1993年6月初版の短編集の中の一編です。
ママとパパが外出するので、四人の子供たちだけで夕食をすることになります。
いつでも用意周到なママは、もちろん夕食を用意しています。
チキンソテーとつけあわせのにんじんとほうれん草(子どもそれぞれに合わせて量が調整してあります)、サラダとレモンジュース、パンとりんごで、今日も栄養のバランスは完璧です。
しかし、六時になると、四人は庭に穴を掘り用意してあった夕食を埋めます。
そして、小遣いを出し合って準備しておいた「晩餐」をします。
彼らが禁止されていてそれゆえ憧れていた食べ物、カップラーメン、派手なオレンジ色のソーセージ、ふわふわのミルクせんべいと梅ジャム、コンビニエンスストアの正三角形の大きなおむすび、生クリームがいっぱいの百円で売っているジャンボシュークリーム、それに飲み物は水に溶かす粉末ジュースです。
これらを、好きな場所で、好きなだけ食べたり飲んだりして満足感を感じたのです。
児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、内容についてはそれについての記事を参照してください)において、この作品を山中恒の「ぼくがぼくであること」と並べて、「グレードやスタイルがちがうけれども、読者にとっては、「離婚児童文学(注:石井は岩瀬成子「朝はだんだん見えてくる」、末吉暁子「星に帰った少女」、今江祥智「優しさごっこ」、ワジム・フロロフ「愛について」を例に挙げています)」と同じようにはたらくにちがいない。」と述べています。
おそらく石井は、管理主義の両親への子どもたちの反乱としてこの作品を捉えているのでしょうが、そんなごたいそうなものではありません。
現代児童文学史において重要な位置を占めている山中恒の「ぼくがぼくであること」とこの作品を並べているのは、買いかぶりが過ぎます。
だいいち、ここで子供たちが食べている物は、1993年当時でも普通の子供たちの常食ばかりなので、これに憧れる子どもたちというのはかなり特殊な環境で育っているとしか言いようがなく、普通の生活をしている読者たちにはまるでピンときません。
あるいは、江國香織自身がこれらの食べ物が禁止されるほどのお嬢様育ち(もしかすると石井直人も同じようなお坊ちゃま育ち)なのかもしれませんが、一般の読者たちにとってはとても子どもたちの行動にシンパシーが持てないので、他の「離婚児童文学」のような働きは期待できません。
この作品に対する妥当な評価は、才気あふれる作者のちょっとした思い付きによる小品といったところだと思います。
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