 映画

 2019年公開のカナダなどの合作映画です。

 ニューヨーク、マンハッタンの落ちぶれかけている老舗のロシア料理店に、様々な事情を抱えた男女が集まってきます。

 刑務所を出所したての男、彼の弁護士の孤独な男、働きづめ(仕事だけでなくいろいろなボランティアをやっています)で擦り減ってしまった看護婦、仕事がぜんぜんできずにすぐにクビになってしまう若い男、夫の暴力から逃れてきた若い母親と二人の息子たち。

 彼らが互いに支え合いながら立ち直っていく姿が描かれています。

 

 

 

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児童文学的リアリズムについて

2021-10-17 18:03:42 | 考察

 ライトノベルなどを論ずる時に、マンガ的リアリズムという用語が使われることがあります。
 それは、一般社会を描写する自然主義的リアリズムではなく、すでに膨大に蓄積されているマンガやアニメに依拠した世界を描写したリアリズムのことです。
 それと同じように児童文学にも、児童文学的リアリズムがあります。
 数百年に渡って蓄積された膨大な児童文学に依拠した世界を描写したリアリズムです。
 一番分かりやすい例は、民話や伝説を再話して創作された作品(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)でしょう。
 民話や神話以外にも、グリム童話やアンデルセン、イソップなどの古典の作品世界は、多くの児童文学作品で半ば無意識に用いられています(雪の女王のイメージ、狐はずるいといった動物キャラクターなど)。
 最近の魔法ブームの大本は、トールキンの「指輪物語」でしょうが、すでにその原点は知らずに、孫やひ孫のように依拠している作品(児童文学に限らず、ゲームやアニメなども)が夥しい数、存在します。
 もっとも、トールキン自体、神話の世界に依拠しているのですが。
 こういった古典の世界をもとに創作するのは問題ないのですが、最近の作品(特にディズニーなどの世界的にヒットしたもの)に依拠して創作すると、著作権などの問題を引き起こす恐れがあるので注意が必要です。

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ジョジョ・ラビット

2021-10-16 12:45:51 | 映画

 2019年のアメリカ映画です。

 戦争中のドイツの軍国少年(空想上のアドルフ・ヒットラーがしょっちゅうう出てきて、二人で会話しています)が、いろいろな体験を通して成長する姿を描いています。

 そういった意味では、児童文学(特に戦争児童文学)に近いイメージです。

 ヒットラー以外には、彼に愛情を注いでいた反戦活動をして殺害される母親、母親が匿っていて彼と友達になるユダヤ人の少女、母親に好意を持っていて彼をかばってくれるドイツ人将校などが登場して、戦争や生きることについて様々に彼に問い掛けます。

 残酷なシーンや戦闘シーンなども登場しますが、全体はコメディ・タッチで、それほど深刻にならずに戦争や差別について考えるきっかけになることがこの映画の優れた点でしょう。

 アカデミー賞の脚本賞を受賞しただけの出来栄えはあります。

 

 

 

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現代日本児童文学の始まり

2021-10-15 09:07:37 | 考察

 一般的に、現代日本児童文学が始まったのは、1959年だと言われています。
 なぜなら、この年に、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」(その記事を参照してください)といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」といった、今までの日本にはなかったしっかりとした骨格と散文性を備えた長編のファンタジーが出版されたからです。
 しかし、私は現代日本児童文学の始まりを、1953年としたいと考えています。
 なぜなら、この年に現代日本児童文学の成立に大きな影響を与えた二つの論文が発表されているからです。
 ひとつは、早大童話会の「少年文学19号(1953年9月25日発行)」に発表された「「少年文学」の旗の下へ!」(1953年6月4日付け)です(詳しくはその記事を参照してください)。
 これは一般的には「少年文学宣言」として知られている論文で、鳥越信、古田足日、神宮輝夫、山中恒たちによって発表されたものです。
 彼らは、その中で、従来の「童話精神」によって立つ「児童文学」(論中の用語を使えば、メルヘン、生活童話、無国籍童話、少年少女読物のすべて)を批判し、近代的「小説精神」を中核とする「少年文学」の道を選ぶこととその最後の勝利を宣言したものでした。
 この「少年文学」という用語は、すでに彼らの同人誌である「少年文学(1953年から1974年)」もなく、早稲田大学の「少年文学会(1960年から2006年)」もすでになくなっだ現時点では、ボーイズラブの小説と誤解を受けるかもしれませんが、ほぼ「現代児童文学」と理解して構わないと思います(ここで「少年」とは、「幼年」、「青年」、「壮年」、「老年」と同じようにたんなる年齢区分で、男性に限った用語ではないのですが、確かに当時の児童文学界は男性中心の世界でした。現在の女性作家、女性編集者、女性読者、女性評論家、女性研究者中心の児童文学界とは、隔世の感があります)。
 この「少年文学宣言」の理論によった最初の作品は、1960年に出版された山中恒の「赤毛のポチ」ですが、この作品は1954年から早大童話会のOBたちの同人誌「小さな仲間」での連載が始まっています。
 1953年のもうひとつの大きな出来事は、カナダのリリアン・H・スミスが「THE UNRELUCTANT YEARS(心のびやかな時代)」を出版したことです。
 この本は、石井桃子たちによって、1964年に「児童文学論」という書名で日本語に翻訳されています。
 石井たちのグループが1960年に出版した「子どもと文学」(現代児童文学の成立に大きな貢献したと言われています。その記事を参照してください)に大きな影響を与えています。
 私事になりますが、私が児童文学を研究しようと思ったのも、「子どもと文学」を1971年8月の高校2年の夏休みに読んだことがきっかけでした。
 石井たちのグループが「新しい日本児童文学(現代日本児童文学と読み替えてもよいと思います)」のための討議を始めたのは1955年ですが、彼らの中には、石井桃子(ケネス・グレーアムの「楽しい川辺」、A・A・ミルンの「クマのプーさん」などを翻訳)、瀬田貞二(トールキンの「指輪物語」、「ホビットの冒険」などを翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズなどを翻訳)といった英語に堪能なメンバーがいたので、討議が始まる前には彼らはすでにリリアン・H・スミスの「THE UNRELUCTANT YEARS」を読んでいたと思われます。
 彼らの討議の実作面での最初の大きな成果は、メンバーの一人であるいぬいとみこが1957年3月に出版した「ながいながいペンギンの話」でしょう。
 しかし、この作品が同人誌「麦」五号に連載が開始されたのは1954年11月ですから、「子どもと文学」の討議と並行して試行錯誤しながら書きすすめられていたようです。
 このように、どちらの場合も、現代児童文学が実作よりも理論が先行していたということは、興味深いものがあります。
 ともすれば、評論や児童文学論が作品の後追い的になっている現状を考えると、当時の研究者たちの使命感や先見性に敬意を表したいと思います。

児童文学論
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シェフ 三ツ星フードトラック始めました

2021-10-13 18:09:35 | 映画

 2014年公開のアメリカのコメディ映画です。

 オーナーの命令で型通りのメニューだけを出している、ロサンゼルスの有名レストランのシェフが、大物のフードブロガーに酷評されて、逆上した様子をSNSで拡散されしまいます。

 そのため、職を失い、誘いのあった他のレストランからも敬遠されてしまいます。

 元妻の勧めでマイアミに行き、そこで出会ったキューバ・サンドイッチのフードトラックを始めることになります。

 夏休み中の10才の息子と、元部下の料理人の助けを借りて、フードトラックはマイアミをスタートしてロサンゼルスへ向かいます。

 抜群のおいしさと、息子によるSNSを使った巧みな宣伝のおかげで、フードトラックは大成功します。

 たんなるシェフとしての立直りだけでなく、疎遠になりがちだった息子との親子関係を修復させる姿も描いたところが、この映画の優れたところでしょう。

 それにしても、映画に出てくる様々な料理を作るシーンのなんとおいしそうなことか。

 それだけでも一見の価値はあります。

 

 

 

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ギルバート・グレイプ

2021-10-12 10:45:52 | 映画

 1993年のアメリカ映画です。
 アメリカのさびれた田舎町で暮らす閉塞した状況の青年を、若き日のジョニー・ディップが好演しています。
 主人公は、父の自殺をきっかけに過食症になって、鯨のように太ってしまって(何百キロもありそうです。アメリカなどではこうしたいろいろなタイプ(すごく太った、すごく痩せた、すごく背が低い、すごく背が高いなど)の俳優がいるようです)家から一歩も出ない母親、知的障害のある弟(レオナルド・ディカプリオが好演して、アカデミー助演男優賞にノミネートされました)、二人の妹をかかえて、小さな食料品店で働いて古い父親の手作りの家を修理しながら、懸命に生きています。
 そんな彼のせめてもの息抜きは、お得意さんの奥さんとの、配達の時の不倫です。
 二人の関係は夫に感づかれているようなのですが、ある日、その夫は変死(子どもプールでおぼれます)して、疑われた奥さんは子どもたちを連れて町を出ていきます。
 その一方で、主人公は、祖母と二人でアメリカ中をキャンピングカーで旅している、自由な生き方(それは主人公が一番望んでいるものです)をしている少女と知り合います(キャンピングカーを牽引している車が故障して、この町に足止めされています)。
 主人公は、彼女やその生き方に強く惹かれているのですが、やがて車がなおって町を出発する彼女を、自分の生き方を見つめ直しながらも知的障碍者の弟と二人で見送ります。
 急死した母の死体とともに古い家を燃やす(母の死体を運び出すのに軍隊やクレーンが必要になり、地域の人に笑われる(それは母親が一番恐れていたことでした)のを防ぐためです)ことが、主人公を拘束している現実から解き放つことを象徴しているようでした。
 そして、一年後、再びこの地を訪れた少女と再会するラストに、おおいなる救いを感じました。
 日本での公開後に、演劇をしていた若い友人(高校生でした)から見るのを勧められた映画の一つです(他には、「恋する惑星」(その記事を参照してください)などがありました)。
 困難な状況でもそれを投げ出さずに、その一方で自分の生き方を見つめ直している主人公の生き方は、格差社会の困難な状況にいる今の日本の若い世代にも共感を持たれると思います。

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