1973年から1978年にかけて、週刊少年ジャンプに連載された野球漫画です。
その前年から月刊少年ジャンプで連載されていた「キャプテン」(その記事を参照してください)で、初代キャプテンだった谷口が、高校に進学してからの後日談です。
体格も才能も恵まれない谷口が、決してあきらめない気持ちと人一倍の努力で、やる気のない弱小チームだった墨谷高校を、夏の甲子園の東京都予選で、高校一年の時には三回戦まで、高校二年(ただし、谷口がキャプテンをしていました)の時にはベストエイトまで導く姿を克明に描いています。
他の野球漫画と違って、魔球や超人的なプレーはまったく登場せず、ひたすら練習と対戦相手の分析によって強敵を倒していく姿は非常にリアリティがあって、実際に野球をやっていた子どもたちがプレーの参考にしたほどです。
最近のセミプロ化(大半の出場校が、学校の宣伝のために全国から特待生をかき集めた私立高校です)した甲子園にはもうまったく興味はありませんが、ごく普通の都立高校(部員の成績が下がったために、部長に練習時間を短縮されて補習の勉強をさせられる回があります)の墨谷高校が出場する甲子園はぜひ見たかったと、今でも思っています。
しかし、残念ながら谷口くんが三年になり、「いよいよ甲子園へ出場か?」という時に、尻切れトンボな形で連載が打ち切られます。
作者が、躁鬱病(現在は双極性障害と呼ばれています)を発病したからです。
その後、何度か再起を試みますが、作者は1984年に41歳の若さで自ら命を絶ってしまいました(双極性障害、特にⅠ型は自殺の危険性が高いです)。
月刊誌に「キャプテン」(その記事を参照してください)を、週刊誌にこの「プレイボール」を並行して連載していた無理がたたったのでしょう。
また、作者は練習やチーム内外の人間関係をもっと丁寧に書きたかったのでしょうが、人気のために試合のシーン(少年マンガでは、戦闘シーンや試合のシーンが多いほど人気が出ます)を中心に描かなければならなかったことに対する葛藤もあったかもしれません。
連載が終わってからもう40年以上が経ちますが、谷口は私にとって今でも心から尊敬できる数少ない人物です。
その前年から月刊少年ジャンプで連載されていた「キャプテン」(その記事を参照してください)で、初代キャプテンだった谷口が、高校に進学してからの後日談です。
体格も才能も恵まれない谷口が、決してあきらめない気持ちと人一倍の努力で、やる気のない弱小チームだった墨谷高校を、夏の甲子園の東京都予選で、高校一年の時には三回戦まで、高校二年(ただし、谷口がキャプテンをしていました)の時にはベストエイトまで導く姿を克明に描いています。
他の野球漫画と違って、魔球や超人的なプレーはまったく登場せず、ひたすら練習と対戦相手の分析によって強敵を倒していく姿は非常にリアリティがあって、実際に野球をやっていた子どもたちがプレーの参考にしたほどです。
最近のセミプロ化(大半の出場校が、学校の宣伝のために全国から特待生をかき集めた私立高校です)した甲子園にはもうまったく興味はありませんが、ごく普通の都立高校(部員の成績が下がったために、部長に練習時間を短縮されて補習の勉強をさせられる回があります)の墨谷高校が出場する甲子園はぜひ見たかったと、今でも思っています。
しかし、残念ながら谷口くんが三年になり、「いよいよ甲子園へ出場か?」という時に、尻切れトンボな形で連載が打ち切られます。
作者が、躁鬱病(現在は双極性障害と呼ばれています)を発病したからです。
その後、何度か再起を試みますが、作者は1984年に41歳の若さで自ら命を絶ってしまいました(双極性障害、特にⅠ型は自殺の危険性が高いです)。
月刊誌に「キャプテン」(その記事を参照してください)を、週刊誌にこの「プレイボール」を並行して連載していた無理がたたったのでしょう。
また、作者は練習やチーム内外の人間関係をもっと丁寧に書きたかったのでしょうが、人気のために試合のシーン(少年マンガでは、戦闘シーンや試合のシーンが多いほど人気が出ます)を中心に描かなければならなかったことに対する葛藤もあったかもしれません。
連載が終わってからもう40年以上が経ちますが、谷口は私にとって今でも心から尊敬できる数少ない人物です。
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