現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ジョーズ

2024-10-31 09:08:05 | 映画

 1975年に公開され、スティーブン・スピルバーグの名を不朽のものにしたパニック映画の傑作です。
 言い古された話ですが、サメが姿を見せない前半の恐怖の盛り上げ方(音楽、カメラ・アングルなど)が、他の恐怖映画とは一線を画しています。
 後半も、姿を現したサメと三人の男たち(海が苦手な島の警察署長、お金持ちのボンボンの海洋学者、サメ漁師の荒くれ男といった個性豊かな役どころを、それぞれロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス、ロバート・ショーという名優たちが演じています)との死闘もスリリングです。
 封切り時にはそのころ好きだった女の子と渋谷で見たのですが、前半は急な場面転換で怖いシーンが出てくるので、隣の女の子をかばいながら見るのに最適な映画だったことを今でも覚えています。
 そのころは、スピルバーグか、フランシス・コッポラか、ジョージ・ルーカスの映画(ジョーズ、インディ・ジョーンズ・シリーズ、E.T.、ゴッド・ファーザー・シリーズ、地獄の黙示録、アメリカン・グラフィティ、スター・ウォーズ・シリーズなど)さえ見れば、まずはずれはなかったので、女の子とのデートにはもってこいでした。

ジョーズ (字幕版)
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ファーゴ

2024-10-30 15:38:56 | 映画

 1996年公開のアメリカ映画です。
 一種のクライム映画で、警察映画でもありますが、謎解きをメインにしたものではありません。
 妻の狂言誘拐を企てる夫側(夫、息子、妻の父、その経理士)も、二人の実行犯も、捜査する警察側も、すべてがいきあたりばったりで、偶然殺人事件が起こり、偶然さらなる殺人事件が起こり、偶然それらが解決されます。
 メインのストーリーに関係ないエピソード(主役の女性警察署長と、その絵かき(?)の夫、彼女の大学時代の友人のノイローゼの男性、犯人が買った娼婦たち、無責任な情報提供者たち、やる気のない警察関係者との他愛のない会話や、頻繁に登場する暴力シーンやセックスシーンやジャンクフードによる食事シーンなど)が積み重ねられ、どんな凶悪事件でも、実際の犯罪捜査中の捜査官や犯人の生活なんかこんなものなんだろうなあと思わせる、妙なリアリティが魅力です。
 さらに、一人として、イケメンも美人も登場しなくて、どこにでもいそうな(どちらかと言うと容姿が劣る)出演者たちが、作品のリアリティをアップさせています。
 妊娠七ヶ月の大きなお腹を抱えて、凶悪事件をさり気なく解決させてみせるという難役を演じたフランシス・マクドーマンドがアカデミー主演女優賞を獲得しています。
 彼女は、「スリー・ビルボード」でも再びアカデミー主演女優賞を獲得しているので、典型的なアメリカ女性を演じるにはうってつけの女優なのでしょう。


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夏目漱石「こころ」

2024-10-27 14:35:41 | 参考文献

 この文豪の名作にコメントするつもりはありません。
 ただこの作品を久しぶりに読んだのは、キンドル(電子書籍リーダー、その記事を参照してください)で無料で簡単に読めたからです。
 キンドルストアの無料本のベストセラーの上位には常にランクされていますから、かなりの人数の人びとがあらためてこの作品に触れる機会を得たのでしょう。
 この作品に書かれている世界は、明治天皇が崩御されて明治が終わるころですから百年以上前のことです。
 そのころに書かれた作品が、風俗の違いこそあれ、今でも大きな違和感なく読めるのは、漱石の平明な文章によるところが大きいものの、書かれている内容に普遍性があるからでしょう。
 こういった近代文学の古典を読むと、文学の力というものを改めて感じることができます。
 これらの古典的な作品を身近に味わえるところに、電子書籍による読書という新しい風俗のひとつの意義があるのではないでしょうか。
 その点では、一部の例外を除くと、日本の児童文学の代表作の電子化は遅々として進んでいません。
 一方、英語圏の児童文学の代表作は、ほとんどが電子書籍になっていて、無料もしくは安価で手に入ります。
 日本の児童書の出版社が、児童文学作品を耐久財ではなく消費財と考えていることが、この点からも分かります。
 また、この作品の主人公や先生のような生き方(高等遊民)には、初めて読んだ中学生の時に強く憧れて、高校生や大学生の時にささやかながら実体験(当時の「高等遊民」の遊びは、最先端の演劇、映画、音楽、美術、文学などを追及することでした)しました。
 会社に勤めてからは、48歳までにHappy Retirementして高等遊民に戻りたいと考えていましたが、子どもが生まれたのが遅かったせいもあって実際にはだいぶ遅れてしまいました。
 今はようやくそういったものを追求できるのですが、現在ではかつての高等遊民の遊びの各分野とも、商業主義がひどく進んでしまっているので、それらの最新のものは追わずに古典や名作に親しむ方が無難なようです。

こころ (新潮文庫)
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新潮社
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斎藤栄美「ふたりの秘密」

2024-10-26 16:14:42 | 作品論

主人公の小学生の女の子は、同じマンションに引っ越してきた女の子が、同じクラスになることをきっかけに友だちになります。

しかし、その女の子には秘密があって、なかなかそれを打ち明けてくれません。

主人公の女の子は、その子の気持ちに寄り添って接していきます。

そして、とうとうその子は秘密を明かしてくれます。

それ以来、二人は秘密を共有することによって、ますます仲良くなっていきます。

二人の女の子の気持ちを丁寧に描いていくことによって、人の気持ちを思いやることの大切さを教えてくれます。

 

 

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ピーター・パン ライブ

2024-10-25 09:16:13 | 演劇

 バリーの「ピーター・パンとウェンディ」のミュージカル化です。

 原作に忠実に作られているので、ジェンダー観はかなり古い(女性はおかあさんになり、子供たちの面倒を見る。ラストでは、ウェンディの娘が新たなピーター・パンの相手になり、そう繰り返されることによってピーター・パン(男の子)の永遠の命が保証される)ものです。

 別の記事にも書きましたが、この作品は繰り返し劇化(もともと劇用なので当然ですが)されていますが、そのたびにウェンディは、その時その時のジェンダー感(ある時には自立した女性として、また別の時は家庭的な女性として)が反映されているようです。

 そういった意味では、この作品が作られた時(2014年)は、アメリカのジェンダー観はかなり保守的だったのでしょう。

 それはさておいて、歌と踊りとワイヤー・アクションと美術セットは本当に素晴らしく、十分に楽しめました。

 

 

 

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声優夫婦の甘くない生活

2024-10-24 09:09:00 | 映画

 2019年公開のイスラエル映画です。

 1990年に、崩壊間近のソ連からイスラエルに移住した初老の声優夫婦が、新しい生活に悪戦苦闘しながら順応していく姿をユーモラスに描いています。

 当時は、大勢のユダヤ人がソ連圏からイスラエルに移住していたようで、ロシア語を使ったコミュニティが成立していたようです。

 二人がありついた、そんな環境ならではの仕事が、興味深かったです。

 妻の仕事は、そうしたロシア人相手のテレフォン・セックスの相手役です。

 彼女は62才なのですが、声優ならではの声色を自在に使い分けられる能力を発揮して、22才の娘から人妻まで、相手の要望に合わせて演じ分けて、人気を博します。

 夫はやっとありついたビラ配りの仕事にねをあげて、映画の違法ダビングの犯罪に荷担します。

 映画館で、上映されている映像をこっそり撮影して、ロシア語に吹き替えて、レンタルします。

 最後には、それぞれの仕事が破綻するのですが、それをきっかけに、仲たがいして別居していた二人は再び絆を確認します。

 個人的に興味深かったのは、二人(おそらく監督も)がイタリアの映画監督のフェデリコ・フェリーニ(関連する記事を参照してください)を敬愛していて、彼の作品に対するオマージュが語られていたことです。

 特に、妻の方は、フェリーニ作品でジュリエッタ・マシーナ(「道」を始めとした彼の主要作品の主演女優で、彼の妻でもあります)の吹き替えを担当していたという設定にはしびれました。

 たしかに、彼女は風貌も声も、ジュリエッタ・マシーナを彷彿とさせるところがあります。

 私の最も好きな女優に思いがけず再会できたようで、感動しました。

 

 

 

 

 

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中川李枝子「いやいやえん」

2024-10-23 08:44:46 | 作品論

 1962年に出版された幼年童話の古典です。
 私の読んだ本は1998年で93刷ですから、今ではゆうに100刷を超えているであろうロングセラーです。
 以下の七つの短編からできています。
「ちゅーりっぷほいくえん」約束が七十もあって、主人公のしげるはいつも約束を守らないので、物置に入れられてしまいます。
「くじらとり」積み木で作った船で海にのりだして、くじらを連れて帰ります。
「ちこちゃん」しげるは、なんでもちこちゃんのまねをしてしまい、大変な目にあいます。
「やまのこぐちゃん」山から来た小熊が保育園に入り、みんなと仲良くします。
「おおかみ」保育園をさぼったしげるは、野原でオオカミに会いますが、あまりに汚かったので食べられずに済みました。
「山のぼり」約束を守らずに果物を食べすぎたしげるは、鬼の「くいしんぼう」と友だちになりました。
「いやいやえん」しげるは、ちゅーりっぷほいくえんの代わりに、なんでもいやだと言えばやらなくて済む「いやいやえん」へ行きます。
 この作品の一番の成功は、作り物でない生身の幼児であるしげるを創造したことでしょう。
 また、大人よりも意識と無意識が不分明な幼児の特質を生かして、現実と空想の世界が入り混じった魅力ある作品世界を作り出しています。
 ただし、この作品のおもしろさは、しげるが幼児らしく約束を守らなかったりいたずらをするところなのですが、どの短編でも作者は教育的なおちをつけてしまっています。
 この本を使って、保育者や親などの大人たちは、幼児たちのしつけをしようとするかもしれません。
 しかし、子どもたちが喜んでいるのはそういった教訓的なところではなく、しげるのいたずらやわがままに素直に共感しているのでしょう。
 おそらくそれは作者たちの意図を超えたところであり、そのためにベストセラーになったのであればやや皮肉な感じもします。
 ただ、作品に出てくる体罰(物置に閉じ込めたり、無理やり女の子の服を着させます)は今の時代にそぐわないので、そろそろ賞味期限が来ているのかもしれません。

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羊たちの沈黙

2024-10-22 16:05:02 | 映画

 1991年に公開されたサスペンス映画です。
 サイコホラーというジャンルを確立したと言われる、トマス・ハリスの小説の映画化です。
 映画には上映時間(この映画の場合は118分)の縛りがあるので、有名な原作がある映画はどうしてもあらすじ風になってしまいます。
 この映画でも原作の凝った細部はだいぶ失われていますが、かなり正確に原作の雰囲気を出すことに成功しています。
 特に、主役のジョディ・フォスター演じるFBIのクラリス・スターリングと、アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル(人食い)・レクター博士が対面するシーンは、圧倒的な臨場感がありました。
 この映画は第64回アカデミー賞で、主要五部門(作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、脚本賞)を独占しました。
 主要五部門を独占したのは、「或る夜の出来事」、「カッコーの巣の上で」に次いで三作品目です。

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安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」でんでんむしの競馬所収

2024-10-21 09:16:54 | 作品論

 梅雨で雨が降り続くと、露地の子どもたちは遊びに行けません。
 誰も、雨傘を持っていないからです。
 雨傘は、働きに行ったり、買い物に行ったりする大人の分しかありません。
 それでも、子どもたちには、梅雨時ならではの楽しみもあります。
 雨漏りで腐った畳には、キノコが生えます。
 みんなでキノコを眺めに行って、そこの母親にどやされたりします。
 露地の隅に生えているヤツデの木には、カタツムリがきます。
 想像の中で巨大になったカタツムリにまたがって、子どもたちは表通りで買い食いする夢を見ます。
 この短編の主人公の六年生の男の子は、露地ではめずらしく成績が良く、両親は彼が海軍士官学校か陸軍士官学校へ行って出世して(当時は、貧しい家の子たちには、それぐらいしか出世する方法がありませんでした)、自分たちを露地から抜け出させてくれることを夢見ています。
 本人は、表通りの料理屋の息子が通う海軍士官学校にあこがれています。
 進学のために倹約しているので、主人公はお小遣いをぜんぜんもらえません。
 そのため、メンコやビー玉は、他の子のを借りたり、落ちているのを拾ったりして遊んでいるので、どけちだと嫌われています。
 そこで、主人公は一計を案じます。
 露地の子どもたちで彼だけが遊びに行くことを許されている、表通りの料理屋の庭で、露地のヤツデに来るのとは比べ物にならない大きなカタツムリを手に入れます。
 それを五匹並べて「でんでんむしの競馬」をして、露地の子どもたちにメンコやビー玉を賭けさせたのです。
 とうぜん、胴元の主人公の一人勝ちで、みんなのメンコやビー玉を巻き上げます。
 しかし、そんなあこぎな商売は長続きしません。
 先生にチクられて母親を呼び出された彼は、すべてのメンコやビー玉を失ったばかりでなく、もし内申書に書かれたら海軍士官学校の夢もパーになってしまうのです。
 この作品でも、現実と空想が交錯しています。
 その中で、露地の子どもたちの(いや大人たちも)夢は、一貫して露地(貧困)から抜け出すことです。
 これは、いつまでも終わらないアジア太平洋戦争(十五年戦争とも呼ばれています)の戦時中の閉塞した世の中の比喩でもあり、この作品が書かれた70年代初頭(70年安保闘争の敗北により革新勢力が停滞し、世の中には無力感が漂っていました)ころの閉塞感をも表していたように思えます。
 格差が拡大している現代においても、この作品における登場人物たち(そして作者)の願いは、共通していると思います。

でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫)
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講談社
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バッド・ジーニアス 危険な天才たち

2024-10-20 08:31:02 | 映画

 非常に記憶力のいい主人公の少女が、しだいに大がかりなカンニング事件に巻き込まれていく姿を描いています。
 初めは、仲のいいクラスメイトの女の子が、成績が悪くて演劇部の芝居に出られないのに同情して、彼女にカンニングをさせて、芝居に出演できる成績レベルをクリアさせます。
 しかし、そのことを友だちの彼氏の、金持ちのぼんぼんに知られて、有料でカンニングを請け負う組織に発展してしまいます。
 背景としては、主人公があまり裕福ではなく、彼女たちが通う私立の名門校(校長へのわいろが横行していて、成績の悪い裕福な家庭の子女もたくさんいます)の授業料免除の特待生だということがあります(主人公の父親は教師なのですが、給料が安くてそれが原因なのか母親と離婚しています)。
 もう一人の特待生の男の子(彼もまた、母親一人でやっている洗濯屋を手伝っている苦学生です)も巻き込んで、ついには、全世界を対象としたアメリカの大学を受けるための資格試験を、世界で一番初めに実施されるシドニーとタイの時差(四時間)を利用して、事前に主人公たち特待生がシドニーで受験した答えをタイへ送って、高額な参加料を出させた大勢の受験生に伝えるという大がかりな犯罪にまで発展します。
 ピアノのコードやバーコードやスマホを利用した現代的なカンニング方法や、いろいろなハプニングに見舞われる資格試験当日をサスペンスタッチで描いたところが一番の見せ場です。
 また、背景として、日本以上に格差社会であるタイの現状や、貧しい子どもたちがそれを打破するためには、アメリカなどの海外の大学に留学するしかないことなどが描かれている点も、優れていると思いました。
 主役を演じた富永愛似の女の子(やはりモデルだそうです)を初めとして、タイの若い出演者たちがなかなか魅力的でした。
 ただ、ジーニアスとか、天才という惹句はかなり大げさで、特待生たちは記憶力の良い秀才にすぎませんし、年長者(ここでは主人公の父親)をたてるタイらしいモラーリッシュなラストにも不満が残りました。

【映画パンフレット】バッド・ジーニアス 危険な天才たち
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ザジフィルムズ
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大江健三郎「どんな人になりたかったか?」「自分の木」の下で所収

2024-10-19 09:05:54 | 参考文献

 筆者は、子供たちから標記のような質問をよく受けるそうです。
 それに答える形で書いています。
 まず筆者があげたのは、国民学校の低学年のころにいた用務員のおじさんです。
 普段は怖そうでとっつきにくいおじさんが、校庭に紛れ込んだ野犬に逃げ遅れた女生徒たちが襲われそうになったとき、一人で竹箒で立ち向かい、見事に撃退したそうです。
 子供たちを意識したのか、やや格好つけている感はしますが、そうした無名の人をあげています。
 もう一人は、どんな人になりたいかの模範作文のような形で、小学校四年生だった丸山眞男が書いた、関東大震災の時に学校へ避難した人たちを先に逃がして、自分は逃げ遅れて惨死された校長先生を称えた作文を紹介しています。
 これもまた、その作文の文章を添削する部分も含めて、教育的配慮が過ぎて面白味に欠けています。

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大江健三郎「なぜ子供は学校に行かなければならないのか」「自分の木」の下で所収

2024-10-18 13:41:59 | 参考文献

 ほとんどの子どもたちが持つ、この古典的な疑問について、作者は自分自身の子どもの時の体験と自分が親になった時の体験をもとに答えています。
 前者は、戦争直後の10歳の時に、今でいう不登校になったことです。
 不登校の理由は、教師たちへの不信感です。
 ご存じのように、戦中は、「天皇は神」「鬼畜米英」と、子どもたちに教えていた教師たちが、戦後は手のひらを返したように、「天皇は人間」「アメリカ人は友だち」と教えるようになったからです。
 10歳の時の作者は、その変化自体を問題にしていたのではなく(戦争が終わったことは人を殺さなくてすむことであり、みんなが同じ権利を持つ民主主義はいいことだと認識していました)、「これまでの考え方、教え方は間違いだった、そのことを反省する」と、子どもたちに言わないで平気で反対のことを言う教師たちが信じられなかったのです。
 学校へ行くよりは、森へ行って家業に必要な樹木の知識を得た方がいいと考えていました。
 その後、森で嵐にあって雨に打たれて高熱を出して死線をさまよった時に、母と交わした不思議な(夢か現実か、はっきりしません)会話(たとえ彼が死んでも、母がもう一度新しい子を産み直して、今までのことをすべて話して同じ子にしてくれる)をきっかけに、容体も持ち直して再び学校へ通えるようになります。
 そして、次第に、自分自身も、学校の他の子どもたちも、みんな誰かの生まれ変わりであり、その新しい子どもたちになるために、「僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ。」と考えるようになります。
 ここには、すでに国で決められたことを画一的に教える教師たちの姿はなく、「言葉」を媒介にして主体的に勉強したり遊んだりする子供たちが学校の主人公であることが明確に語られています。
 これらのことは、教育界に限ったことではなく、児童文学の世界でもまったく同様です。
 戦中は子どもたちを戦場へおくるのに積極的に手を貸すような作品を書きながら、戦後は何の反省の弁もないまま、手のひら返しで平和主義の作品を出版した児童文学者たちも存在します。

 後者は、作者が障碍者の親になって、子どもが「特殊学級」や「養護学校」に通うようになった時に、環境になじめない自分の子どもを見ながら、「三人で村に帰って、森のなかの高いところの草原に建てた家で暮らすことにしたらどうだろうか?」と夢想する時です。
 もちろん、高名な文学者(当時は今とは全く比べにならないほど純文学の本は売れていましたし、作者はその中でもナンバーワンの人気作家でしたから、経済的にかなりゆとりがあったことでしょう)である作者でなければそんなことは実現はできないわけですが、学校に苦しむ子どもたちの親ならば同様の思いを抱いたことがあると思います。
 しかし、その後、作者の子どもは、学校に自分自身の居場所(ここでも、それは教師との関係ではなく、自分と似たような仲のいい友だちの存在であったことは、象徴的です)を見つけます。
 そして、作者は「自分をしっかり理解し、他の人たちとつながっていく言葉(国語だけでなく、理科も算数も、体操も音楽も、外国語も)を習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ」と主張しています。
 私は、作者ほど学校という制度(教師だけでなく)に信頼をおいていないので、学校は楽しければ通えばいいし、楽しくなければ通わなければいいと思っています。
 自分自身を振り返ってみても、小学校から大学までズル休みばかり(ひどいときには一学期の間に数週間分も)していたのですが、小学五年生、中学三年生、高校二年生、高校三年生、大学二年生の時だけは、全出席(もともと病気は全くしなかったので)だったと思います。
 そんな時は、いつも仲の良い友だちや好きな女の子が学校にいました。
 そういった意味では、作者の主張も、ある程度はあてはまるのかなとも思っています。


「自分の木」の下で (朝日文庫)
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朝日新聞社



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ようかいばちゃんと子ようかいすみれちゃん

2024-10-17 08:54:07 | 作品論

山の中で一人で暮らす91歳のようかいばあちゃん(不思議なことを起こすので主人公はそう呼んでいます)とひ孫のすみれちゃんとの触れ合いを描いたシリーズの六作目です。

今回も、すみれちゃんは、おとうさんの車でようかいばあちゃんの家に来て一晩だけお泊りします(おとうさんはすみれちゃんをおろすとすぐに帰ってしまい、翌日迎えに来ます)。

今回は不思議なことを起こすようかいばあちゃんに、すみれちゃんが弟子入りします。

そして、ようかいばあちゃんに代わって、八十八歳のおあささんに米寿のお祝いの習字をするための道具を届けるのです。

その途中で、すみれちゃんはピンチに陥りますが、ようかいばあちゃん譲りの不思議な力を発揮して切り抜けます。

そして、帰りに子どもの頃のようかいばあちゃんに出会うのでした。

今回も、現代では関係が薄れてきている、老人と子どもの触れ合いを鮮やかに描いています。

 

 

 

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結婚適齢期

2024-10-16 08:49:08 | 映画

2003年公開のアメリカ映画です。

63歳の独身プレイボーイと53歳のバツイチの劇作家の、おいらくの恋を描いたロマンチック・コメディです。

ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンの両名優の演技が楽しめます。

ラストのハッピーエンドは、ややご都合主義に感じられますが、ベッドシーンやヌードも含めて二人の体当たりの演技が光ります。

 

 

 

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筒井頼子「はじめてのおつかい」

2024-10-14 08:50:08 | 作品論

 1976年発行の古典的な絵本です。
 福音館の「こどものとも」シリーズの中の一冊です。
同名のテレビ番組が有名ですが、この本の方がはるか前に出ていますので、言ってみればテレビはこの本のパクリです。
 テレビのようなあざとい演出はないので、大人の読者には物足りないかもしれませんが、主人公のみいちゃんがおかあさんに頼まれてひとりで牛乳を買いに行くことになり、さまざまな小さな、だからリアリティのある障害(スピードを上げて通りかかる自転車、背後を通る自動車、お金を落としてしまう、お店で買おうとしていると割り込んでくる大人たち、おつりを忘れてしまうなど)をクリアするたびに、幼い読者はそのひとつひとつを追体験できることでしょう。
 そして、心配して外まで出てきたおかあさんに迎えられるエンディングは、まさにハッピーエンドの典型です。
 林明子による絵も、隅々まで工夫がなされていて、読むたびに新しい発見があるので、子ども読者は繰り返し楽しむことができるでしょう。
 児童文学の作者たちも読者たちも、子どもたちの「成長」を素直に信じられた古き良き時代の作品です。
 児童文学研究者の佐藤宗子は、「「成長」という名づけ」(日本児童文学1995年9月号所収)という論文で、「「初体験」も、すでに発達のものさしを持っている読者はそれにあてはめて読むことになろうが、まだそうしたものさしを持たぬ子ども読者は疑似体験として読むだろうと、子ども読者と作中人物を重ねあわせ、ひいては子ども読者の「成長」にもつなげて媒介者たるおとな読者は安心する、といった状況も想定できよう。」と、作中人物だけでなく子ども読者もこの本によって「成長」するであろうことと、幼年向けの作品における媒介者(親などの家族、幼稚園や学校の先生、図書館の司書など)の子どもたちの「成長」への信頼について述べています。
 また、児童文学研究者の宮川健郎も、「「児童文学」という概念消滅保険の売り出しについて」(「現代児童文学の語るもの」所収)において、以下のように述べています。
「子どもは、ゆるやかなスロープをあがるように成長するわけではない。成長をうながす何か、きっかけを得たときに、いわば、階段を一段のぼるように、角をまがるように、成長してしまうのである。「成長の瞬間」をつかまえ、作品として定着させるのは、現代の児童文学や絵本が熱心にとりくんできた仕事だけれど、「はじめてのおつかい」も、その典型的な例のひとつだ。」
 ここでいう「現代児童文学」とは、1950年代に近代童話を批判して始まった文学運動にのっとった作品という意味で使われていますが、その運動の特徴のひとつに「変革の意思」があり、これは社会を変革するということだけでなく個人を変革することも含まれていて、子どもの成長を描く(ひいては読者の子ともたちも成長させる)いわゆる「成長物語」が肯定的にとらえられていたという時代背景があります。
 この現代日本児童文学の「成長物語」神話は、八十年代になると大きく揺さぶられていくことになります。
 

はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)
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福音館書店
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