現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学を書く上で注意すること

2022-02-26 16:34:31 | 考察

 児童文学を書こうとした場合に、注意すべきことをいくつかまとめておこうと思います。
 まず注意しなければいけない点は、いかに読者である子どもたちの関心を引くかということです。
 児童文学は、作者である大人(子どもが書いた作品もありますが、それは非常にまれなことでしょう)と子どもである読者(最近は大人(特に女性)にも、児童文学の読者は広がっていますが、ここでは便宜上一次的な読者である子どもを想定しています)。
 作者側から見れば一般文学と同様に、自分の関心に基づいて書きたいように書けばいいのですが、児童文学では読者である子ども(それが自分自身の中にある内なる子どもだとしても)を意識する必要があります。
 例えば、「戦争体験をどう伝えるか」を例にあげると、自分自身の経験(実体験に限らず上の世代や外国の人から聞いた場合も含みます)をそのままに書くのではなく、現代および未来を生きる子どもたちに、他人ごとではなく自分自身にも関係のある問題だと思ってもらえるように書く工夫が必要です(例えば、那須正幹の「ねんどの神様」(その記事を参照してください)など)。
 児童文学の場合、自分自身の子どもの頃の体験を書く事も多いと思います。
 その場合は、それを現代に置き換えて書くのか、その時代のこととして書くのかを明確にした方が成功することが多いです。
 子どもたちの風俗は時として変化します(特に高学年や中学生やヤングアダルト物は)。
 それをあいまいにして書くと、どこか作品がピンボケになってしまい、読者の印象に残りにくくなります。
 児童文学の書き方にも流行があります。
 新しい作品を読んで、自分の手法や題材が古くなっていないかをチェックする必要があります。
 よく初心者の作品で、舞台になっている国や時代が不明ないわゆる無国籍童話が書かれることがあります。
 制約がないので、一見書きやすそうですが実はこれば一番難しいのです。
 こういった作品の場合、作品で書かれている部分の外に確固たる世界が広がっているように感じられなくては、読んでいて薄っぺらく感じられます。
 一番いいのは自分自身でひとつの世界観を作り出すことですが、これはよほど才能に恵まれていなければ難しいと思います。
 そこで、もっと楽に書くならば、他人の作った世界観(例えば、トールキンの「剣と魔法」の世界など)を借りてきて、その上で二次創作することでしょう。
 他人の物でも、はっきり世界観を意識して書けば、作品のリアリティは格段に違ってくるでしょう。
 なお、いわゆるリアリズムの作品は、「現実」という世界観のもとで創作されています。
 従来、子どもにわかりやすく伝えるために、児童文学は「アクションとダイアローグ」で書かれてきました(関連する記事を参照してください)。
 それが、80年代に入って、「描写」を前面に出した「小説」的な手法で書かれる作品が増えてきました。
 結果として、児童文学の読者年齢をあげることになり、一般文学へ越境する作品や作家(江國香織や梨木香歩など)が現れました。
 児童文学は女性の読者が圧倒的に多いので、特にL文学(女性作家による女性を主人公にした女性読者のための文学)に越境は多いでしょう。
 こうした手法を幼年文学(幼稚園から小学校三年生ぐらい)に適用して、子どもたちの繊細な感情を描こうという試みもありますが、読者の受容力を考えると限界があるように思えます。
 「子どもたちの風俗をどう描くか」も大きな問題です。
 同時代性を意識しすぎて最新の風俗を描くとすぐに陳腐化してしまいますし、かといって、古い風俗(例えば作者の子ども時代)を現代の子どもに適用するのも現代の子どもたちが読んでピンとこない場合も多いと思います。
 すぐに陳腐化しないような風俗の書き方(例えば、特定のゲームやアニメの寿命は数年ですが、ゲームやアニメという仕組み自体は数十年の寿命を持っています)を工夫する必要があります。
 幼年や絵本を書くのはやさしいという誤解があります。
 本当は、それらを書くのが一番難しいのです。
 読者の受容力が限定されている中で、魅力的なキャラクターを生みだし、ひとつひとつの文章を磨き、より起承転結をはっきりさせて物語のメリハリをつけなければ、気まぐれな年少の読者たちはすぐに本を投げ出してしまいます。
 自分が書きたいのが純文学的な(変な言い方ですが)児童文学なのか、エンターテインメントなのかも、はっきり意識して書かなければなりません。
 エンターテインメントでは、リアリティの追求、細かな心理描写、社会性などよりも、魅力的でデフォルメされたキャラクター(パターン化していてもOKです)、大胆な筋運び(例え偶然を多用したとしてもかまいません)、読者へのサービス(恋愛シーンやスポーツの試合や戦闘シーンなど)などが大事です。
 実際に書き出す前に、自分が何を誰に対してどのように書くかを問うことが必要です。
 ただし、どちらの場合でも、作者が自分自身と読者と主人公のために用意された独自の世界を生みださなければならないことは言うまでもありません。
 また、自分の書き手としての強みが、ストーリーテリングにあるのか、描写力にあるのか、自分自身の体験にあるのかを、はっきり意識することも重要です。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カジノ

2022-02-25 16:12:43 | 映画

 1995年公開のアメリカ映画です。

 70年代から80年代の、まだマフィアが牛耳っていた頃のラスベガスのカジノの内幕を実録風に描いています(原作はノンフィクションです)。

 天才ギャンブラーでカジノの実質的な経営者に成り上がった男と、その娼婦上がりの妻、それに男の幼なじみの暴力的な犯罪者を中心に、複数の関係者の視点で描いて、作品のリアリティを上げています。

 名匠マーティン・スコセッシの確かな演出と、主役を演じたロバート・デ・ニーロを初めとした、シャロン・ストーンや ジョー・ペシなどの迫真の演技が、ドラマを盛り上げています。

 現在のレジャーランド化したラスベガスとは違った、裏側に腐敗と犯罪の臭いのする虚飾の世界が、見事に描かれています。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一度も撃ってません

2022-02-23 14:26:23 | 映画

 2020年公開の日本映画です。

 売れない小説家、実は伝説のヒットマンといわれる老年の男性が、本当は依頼された殺しを本物のヒットマンに依頼して、その過程を取材して、小説にしているだけだったのです。

 そんな男が、対抗する勢力のヒットマンから命を狙われるようになります。

 全体的にコメディタッチですが、豪華出演陣(主な出演者は、石橋蓮司、大楠道代、岸部一徳、桃井かおりですが、佐藤浩市、豊川悦司、妻夫木聡、井上真央、江口洋介、柄本明らがちょい役で出ています)で作った楽屋落ち的な作品になってしまっています。

 映画の雰囲気は味があるのですが、全体に懐古的で、多くの観衆はついていけないでしょう。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブーメラン・ファミリー

2022-02-21 17:06:45 | 映画

 2013年公開の韓国映画です。

 刑務所帰り(実は次男をかばって服役したようです)の長男、映画を失敗し妻には不倫された映画監督の次男(主役と思われます)、二度目の結婚に失敗した子連れバツニの妹が、訳あり(父親が生きているときから、近所の男性と不倫しています。妹はその人との子供のようです)の母親のアパートへそろって転がり込みます。

 次男の成人映画への転向、妹の三度目の結婚、妹の娘の家出、長男の闇カジノの雇われ社長就任などを巡って、家族ですったもんだします。

 悲惨な結末(長男がヤクザに殺される)かと思ったら、ラストではノホホンと生きていて(後遺症はあるみたいですが)、取ってつけたようなハッピーエンドで肩透かしをくいます。

 徹底したドタバタ・コメディのB級映画なのですが、不思議な人情味があって、昔の日本映画を見るような趣があります。

 頻出する韓国の庶民的な料理(サムギョプサルやプルコギなど)が、実にうまそうです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アナと雪の女王2

2022-02-20 14:30:08 | 映画

 超ヒットアニメ映画の続編です。
 こうしたヒット作の続編では、前作で観客に受けたところをデフォルメするのですが、この作品でも、主人公の二人の女性、アナとエルサの活躍場面をさらに強化していますが、さすがにバランスを崩さずにうまく仕上げています。
 圧倒的に美しい映像と楽曲をバックに、魔法が使えて責任感が強い美人系の姉のエルサと、普通の人間だが並はずれて勇敢なかわいい系の妹のアナといった、対照的な二人の魅力的なヒロインが、大活躍します。
 圧倒的に多数の女の子(大人の女性も)の観客は、二人のどちらかに自分の憧れの姿を投影でき、そこに軽いロマンスや家族愛などの女性にとって魅力的な要素を散りばめられていて、ディズニー映画お約束のハッピーエンディングなので冒険も安心して楽しめるのですから、この作品も大ヒット間違いないでしょう。
 さらに、こうした予定調和の世界は何度でも楽しめるのが特長なので、アナ雪ファンは、何回も映画館に行ったり、ブルーレイを買ったり、テレビでの放送を録画したり、ディズニーの配信サービスを利用したりして、繰り返し作品世界に浸れます。

アナと雪の女王2 (オリジナル・サウンドトラック)
ヴァリアス・アーティスト
Walt Disney Records
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アナと雪の女王

2022-02-20 14:26:32 | 映画

 2013年に公開されて大ヒットした、ご存じアナ雪です。
 アナと雪の女王2の記事にも書きましたが、普通の人間ですが並外れて勇敢で明るい可愛い子タイプの妹のアナと、強力(それゆえ制御できずに苦悩するわけですが)な魔法を使える賢く優しい美人タイプの姉のエルサという、女の子たちのあこがれの二人が大活躍するわけですから、女性ファンを中心として大ヒットしたのもうなずけます。
 クライマックスの心臓に突き刺さった氷のかけらをとかすのも、真実の愛を持った男性のキスではなく、互いを思いやる姉妹愛だというのも、非常に今日的で優れています。
 映画としては、アニメによるミュージカルという新しいスタイルなので、ご存じの大ヒット曲をはじめとした美しい楽曲とファンタジックな映像に彩られていて、観客を夢の世界へ連れていってくれます。
 なお、エンディングロールによると、アンデルセンの雪の女王にインスパイアされたとのことですが、雪の女王のイメージと心臓に刺さった氷をとかすというモチーフを借りただけで、完全なオリジナルストーリーです。
 なお、原題はFrozenという、世界を氷つかせるという意味と、氷のように固く閉ざした心という意味をかけた凝ったものですが、日本ではアナ雪の方が興行的には良かったでしょう。
 余談になりますが、字幕版で見たのですが、セリフは非常に簡単な英語と分かりやすい発音で作られていました。
 おそらく世界中でのヒットのためのディズニーの戦略なのでしょうが、英会話の教材にはピッタリです。

アナと雪の女王 (字幕版)
ジェニファー・リー
メーカー情報なし

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロン 僕のポンコツ・ボット

2022-02-18 15:34:17 | 映画

 2021年公開のイギリス・アメリカ合作映画です。

 友達のいない少年と、彼が手に入れたポンコツのロボット型デバイス(Bボット)との友情を描いた3Dアニメです。

 作品世界では、Bボットが友達を作るには必須のアイテム(現実世界のスマホのようなもの)なのですが、主人公だけは持っていません。

 やっと手に入れたBボットのロンは不良品で、友達ができないだけでなく、いろいろな問題を起こします。

 しかし、二人でいろいろな苦労をしているうちに、いつしか友情が芽生えます。

 そう、友達を作るのではなく、ロン自身が主人公の友達になったのです。

 最後は絵に描いたようなハッピーエンドですが、映像は綺麗で迫力があり、一見の価値はあります。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイ・ストーリー4

2022-02-17 18:03:54 | 映画

 人気アニメ・シリーズの第4作です。
 ディズニーらしいハッピーエンディング・ストーリーなのですが、よく練られたストーリーで大人の鑑賞にも十分耐えられます。
 夏休みの子どもたちと引率の親たち(圧倒的に母親ですが)で満員の場内には、終始大きな笑い声が響いていました。
 そのタイミングを観察していると、子どもたちが笑うシーンと大人が笑うシーンは見事に違っています。
 子どもたちはちょっとした言葉の面白さやギャグに敏感ですし、アクションによるドタバタシーンへの反応もいいです。
 もちろん、大人たちもそういったシーンでも笑っているのでしょうが、もう少し手の込んだギャグやユーモアに対しては子どもたちよりも大人たちの笑い声の方が目立ってっていました。
 意外にオーソドックスな人間(?)関係(持ち主の子どもとおもちゃ、恋愛、男同士の友情、親子の愛情など)は目新しい物ではありませんが、その方が子どもたちにも理解しやすいのかもしれません。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイ・ストーリー2

2022-02-17 17:59:24 | 映画

 1999年公開の人気アニメシリーズの第二作です。
 前作から四年後の作品ですが、持ち主のアンディの家族の様子を見ると、映画の中の設定は前作の直後のようです。
 この作品では、おもちゃが壊れたり、持ち主が大きくなったりすることによって、おもちゃとサヨナラする日がテーマになっています。
 それは、人間側から見ると、「子どもの時代にサヨナラする日」を意味するので、児童文学の大きなモチーフの一つです。
 そして、このテーマは後に「トイ・ストーリー3」(その記事を参照してください)で、深化されてその素晴らしいラストシーンへと昇華されます。
 また、この作品でも、主人公のウッディ、アンディ、バズ・ライトイヤーの三人の友情が作品を支えています。
 特に、前作でウッディに救ってもらったバズが見せる男気は、観客の男の子たち(子供時代を忘れない大人の男性も)にはたまりません。
 また、新登場のカウガールのジェシーとかつての持ち主のエミリーとの悲しい別れ(エミリーが成長しておもちゃに関心がなくなり、ジェシーは捨てられてしまいます)が描かれ、女の子のファンも拡大されたことでしょう。
 この作品では、おもちゃを取り巻く環境の変化も巧みに取り入れられています。
 ウッディが、かつて白黒テレビ時代の操り人形劇の主人公で、関連グッズもたくさん販売され、おもちゃコレクターの間で莫大な金額で取引されるプレミアな人形だということがわかり、そのためにおもちゃ屋のオーナーに誘拐されます(最終的な行き先が日本のおもちゃ博物館だというのが笑えます)。
 テレビゲームのヒットにより、バズは大人気おもちゃになり、おもちゃ屋には多数のバズが並んでいて、「俺が本物だ」と争うのも笑えます。
 誘拐されたウッディ救出のためにお約束の冒険活劇が繰り広げられますが、結果として、従来のおもちゃのメンバーに、元気少女のジェシーやウッディの愛馬のブルズアイといった魅力的なキャラクターが仲間に加わり、アンディのおもちゃたちへの愛情も再確認でき、ディズニーらしいハッピーエンドで物語が終わります。

トイ・ストーリー2 (吹替版)
ヘレン・プロトキン,カレン・ロ・ジャクソン
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンシルさんには福が多いね

2022-02-16 08:46:30 | 映画

 2019年公開の韓国映画です。

 支えつづけていた映画監督が急死したために、映画プロデューサーの職を失った40才の女性の話です。

 気がつけば、職だけでなく、お金も、家も、男も、子供もなく、青春は過ぎ去っていました。

 彼女と、その周辺の人々(大家さん、女優、そのフランス語の家庭教師など)との交流を、軽いコメディ・タッチで描いています。

 女優の家政婦をしながら、本当にやりたいことを探すのですが、なかなかうまくいきません。

 お決まりのように家庭教師に恋心を抱くのですが、あっさりと振られてしまいます。

 けっきょく、映画に回帰して、脚本を書きはじめるところでお話は終わります。

 この作品は監督(女性で、長く特定の監督のプロデューサーをやっていて、本作が監督としては初作品のようです)の実体験に基づいているようで、レスリー・チャン(香港の大スターで自殺しています)の幽霊が出てきたり、小津安二郎の「東京物語」の話がでたりと、かなりマニアックな映画ファン向けの作りになっています。

 こうした淡々とした日常を描く作品も、韓国映画にはあるんだなあとやや意外な感がしました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラサイト 半地下の家族

2022-02-15 18:01:38 | 映画

 2019年公開の韓国映画です。

 建物の半地下に暮らす貧しい家族が、裕福な家族に寄生していく話です。

 ひょんなことから、兄が裕福な家の、娘の英語の家庭教師になり、そこから、芋づる式に、妹が下の子の絵画療法の先生に、父親が運転手に、母親が住み込みの家政婦になっていくプロセスは、格差社会への批判やユーモアがあって、非常におもしろかったです。

 しかし、すでにその豪邸の秘密の地下室に寄生していた別の夫婦が登場してからは、お互いに殺し合いに発展していくなど、あまりに荒唐無稽でついていけませんでした。

 特に、ラストで、裕福な家族の主人を殺害した父親が、そのまま秘密の地下室で生き延びるに至っては、韓国の警察はこんなに無能なのか(実際は違うと思いますけれど)と、驚愕しました。

 この作品が、カンヌ映画祭のパルムドールと、アカデミー賞の作品賞をダブル受賞したとは、とても信じられません。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワン・モア・ライフ!

2022-02-10 16:06:02 | 映画

 2019年公開のイタリア映画です。

 バイクで信号無視をして車にはねられて死んだ男が、天国の手違い(スムージーを飲んだ効果が計算されていなかった)で、1時間32分だけ生き返る話です。

 この時間設定が作品のミソで、それをほぼリアルタイムで描いて、男に人生を振り返らせます。

 しかし、浮気癖のあるさえない中年男に、振り返るべきたいした人生はなく、最後は家族(妻と娘と息子)との別れを惜しんでタイムアップです。

 ラストでは、再現事故を巧みな運転で切り抜け、家族のもとに無事に帰り着きますが、彼の浮気癖は直らないようです。

 人生なんて取るに足らないもの、しかしその取るに足らないものの中に幸せがあることを、この映画は主張しているのでしょう。

 他のイタリア映画の記事でも書きましたが、彼らは日本人とはかなり違ったメンタリティーの持ち主のようです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

J.D.サリンジャー「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」大工らよ、屋根の梁を高く上げよ所収

2022-02-09 15:54:38 | 作品論

 1955年に発表されたグラス家サーガを構成する重要な中編です。
 1942年に行われたグラス家の七人兄妹の長兄シーモァの結婚式をめぐる騒動を、二つ年下の次男のバディ(作家でサリンジャー自身の分身と言われています)の眼を通して描いています。
 結婚式の当日に、「幸福すぎて結婚できない」という奇妙な理由で、シーモァはミュリエルとの結婚式をキャンセルして姿を消します。
 大混乱の式場で、バディは偶然花嫁の縁者たちと狭いタクシーの中に押し込まれ、さらにパレードのために交通止めになったために、偶然近くにあったシーモァと二人で借りていたアパートメント(二人が兵役に就いていたため、妹のブー・ブーが住んでいましたが、彼女も兵役に就くことになって不在でした)へ招待する羽目になり、シーモァを非難する花嫁の縁者たち(特に花嫁の付添役の体育会系の女性が強硬派)に囲まれる四面楚歌の中で、シーモァの名誉のために酒の力も借りて奮闘します(精神分裂症だとか同性愛者だとか、花嫁の付添役に言われますが、なにぶん七十年以上も前の話なので、マイノリティへの差別意識は、両者ともにあります)。
 結局、その頃ミュリエルの実家に現れたシーモァは、前言を翻してミュリエルと結婚することと、彼女の母親の勧め通りに精神分析医にかかることを約束すると、大泣きしていたミュリエルもあっさり機嫌を直して、花嫁の家族や親戚たちを残してハネムーンへ旅立ちます。
 しかし、ご存じのように、二人の結婚生活はわずか6年後にシーモァのピストル自殺によって幕を閉じます(「バナナ魚にもってこいの日」の記事を参照してください)。
 シーモァは、ミュリエルが自分を好いていることも確かだけど、愛しているから結婚したいというよりは結婚という制度とそれに付随する楽しいこと(結婚式や、二人での新生活や、やがて授かるであろう(自分に似て)かわいい子どもたちなど)にあこがれていて結婚したがっていることを見抜いています(現在の日本でも、同様な女性が少なからず存在していると思います)。
 しかし、重要なことは、シーモァがそれを非難しているのではなく、それも含めてありのままのミュリエルを愛そうと決意していることです。
 いや、むしろ、自分にはない(兄妹たちも同様です)そうした愛すべき部分を持った女性(もちろん美しい外見も魅力なのでしょうが)に魅かれているのだと思われます。
 一方、ミュリエルも、彼女の知性ではシーモァのような存在(15歳で大学に入学し18歳で博士号を得ています)を理解するのは無理なのですが、一応理解しようとは努めています。
 問題は、彼女が親離れ(特に母親)していなかったことです。
 シーモァのことはなんでも母親にそのまま話してしまいますし、母親の方も子離れしていないので何かと干渉してきます(一番驚いたのは、シーモァを家に招いた時に、自分の精神分析医を同席させたことです)。
 シーモァはミュリエルをそのままの存在として愛していましたし、ミュリエルもシーモァのことを理解しようとしていて積極的には変えようとはしていませんでした。
 しかし、ミュリエルの母親は、シーモァを自分の娘にふさわしい男性に変えようとしていたのです。
 こうした母娘関係は、現在の日本では大きな問題になっていますので、極めて今日的なテーマを備えていると言えます。
 シーモァの自殺については、戦争体験などいろいろな要素がからみあっているのですが、この不幸な結婚もその一因になっていたでしょう。
 あのまま、シーモァが逃げてしまっていたらと思わざるを得ません。
 なお、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」という風変わりなタイトルは、妹のブー・ブーがアパートメントに残したメッセージに起因していますが、その意味合いについては諸説あってはっきりしていません。
 ただ、兵役に就くために結婚式に出席できなくなったブー・ブー(兄弟の中では一番バランスの取れた聡明な女性で、ミュリエルやその母親の本質を正しく見抜いていました)が、厳しい未来が予想される結婚に臨む兄を励ましている(チアーアップしている)と読むのが、一番素直なように思えます。




 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森川展男「サリンジャー」

2022-02-08 16:56:44 | 参考文献

 1998年に出版された「伝説の半生、謎の隠遁生活」の副題を持つ評論です。

 惹句に惹かれて、新事実や新説を期待して読むと、拍子抜けします。

 あとがきにも書かれているように、サリンジャーのほとんどの作品に言及し、先行文献にもよく目を通しているのはわかるのですが、作者自身の視点や意見には新味はありません。

 また、作者はサリンジャー・ファンを自称していますが、その書き方にはあまり愛情は感じられず(他の記事にも書きましたが、欧米を中心にしたサリンジャーの研究者たちも同様で、そのあたりが宮沢賢治の研究者たちとは違う点です)、サリンジャー・ファンが読むと不快に感じる部分も多々あります。

 また、文学理論に照らし合わせたり、英米の純文学系の大家たちと比較するような書き方も、サリンジャーのような平明さを命にしているような作品を批評する時には、あまりフェアとは言えません。

 特に、サリンジャーがその作品の中で重要視しているイノセンス(無垢)な魂の持ち主を、未熟としてしか捕らえられない作者には、サリンジャー作品の本質は理解できないでしょう。

 それなら、何故、ここまでの労力をかけて本を書いたのでしょうか。

 それは、いみじくも文中で作者自身が他の研究者を揶揄しているように、サリンジャーについて書けば、「本になる」「お金になる」からでしょう。

 アメリカで(そして日本でも)、もっとも読まれているアメリカ文学の書き手がサリンジャーなのです。

 それでは、なぜ洋の東西を問わず、時代を超えて今でも、サリンジャーが若者に読まれているのでしょうか?

 それを説き明かすには、この本のようなテキストにこだわった文学論的なアプローチではなく、社会学的なアプローチや発達心理学的なアプローチが必要でしょう。

 また、他の記事にも書きましたが、児童文学論的なアプローチ(文学と子どもという二つの中心を持つ楕円形として作品を捕らえる)も有効かもしれません。

 そうでなければ、サリンジャー作品のような現代的不幸(生きることのリアリティの希薄さ、アイデンティティの喪失、社会への不適合など)を抱えた人物を主人公にした作品は解読できません。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田勝彦「グラドウォラ=コールドフィールド物語群」若者たち解説

2022-02-07 16:54:05 | 参考文献

 訳者である鈴木武樹が、ジョン・F・グラドウォラあるいはホールデン・モリス・コールフィールドを主人公にした短編を一つのグループにまとめたのに即して解説しています。
 これらの作品は、サリンジャーの代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ないしは、自選短編集「九つの物語」のための習作あるいは下書き的な性格を持っています。
 そのため、これらの作品自体を論ずるよりは、完成形の作品との差異やなぜそのように変化していったかを考察すべきだと思うのですが、そのあたりが中途半端になっています。
 また、アメリカ文学の流れとしての「ロマンス」から「ノヴェル」への変化についても言及していますが、こうした大きな話は限られた紙数の「解説」という場にはふさわしくなく、中途半端に終わっています。
 以下に各短編の評について述べます。

<マディスンはずれの微かな反乱>
 この作品は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第17章から第20章にかけての内容の、ごく断片的な下書きともいえます(その記事を参照してください)。
 しかし、著者は、それとの関連に対する考察は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「美しき口に、緑なりわが目は」とのあまり本質的ではない関連に触れただけで、この作品自体の評価としては、サリンジャーの巧妙なまとめ方は認めつつも完成度が低いとしています。
 この短編を読んで、ここから長編「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にどのように変化していったかを類推しようとしないのは、著者が実作経験に乏しいためと思われます。
 他の記事にも書きましたが、創作する立場から言うと、長編作品には、大きく分けると「長編構想の長編」と「短編構想の長編」があります。
 前者は、初めから長編として構想されて、全体を意識して創作される作品です。
 後者は、初めは短編構想で書きあげられて、そののちそれが膨らんだり、あるいはいくつかが組み合わさったりして、結果として長編になる作品です。
 サリンジャーは、自分自身も認めているように、本質的には短編作家です(長編は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」しかありません)。
 そうした作家の長編の創作過程を考察するためには、こうした初期短編は絶好の材料です。
 その点について、もっと掘り下げた考察をするべきでしょう。
 また、五十年以上前の文章なので仕方がないのですが、著者のジェンダー観の古さと、アメリカ人と日本人のメンタリティの違いが理解できていないことも感じられました。

<最後の賜暇の最後の日>
 平和主義者のサリンジャーの戦争批判の仕方について論じて、「エスキモーとの戦争の直前に」(その記事を参照してください)との共通点を指摘しています。
 ただ、この作品が、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。

<フランスへ来た青年>
 戦争で精神的に傷ついた青年が、妹からの手紙で救済されたことについて、「エズメのために ― 愛と背徳とをこめて」との関連で述べています。
 ここにおいても、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。
 また、当時の翻訳者が、日本と外国(この場合はアメリカ)との風俗や人間関係の違いから、読者にわかりやすくするという名目で勝手に意訳したり設定を変えたりすることについて肯定的に考えていることがほのめかされていて、驚愕しました。
 そう言えば、最近は少なくなりましたが、外国の文学作品や映画の日本でのタイトルはかなり大胆に変えられていて、オリジナルのタイトルを知って驚かされることがあります。
 もちろん、そちらの方が優れている場合もあるので、一概に良くないとは言えないのですが。
 例えば、スティーブン・キングの有名な「スタンド・バイ・ミー」は本当は主題歌のタイトルなのですが、オリジナルの「ボディ(死体)」よりはこちらの方が内容的にもしっくりします。
 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も、初めの邦題は「危険な年頃」なんてすごい奴でしたし、日本で一番ポピュラーになっている「ライ麦畑でつかまえて」もなんだかしっくりきません。

<このサンドイッチ、マヨネーズがついていない>
 主として技巧面での解説をしていますが、この作品については「キャッチャー・イン・ザ・ライ」との関連が述べられています(詳しくはこの作品の記事を参照してください)。

<一面識もない男>
 サリンジャーの繊細な表現について肯定的な評価をしていますが、明らかな誤読か見落としがあって、この作品もまた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型の一つであることに気づいていません(詳しくは、この作品の記事を参照してください)

<ぼくはいかれている>
 この短編が、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型であることは述べていますが(まあ、誰が読んでも明白なのですが)、それについての具体的な考察はなく将来の研究(他者の?)に委ねてしまっています(私見については、この作品の記事を参照してください)。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする