現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

木と市長と文化会館 または七つの偶然

2024-11-30 09:17:13 | 映画

 1992年のエスプリのきいたフランス映画です。
 村の活性化のために文化会館を作ろうとする市長(本当は村長の方が正しいのではないでしょうか?)と反対派のエコロジストの校長を中心に、みんなが議論を戦わせる姿を描いたドキュメンタリータッチの映画です。
 市長や校長(この二人は直接は議論しません)を中心に、市長の愛人の女流作家、この問題を取材に来た女性フリーライター、彼女が記事を載せた政治雑誌の編集長、文化会館建設のコンペに優勝した建築家、村の英語教師、牧畜を営む老人など、様々な人が、それぞれの立場で堂々と意見を述べ合います。
 私にはあまりフランス人の知人はいないのですが、みんなこんなに議論好きなのでしょうか?
 日本では日常会話ではタブーとされる政治がらみの話(社会党と緑の党が中心)でも、フランクに自分の意見を述べ合い、反対の立場の人の意見にも感情的にならずに尊重するので、かなり衝撃的でした。
 特に、校長の10歳の娘(校長の意見にも反対の立場)が市長を論破する場面では、今の日本の児童文学が忘れている「子どもの立場に立つ」が鮮やかに実現されていて感心しました。
 校長の娘の意見の通りに、文化会館の代わりに村の人たちがみんなで集まれる緑地が作られるラストは、ちょっとハッピーエンドすぎる(しかもそこだけミュージカル風)気もしますが、まあ一種の寓話と考えればいいのかもしれません。

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ジュマンジ

2024-11-29 09:08:54 | 映画

 1995年公開のアメリカ映画です。

 1981年に出版された同名の絵本を元に作られ、同名のボードゲームのサイコロの目によって次々と不思議なことが起きます、

 CG、アニマトロニクス、ミニチュアなどを駆使した当時としては最新の特殊撮影映像と、主演のロビン・ウィリアムスを初めとした一流俳優陣によるしっかりした人間ドラマを兼ね備えた、一級のエンターテインメント作品です。

 2017年に、舞台をビデオゲームに移した続編の「ジュマンジ/ウェルカムトゥジャングル」(その記事を参照してください)が作られてヒットし、さらに続編の「ジュマンジ/ネクストレベル」(その記事を参照してください)まで作られました。

 

 

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がんばれ!ベアーズ

2024-11-28 09:02:50 | 映画

 1976年に製作されたリトルリーグを題材にしたコメディ映画です。
 飲んだくれの元マイナーリーグ選手が、お金のために問題児ばかりのポンコツチームの監督を引き受け、次第に熱中していって、元同棲相手の娘の女性ピッチャーや運動神経抜群だが不良(日本なら小学生の年齢で改造バイクを乗り回して、いつも煙草をふかして、大人の女性もナンパしています)のホームランバッターの助けも借りて、リーグの優勝決定戦に進出するという、ありがちなストーリーです。
 今だったら、日本でも上映できないようなシーン(子どもへの暴言や体罰、子どもたちの飲酒や喫煙など)が多発しますが、監督と女の子投手の擬似親子関係や、不良少年と他のチームメイトたちの和解、ライバルチームの監督親子の問題も絡めてうまくストーリーを展開しているので、特に日本ではヒットしました。
 1973年の「ペーパームーン」で史上最年少でアカデミー助演女優賞を獲得して、当時人気があった天才子役テイタム・オニールのアイドル映画という側面もあるのですが、「おかしな二人」のウォルター・マッソーや「コンバット」のヴィック・モローなどの芸達者が大人のドラマの部分を演じて全体を支えています。

 

 

 

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シング・ストリート 未来へのうた

2024-11-27 08:18:22 | 映画

 1985年のアイルランドのダブリンを舞台に、バンド活動にのめり込んでいく少年たち(14、5歳)を描いてます。
 女の子にもてたいために、男の子がバンドを始めるのは万国共通なようです。
 でも、この映画は単なる「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」ではなく、その時代の背景も描いていて作品に深みを与えています。
 取り巻いている閉塞的な状況(両親の不仲と別居(カソリック教徒なので離婚できません)、経済的な理由で転校させられた学校(強圧的な校長、落ちこぼればかりで暴力的な生徒たち)、失業者が街にあふれ若者たちが英国へ渡っていってしまう故郷など)に抵抗するように、主人公たちはバンドにうち込んでいきます。
 音楽に関するメンターである兄(大学中退で家に引きこもっています)やミューズである年上の少女(児童養護施設で暮らしています)などに導かれながら、主人公たちは音楽の腕前をあげていきます。
 デュラン・デュランやAーhaなどの80年代のヒット曲が懐かしいし、少年たちのオリジナル・ソングも素晴らしい(主題歌はマルーン5のアダム・レヴィーンが担当しています)ので音楽映画としてもよくできています。
 また、少年たちが化粧をして自分たちのミュージックビデオを撮影するというのも、MTVが世界中を席巻していた当時を彷彿とさせます。
 学校のダンスパーティで演奏する(ギグ)のシーンは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「青春デンデケデケデケ」(その記事を参照してください)を、主人公が彼女と二人で小さなモーターボートで50キロ離れたイギリスへ向かうラストシーンは「小さな恋のメロディ」(その記事を参照してください)を思い起こさせて、映画ファンにとっても懐かしさを感じさせてくれます。

シング・ストリート 未来へのうた
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マネキン

2024-11-26 12:54:05 | 映画

 1987年公開のアメリカ映画です。

 自分で作ったマネキンに恋した男性と、彼のおかげで命を得たマネキンとの恋愛を描いた、ロマンチック・ファンタジーです。

 全体的には他愛のないドタバタ・コメディなのですが、主役を演じている二人がとてもかわいいのでついつい最後まで見てしまいます。

 マネキンは男性と二人きりの時にしか生きた女性にならなかったのですが、ラストで彼に命を救われて完全な女性になることができて、めでたしめでたしです。

 また、挿入されているダンスシーンや音楽も魅力的です。

 特に、主題歌のスターシップ「愛はとまらない」は全米No.1ヒットになったので、映画よりもこちらの方が有名でしょう。

 実際、「愛はとまらない」のミュージックビデオはこの映画の名場面集なので、それだけ見れば映画は見なくてもいいかもしれません。

 これと同じことが、「フットルース」や「フラッシュダンス」でも言えます。

 

 

 

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千葉省三「とらちゃんの日記」講談社版少年少女世界文学全集

2024-11-25 08:25:48 | 作品論

 1925年(大正14年)9月に、自ら編集する「童話」に掲載した大正童心主義童話の代表作です。
 1929年(昭和4年)6月5日に古今書院から出版された作者の童話集「トテ馬車」に、巻頭作として収録されています。
 大正時代の農村(作者の故郷の栃木県だと思われます)を舞台に、夏休み中(八月の一ヶ月間のようです)のとらちゃん(小学六年生)の日記の形を借りて、当時の子どもたちの様子を生き生きと描いています。
 中編(単行本では62ページ)の限られた紙数の中で、村の子どもたちの楽しい遊びだけでなく、豊かな自然、農村の暮らし、子どもたちも担っている村の仕事、東京から病気疎開(肺病との噂がありましたが、その後とらちゃんたちと遊んでいるので、違うようです)してきたお金持ちの子どもとの交流、いじめや弱い者を守る正義感、プチ家出(トム・ソーヤーを想起させます)、さらには、貧困や死などの重いテーマまで、たくみに書き込んでいる筆力は、当時としては傑出しています。
 写生をベースにした豊かな散文、主人公を中心にした子どもたちの正確な心理描写、物語の中での主人公たち(それを追体験する子ども読者たちも)の成長。社会の変革の意志(ささやかですが)など、この作品の持つ多くの特長は、現代児童文学(定義などは関連する記事を参照してください)に引き継がれました。
 児童文学研究者の宮川健郎がまとめた現代児童文学の目指した「豊かな散文性」、「子どもへの関心」、「変革の意志」の三要点(関連する記事を参照してください)を兼ね備えた児童文学が大正期に書かれていたことは特筆すべきでしょう。
 いわゆる近代童話の「三種の神器」、小川未明、浜田廣介、坪田譲治を否定した石井桃子たちによる「子どもと文学」が、宮沢賢治、新見南吉と並んで、作者を肯定的に評価したのも当然のことだったでしょう(関連する記事を参照してください)。




 

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ブレードランナー2049

2024-11-23 11:29:08 | 映画

 世界中に熱狂的なファン(私もその一人ですが)を持つ近未来SF映画の、35年ぶりの続編(映画の中の世界では、前作の2019年(この映画は2017年封切りでもうすぐなんですけど、「2001年宇宙の旅」でも21世紀になった時に同様の感慨を持ったのですが、科学技術の発展は当時考えていたものとは違った方に進んでいるようです。一番違うのは、空飛ぶ車の実現かもしれません)から30年後が舞台)です。
 新たな傑作への期待と、前作のイメージが壊されるのではとの不安とが、半々でしたが、結果としてはそのどちらでもなく「まあまあかな」といった感じです。
 「ブレードランナー」と言えば、前作の監督のリドリー・スコットが作り上げた2019年のロサンゼルスの圧倒的なイメージ(デッドテック・フューチャー(退廃的未来)と言うんだそうです)が有名ですし、私も真っ先に大スクリーンに映された芸者さんによる「わかもと」のコマーシャル映像が浮かんでくるんですが、この作品でもセットにCGを加味して立体映像にして、より壮大なスケールで描いていてます。
 前作を踏襲したロサンゼルスのダウンタウンや廃棄物処理区域などはそれほど感心しませんでしたが、ラスベガスを思わせるかつての歓楽都市の廃墟のシーンはヒネリがあって面白かったです(ただ、いろいろなシーンで、映画会社の親会社であるSONYのロゴが出てくるのには食傷されました)。
 ドラマやアクションはまあまあといったレベルで、主人公がレプリカント(人造人間)であることもあって、「人間とは何か」という根源的なテーマに対する問いかけは前作より薄まった感じがします(レプリカントが生殖能力を持つことがこの作品のポイントなのですが、そのことの持つ意味合い(レプリカントの増産に役立つ?、人間とレプリカントとの生殖による新人類(イエス・キリストのような奇跡をもたらす存在)の創生?といったことが匂わされています)が、最後は単純なアクションシーンで締めくくってしまって中途半端なままに終わりました。
 主役のライアン・ゴズリングは、「ラ・ラ・ランド」よりもずっとはまり役で、寡黙で控えめな演技が、従順な新型レプリカント(途中までは自分が人間とレプリカントとの生殖による新人類なのではないかと思っていました)にピッタリでした。
 前作の主役だったハリソン・フォードは、今回もアクション・シーンなどを熱演していましたが、かつての若々しい彼の姿を知るものとしては、年取った彼(この映画ではそれを強調しているかもしれません)を見ると、やはりなんだか悲しくなってしまいました。
 細かいところですが、一番印象に残ったのは、主人公の恋人がAIを持ったヴァーチャル・リアリティだったことです(前作では、人間とレプリカントの恋愛がテーマの一つでした)。
 レプリカントと肉体を持たないヴァーチャル・リアリティの悲恋なのですが、その感情の動きは非常に人間的で私の心の琴線に触れてきました(そのヴァーチャル・リアリティの女性がすごく魅力的なこともあったでしょう)。
 このあたりは、2049年まで待たなくてもすぐに実現して、今は二次元の恋人を持っている現代の若者たち(特に男性)にとっては、新しいより強力な恋愛対象になるでしょう(非婚化と少子化がさらに進んでしまうかもしれませんが)。

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ブレードランナー ファイナル・カット

2024-11-23 11:26:47 | 映画

 1982年公開のSF映画「ブレードランナー」には幾つかのバージョンがあるのですが、これは2007年版です。
 2007年当時の最新技術を用いて画質や音響は改善されていますが、ストーリー自体には大きな変化はありません。
 1983年の日本公開時には、レプリカント(過酷な労働などのために作られた人造人間のことで、感情を持って人間に反乱したために抹殺命令が出されています)とブレードランナー(レプリカントを発見して抹殺する役目の警察官のような公務員です)の壮絶な戦いばかりに目がいったのですが、今回見直してみると、寿命が四年に限定されているレプリカントの悲しみや、レプリカント同士の愛情、人間(ブレイドランナー)とレプリカントの愛情などが色濃く感じられて、一種の異類婚姻譚による新しい世界の創出を暗示しているように思えました。
 実際、この世界の30年後を描いた「ブレードランナー2049」(その記事を参照してください)では、「ブレードランナー」のラストで逃亡した人間(ブレードランナー)とレプリカントの子どもが、超人類として登場します(今回「ブレードランナー2049」を見てから見直したので、特にそういった印象を受けるのかもしれませんが)。
 それにしても、この映画の舞台であった2019年11月のロサンゼルスの退廃した世界を、同じ2019年に見てみるとなかなか感慨深いものがあります。
 実際には、映画の世界のようには酸性雨は降り続いていませんが、地球温暖化による異常気象は世界中で日常化しています。
 人間の奴隷として生み出されたレプリカントはまだいませんが、故郷を追われアメリカにも入国できない移民たちや正規雇用がされずに景気によって簡単に雇止めされる人たちの悲しみは、レプリカントの悲しみに通じる物があると思われます。
 世界中で格差が拡大して富が偏在している現代では、このままいけば人間に対するレプリカントの反乱のようなことが、支配階層に対して起こってもぜんぜん不思議はありません。
 監督のリドリー・スコットの描いた2019年の世界は、お馴染みの空飛ぶ車はご愛嬌としても、現実とはあきらかに異なる点がいくつかあります。
 やはり一番大きいのは、パソコン、インターネット、スマホの不在でしょう。
 これらを実現した半導体は、やはり偉大な発明だったと思われます。
 また、日本が衰退して、中国が台頭することは予見できなかったようです。
 2019年のロサンゼルスには、怪しげな日本語が氾濫していますし、中国人とおぼしき人たちは自転車で走り回っています(1980年代は日本はバブル最盛期でしたし、中国には自転車が溢れていたので、そのイメージを払拭できなかったようです)。
 なお、この映画の原作(ストーリーはほとんど違っているので、原案と言った方が正しいでしょう)は、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(アンドロイドとは人造人間の事ですが、現在ではあまり使われていません)ですが、それが書かれたのはさらに10年以上古い1968年のことなので、いかに当時のSF小説の書き手が優れていたかがわかります。

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グラディエーター

2024-11-23 11:24:12 | 映画

 2000年に公開されたアメリカ映画です。

 アカデミー賞の作品賞を受賞し、興行的にも大成功しました。

 監督のリドリー・スコットらしい大掛かりなセットによる迫力あるシーンは、エイリアンやブレードランナー(その記事を参照してください)と並んで、この作品を彼の代表作にしました。

 新しい皇帝(前の皇帝の息子)の陰謀で、前の皇帝に愛され位を譲られようとしていた将軍が、命を狙われ、剣闘士(グラディエーター)に身をやつして、復讐(前の皇帝や彼の妻や子供が殺されました)をとげます。

 かなりご都合主義なストーリーで、非常に通俗的な作品ですが、主演のラッセル・クロウの重厚な演技(アカデミー賞の主演男優賞を受賞しました)にも助けられて、娯楽作品としては大成功しました。

 

 

 

 

 

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竜二

2024-11-21 16:24:46 | 映画

1983年公開の日本映画です。

新宿を舞台にしたやくざ映画ですが、従来の暴力を中心とした映画ではなく、家庭を持ち、子供を持ったやくざが、その生活に疑問を持ち、足を洗おうとして苦闘する姿をリアルに描いています。

脚本を書き、主演をした金子正次は、この映画の封切り直後に胃がんのために死亡し遺作となりました。

全く無名だった金子正次が主役を演じたために、かえって映画にリアリティを持たせることに成功しています。

妻役の永島暎子、舎弟役の北公次や桜金造(当時は佐藤金造)もはまり役ですし、幼い娘役を金子の実の子どもが演じたために、やくざ映画なのに奇妙な生活感を出すことに成功しています。

 

 

 

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永井荷風「濹東綺譚」

2024-11-20 16:16:00 | 参考文献

 1936年に書かれた作者の代表作です。
 作者の分身と思われる文士と、当時玉の井(現在の墨田区寺島町)にあった私娼街(吉原などの公設の花街ではなく個人が経営していました)のお雪との、出会いと別れを情緒的に描いています。
 当時、作者自身も足繁く玉の井に通い、実際にお雪のモデルとなる女性とも馴染みだったようです。
 そのため、当時のそのあたり(よくこうした所を下町といいますが、本当の東京の下町は神田あたり(せいぜい浅草までの隅田川の西側で、東側は一種の異世界だったのでしょう)で、場末という言葉が正しいでしょう)の街並みや人々の生活がリアリティをもって活写されています。
 また、二人の間には、身分の違い、年齢の違い(当時荷風は57歳(現在で言えば70近い老人でしょう)で、お雪は二十代半ば)があり、また作者にはこうした場所の女性と同棲して懲りた経験(作者の言葉で言えば、懶婦(らんぷ、怠け者)や悍婦(かんぷ、じゃじゃ馬)に変身してしまったそうです)があって、初めから実らない恋愛(あるいは疑似恋愛)だったのです。
 つまり、こうした場所は、言ってみれば非日常の空間であり、男も女もいっときだけ生きづらい日常を忘れるためのものなのでしょう。
 実際、二人のやり取りには、どこか芝居じみた感覚があって、それが作者にはどんな演劇や小説などよりも優れた、一種の芸術と捉えているところがあります。
 この作品はたびたび映画化されているのですが、それらで描かれたような官能的なシーンは原作には全くなく、それゆえに二人の関係が純文学的な作品として昇華されています。
 作者の視線は客観的で乾いていて、冷徹な観察と所々にお散りばめられた俳句や漢詩、高い学識とも相まって、この作品を芸術に高めています。
 この作品を情緒的にしているのは、二人の恋愛ではなく、遠くなりつつある明治時代への郷愁とそれに伴った主人公(作者)の老いに対する諦観でしょう。
 また、作中で主人公が書きあぐねている通俗小説(51歳の中学校教師と24歳のカフェーの女給の駆け落ち)と二重構造になっているのも、それとの対比でこの作品の文学性を高めています。
 題名の「濹東綺譚」は隅田川の東の物語という意味で、小説の舞台は墨田区ですが、江東区や葛飾区、そして私の育った足立区千住もそこに含めてもいいかもしれません。
 その地域は、私が育った昭和三十年代でも、愛着を込めて「場末]と呼びたい、猥雑なエネルギーやヴァイタリティに溢れていました。
 そして、都築響一「東京右半分」(その記事を参照してください)によると、その残滓は今でも残っているようです。


濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)
永井 荷風
岩波書店


 
 

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都築響一「東京右半分」

2024-11-19 09:22:56 | 参考文献

 まさに題名通り、東京の右半分(台東区を中心に、足立区、墨田区、江東区、江戸川区、荒川区、文京区、葛飾区など)の新しい風俗(狭義の性的な意味ではなく、それも含めてもっと広い生活全般の意味です)を紹介した本です。
 以下に、この本の「はじめに」を引用します。
「古き良き下町情緒なんかに興味はない。
 老舗の居酒屋も、鉢植えの並ぶ路地も、どうでもいい。
 気になるのは50年前じゃなく、いま生まれつつあるものだ。

 都心に隣接しながら、東京の右半分は家賃も物価も、
 ひと昔前の野暮ったいイメージのまま、
 左半分に比べて、ずいぶん安く抑えられている。
 そして建築家のオモチャみたいなブランドビルにも、
 ユニクロやGAPのようなメガ・チェーンにも、
 まだストリートを占領されていない。

 獣が居心地のいい巣を求めるように、
 カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、
 本能的にそういう場所を見つけ出す。
 ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、
 パリのパスティーユも、そうやって生まれてきた。

 現在進行形の東京は、
 六本木ヒルズにも表参道にも銀座にもありはしない。 
 この都市のクリエイティブなパワー・バランスが、
 いま確実に東、つまり右半分に移動しつつあることを、
 君はもう知っているか。」
 なかなか挑戦的な惹句です。
 しかし、一読、私は新しさよりも懐かしさを感じました。
 私事になりますが、幼稚園から大学を卒業して就職するまで足立区に住み、ゆえあって台東区の幼稚園、小学校、中学校に京成電車で通っていたので、まさにこのあたりは私のショバ(場所、テリトリー)でした。
 区をまたいで、けっこう危ない所も含めてチャリンコ(死語ですね!)で走り回っていました。
 その後、他の人たちと同じように活動領域がどんどん東京の左へ左へと移っていき、今では関東平野の左のはずれの山間部に至る境目で暮らしているので、最近は「東京右半分」とは、小学校や中学校の時の友だちと会う時以外は、すっかりご無沙汰になっています。
 今の若い人たちには新しく感じられるであろうこの地域の独特の雰囲気は、地元育ちの私にとっては50年前とあまり変わってないように感じられました。
 猥雑でしたたかでたくましいこの雰囲気に身をゆだねれば、ポスト「現代児童文学」の新しい作品も生みだせそうな気さえします。
 子どもも成人して家を離れたので、地震の心配さえなければ(今住んでいる地域は東日本大震災でもあまり揺れませんでした)、「東京右半分」に引っ越して、猥雑な空気に耽溺したいのですが。

東京右半分
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筑摩書房
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古田足日著・田端精一イラスト「おしいれのぼうけん」

2024-11-16 09:20:28 | 作品論

 日本の物語絵本のロングセラーです。
 初版は1974年で、私が読んだのは2001年の158刷です。
 見開きに描かれた保育園の全景に、「ここは さくらほいくえんです。さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。」という文章で、おはなしは始まります。
 次の見開きには、左に押入れの絵があって「ひとつは おしいれで、」の文章が書かれ、右には「もう ひとつは、ねずみばあさんです。」の文章とねずみばあさんの絵があります。
 ラストは、みんなが楽しく遊んでいる保育園の全景が描かれて、以下の文章が書かれています。
「さくらほいくえんには、とても たのしいものが ふたつあります。ひとつは おしいれで、もうひとつは ねずみばあさんです。」
 「こわいもの」から「とても たのしいもの」への変化が、読者が素直に実感できるところが、この絵本のもっともすぐれた点でしょう(もちろん、それが作者たちのねらいなのですが)。
 体罰として閉じ込められる真っ暗な押入れ。
 水野先生が演じる恐怖のねずみばあさん。
 それらが合体して、二人の男の子たちを冒険の世界へ誘います。
 暗闇という原初的な恐怖が生んだ意識と無意識の世界(「かいじゅうたちのいるところ」の記事を参照してください。)、現実と空想の境を超越して、二人の冒険の世界が広がります。
 男の子たちの友情、ねずみばあさんの恐怖、ネズミたちとの戦い、子どもたちの大好きなおもちゃの活躍、「子どもの論理」の「大人の論理(体罰など)」への完全勝利、楽しい思い出の反芻など、子ども読者の立場からはほぼ完ぺきな絵本だと思われます。
また、児童文学者の安藤美紀夫は、「日本語と「幼年童話」」(その記事を参照してください)という論文で、「物語絵本」の成立要件として、以下のように述べています。
「その時、まず考えられることは、長編の構想である。物語絵本は、そこに文字があろうとなかろうと、少なくとも二十場面前後の<絵になる場面>が必要なことはいうまでもない。そして、<絵になる場面>を二十近く、あるいはそれ以上用意できる物語といえば、いきおい、起承転結のはっきりした、ある種の山場を伴う物語にならざるを得ない。たとえそれが<行って帰る>といった一見単純な物語であっても、である。」
 この作品は、安藤の定義する「物語絵本」の成立要件を、完全に満たしています(もしかすると、安藤が1983年に論文を書いた時には、この作品が念頭にあったのかもしれません)。
 最後に、この作品の歴史的および現時点での価値とは無関係なのですが、「押入れに閉じ込める」という設定自体が体罰あるいは虐待と受け取られて、現在の保育園を舞台にした場合には成立しにくいかもしれません(もちろん、作者たちは体罰を明確に否定していますが)。
 古田足日先生は2014年にお亡くなりになりました。
 先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

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エーリヒ・ケストナー「子どもの読み方はちがう」子どもと子どもの本のために所収

2024-11-15 09:13:31 | 参考文献

 ここでケストナーが言っているのは、同人誌の合評会などでよく議論される「大人の読みと子どもの読みは違う」ということではありません。
 子どもが読書しているときの没入の深さのことです。
 私自身も、子どものころは、好きな本を読んでいるときには、まわりはまったく見えない、音も聞こえないぐらい深く物語の世界に入り込めました。
 そういった経験は、三十代半ばぐらいで終わってしまったように記憶しています。
 その代わりに、自分の子どもが、学校から本を読みながら帰ってきて、家の前に私が立っているのにまったく気が付かずに、玄関へ向かっていったことを経験しました。
 その本は、吉川英治の三国志でした。
 今の日本で、そこまで没入できる児童書はどのくらいあるでしょうか?
 おそらく、マンガやアニメやゲームの方が、そういった経験をさせてくれることでしょう。
 ただ、海外では、その後も同じような読書体験を目撃したことがあります。
 サンフランシスコ国際空港に着いたとき、レンタカー会社の迎えのバスの中で、まわりのことに一切関係なく、ひたすら分厚い本を読みふけっているアメリカ人(たぶん)の女の子がいました。
 その本は、ハリー・ポッター・シリーズの新刊でした。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
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岩波書店
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児童文学における「旅人」と「定住者」について

2024-11-14 11:13:29 | 考察

 児童文学における物語のパターンとして有名なものに、「旅人」と「定住者」があります。
 一番わかりやすく有名なものは、イギリスファンタジーの古典であるケネス・グレアムの「楽しい川辺(THE WIND IN THE WILLOWS)」の第9章「旅びとたち」でしょう。
 トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」、それらに影響を受けたと言われている斉藤惇夫の「冒険者たち」の冒頭部分も、このパターンを踏襲しています。
 普段の平凡だけど安定した生活に満足していた「定住者」は、いつの世も、不安定だけど常に何かを求めて移動し続けている「旅人」に憧れを持っています。
 ホビットのビルボやフロドも、ネズミのガンバも、「旅人」たちに刺激を受けて、住み慣れた居心地のいい我が家を離れて、冒険の旅へと出発します。
 ある者ははるかかなたの遠い世界へ、そしてまたある者は異世界へと、いづれも旅立つ先は芳醇な物語の世界です。
 いえ、物語の世界だけでなく、現実世界でも同様でしょう。
 沢木耕太郎の「深夜特急」が、いつの時代でも「旅」を夢見る若者のバイブルであるように、我々も機会さえあれば日常から旅立ちたいのです。
 一般文学でもこの「旅人」と「定住者」のパターンは使われているのですが、特に児童文学で有効なのは、「旅人」が成長して変化し続けている「子ども」の、「定住者」が成長を終えて同じところに留まっている「大人」の比喩になっているからでしょう。

たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
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岩波書店
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