小学三年生のぼくには、一つ年上のおねえちゃんいます。
おねえちゃんはしっかり者で美人ですが、ぼくはにぶくてはなたらしです。
ぼくのパパとママは、パパの浮気とママの宗教活動のために、いつも喧嘩しています。
ぼくはおねえちゃんに「両親がわかれたらどっちへゆく」と聞かれて、「おねえちゃんがゆくほう」と答えます。
二人は、まだ両親が仲良かったころに行った上野動物園のことを懐かしみます。
その後も、おねえちゃんの思い出が次々に語られていくので、なんだか読者はだんだん不安になります。
ぼくがおねえちゃんのボーイフレンドの家の飼い犬にかまれたことで、彼とうまくいかなくなったおねえちゃん。
両親の喧嘩に愛想を尽かして、おばあちゃんの家へプチ家出した時に、ぼくに三千円をくれたおねえちゃん。
家出から家へもどるときに、三千円に恩着せてぼくを迎えに来させたおねえちゃん。
ぼくと背比べをして負けてひがんでいたおねえちゃん。
中央線の多摩川を渡る鉄橋の足を作るのに貢献したひいおじいちゃんの名前を、その石の台に彫ってくるようにぼくに命令するおねえちゃん。
お風呂にバスクリンと間違えてお風呂掃除の液体を入れてしまったおねえちゃん。
次々と、あまり脈絡なくおねえちゃんの思い出が語られています。
読者の不安が的中するように、ラストでおねえちゃんは脳腫瘍にかかってあっけなく死んでしまいます。
この作品も、作者の実体験に基づいているようで、あとがきにこのよう書いています。
「死児の齢をかぞえるのは親の役割ときまったわけではないだろう。
おろかな弟だったぼくもまた生前の姉をなにかにつけて思い出す。
(中略)
町の写真館の奥には、セピアに変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラス戸ごしにのぞき見るぼくに、いつもきまった視線を向ける。
その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることで、かげりが少しでも薄くなればいい。」
しっかり者の姉と頼りない弟、愛する者の喪失、人のはかなさ、生の多愁といった森作品の重要なテーマが、ここでも繰り返し語られます。
作者の実体験はおそらく1950年代のおわりごろと思われますが、出版された1985年ごろにアレンジされているために、風俗やセリフがやや時代的にちぐはぐな感じを受けます。
これは、作品を売る時の商品性に配慮したために起こることなのですが、児童文学の世界では編集者などからこのような要求がよくなされます。
そのため、どこの国の話か分からない無国籍童話(これも初心者のメルヘン作品には今でも多いです)ならぬ、時代がいつなのかはっきりしない無時代児童文学作品(?)がよく書かれます。
この後、森忠明は完全に開き直って、時代設定を実体験に合わせて書くようになりますが、この作品は過渡期に書かれたようです。
森作品に限らず、あやふやな時代設定で書くよりは、現代なら現代、作者の子供時代ならその時代と、はっきりさせて書いたほうが、特にリアリズムの作品では成功することが多いようです。
ぼくが弟だったとき (秋書房の創作童話) | |
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このようなブログを作ってくださっていたことを嬉しく思います
子供時代の私の中ではお姉さんはお風呂掃除の液体を間違えてお風呂に入れてしまったから病気になったんだと思っていたのですが、大人になって考えてみると???と思うことが多く、内容が気になっていました。最近またふと思い出したので、内容を知ることができて良かったです。