現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

吉川英治「三国志」

2025-01-19 14:53:25 | 参考文献

 言わずと知れた、古代中国の戦乱時代を描いた歴史ロマンです。
 三国志自体は、中国の三国時代の歴史書なのですが、古来さまざまに脚色された本が流通しています。
 日本でも様々な「三国志」が存在しますが、吉川英治の本が日本での決定版といっていいでしょう。
 また、三国志はマンガや様々なゲームになっていますが、それらも吉川英治版をベースにしています。
 三国志は、劉備、関羽、張飛の義兄弟が序盤の主役ですが、中盤は魏、呉、蜀の三国の成立が描かれ、終盤は劉備の軍師で蜀の丞相になった諸葛亮孔明が主役になります。
 夥しい登場人物の中には、劉備、関羽、張飛、呂布、曹操、司馬懿、周瑜、陸遜などの魅力的なキャラクターが描かれていますが、なんといっても最大のスターは孔明でしょう。
 歴史上天才と呼ばれる人はたくさんいますが、「千年に一人の大才」と言われているのは孔明だけです。
 この本を読んで、かつての私のように、自分は孔明の生まれ代わりだと信じている少年は今でもたくさんいるのではないでしょうか。
 この本は、私にとっては中学高校時代の最大の愛読書でした。
 不思議に、中間テストや期末テストの前になると読みたくなるので、この文庫本で八冊以上にもなる大著を何度読んだかわかりません。
 きっと、試験勉強という現実を逃避して、古代の歴史ロマンの世界に身を置きたかったのでしょう。
 「泣いて馬謖を斬る」とか「死せる孔明、生ける仲達を走らす」といった名文句はいつも心の中にあります。
 今回、久々に電子書籍で読みましたが、少しも古びることがなく著者の格調高い文章で語られる真のエンターテインメントを楽しむことができました。

三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33)
クリエーター情報なし
講談社

 

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庄野潤三「夕べの雲」

2025-01-17 08:48:20 | 参考文献

 昭和39年9月から昭和40年1月まで、日本経済新聞に連載され、昭和40年3月に講談社から出版されて、翌年の読売文学賞を受賞した作品です。

 作者の分身である主人公と、その妻、高校生の長姉、中学生の弟、小学生の末弟の五人家族のゆったりした暮らしが、開発(団地)で失われていく周囲の自然(神奈川県の小田急線生田の周辺のようです)への哀惜と共に、作者独特の滋味深い文章(一見、平易に見えますが、一言一言が詩心に裏付けされていて、とても真似できません)で描かれています。

 こうした一見平凡に見える日常を描いた作品を、新聞小説として受け入れる当時の新聞社の度量の大きさに驚かされます。

 もっとも、作者の場合は、その10年前にも、「ザボンの花」(登場する子どもたちが小学生と幼児なので、児童文学とも言えます)が同じ新聞社で連載されて好評だったせいもあるでしょう。

 各章は子どもたちのエピソードが中心ですが、その中に作者の子ども時代や両親や兄弟の思い出も描かれていて、家族の歴史に立体感を与えています。

 

 

 

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(500)日のサマー

2025-01-16 09:41:06 | 映画

 2009年公開のアメリカ映画です。

 ロマンチックな恋愛を夢見る若い男性が、一目惚れした風変わりな女性、サマーに振り回される500日を、時間が先行したり、後退したりしながら描くというかなり凝った構成の映画で、ちょっとわかりづらいかもしれません。

 しかし、この風変わりな(恋人や結婚相手ではなく友人としての関係だと一方的に宣言するのですが、その一方でキスやセックスはぜんぜん平気なのです)女性がかなり魅力的なので、観客は主人公と一体になって、彼女の言動に一喜一憂してしまいます。

 けっきょく主人公は振られて、彼女は別の男性と結婚してしまうのですが、それをきっかけに、主人公は本当にやりたかった建築家を目指すようになりますし(それまではメッセージカード会社のコピーライターをしていました)、新しい恋人候補(その名前がオータムなので、オチになっています)にもアタックします。

 

 

 

 

 

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文 最上一平 絵 北見葉胡「緑の葉っぱのパン」

2025-01-14 10:36:43 | 作品論

 明記はされていませんが、ロシアによるウクライナ侵略を想起させる絵本です。

 亡くなったパン職人だったおとうさんとの思い出、平和を願う気持ちが、少女によって土で作られた緑の葉っぱのパンに込められています。

 その光景を眺めていたのが、平和の象徴であるハトであることによって、世界平和を祈る作者の思いが表れています。

 戦地からは遠く離れた日本においても、こうした思いを込めた絵本を出版することは、重要な意味を持っています。

 

 

 

 

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江国香織「デューク」つめたいよるに所収

2025-01-12 16:05:27 | 作品論

 21歳の私は、子犬の時から飼っていた愛犬のデュークが死んでしまって、悲しくてたまりません。
 アルバイトへ行くために泣きながら電車に乗っていると、十九歳ぐらい男の子が席を譲ってくれます。
 アルバイトをさぼって、男の子と喫茶店へ行き、その後もプールで泳いだり、散歩をしたり、美術館を見たり、落語を聴いたりして一日を過ごします。
 帰り際に少年にキスされて、それがデュークそっくりだったことに気づきます。
 実は、少年はデュークの化身で、主人公へ最後の愛を伝えに来たことが暗示されて終わります。
 直木賞も受賞した人気作家の処女出版は、「つめたいよるに」という童話集の体裁で1989年8月に出版されました。
 当時、24、5歳だった作者の若々しい感性が随所に光ります。
 しかし、これが児童文学なのかというと素朴な疑問もあります。
 作者と同世代の吉本ばななの「TSUGUMI」もほぼ同時期に出版されていますが、どちらも同じ読者層を対象にしているように思えます。
 それでいて、片方は児童文学、もう一方は一般文学の体裁で出版されます。
 1990年代後半に児童文学のボーダーレス化がよく議論されましたが、その十年前からすでにボーダーレスは始まっていたのです。
 ボーダーレスの原因にはいくつかあります。
 ひとつは少子化があげられます。
 団塊ジュニアが支えていた児童文学の読者層が、少子化で先細りになり始めていました。
 そのため、児童文学の出版社は、新しい読者層として若い女性を狙ったのです。
 それには、他の記事でも書いた「現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きているリアリティの希薄さなど)」も関連します。
 「現代的不幸」に直面した最初の世代は、1960年代に全共闘世代として学生運動へ突っ込んで行きました。
 それが、70年安保の挫折や学生運動のセクトの内ゲバなどで、学生の政治離れが急速に進みました。
 それにつれて、若者たちの関心は、政治などの外部のものから、自分の内部に移りました。
 いわゆる自分探しです。
 ほとんどの男の子の場合には、自分探しは一種の通過儀礼で学生時代などの限定期間に終了し、就職して会社という外部の組織に帰属していきました。
 そのころは、まだ終身雇用の神話が生きていましたので、そこに身をゆだねている限りはもう自分探しをする必要はないのです。
 それに引き換え、当時でも若い女性は会社に対して定年まで勤めようという意識はなくて(今はかなりの男性もそうですが)、就職してからも自分探しは続いていきます。
 従来の女性の場合は、結婚、出産が、男性の就職の代わりに一種の通過儀礼の働きをして、いやでも「大人」にならなくてはなりませんでした。
 ところが、非婚化や結婚、出産しても親世代へパラサイトする女性(最近は非婚男性も同様ですが)の増加により、いつまでも大人にならない女性が増えています。
 こうして、児童文学は女性(独身者だけでなく既婚者も含めて)を大きなマーケットとして意識するようになります。
 つまり、児童文学は、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化したのです。
 最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者、女性司書、女性書店員なども加わり、児童文学の世界は完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
 しかも、L文学は、かつての少女小説や少女漫画よりも広範な世代の読者を抱える大きなマーケットに育っています。
 アラサーはもちろん、アラフォーやアラフィフ、さらにはアラカンになっても少女気分の抜けない女性も、今では珍しくなくなってきています。
 例えば、この「デューク」という作品では、21歳のアルバイトをしている女性(大学生かフリーターかは不明)が、愛犬の死のために人目をはばからず泣きながら町を歩いたり電車に乗ったりします。
 ペットロスのショックの大きさは、私も中学生や高校生の時に体験がある(中学生の時には、この主人公と同様に、泣きながら歩いたり電車に乗ったりしました)ので、主人公の悲しみはよく理解できます。
 ポイントは、そのために公私の区別がつかなくなるほど、大人である主人公が取り乱してしまうほど未成熟なところにあります。
 そこには、それほどペットの死を悲しめる主人公がいとおしいと思っている作者と、それに激しく共感する少なくない人数の読者たちとで作られた閉じられた世界があります。
 この閉鎖性が、L文学の魅力であるとともに限界でもあるように思います。
 旧来的な見方では、21歳の成人した人間が公の場で涙を流しているのは、「いい年して大人になっていない」と批判を受けるかもしれません。
 ところが、この「大人にならない」ということが、この閉じた世界では最大の魅力になっているのです。
 こうして、「大人にならない」大人たちが、児童文学の新しいターゲットになりました。

つめたいよるに
クリエーター情報なし
理論社


 

 

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宮沢賢治「どんぐりと山猫」注文の多い料理店所収

2025-01-11 09:03:30 | 作品論

 賢治の、最初にして最後の作品集の巻頭作です。
 ご存じのように、賢治の作品は、時として難解なこともあるのですが、この作品は非常にオーソドックスな童話です。
 子ども読者の大好きなくり返しの手法を多用(山猫の行方を尋ねる時やどんぐりたちがそれぞれの主張を繰り返すところ)して読者の興味を引きつけていますし、不思議な世界への通路(ファンタジーを成立させる一つの要件で、この作品では馬車です)もきちんと用意されています。
 しかし、今までの童話と大きく違う点は、賢治独特の鋭い自然への観察を軽々と優れた詩の言葉へ変えてしまう表現力や弱者(馬車別当やどんぐりたち)への労わりやサポートの表明などです。
 百年以上前(1921年9月19日)の作品ですので、差別的な用語も散見されますが、そんなことはどうでもいいのです。
 そういった言葉遣いだけに気を使って、内容が多様な人々への配慮に欠けた作品のなんと多いことか。
 常に弱者の側に立つ。
 その姿勢こそ、昔も今も児童文学者に一番求められるものなのです。
 子どももまた弱者であることは、新聞やテレビやネットを繰り返し賑わせている事件だけでなく、みなさんご自身の体験からも明らかなことだと思います。
 世界中の子どもたちは、等しく幸せになる権利を持って生まれてきています。
 それを踏みにじる大人たちがいるかぎり、児童文学者は常に子ども側の立場でいるべきです。
 賢治のこの作品集も、その立場を繰り返し明確にしています。
 ところで、私はこの作品の冒頭の山猫からのはがき(実際は彼の馬車別当が書いています)を読むたびに、受け取った一郎と同様にうれしくてうれしくてたまらなくなります(年を取ってしまったので、一郎のようにうちじゅうとんだりはねたりはできませんが)。
「かねた一郎さま 九月十九日
 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいで
 んなさい。とびどぐもたないでください。
                 山ねこ 拝」
 いつか自分にもこんなはがきが来ないかとずっと願っていますが、初めて読んでから五十年以上たちますが、その後の一郎と同様に、残念ながらまだ一度も受け取っていません。

注文の多い料理店 (新潮文庫)
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新潮社




 



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柏原兵三「徳山道助の帰郷」柏原兵三作品集1所収

2025-01-09 15:24:09 | 参考文献

 1968年に第58回芥川賞を受賞した作品です。
 柏原は、ドイツ文学の、特に教養小説の研究者なので、この作品にも多分に教養主義的なにおいは感じられますが、彼の特長である平易な文章で書かれているので、今の読者でも読みやすいと思われます。
 母方の祖父で陸軍中将まで上り詰めた人物の評伝を、特に晩年零落してからの最後の帰郷(大分県です)を中心に描いています。
 芥川賞の選評では、軍人であり多くの部下を死なせた責任者である主人公を、最終的には受け入れる形で描いている作者の姿勢を批判する意見もあったようですが、むしろ60年代後半の反戦的雰囲気の中で、こういった作品を一定以上の水準で書き上げた作者は、もっと評価されてもいいのではないのではないでしょうか?
 同じころ、児童文学の世界では、たんに反戦を取り扱っているだけのテーマ主義的な愚にもつかない作品群を高く評価していました。
 世の中のはやりや風潮に流されずに、文学性の高い作品を書くことは、どの時代でも、一般文学でも児童文学でも大切なことですが、現代ではあまりにも軽視されすぎています。

柏原兵三作品集〈第1巻〉 (1973年)
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潮出版社
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からかい上手の高木さん

2025-01-08 16:50:16 | アニメ

 ごく普通の中一の男の子が、隣の席の美人でお姉さんキャラの女の子にからかわれて、過剰に反応する姿を描いたラブコメディです。
 この年代の男の子と女の子の精神年齢の違い(男の子はガキのままですが、女の子はすでに一人前の女性です)を巧みに生かして、何とか逆にからかおうとして空回りを続ける男の子と、それをやさしくリードする女の子の、両方のかわいらしさが良く描けています。
 二人の立ち位置を象徴するように、女の子は相手を「西片」と呼び捨てにしているのですが、男の子は相手を「高木さん」としか呼べません。
 今どきこんなほのぼのしたタッチのアニメが人気がある(二期目も、三期目も製作されました。二期目に関しては、その記事を参照してください。)のは、背伸びをしつつも、実はこんな初恋にあこがれている男の子と女の子が今でも多数派だからなのでしょう。
 現代の児童文学ではほとんど絶滅している普通の男の子を主人公にしても、ユーモアと機智を発揮すれば、十分読者を獲得できることをこの作品は証明しています。
 それにしても、かわいくて頭も性格もいい高木さんに、こんなに好意を持たれている西片はなんとラッキーな奴なのでしょう。
 最終回になって初めて、入学式の時に、高木さんのハンカチを西片が拾って、職員室に届けてあげた(そのために西片は遅刻してしまいます)のがきっかけだったことが明かされます。
 また、ずっと気づかなかったニブチンの西片も、ようやく高木さんの好意に気づいて、ぎこちないながら自分の気持ちも伝えられて、視聴者は一安心できました。

からかい上手の高木さん9 OVA付き特別版(特品)
クリエーター情報なし
小学館
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ポール・ギャリコ「シャボン玉ピストル大騒動」

2025-01-07 10:46:14 | 参考文献

 1974年に発表された作者の最晩年(77歳の時です)の作品ですが、稀代のストーリーテラーの筆は少しも衰えを見せていません。
 9歳の男の子が、自分で発明したシャボン玉ピストルの特許を取るために、アメリカの西海岸の南のはずれであるサンディエゴから東海岸の首都ワシントンまで、大陸横断バスで向かう最中に、いろいろな事件に遭遇します。
 国防省の大佐、ソ連のスパイ、殺人狂のハイジャック犯、初めてのセックスのために家出した高校生カップル、ベトナム戦争からの帰還兵、イギリスから来た老姉妹などなど、当時の世相を反映した様々な個性豊かな登場人物たちを、ギュッと一台の長距離乗り合いバスの中に押し込め、次々と事件を起こさせます。
 もちろんストーリ展開にかなりご都合主義のところがあるエンターテインメント作品なのですが、その中に、父子の葛藤、年の差を超えた友情、大人の論理と子どもの論理、子どもの時代へのサヨナラなどのモチーフをうまく取り込んでいます。
 また、安易なハッピーエンドではないのに、将来に希望が持てる点も重要な特長です。
 一応、悪役といい役ははっきりしているのですが、あまり単純化しておらず、冷戦真っ只中のソ連側すらアメリカの国防省と同様にユーモラスに描いています。
 中でも、一番すぐれた点は、作者が徹頭徹尾子ども側に立っている点です。
 そういった意味では、この作品は優れた児童文学でもあるのですが、1977年に翻訳された時にあまり児童文学界で話題にならなかったのは、この作品がエンターテインメント作品だったからでしょう。
 日本の児童文学界においてエンターテインメント作品が市民権を得るようになったのは、1978年に発表された那須正幹のズッコケ三人組シリーズが大成功を収めてからでした。
 その後も、1990年代までは、評論の世界ではエンターテインメント作品は軽視されていました。
 逆に、現在の児童文学は、売れるエンターテインメント作品ばかりがもてはやされていて、それはそれで問題なのですが。


シャボン玉ピストル大騒動 (創元推理文庫)
クリエーター情報なし
東京創元社
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デ・アミーチス「クオレ」

2025-01-06 09:20:45 | 作品論

 「愛の学校」という副題でも知られている、1886年に書かれた児童文学の古典です。
 私は、子どものころに講談社版少年少女世界文学全集に入っていた抄訳を読んだだけで、全訳は今回初めて読みました。
 この作品は、イタリアの小学四年生の一年間の日記の形態をとっていて、そこに両親や姉のコメントを付け加えたり、担任の先生がしてくれる毎月のお話としてイタリア各地の英雄的な行為をした少年たちを紹介する短編(全部で9編あって一番有名なものはあのマルコの「母を訪ねて三千里」です)が挿入されていて、単調になるのを防いでいます。
 あとがきで訳者も述べているのですが、かなり軍国主義的だったり、過度に愛国的だったり、教訓的すぎる部分もあって、そういった個所を削除した抄訳の方が60年前の私にとっても読みやすかったと思います。
 なにしろ130年以上前に書かれた作品で、この訳者による初訳も100年以上前(改訂版も私が生まれた翌年の1955年です)なので、今の基準に照らすと、差別的だったり、子どもへの虐待(少年労働や少年兵士など)があったりして、現代には適していない描写や表現もありますし、今の子どもたちに理解してもらうのは難しいかもしれませんが、ここで描かれた死や別れなどは、今でも普遍的な価値を持っていると思われます。
 現代の日本の子どもたちに手渡すのには、抄訳や翻案ということも考えられますが、適切なまえがきとあとがきと詳しい注釈をつけて、原作のまま紹介する方が望ましいでしょう。
 作中の少年たちが、まだ近代的不幸(戦争、貧困、飢餓、病気など)が克服されていない社会でどのように生きてきたかを知ることは、現代の子どもたちにとっても意味のあることだと思います。

クオレ―愛の学校 (上) (岩波少年文庫 (2008))
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岩波書店



クオレ―愛の学校 (下) (岩波少年文庫 (2009))
クリエーター情報なし
岩波書店
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竹内洋「教養主義の没落」

2025-01-05 08:57:07 | 参考文献

 大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年前後までの半世紀の間、日本の大学に君臨した教養主義は、その後没落して見る影もなくってしまっています(別の記事に書きましたが、朝井リョウの「何者」には教養とは無縁の現代の大学生の様子が良く描かれています)。
 本書における教養主義とは、人格形成や社会改良のための読書によるものとされます。
 私は教養主義が終焉した後の1973年に大学に入学したのですが、そのころでさえ、理系の学生は専門以外の本はほとんど読まず、文系の学生も遊びに忙しくてあまり本を読んでいないことに愕然とした覚えがあります。
 また、そのころにまだ「教養主義」があったとすれば、それは読書だけではなく、名作映画や前衛的な演劇、最新の音楽などによっても培われるようになっていたと思います。
 今は本だけでなくそれらの分野も、商業主義や娯楽主義にとってかわられ、ほとんど「教養主義」は存在しなくなっているようです。
 幅広い教養を身につけるより、就職に有利な実務能力を身につけ、あとは商業ベースの娯楽に身をゆだねるのが、ほとんどの大学生の実態でしょう。
 それは、70年安保の挫折、高度経済成長、大学の大衆化(非エリート化)などが原因と思われます。
 この本では、教養主義の盛衰について、データを多用して詳しく説明されていますが、その社会背景などへの著者の考察が不足していて物足りませんでした。
 さて、この「教養主義」は、児童文学の世界では1990年ごろまでは続いていました。
 「教養主義」の洗礼を受けた大人たちが、創作活動や読書運動などを通して媒介者(子どもたちに本を手渡す人たち)として、「ためになる」本を子どもたちに啓蒙していたからです。
 このことは、「現代児童文学」が1990年代まで続いた要因ともなりました。
 なぜなら、「現代児童文学」は、いわゆる「世界名作児童文学」とならんで、「教養主義」的な要素を含んでいたからです。
 また、この本では、マルクス主義が繰り返し教養主義と並立したり衰退し(弾圧され)たりしている様子が書かれていますが、「現代児童文学」の出発にはマルクス主義の影響が濃厚に関わっていた点も類似しています。
 しかし、1980年ごろに確立された「子ども向けエンターテインメント」ビジネス(1978年にスタートした那須正幹の「ズッコケシリーズ」がその最初の大きな成功でしょう)が、さらに児童文庫の書き下ろしエンターテインメントやライトノベルなどに発展するにつれて、児童文学においても「教養主義」は没落していきます。
 岩波少年文庫などの世界名作や、いわゆる「現代児童文学」の売り上げの低迷がそれを端的に表しています。
 現代では、親(あるいは祖父母でも)の世代ですら、「教養主義」の洗礼を全く受けてない人たちが大半なのですから、子どもたちにそれを伝えることは不可能です。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論新社
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「「ちびくろサンボ」絶版を考える」径書房編

2025-01-04 08:34:30 | 参考文献

 1989年に、古典的な絵本である「ちびくろサンボ」が黒人を差別していると抗議され、すべての出版社が絶版にした事件の顛末と、この問題を巡る賛否両論を併記した本です。
 「ちびくろサンボ」は、日本だけでも22社49種類も発行されていた人気絵本であり、代表格の岩波書店版だけでも百二十万部以上を売り上げていた大ベストセラーだったのです。
 それがいっせいに書店から姿を消したのですから、大論争になりました。
 批判派のポイントを要約すると、「ちびくろという用語が差別的、サンボをはじめとした登場人物の名前が黒人の蔑称である、原作はインド系黒人を描いていたのにいつのまにか挿絵がアフリカ系黒人に変わりアメリカでの差別を助長した、描かれている黒人の絵が差別的に描かれるときの黒人のステレオタイプを誇張している、イギリスの植民地だったインドに対する白人の作者の優越感が感じられる、描かれている黒人の生活が未開で野蛮な印象を持たせる」などとなります。
 一方、擁護派の意見は、「子どもたちが喜んでいる、子どもたちは読んでも黒人差別など感じていない、自分も子どものころに読んだ時には差別を感じなかった、差別があるからと単純に絶版するのは表現の自由を侵している」などです。
 こうしてみると、反対意見は差別される側の立場に立ち、擁護意見は読者の立場に立っているように思われます。
 ここで私の意見を述べます。
 もう一度見直してみると、「ちびくろサンボ」は明らかに黒人を差別していると思いますし、それに気づかずに読んでいた自分自身にも、黒人に対する優越意識(白人に対するコンプレックスの裏返しとして)があったことを認めざるを得ません。
 しかし、一方で表現や出版の自由や作品の歴史的な価値を考えると、「ちびくろサンボ」をまったく抹殺してしまうことにも反対です。
 黒人差別に無頓着な既存の本の絶版は当然ですが、この作品や「黒人差別」の歴史的背景を十分に解説した文章をつけて、オリジナル版の挿絵と文章の完訳で復活させてはどうかと思います。
 そうすれば、子どもたちは、オリジナルストーリーの優れている点を味わえるとともに、「差別」について考える契機になると思うのですが、いかがでしょう?
 「ちびくろサンボ」の問題が、児童文学界に大きな衝撃を与えたのは、そのビジネス上のインパクトだけではありません。
 現代児童文学の成立に大きく寄与したといわれる、1960年に出版された石井桃子たちの「子どもと文学」において、「児童文学は「おもしろく、はっきりわかりやすく」なければならない」という彼らの主張の実例として、「ちびくろサンボ」を詳しく解説していたからです。
 そのため、「子どもと文学」に影響を受けた児童文学者(他の記事にも書きましたが、私自身も1971年の8月、高校二年の夏休みにこの本を読んで児童文学を志すようになりました)にとって、「ちびくろサンボ」は大きな意味を持っています。
 また、「子どもと文学」は、「ちびくろサンボ」と対比する形で、以下のように主張していました。
「時代によって価値のかわるイデオロギーは――たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが――それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです。」
 この主張に対して、児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、詳しくはその記事を参照してください)という論文において、以下のように批判しています。
「このくだりは、事後、プロレタリア児童文学は「人生経験」の十分でない子どもにとってほんとうに無意味なのか、また、「子どもと文学」が古典的価値をもつ典型とみなした「ちびくろ・サンボ」は人種差別ではないのかといった問題点を指摘された。プロレタリア児童文学は、子どもたちの「人生経験」の場にほかならない生活の過程をこそ思想化しようとしたのではなかったのか、また、イデオロギーではないはずの「古典的価値」が批判されたことは時代の変遷に関わらない思想などありえないことの証ではないかということである。」
 他の記事で書いたように、「子どもと文学」は、カナダのリリアン・H・スミスが1953年に書いた「児童文学論」の影響下にあって、当時の英米の児童文学の価値観を日本に持ち込んだものであり、白人(厳密に言えばアングロサクソン)の思想に基づいているという限界を持っていたのです。
 ただし、「子どもと文学」の出た1960年といえば、アメリカでは公民権運動がまだ勝利しておらず、もちろん南アフリカでのアパルトヘイトも続いていたわけで、当時の石井たちの黒人差別の認識は平均的な日本人の認識より劣っていたわけではないので、この点でも歴史的な背景を理解して批判しないとフェアではないと思います。

『ちびくろサンボ』絶版を考える
クリエーター情報なし
径書房
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寺山修司「一騎打ち」優駿1978年2月号所収

2025-01-01 13:11:02 | 参考文献

 「有馬記念とその抒情」という副題を持った、1977年12月18日に行われた第22回有馬記念の観戦記です(そのころの有馬記念はその年の最後の開催週に行われるのではなく、最後の日は中山大障害でした)。
 史上最高の名勝負と言われるテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちを、作者らしい叙情的な文章で綴っています。
 植字工のアルバイト、シングルマザーで子どもとも別れてしまったバーのホステス、競馬記者、スシ屋の政、バーテンの万田、二人の唖(差別用語ですみません)、養老院の沢松じいさん、関西から流れてきたバーテンの吉武、売れないレコード歌手の美保さん、そして作者本人といった様々な市井の人たちの立場から、叙情的にテンポイントとトウショウボーイの「どちらが勝つべきか!]を論じています。
 そして、その中に、巧みに、このレースにおける様々な因縁を織り込んでいます。
 テンポイントは、一度もトウショウボーイに勝っていなくて、唯一の先着は、穴馬グリーングラス(実は稀代のステイヤーで、菊花賞だけでなく天皇賞(そのころは春秋ともに3200メートルで、一回勝つと出走できないルール(できるだけ多くの馬主に天皇賜杯を得る名誉を与えるため)でした)や有馬記念に勝ちました)が勝った菊花賞だけで、春の天皇賞を勝って当時最強と言われていたその年の宝塚記念でも、トウショウボーイには勝てませんでした。
 テンポイントのこれまでの勝利数は10で、一番人気になったのは12回。
 トウショウボーイの勝利数も10で、一番人気も12回。
 単勝人気はほぼ互角(テンポイントが一番人気)で、両者合計で80%近くを占めていました。
 作者はトウショウボーイとテンポイントのイメージを、以下のように対照的に捉えています。
 叙事詩と抒情詩
 海と川
 夜明けとたそがれ
 祖国的な理性と望郷的な感情
 漢字とひらがな
 レスラー的肉体美とボクサー的肉体美
 橋または鉄橋と筏またはボート
 影なき男と男なき影
 防雪林と青麦畑
 テンポイントに騎乗する鹿戸明は、前年わずか4勝(テンポイント以外はほとんど勝っていない!)しかしていない裏街道のジョッキーですが、テンポイントに乗ったときだけは別人のようでした。
 一方、トウショウボーイの武邦彦(武豊のおとうさんです)は「名人」という異名を持つ関西の花形ジョッキー(ちなみに、当時「天才」という異名を持っていたのは福永洋一(福永祐一のおとうさんです)でした)ですが、ダービーで鹿戸明から乗り代わった時は7着と惨敗して、再びテンポイントの手づなを返すという屈辱を味わっています。
 そして、レースが始まると、逃げ馬のスピリットスワップスを抑えて、いきなりトウショウボーイとテンポイントが先頭に立ちました。
 こうして、スタートからゴールまで二頭の一騎打ちという、空前絶後の有馬記念が始まったのです。
 初めは、トウショウボーイがややリードします。
 このままでは、直線でいくら追っても届かなかった宝塚記念の再現になってしまいます。
 そこで、鹿戸はテンポイントを内側に入れて(当日、馬場の内側は荒れていたので、トウショウボーイはやや外目を走っていました)、トウショウボーイを抜かしにかかります。
 しかし、武はトウショウボーイのピッチを上げて抜かさせません。
 このままだと、荒れている内側をずっと走らせられて、テンポイントはバテてしまいます。
 ここで、何かが乗り移ったように、鹿戸の一世一代の好騎乗が発揮されます。
 向正面で、テンポイントをいったん下げて、トウショウボーイの外側に出して、再び追い上げたのです。
 四コーナーで、テンポイントはようやく先頭に立ちます。
 しかし、トウショウボーイも強い。
 そこから、ゴールまで二頭と二人のジョッキーによる意地と意地の叩き合いが続き、テンポイントが宿願を遂げて先頭でゴールした時の着差はわずか4分の3馬身でした。
 つまり、中山競馬場の四百メートルの直線を、ずっと同じ態勢で二頭は競り合ったのです。
 漁夫の利を得たグリーングラスが、トウショウボーイに2分の1馬身差の3着になったのは、さすがでした。
 4着のプレストウコウ(その年の菊花賞場)は、そこから6馬身も引き離されていました。
 G1が安売りされている現代と違って、当時は8大レース(桜花賞、オークス、皐月賞、ダービー、菊花賞、宝塚記念、春秋の天皇賞、有馬記念)だけが重要視されていたので、有馬記念はその年の日本一決定戦として、今とは比べ物にならないほど注目を集めていました。
 1976年トウショウボーイ、1977年テンポイント、1979年グリーングラスと、同世代で有馬記念を三勝したわけですから、いかにこの3頭が傑出していたかがおわかりいただけると思います。
 ちなみに、当時の名馬たちには、秀逸なニックネームがつけられていました。
 トウショウボーイの「天馬」は、あまりにも有名ですし、圧倒的なスピードを誇ったこの馬にピッタリでした。
 テンポイントの「貴公子」も、美しいこの馬(他の記事にも書きましたが、優駿のこの号の表紙のテンポイントの美しさは神がかっています)にピッタリですが、このニックネームはタイテエムなどの他の馬にも使われいたので、独自性としてはイマイチかもしれません。
 グリーングラスの「緑の怪物」もイメージにはピッタリなのですが、ちょっと語呂が悪い感じで、あまり定着しませんでした。
 他の記事にも書きましたが、1978年1月の日経新春杯で小雪降る京都競馬場でテンポイントが散って、中学三年生から八年間続いた私の競馬熱中時代は幕を下ろしました。
 まさにこのレースは、私にとっては、最後の名勝負でもあったのです。
 先日、テンポイントが生まれてお墓もある吉田牧場が閉場するというニュースを新聞で読みました。
 その中で、吉田場長は、このレースを、コマ送りするように最初から最後まで覚えているとおっしゃっていましたが、私も全く同じ思いです。



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