現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

2024-08-31 09:27:08 | 参考文献

 著者の中学生の息子(父親はアイルランド人)が通うイギリス南部の中学校を舞台にしたエッセイ集です。

 著者が元底辺中学校(市内で最下位のランクだったが、近年学業などに力を入れて中位ぐらいまでランクアップしている)と呼ぶ学校は、彼女たちが住む元公営住宅地(もともと住んでいた低所得者や無職の人たちだけでなく、現在は払下げ(豪華なリフォームをします)でミドルクラスの人たちも住むようになり、まだらになっている)にあり、そこで暮らす子どもたちやその保護者たち(白人だけでなく移民も多く、地域的にLGBTQの人たちも多い)や教員たち、貧困問題に取り組む人たちなどを描いています。

 主人公である著者の息子は非常にいい子で、いろいろな問題(彼は小学校は市内第一位ランクのカソリックの公立校に通っていたので、新しい環境には面食らうことが多かったのです)に直面しても、懸命に取り組んでいるのが好感が持てます。

 ただし、著者の書き方は、ややその息子を自慢していることが感じられて、鼻につくこともあります。

 著者の立場は、福祉大国を実現していたかつての労働党寄りで、緊縮財政で弱者を切り捨てている保守党政権には批判的です。

 その指摘には共感できる点も多いのですが、過剰な福祉によって、働かずに子どもだけ産んで社会に面倒を見させている層に対する批判はあいまいで説得力に欠けるようです。

 

 

 

 

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宮沢賢治「序」注文の多い料理店所収

2024-08-30 09:54:12 | 作品論

 賢治が生前に出版した唯一の童話集(他に詩集の「春と修羅」がありますが、いずれも自費出版です)の序文です。
 短い文章ですので、全文を引用します。

 わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕がたを、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたがないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになることもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

  大正十二年十二月二十日
                                        宮沢賢治

 この短い文章の中に、詩人で童話作家であった賢治の創作の秘密が語られています。
 それと同時に、九十年以上前に書かれたにもかかわらす、読者である子どもに対して児童文学者のあるべき姿をこれほど端的に表した文章を私は他に知りません。

注文の多い料理店-宮沢賢治童話集1-(新装版) (講談社青い鳥文庫)
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講談社
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宮沢賢治「『注文の多い料理店』新刊案内」

2024-08-28 11:53:57 | 参考文献

 賢治は生前、詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の二冊を自費出版しただけでした(ただし、引用した文章中にあるように童話集は全十二巻のシリーズの第一巻の予定でしたし、「春と修羅」も第一集であり、その後の作品も書かれていました)。
 この新刊案内には、賢治の作品の背景や童話観が彼自身の言葉で書かれていて興味深いので、以下に全文引用します。
「イーハトーヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるなればそれは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。
じつはこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。
深い椈の森や風や影、肉之草や、不思議な都会、べーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列はじつに作者の心象スケッチのー部である。それは少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。
この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。
一 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。しかもけっして既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によって純真な心意の所有者たちに欺き与えんとするものではない。
ニ これは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しようとはする。けれどもそれは全く、作者の未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。
三 これらはけっして偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこのとおりその時心象の中に現われたものである。ゆえにそれは、どんなに馬鹿げていても、難解でも必ず心の深部において万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。
四 これは田圃の新鮮な産物である。われらは田園の風と光との中からつややかな果実や、青い蔬菜といつしょにこれらの心象スケッチを世間に提供するものである。
注文の多い料理店はその十二卷のセリ一ズの中の第一冊でまずその古風な童話としての形式と地方名とをもって類集したものであって次の九編からなる。
1 どんぐりと山猫
山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較されなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。
2 狼森と笊森、盗森
人と森との原始的な交渉で、自然の順違ニ面が農民に与えた永い間の印象です。森が子供らや農具をかくすたびに、みんなは「採しに行くぞお」と叫び、森は「来お」と答えました。
3 烏の北斗七星
戦うものの内的感情です。
4 注文の多い料理店
二人の青年紳士が猟に出て路に迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。
5 水仙月の四日
赤い毛布を被ぎ、「カリメラ」の銅鍋や青い焔を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪婆ンゴ」や雪狼、雪童子とのものがたり。
6 山男の四月
四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。「烏の北斗七星」といっしょに、一つの小さなこころの種子を有ちます。
7 かしわばやしの夜
桃色の大きな月はだんだん小さく青じろくなり、かしわはみんなざわざわ言い、画描きは日分の靴の中に鉛筆を削って変なメタルの歌をうたう、たのしい「夏の踊りの第三夜」です。
8 月夜のでんしんばしら
うろこぐもと鉛色の月光、九月のイーハトヴの鉄道線路の内想です。
9 鹿踊りのはじまり
まだ倒れない巨きな愛の感情です。すすきの花の向い火やきらめく赤褐色の樹立のなかに、鹿が無心に遊んでいます。ひとは自分と鹿との区別を忘れ、いっしょに踊ろうとさえします。」
 この短い文章の中に、たくさんの賢治作品理解のためのキーワード(「イーハトーヴ」、「心象スケッチ」、「循環」、「宗教」、「ユートピア」など)がちりばめられ、彼の作品に託した願いが込められています。
 中でも注目すべきは、この童話集が「少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。」と明示している点でしょう。
 アドレッセンス中葉とは青年期中ごろつまり思春期を意味しますので、この童話集は現在の学校制度では小学校高学年から高校生あたりを対象として考えていたのでしょう。
 しかも、賢治の全十二巻構想の第一巻であるこの「注文多い料理店」は、「まずその古風な童話としての形式と地方名とをもって類集したもの」としているわけですから、シリーズ全体としては「子どもから大人まで」(賢治と同世代の児童文学者であるエーリヒ・ケストナーの言葉を借りるならば、「八歳か八十歳までのこどもたち」)の広範な読者を対象にしていたと思われます。
 賢治は、この本を自費出版する前年に、「婦人画報」編集部に童話原稿多数を持ち込みますが、掲載を断られています。
 「赤い鳥」などの童話伝統の固定観念にとらわれていた雑誌の編集者には、この「新しい童話」が理解できなかったのでしょう。
 しかし、賢治は出版社に迎合して「お子様向け」の童話などは書かずに、自費出版の途を選びました。
 そのおかげで、当時「婦人画報」などに掲載されていた童話群があっさりと歴史に淘汰されてしまったにもかかわらず、賢治の作品たちは今でも多くの読者を獲得しています。
 これと同様のことを現代でやるならば、商業主義に凝り固まった出版社などには頼らずに、ネットを利用して、直接読者のスマホなどに作品を届けることなのかもしれません。

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新城カズマ「ライトノベル「超」入門」

2024-08-26 09:00:04 | 参考文献

 ライトノベルの現役作家が初心者向けに書いた入門書です。
 著者は文中でライトノベルの作家と読者の同時代性を盛んに強調していますが、自身を年齢不詳にしているところをみると、どうやらかなり年を食っている(2006年出版時で四十代以上でしょう)ようです。
 私は、ライトノベルらしいライトノベルは「涼宮ハルヒ」シリーズしか読んだことがない初心者なので、この本はまさにうってつけです。
 もっとも、作者のライトノベルの定義はかなりぶれていて、時には私でも読んでいるような小野不由美やハリーポッターなどもその範疇に含めていますが。
 著者の述べているライトノベルの定義のうちで狭義のものをいわゆる「ライトノベル」と考えると、「アニメ調のイラストのついた中高校生をターゲットにしたキャラ小説」ということになるでしょう。
 著者がやや自虐的に言っている「字マンガ」という表現も、特徴を良くとらえているようです。
 著者によると、ライトノベルは戦前の少女小説や戦後の少女マンガの影響を強く受けていて(早稲田大学で児童文学を教えているの教員の一人は、戦前の少女小説とライトノベルが専門だとのことなので、彼女の研究をチェックすればもっと詳しいことがわかるかもしれません)、女性向けの物語世界は男性向けよりも10年から20年は進んでいるそうです(私の推測では、男性たちは官能小説(今だとAVや美少女育成ゲームやエロゲー)で物語消費のかなりの部分を満足させているのでしょう)。
 そういえば、この本では触れていませんが、女性向けのライトノベルである氷室冴子などのコバルト文庫のブームは80年代の初めから始まっていて、男性向けより十年ぐらい先行しています。
 著者によると、男性向けライトノベルには次のような主要キャラ類型があるそうです。
 メガネっ娘、妹、委員長、巨乳、貧乳、戦闘美少女、人造少女、ポニーテール、ツインテール、メイド、猫耳、ツンデレ、年上のおねーさん、エルフ、ロリ、ゴスロリ、どじっ子、ショートカット、お嬢さま、ボク女、オレ女、片目っ娘、車椅子娘、ショタコン、電波系。
 子どものころからゲーム、アニメ、マンガに親しんだ世代(このうちアニメとマンガは私の子ども時代からあったので、直接の影響はゲーム(特にRPG)が一番あると思われます)は、自分の内部にキャラや物語のデーターベースを備えていて、キャラ優先で物語を読み解いていけるのだそうです(これを大塚英志はデーターベース消費とよんでいます)。
 RPGはもともとテーブルトークRPGとしてスタートしたもので、ある世界観(トールキンの「剣と魔法」など)のもとにゲームマスター(物語作家に相当するでしょう)の指示に従って、参加者があらかじめ決められたキャラクター(魔法使い、勇者、エルフなど)をアドリブで演じるもので、個々のキャラ(参加者が演じる)の約束事の重要性が初めからあったのです(もっとも、私自身はテーブルトークRPGの経験は数回しかないのですが)。
 ライトノベルでは、多くの場合、一人の登場人物が複数のキャラを備えているようで、その組み合わせの妙が作品の優劣を決めているようです。
 私の乏しいライトノベル読書経験である「涼宮ハルヒ」シリーズ(学園もの、SF、美少女もの、ハーレムもの、ミステリー、ギャグなどを複合した作品です)でも、以下の主要な三人の女性キャラクターに、絶妙のキャラ配合がなされています。
 涼宮ハルヒ(委員長(団長)、超能力者、天真爛漫など)。
 朝比奈みくる(巨乳、ロり、妹(時として年上のおねーさんに変身)、美少女、天然、未来人、どじっ子、メイド、ウサミミのバニーガールなど)。
 長門有希(メガネっ娘、戦闘美少女、人造少女、宇宙人など)
 以上からお分かりのように、朝比奈みくるが一番多くキャラ典型を含んでおり、一番「萌え」る登場人物に設定されます。
 キャラ「萌え」のデーターベースがあまり装着されていない私でも、「涼宮ハルヒ」シリーズが、中高校生の男子を「萌え」させる(非性欲的感情です)のは容易に想像できました。
 さて、著者の本が出てからすでにかなり時間がたちましたが、現在のライトノベルの隆盛はすごいものがあります。
 ほとんどの書店でライトノベルのコーナー(文庫本とコミックスの間におかれることが多いです)を広く取っており、隅に追いやられほとんどが絵本と図鑑と自伝だけになっている児童書コーナーとは対照的です。
 この成功には、以下のような背景があるでしょう。
 まず、ライトノベルで育った世代のある部分が、ライトノベルを卒業せずに買い続けていることです(これはかつてのマンガ世代の高年齢化と同じです。すでに、アニメ風イラストのついたハードカバーの大人向けライトノベルも大ヒットしています)。
 次に、小学生向けのライトノベルのレーベルができ、低年齢向けという新しいマーケットが開拓されたことです(オリジナル作品もありますが、有名なライトノベルの小学生向けリライトもあります。かつて古今の名作が児童書としてリライトされたのと、同じ歴史をたどっています)。
 また、出版側からの事情でいうと、ライトノベルは非常に低コストで作れることがあげられます。
 おそらくアニメやゲームとは二ケタ以上、漫画と比較しても一ケタ以上は安く作れるのです。
 その理由は、作品自体のベースになる世界観(例えばトールキンの「剣と魔法」の世界など)やキャラのイメージ(人気イラストレーターによるものが多いようです)はすでにあり、そこに新しい物語を載せるだけ(しかも会話や余白が多い)なので、一冊の本(250-350ページ)を1-2か月で書き飛ばすことができます。
 また、書き手(大塚英志に言わせると世界観を作れないブルーワーカー物語作家)は専門学校などで次々に養成されていて、本が売れなければ使い捨てされています。
 彼らの多くは読み手と近い(あるいは同じ)世代なので、新城が強調していた同時代性を出すのにうってつけです(かつてあるいは今もかもしれませんが、マンガ家と読者の関係に似ています)。
 また、人気イラストレーターは多忙(ライトノベルだけでなく、アニメ、マンガ、ゲームなどの締切も抱えているのです)なため、著者によると初期のイラストはアニメ絵だったのが、分業が可能なアニメ塗り(輪郭線だけをイラストレーターが描いて、アシスタントが色を塗り分ける)に、さらにはCGに変わってコストダウンが図られているそうです
 こうして、毎月、各レーベルから夥しい数のライトノベルが出版されるのです。
 それは、著者がたとえているように、ひとつのライトノベルのレーベルが、一冊のマンガ雑誌のような機能を果たしていて、そこにはSF、ミステリ、ファンタジー、学園もの、戦闘もの、ギャグ、ラブコメなどのいろいろなジャンルのライトノベルが含まれています。
 マンガ雑誌では読者投票によってマンガやマンガ家が淘汰されていますが、個別に買うことができるライトノベルでは、単純明快に実売数によって作品や作家を淘汰できます。
 勝ち残った少数のライトノベルだけが、続編を出していけます(ただし、一冊目はイラストに惹かれて買ういわゆる「ジャケ買い」のことが多いそうなので、二作目の売り上げが本当の淘汰の判断基準なのかもしれません)。
 そして、ごくごく少数の勝ち組が、マンガやアニメやゲームになって、トータルで大きな売り上げ(ライトノベルの続編も飛躍的に売れます)を達成できます。
 ライトノベルはこれらのメディアと親和性が高いので、ローリスク(コストの安いライトノベルで始められる)ハイリターン(メディアミックスで大きな売り上げが得られる)のビジネスモデルが構築できます。
 一方、消費者である中高校生中心の読者側にとっても、ライトノベルは安い物語消費ツールなのです。
  ライトノベルは通常一冊500円ー600円で購入でき、まがりなりにも一つの物語を消費できます。
 たしかに、コミックスは一冊400円程度ともっと安いですが、一冊では物語は完結しません(下手をすると一つの戦闘シーンやスポーツの試合すら、一冊で終わらない場合もあります)。
 コミックスで物語消費の満足を得るためには、最低5冊(2000円)以上はかかるでしょう。
 そして、アニメやゲームやマンガのキャラや物語のデータベースを備えている読者たちは、キャラのイラストをもとに会話主体の文章を、まるでマンガやアニメのように映像的に受容する能力を持っているのではないでしょうか。
 それに、万一物語がつまらなくても、手元にはお気に入りのイラストが残ります。これはかつてのビックリマンチョコや仮面ライダースナックチョコやスナックのように味は二の次で、食玩が目当てで大量に購入して、時には食べずに捨てられたのと同じです。
 いや、ライトノベルのイラストは、書店で買う前に確認できるのでもっと安心です。
 最後に、媒介者(親や教師など)の立場からすると、「マンガよりはまし(とりあえず本だし、字や言葉も少しは覚えるだろう。それに、これをきっかけに「普通の」本を読むようになるかもしれない)」といった消極的な動機で、ライトノベルを購入したり、子どもが購入するのを容認しているものと思われます(2012年の日本児童文学学会の研究大会の時に、児童文学研究者の目黒強とこの点を話したことがあります)。
 以上のように、物語消費の形態(ゲームのRPGなども含めて)が、供給側も消費側も1990年ごろから明らかに変わってしまっているので、ライトノベルが児童文学、まんが、一般文学のマーケットを侵食していく傾向は当分続くと思われます。
 例えば、かつては児童文学の代表的なファンタジーの書き手だった荻原規子は、「レッドデータガール」シリーズでライトノベルの手法を用いて読者数を飛躍的に増加させています。
 ただし、スマホの普及と高機能化(電子ペーパーなどによる画面の拡大機能も含むでしょう)により、物語消費の方法が、五年後、十年後には大きく変わる(電子書籍が一般的になる)ことが予想されます。
 いずれにしても、電子化にいちばん適応した形態がもっとも有利なことは間違いないでしょう。
 文字情報は、音声情報や画像情報より格段に容量が少なく、高速に作成や送信が可能なので、どのような実現形態にしろ、その時代にも生き残ると思われます。

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大平健「豊かさの精神病理」

2024-08-25 09:45:01 | 参考文献

 1990年6月20日第1刷発行の、精神病理について軽妙な文章の本を次々に出して当時人気の高かった精神科医が書いた、バブル期の物のあふれていた時代の新しいタイプの患者たちについて書いた本です。
 私の持っている本は、1996年3月25日発行ですでに28刷ですから、内容に興味をひかれる読者が多くかなりのベストセラーになっていたようです。
 バブル期を描いたにもかかわらず、文中にはバブルという言葉は一度も使われていません。
 バブルというのは後になって言われたことで、当時はずっと右肩上がりで成長していくものと信じられていました。
 そんな時期ですから、モノに執着する患者が次々に現れます。


 バッグのイメルダ(フィリピンの独裁者マルコス大統領夫人で、体制が崩壊した時にとてつもない数の靴を持っていたことが発覚して当時有名でした)と呼ばれている22歳の女子会社員。
 彼女の父親に張り合ってオメガを買った25歳の会社員。
 ブランド品はロゴをはがして使う16歳の女子高校生。
 インドアで仕事をしているのにゼロハリバートンのアタッシュケースを使っている23歳のシステムエンジニア。
 部下よりいい物を持っていないといけないと頑張る27歳の女性係長。
 懐石料理やヌーベル・キュイジーヌに凝っている25歳の女子社員。
 グルメ料理を作るために会社に遅刻する23歳の会社員。
 腸内にビフィズス菌を培養している37歳の服飾デザイナー。
 どんな高級料理にも似会う男の子を探している22歳の女子事務員。
 マネキンのような男友達と不倫している31歳の高校教師。
 デュ・エルちゃんという人形を溺愛している33歳の独身会社員。
 男友達を彼らからプレゼントされたスカーフの名前で呼ぶ29歳の女性秘書。
 不倫相手の友だちのお母さんに高級品をバシッとプレゼントしたい21歳の大学生。
 子どもの愛犬をブランド犬じゃないからと捨てた43歳の母親。
 猫の嫁探しに悩む32歳の会社員。
 自分が可愛いくてしかたがなくついには整形までしようかと思っている22歳の会社員。
 子どもが可愛いので本物志向のおもちゃや服を買い続けている28歳の主婦。
 自分の買いたい物と結婚相手の給料のバランスに悩む26歳の結婚に備えて会社を退職した女性。
 家長としての地位を守るために妻や子どもや孫のために物を買い続ける52歳のオーナー社長。
 実家のお金で娘たちを贅沢に慣れさせてしまい、これ以上の実家の世話を断り節約に努めようとする夫との離婚を考えている42歳の主婦。
 カメラやビデオ機材を買いまくり、子どもや孫を写し続けている43歳の自動車整備工。
 愛人のいる夫への腹いせに高級品を買いまくる44歳の貿易商の妻。


 対象はそれぞれ違いますが、彼らはみな、より高級な物を買うことで人生をステップアップできると信じています。
 そして、物を買い続けることによって、人間同士の葛藤を避けて暮らしています。
 葛藤のない生活に慣れたために、ちょっとした葛藤に弱くすぐに精神科にやってきます。
 彼らに共通しているのは、悩みは未来への不安ではなく現状への不満なのです。
 これは、現代の人たち、特に若い世代とは対照的です。
 現代の若者たちの現状への満足度は、バブル期の若者たちよりも高いといいます。
 今の若者たちは、お金はなくても、スマホでネットやゲームをしたり、ファストファッションやファストフードでリーズナブルに暮らせる現状に満足しています。
 しかし、それがいつまで続けられるかと、将来への不安を抱えています。
 児童文学の世界でも、これらの世相の違いは敏感に反映されています。
 八十年代の出版バブルの時には、非常に多様な作品が本になっていました。
 出版社には、売れそうもない純文学的な児童文学も出版する余裕がありました。
 しかし、今は違います。
 出版されるのは、売りやすい本(エンターテインメント、L文学(女性作家による女性を主人公にした女性読者のための文学)、お手軽ファンタジー、お手軽スポーツ物、怪談、幼年物、絵本、ハウツー物など)に偏っています。
 そう、まるでファストフードやファストファッションのように手軽に読めるものばかりになってしまっているのです。
 これは、出版社や書き手側だけの問題ではなく、児童文学の読者たちが読書に求めるものが、未知なことを知ろうとする知的好奇心よりも、その場での娯楽的なものに変わってきていることを反映しているのでしょう。
 もっとも、大人の読者も、エンターテインメントばかり読んでいて、純文学や社会科学などのかたい本は敬遠していますから似たようなものですが。
 社会全体が、将来への不安をまぎらわせて、手軽に読めるもので今を楽しもうとしているのでしょう。


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石井直人「児童文学における<成長物語>と<遍歴物語>の二つのタイプについて」

2024-08-24 08:07:44 | 参考文献

 1985年に日本児童文学学会会報19号に発表されたこの論文は、四百字詰め原稿用紙にして四、五枚の短いものですが、その鋭い指摘と予見性により、その後の多くの論文で引用されています。
 会報のバックナンバーの入手は困難ですが、「現代児童文学論集5」に収録されているので読むことができます。
 この論文における著者のまとめによると、
「<成長物語>では、主人公は一つの人格という立体的な奥行きを持った個人である。主人公が経験したことは、その内面に累積していって、自己形成(ビルドウング)が行われる。いわば、アイデンティティー論の成立する場である。こうした主人公の成長をモデルとした作品が、一般に近代小説といわれてきた。
 <遍歴物語>は、対比的に、主人公はむしろある抽象的な観念(イデエ)であって、それが肉化したものとしての人物であるにすぎない。いわば、主人公そのものはどうだっていいというところがあり、重要なのは作品を通じて繰り返し試される観念の方である。」
 小説のジャンルを、<成長物語>と<遍歴物語>に類型化することは、特に目新しいことではありません。
 著者の論文の新しいところは、この二項対立を以下のように日本児童文学史に適用した点です。
「早大童話会による「『少年文学』の旗の下に!」(少年文学宣言)は、その文章自体、<成長>をめぐるレトリックから構成されている。このことは、戦後児童文学の理念および童心主義批判が、成長物語のタイプをめざして、前近代である遍歴物語(注:ここでは小川未明などの近代童話を指しています)の語りを抑圧していく過程であったことを示している。」
 また、以下のように現在の児童文学における<遍歴物語>の復権(那須正幹のズッコケシリーズをはじめとしたいわゆるシリーズものやライトノベルなどの隆盛)を予見しています。
「しかし、芸術・学問の諸ジャンルにおいて、近代小説・近代的自我といったものへの信頼が揺らいできた今日、遍歴物の語りに属する≪小川未明≫のいくつかの作品も、本質的に再評価されていく必然にあるのではないか。いいかえれば、子どもを(つまりは人間を)成長のイメージでみないようにすることによって、遍歴物語の語りとそれに導かれた遍歴の思考形式を救抜しようという運動が理論化されつつあるのが、80年代前半という時代だといっていい。その意味で<遍歴>のタイプは、前近代であると同時にポスト近代でもある。」
 以上のように、近現代日本児童文学史は、<成長物語>と<遍歴物語>のせめぎあいで、現時点では<遍歴物語>が優位にあるようです。
 <成長物語>の巻き返しによってポスト現代児童文学の新しい形になるのは、短期間には可能性が低いと思われます。

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
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津村記久子「まともな家の子供はいない」

2024-08-21 12:10:36 | 作品論

 2009年に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞した津村が、2011年8月に出した中学三年生を主人公にした小説です。
 題名通りに、登場する子どもたちはすべてそれぞれの家庭に問題を抱えています。
 主人公のセキコは、身勝手な理由で仕事が長続きせず働いていない父親、その父親を容認して子どもにもおおっぴらに父親とセックスをする母親、それらを見て見ぬふりをしている妹、といった家族に我慢できずに、夏休みなのに家にいられません。
 セキコは、父親が無職だという経済的な理由で、希望する私立大学の付属高校へ進めないのではと心配しています。
 セキコは中学生でまだバイトができないのでお金がなく、コーヒーショップにも入れずに、しかたなく図書館で時間をつぶしたり、友だちの家に行ったりしています。
 セキコと仲がいいナガヨシ(女子)の家では、母親がテレビショッピングにはまっていて、それに愛想をつかした父親は家を出ていってしまいます。
 そんなナガヨシが興味を持って尾行している大和田(男子)は、父親がいなくて水商売をしている母親の店で前に働いていた女の人のことが好きです。
 大和田は、若い男と関係して今は母の店を追い出された、その女の人が今いる店の周りをうろついています。
 ナガヨシとセキコは、そんな大和田を見張っています。
 セキコと塾で席次が近い(その塾は成績順に並ぶので席も隣になることが多い)クレ(男子)も、母親が家の食器を全部割って家を出て行ってしまい、父親と二人で暮らしています。
 クレは、最近学校や塾へ来なくなって家に引きこもっていて、得意の料理ばかりしているので太ってしまっています。
 とっつきにくいと思ってセキコが敬遠していた室田(女子)も、家で帰省している大学生の兄が彼の彼女と一緒に、両親と仲良しごっこをしているのが耐えきれず、セキコと同じように家にいられずに図書館へ来ていることがわかります。
 図書館が臨時休館の日に、セキコは室田の家に誘われます。
 裕福で一見恵まれているように見える室田から、実は母親が不倫をしていたんだと、セキコは打ち明けられます。
 このまったくバラバラに悩んでいる子どもたちは、一人ではこなせないほどたくさんの塾の宿題を助け合ってやっていくという、本当にか細いつながりで結ばれていきます。
 セキコとナガヨシを除いては本当にかすかだった彼らの結びつきは、綱渡りで宿題の回答を皆でそろえていくうちにだんだんと強くなっていきます。
 新学期になって、それぞれにこれからもなんとか現実と折り合って生きていくためのかすかな希望のようなもの(クレは塾にやってきます。もう二度と話すこともないと思っていた大和田がセキコに話しかけてきます。室田は相変らすマイペースで図書館通いを続けています。セキコの父親はコンビニで働き始めたようです。ナガヨシの父親は家に帰ってきて母親と話し合いを始めました)が見えてきます。
 ルビなしでバンバン難しい漢字を多用したいわゆる純文学ですが、最近の商業主義にからめとられた児童文学作品などよりも、はるかに今を生きている子どもたちの姿を捉えています。
 もちろんこの作品は、作者独特な執拗なまでに細部を描く描写や性的表現など、子どもが読みやすい作品ではありません。
 しかし、この作品で描かれたいわゆる「家庭」が崩壊している現代社会の姿は、児童文学でももっともっと描かれなくてはいけないのではないでしょうか。
 もうサザエさんやチビマルコちゃんやドラエモンで描かれているような家庭は、どこにも存在しないのです。
 ほとんどすべての家庭で少なからず問題を抱えていて、そのために子どもたちは悩んでいます。
 サザエさんのようなアニメやAlwaysのような映画が人気なのは、おそらく昔あったと思われる家庭(それもたんなる幻想にすぎないかもしれませんが)への郷愁のようなものでしょう。
 子どもだけでなく大人のファンが多い点も、それを裏付けています。
 今まで、問題に直面している子どもたちに対して、現代児童文学ではどのように描いてきたでしょうか。
 戦争、飢餓、貧困といった近代的不幸に対しては、1950年代から1970年代にかけて、連帯による社会変革を目指す作品が多く書かれていました。
 アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さといった現代的不幸が問題になってくると、1970年代から1990年代にかけて、子どもたちが生きていくことへの共感、励まし、癒しといった作品が多く描かれました。
 しかし、経済格差、世代間格差、家庭崩壊、ネグレクト、虐待などに直面している現代の子どもたちには、また新たな児童文学が必要になってきていると思われます。
 これらの文学では、問題を子どもたちだけに解決させるのではなく、困難に直面している子どもたちを描くことによって「大人たち(あるいは彼らが作った社会)を撃つ」文学にならなくてはならないと思っています。
 なぜなら、責任は子どもたち(若者たちも含めて)にあるのではなく、大人たち(あるいは彼らを育てた高齢者たち)にあるのです。
 特に、団塊ジュニアが親になり始めたころから、これらの問題は加速度的に深刻化しているので、彼らを育て今の社会を作り上げた団塊世代(かつての全共闘世代でもあります)の責任は特に大きいでしょう。
 それらに対応する児童文学は、まだいい作品があまり生み出されていないように思えます。
 むしろ、主演した少年がカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞して評判になった映画「誰も知らない」などの、他分野の作品の方が敏感に反応しているように思えます。
 児童文学も現在量産されている甘っちょろい現実肯定的な作品ではなく、真摯に子どもたちの現実に向き合った作品をもっと提出しなけれなならないのではないでしょうか。
 そのためには、短期間的には、商業主義の蔓延している児童文学の出版社を通した作品ではなく、一般文学として出版された方がこれらの問題を抱えた子どもたちを捉えた作品を世の中に出すチャンスが多いように感じています。
 「まともな家の子供はいない」は、その可能性を感じさせてくれる作品の一つだと思いました。

まともな家の子供はいない
クリエーター情報なし
筑摩書房

 





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真夜中のカーボーイ

2024-08-20 09:41:51 | 映画

 1969年公開のアメリカ映画です。

 当時アメリカン・ニューシネマと呼ばれた、低予算の新しい感覚を持った映画群の代表作の一つです。

 アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞を受賞しました。

 テキサスから、女性相手の売春を目当てに長距離バスでニューヨークに出てきたカウボーイ姿の青年と、都会のどん底で暮らすネズミというあだ名をった足の悪い男との奇妙な友情を描いています。

 極寒のニューヨークで体調を崩したネズミは、暖かいフロリダへ行くことを夢見ます。

 カウボーイは、売春相手(男性)を殺す(?)までして、フロリダ(マイアミ)行きのバス賃を手に入れます。 

 あれほど夢見たフロリダ(マイアミ)に到着する一歩手前で、ネズミは亡くなります。

 目を開いたままで死んだネズミの目を閉じてやって、彼の体を支えながら、バスに乗ったまま終点のマイアミに向かうカウボーイの、放心したような表情が忘れられません。

 この作品では、二人芝居と言ってもいいほど、ジョン・ボイト(カウボーイ)とダスティン・ホフマン(ネズミ)の二人の名優(この映画では残念ながらノミネートだけだったのですが、その後アカデミー賞主演男優賞をそれぞれ受賞しています)の演技が、全編にわたって繰り広げられます。

 特に、ダスティン・ホフマンの演技は、あざといとさえ言えるほど上手く、こすっからしい小男を演じていて、見ていて圧倒されます。

 一方、ジョン・ボイトの方は、少しマヌケなお人よしの大男を、まるで本当の彼自身かのように、すごく自然に演じています。

 ニューヨークの廃墟ビルに暮らす二人の底辺での生活が、これらの演技によって恐ろしいほどのリアリティをもって描かれています。

 全編に流れるニルソンの「うわさの男」も、作品の雰囲気にピッタリで、心に残ります。

 

 

 

 

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長谷川潮「ぞうも かわいそう 猛獣虐殺神話批判」季刊児童文学批評創刊号所収

2024-08-19 09:16:22 | 参考文献

 戦争児童文学研究の第一人者である著者が、代表的な幼年向け戦争児童文学といわれている土家由岐雄の「かわいそうな ぞう」及びその類型本について、綿密な調査と分析により、それらがいかに誤謬と欺瞞のもとに書かれているかを検証した論文です。
 「現代児童文学論集5 転換する子どもと文学」にもおさめられていますので、そちらでも読むことができます。
 まず第一に、ぞうも含めた上野動物園の猛獣たちが、軍部の命令で虐殺されたのは1943年で、東京ではまだ空襲は始まっていませんでした。
 「かわいそうな ぞう」では、空襲が毎日行われているという説明や爆撃機が飛んでいるシーンがあり、明らかな嘘(あえて好意的に言えば作者の間違い)が書かれています。
 次に、虐殺の命令が軍部から行われたことがぜんぜん書かれていません。
 これでは、虐殺の責任がどこにあるかがわかりません(類型本では園長や役所の偉い人など、他に責任を転嫁している例もあります)。
 また、「かわいそうな ぞう」では、猛獣が逃げ出した時に住民が危険だから殺したということが強調されています(ある種のヒューマニズム的理由に読めます)。
 ところが、実際には前述したようにそれほど逼迫した状態ではないのに、国民の防空意識を喚起するために虐殺は行われたのです。
 そのため、猛獣たちが虐殺されたことは秘密どころか、近くの学校の生徒や児童もよばれて(その中には私の母校の忍ケ丘小学校(当時は国民学校)も含まれています)、大々的に法要が営まれ、それを積極的に報道させました。
 つまり、少国民であった子どもたちの戦意高揚のプロパガンダ(猛獣たちを殺させた憎き鬼畜米英に報復しよう)に利用したのです。
 以上のように、いかに「かわいそうな ぞう」及びその類型本が、事実を調べずにうわべだけの薄っぺらいヒューマニズムにのって書かれたかを、著者は丹念な調査で暴いています。
 特に、「かわいそうな ぞう」の作者は、戦時中は戦意を高揚する作品を子どもたちに向けて書いていたのですから、彼のヒューマニズムがどんなに欺瞞に満ちているかは明らかです。
 現代でも、時流にのって声高に正義(今だったら反原発や復興など)を主張する人たちも玉石混交で、それらの人たちの思想の背景がどんなものであるかを、個々に慎重に見極めなければいけないと思います。

転換する子どもと文学 (現代児童文学論集)
クリエーター情報なし
日本図書センター
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早大童話会「少年文学の旗の下に」

2024-08-18 11:12:53 | 参考文献

 「少年文学宣言」として知られる1953年に発表された文章(論文というよりは檄文です)で、これをきっかけに児童文学の世界で大きな論争がうまれて、結果として「現代児童文学」が誕生した一つの要因になりました。
「科学は常識によってさえぎられ、変革は権力によってはばまれる。」で始まり、「この道はけわしく困難であろう。しかし、我々は確信に満ちつつ最後の勝利を宣言する。」で終わる、美文調でヒロイックな宣言文です。
 もちろん学生たちが書いた未熟さも内包していますが、当時の児童文学の主流であった「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」のそれぞれの利点を認めつつもその限界を述べて、「少年文学」の誕生の必然性を高らかに宣言しています。
 ここでいう「少年」とは、「幼年」、「青年」、「壮年」、「老年」と同様に、たんなる年齢区分を示していて、対象を男の子に限っているわけではありません。
 その「現代児童文学」もすでに終焉して(私はその時期を1990年代だと思っています)、エンターテインメントやライトノベルなどに名を変えた「少年少女読物」全盛の現時点で読むと、あらためて隔世の感がします。
 この宣言文を書いた主要メンバーであった、鳥越信、古田足日の両先生も、2013年、2014年に相次いで亡くなられていますが、真の意味でポスト「現代児童文学」となる児童文学は、はたして今後生み出されるのでしょうか?

ケストナー少年文学全集(全8巻・別巻1)
クリエーター情報なし
岩波書店
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エーリヒ・ケストナー「ケストナーがケストナーについて」子どもと子どもの本のために所収

2024-08-17 09:34:06 | 参考文献

 スイスのチューリヒのペンクラブで行った、自己紹介のテーブルスピーチです。
 皮肉や諧謔がふんだんにちりばめられていますし、私は第二次世界大戦前後のドイツの状況に疎いので、なかなか正しく理解するのは難しいですが、以下のようなキーワードをピックアップすることができます。
「長く除外されていた(注:12年間のナチスによる執筆禁止をさします)ので、コンディションについては正確に判断が下せません」
「風刺詩集」
「子どもの本」
「ファビアン(注:反モラル小説の傑作と言われる彼の一般文学の代表作)」
「ユーモア娯楽小説(注:「雪の中の三人男」など)」
「新聞のための文化政策論説」
「キャバレーのためのシャンソンや寸劇」
「演劇」
「教師」
「道徳家」
「合理主義者」
「ドイツ啓蒙主義」
「詩人や思想家の「深刻さ」を嫌い」
「感情の率直」
「思索の明澄」
「語と文の簡潔」
「良識」
「いつも変わらぬ、日当りのよいユーモア」
「第三帝国で執筆を禁止されていたにもかかわらず、自発的にドイツにとどまっていたこと」
 こうしたケストナーの多面性について、これからも継続的(断続的といった方が正しいですが)に考察していきたいと思っています。
 これは、五十年近く前に大学を卒業する時に隠居したらしようと思っていたことの一つなので、嬉しくてたまりません。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
クリエーター情報なし
岩波書店
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森忠明「小さな紅海」少年時代の画集所収

2024-08-16 10:13:03 | 作品論

 森作品には珍しく、島絵理という女の子が森少年にあてて書いた手紙の形で、香野任くんの想い出が語られます。
 三年生の夏休みの町内会のキャンプで、絵理が河原のあなに落ちた時に、転校してきたばかりの香野くんが発見してくれます。
 香野くんは両親が離婚していて、ピアノの調律師のおとうさんと二人暮しです。
 香野くんは、四年、五年と連続して「多摩少年詩集」に入選している少年詩人です。
 また、香野くんは五年生のころから手品にこりますが、森少年に「手品なんかで人の気をひいてまでなかよくなりたいのかよ」と言われて、手品をやめてしまいます。
「よい両親がそろっていて、スポーツ万能のうえに勉強もルックスもまあまあなおたくは、だまっていても周囲の人々に愛される境遇にいるので、手品なんか必要としないことでしょう。
 わたしも、あのあなに落ちる前までは、人生って、親以外のだれの力も借りずに、だれにも愛情を求めずに生きてゆけるもの、と思っていました。
 電話でよばれて手品を見せてもらいにゆくと、香野くんはちゃぶ台の向こう側にひとりできちんと正座して待っていましたが、そのようすはなぜだかものすごく孤独に見え、あなの底に落ちている香野くんを、わたしが上から見おろしているような錯覚をおこしました。
 手品は、さびしい香野くんの、人をよぶ声なんだ、と気がつきました。
 おたくはまだ一度も、きょくたんにさびしい思いをしたことがない人なので、あんな、にくまれ口を平気で言えるのです。」
と、森少年は絵理に激しく糾弾されます。
 香野くんは、小学校の卒業を待たずに京都に引っ越していき、その後に琵琶湖でおぼれて死んでしまいます。
 香野くんの月命日に絵理は森少年に手紙を書き、香野くんが京都に立つ日に新幹線の中から二人に見せてくれた最後の手品になぞらえて、
「わたしたちはふたりになってしまったけれど、二つが三つになり、三つが一つになるうさぎさんのようなものではないでしょうか。
 森くんとわたしのなかに、あの子はいます。」
と、絵理は森少年に呼びかけます。
 森作品の大きな魅力である抒情性が、この作品では個性的な森少年が前面に出ないために余計に際立っています。
 作品の最初の香野くんの詩と最後の絵理の詩のややセンチメンタルな詩情が心に残ります。
 孤独、大事な人との別れ、死、弱者への優しいまなざしといった森作品の重要なモチーフがここでも描かれています。
 森忠明本人の過去の事件ではなく、語り手も主人公も第三者にしたことで、ともすれば今では古く感じられてしまう彼の他の作品とは違って、現代の孤独な子どもたちが読んでも共感できるより普遍性を持った作品になっていると思います。

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
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岩瀬成子「迷い鳥とぶ」

2024-08-15 09:00:46 | 作品論

 主人公の小学生の女の子りんは、偶然出会った迷いインコを飼うことになります。
 りんの周りには、次々に風変わりな人物が登場します。
 いつも妄想を話す友だちの羊子。
 出会った子どもの写真を撮りたがる自称プロの写真家の男。
 アメリカからルーツを訪ねに来たと言いながら、実は洗剤を売ろうとしている日系人のおじいさんのミスター・カラキ。
 インコの飼い主で学校を良くサボる守男。
 迷子のインコは、物語の途中でリンに放たれて、早々に山に向かって飛んでいってしまいます。
 しかし、不思議な登場人物たちは、いつまでもりんにまとわりつきます。
 そう、彼らこそ、本当の「迷い鳥」なのでしょう。
 最後まで、これらの「迷い鳥」たちが飛べるのかどうははっきりしないもやもやとした気分で作品は終わります。
 この本が出た1994年は児童書出版のバブルがはじけたころですが、まだこんな純文学風の本が出版されていました。

迷い鳥とぶ (童話パラダイス)
クリエーター情報なし
理論社
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森忠明「花をくわえてどこへゆく」

2024-08-14 07:37:07 | 作品論

「美しい足」をした岸昌子先生が、自分の担任の矢崎先生と結婚することを知って、学級委員で優等生だった森壮平は強いショックを受けます。
 さらに周囲の状況によって愛犬のテツを捨てなくてはならなくなった森少年は、逆にテツに見捨てられてしまいます。
「美しい足」と「好きな犬」という自分がもっとも大事にしていたものが、もう手に入らないのだと感じた森少年は、生きていく気力を失ってしまいます。
 「なんのために生きていくのか」「なんのために学校で勉強しなくてはいけないのか」ということに強い疑問をもった森少年は、両親にしばらくの間の休学を申し入れます。
 森少年の苦しみは、両親や先生、医者たちからはまったく理解を得られません(この本が出版された1981年当時では、まだこういった少年たちは今よりも少数派で、周囲の理解も現在より不十分だったと推測されます)。
 ただ、幸運なことに母方の祖父だけは森少年に理解があり、自宅のはなれや山梨の湯治場で、森少年を好きなだけ休ませてくれます。
 森少年を取り巻く状況は最後まで好転しませんが、ラストシーンで急死した祖父を抱きかかえる森少年は、それでもこれからも生きていかねばならないことを自覚します。
 1975年の「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)から、主人公のアイデンティティの喪失はさらに深くなっています。
「きみはサヨナラ族か」の主人公は、それでも絵を描くことで自分のアイデンティティを回復させようとしていましたが、この作品ではそれも完全に失われています。
 「生き続けていくこと」に対して諦念にも似た主人公の気持ちに、現代の子どもたち(あるいは若者たちも含めて)の置かれている生きていくことが困難な(あるいはその裏返しで非常に安易な生き方しかできない)状況を先取りした作品だと言えると思います。
 一連の森作品は、一方に熱烈な愛読者は持ちつつも、いわゆる「現代児童文学」論者からは、その「変革の意志」の欠如を批判されました。
 しかし、今になって振り返ってみると、すでに既存の「現代児童文学」の創作理論では、その当時の子どもたちの状況をとらえきれなくなっていたのかもしれません。
 また同様に、いわゆる社会主義リアリズムを偏重していた「現代児童文学」の批評理論では、このような作品は正当に評価できなかったと思われます。

花をくわえてどこへゆく (文研じゅべにーる)
クリエーター情報なし
文研出版
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台風クラブ

2024-08-13 10:54:30 | 映画

 1985年公開の日本映画です。

 台風がやってくる数日前から始まり、台風直撃時にピークを迎え、台風一過の晴天で映画は終わります。

 それに合わせて高まっていく田舎の中学生たち(男子三名、女子五名)の熱狂を描いています。

 それぞれに、日常生活や学校や将来に不満や不安を抱いている彼らが、台風の猛烈な風雨の中でそれらを解き放っていく姿が、子どもたちの持つ計り知れないエネルギーを感じさせてくれます。

 特に、ラストの少し前で、土砂降りの中で下着姿(やがてはそれも脱ぎ捨てて)で踊り狂うシーンは、当時評判になりました。

 また、学校に残ったグループ(男子二名、女子四名)とは別行動で、都内にプチ家出をした少女を演じた工藤夕貴の清新な演技も魅力的です。

 

 

 

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