現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

吉川英治「宮本武蔵」

2025-04-12 09:30:57 | 参考文献

 戦前の大衆小説の金字塔的作品です。
 朝日新聞に四年にわたって連載された大河小説(文庫本で八冊)です。
 今では信じられないことですが、朝日新聞の発行部数を大幅に伸ばし、自宅で新聞を取っていない人たちは、毎朝、職場で朝刊を奪い合って読んだと言われるほど人気がありました。
 名もない田舎の郷士のせがれが、いろいろな人たちと触れ合う(剣による果し合いだけでなく、禅や芸術とも出会います)中で、剣禅一如の境地を求める姿に、太平洋戦争前の暗い世相の中で、人々に自分生き方を考えさせたようです。
 文芸評論家の尾崎秀樹は、「大衆小説とはロマンを求める小説」と定義しています(その記事を参照してください)が、この小説はまさにその王道を行く作品だと言えます。
 ただ、そのロマンは、「男のロマン」(天下無双の剣豪で、登場する女性たち(お通、朱美、吉野太夫、お鶴など)にもやたらともてます)と言えるかもしれないので、女性読者が多数派の現代の読者には向かないでしょう。
 また、ジェンダー観が古いだけでなく、教養主義(その記事を参照してください)真っ盛りの時代なので、歴史や古典文学や宗教などの作者の広範な知識が作品内で披露されるので、現代の読者に読みこなすのは難しいかもしれません。
 なにしろ、大衆小説家として文壇からは差別(芸術院会員にはなれませんでした)されながら、大衆の圧倒的な支持を背景に文化勲章まで取った大家の作品なのですから。
 個人的には、剣を追求して、吉岡一門などと戦っていた前半は夢中になれたのですが、剣や武蔵個人から離れて枝葉末節の部分が多く、まだ若いのに武蔵がどんどん老成していく後半は好きになれませんでした。
 特に、クライマックスの船島(俗に小次郎の別名から巌流島と呼ばれています)での佐々木小次郎との決闘のシーンは、主な登場人物をすべて集めた大団円になっていて、決闘の部分があっさりしすぎて物足りませんでした。
 

 

 

 

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柄谷行人「児童の発見」日本近代文学の起源所収

2025-04-09 09:13:26 | 参考文献

 小川未明たちの「近代童話」が「子ども不在」であったと批判した「現代児童文学論者」が主張した「真の子ども」「現実の子ども」「生きた子ども」もまた一つの観念にすぎず、「子ども」(文中の用語では「児童」)という概念自体が近代になって発見された概念にすぎないと批判し、「現代児童文学論者」に大きな衝撃を与えました。
 アリエスの「<子ども>の誕生」に基づいて書かれていると言われていますが、内容は明治以来の日本の状況に合わせてあります。
 日本の「児童文学」の確立が西欧より遅れたのは、「文学」自体の確立が西欧から遅れたのだからだと述べていますが、それは日本の「近代」が明治期以降に移入されたものであって西欧より百年ほど遅れていたのですから、自明のことでしょう。
 「児童」を「風景」と同様に、疑いなく存在するがそれは見いだされたものであるという指摘は、現代児童文学者たちを「児童」という縛りから解放するのに有益でしたが、大半の「現代児童文学」の書き手はそれには無自覚で(柄谷やアリエスの指摘を、間接的にも読まなかったと思われます)、観念にすぎない「児童像」を追及し続けてていたように思えます。
 ただ、現在の子どもと大人(特に女性)に共有される一種のエンターテインメントとなった「児童文学」では、皮肉にもその「子ども」という縛りからは解き放たれているのかもしれません。
 しかし、その代わりに、「売れる本」という新しい観念に縛られているのでしょう。
 また、現在の年齢で横並びの学校制度にならうように、「低学年向け」とか「高学年から」と限定されて出版している児童書の出版社にはその固定化した「子ども」像が今でも見られますし、それに影響されて観念的な学年別の「児童」像に縛られて創作している「児童文学作家」が依然として数多くいることも事実です。

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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瀬田貞二「幼い子の文学」

2025-04-01 09:05:21 | 参考文献

 著者が、1976年6月から一年の予定で行った児童図書講座で、二十数名の児童図書館員を前にして話された各回一時間半の講演(残念ながら著者の病気のために六回だけで打ち切りになってしまいました)をまとめて、著者の没後に出版された本です。
 各回はそれぞれ、生きて帰りし物語、なぞなぞの魅力、童歌という宝庫、詩としての童謡、幼年物語の源流、幼年物語の展開、となっていて、それぞれ豊富な実例とともに興味深い内容が語られます。
 児童文学のもっとも源流に位置する幼年童話や絵本の構造や歴史について、主に日本と英米の本を中心にしてまとめられています。
 もし最後までこの口座が行われ著者自身の手でその内容がまとめられていたら、幼年童話に関するもっとも重要な本になっていたことでしょう。
 この本に掲載されている分だけでも、児童図書館員はもちろん、読み聞かせをされている方々や、幼年童話や絵本を実作されている人々にとっても、必読の本だと思われます。

幼い子の文学 (中公新書 (563))
クリエーター情報なし
中央公論新社
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石井直人「現代児童文学の条件」(「研究=日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」)所収

2025-03-31 05:43:12 | 参考文献

 1998年に出た日本児童文学学会編の「研究=日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」の巻頭を飾る「総論」の論文です。
 ここでいう現代児童文学とは、1950年代に始まって1990年代に終焉(または変質)したといわれる狭義の現代児童文学(他の記事を参照してください)ではなく、(同時代の)という意味の広義の現代児童文学です。
 論文は、以下の四部構成になっています。
1.「幸福な一致」
2.子ども読者――読書のユートピア
3.子ども読者論の変奏
4.楕円構造――児童と文学という二つの中心
 1では、現代児童文学の出発時にさかのぼり、作者の認識と読者の認識、さらには批評までが一致していた幸福な時代について、松谷みよ子の「龍の子太郎」を中心に述べています。
 2では、著者が戦後児童文学の批評における最大の書物とする「子どもと文学」を中心に、「子ども読者」の創造と読書のユートピア時代について語られています。
 3では、1978年の本田和子の「タブーは破られたか」、1979年の今江祥智の「もう一つの青春」、1980年の柄谷行人の「児童の発見」という三つのエッセイをもとに、「児童文学のタブーの崩壊」、「児童文学と一般文学の互いの越境」、「子ども論」などを中心に、「子どもと文学」が提示した「子ども読者論」がどのように変化し、現代児童文学が変遷していったかを考察しています。
 4では、児童文学が「児童」と「文学」という二つの中心を持つための特殊性と、それゆえの矛盾や葛藤を持つものであるかが示されています。
 全体を通して、「総論」らしく現代児童文学の概観について、文学論、読者論、児童論、心理学、哲学などの知見をちりばめてアカデミックに書かれていて、注に掲げられていた論文や文献も含めて読みこなすのにはかなりの時間がかかりましたが、非常に勉強になりました。
 

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
クリエーター情報なし
東京書籍
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瀬田貞二「宮沢賢治」子どもと文学所収

2025-03-30 11:48:20 | 参考文献

 「子どもと文学」の他の論文とかなり趣が異なり、冒頭にグループ(「ISUMI会」といいます)で話し合いがもたれた時の実際の様子が紹介されています。
 この時の題材は「なめとこ山の熊」なのですが、そのやりとりを読んでいて懐かしい気持ちになりました。
 私も、大学一年の秋に、児童文学研究会の尊敬できる先輩(どういう経緯だったのかわかりませんが、私よりもかなり年長で、未成年だった私から見ると、立派な大人のように感じられました)に誘われて、児童文学研究会の分科会としてできたばかりの、「宮沢賢治研究会」という読書会に参加しました。
 それから、二年の間参加した毎週の読書会は非常に楽しいものでした。
 今振り返ってみると、参加していたメンバーの文学的な素質もかなり高かった(その後文学系の大学の教授になった女性が二名含まれていました)のですが、やはり非常に多様な作品(しかも、大半が読書会向きの短編)を持つ「賢治」でなければ、ただ作品を読んで感想を言い合うだけのあのような読書会を毎週続けることはできなかったでしょう(もちろん、読書会の後の飲み会やメンバーとの旅行も楽しかったのですが)。
 他の記事にも書きましたが、先輩はどういうコネを持っていたのか、当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生にお話を聞く機会を設けてくれ、会で花巻へ賢治詣での旅行(賢治のお墓、羅須地人協会、イギリス海岸、花巻温泉郷など)に行った際には、続橋先生のご紹介で、賢治の生家をお訪ねして、弟の清六氏(賢治の作品が世の中に広まることに多大な貢献がありました。その記事を参照してください)から生前の賢治のお話をうかがったりできました。
 その後の著者の文章は、評論というよりは、賢治の評伝に近く、賢治の童話創作の時期を前期(習作期)、中期(創作意欲にあふれ、一日に原稿用紙百枚書いたという言い伝えがあり、ほとんどの童話の原型ができあがった時期)、後期(完成期)に分けて、時代ごとに主な作品とその特徴や創作の背景を解説しています。
 著者が指摘している賢治作品の主な特長は以下の通りです。
「構成がしっかりしている」
「単純で、くっきりと、眼に見えるように描いている」
「方言や擬声音、擬態音をうまくとりいれ、文章全体に張りのあるリズムをひびかせる」
「四四調のようなテンポの均一な、踊りのようなリズム」
「日本人には不向きと言われているユーモア」
「ゆたかな空想力」
 こうした「賢治作品」の特長を育んだものとして、著者は以下のものをあげています。
「素質が狂気に近いほどに並はずれた空想力にめぐまれたこと(こればかりは他の人にはまねできません)」
「郷土の自然」
「郷土の民俗」
「宗教(特に法華経)」
「教養(社会科学、文学、語学、音楽)(著者は無視していますが、自然科学の教養も他の作家にない賢治作品の大きな特徴です)
 全体を通して、著者自身の賢治の評価はベタほめに近く、むしろ「賢治」を利用して、既成の童話界(「赤い鳥」、小川未明、浜田広介など)を批判するために書いているような感もあります。
 また、当時(1950年代)の賢治作品の評価が「大人のためのもの」に傾いていると、著者たちは認識していたようで、自分たちの実体験(彼らの子どもたちの感想)も加えて、繰り返し賢治作品は本来「子ども(作品によっては低学年の子どもたちも)のために書かれたもの」で、その上で「純真な心意の所有者」の大人たちも楽しめるものだということを強調しています。
 この文章が書かれてから七十年近くがたち、子ども読者(大人読者も同様ですが)の本に対する受容力は大幅に低下しているので、現在では、当時の著者たちの認識より二、三年はプラスしないと、読むのは難しいかなという気はします。

子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店
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司馬遼太郎「竜馬がゆく」

2025-03-23 12:41:50 | 参考文献

 1962年から1966年まで、産経新聞の夕刊に連載された歴史小説です。

 幕末の志士、坂本龍馬の生い立ちからその死までを描いています。

 薩長連合や大政奉還などの実質的な演出者であった、龍馬の魅力を余すところなく描いています。

 出身の土佐藩では政治に参画できない郷士の身分ながら、脱藩してからは勝海舟のような幕府の高官、他藩の藩主、薩摩の西郷吉之助、長州の桂小五郎などの幕末の大物から絶大な信頼を得て、新しい日本を生み出した坂本龍馬の生涯を全五巻(文庫本では八巻)で描いた大長編小説です。

 出版当時大ベストセラーになって何度もテレビドラマにもなり、現在の日本人の坂本龍馬観は、ほとんどこの作品で形作られました。

 名誉や栄達を求めず日本と日本人のために尽くした坂本龍馬は、日本人が愛する偉人のNo.1でしょう。

 特に、上は殿様から下は庶民まで、男女を問わずに愛される龍馬像が、この作品の最大の魅力でしょう。

 

 

 

 

 

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村上春樹「こんなに面白い話だったんだ!」新潮社文庫版「フラニーとズーイ」所収

2025-03-18 14:21:16 | 参考文献

 2014年に、著者の新訳として出版されたサリンジャーの「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)の付録(サリンジャーが自分の作品の本に「まえがき」や「あとがき」を付けることを許さなかったからです)として書かれた文章です。
 「フラニーとズーイ」の成立事情の部分は、紙数の関係で割愛されていますが、新潮社のホームページからダウンロードできます。
 タイトルにありますように、10代で初めて読んだ時には分からなかった作品の魅力(特に「ズーイ」の部分)が、今回ようやく理解でき、この作品が(サリンジャーの作品としては「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)とともに)20世紀のアメリカ文学の古典であると主張しています。
 今回なぜそうなったかの原因としては、その間(45年)の人生経験と翻訳のために原文を読んだことをあげています。
 著者の意見は、おおむね肯定できます。
 「ズーイ」の宗教的あるいは哲学的な内容や、世俗的な社会への否定的な考え方は、これから社会にできる若い世代の人たちには理解しにくいものだと思われます。
 また、サリンジャー独特の文体や語り口は、なかなか翻訳では伝えることができない(著者も十分にできなかったと謙遜していますが)もので、それは単なる言語の違いだけでなく、1950年代のアメリカ(特に若い世代)の風俗や話し言葉とは切り離せないからです。 
 また、この作品が、「ニューヨーカー」誌にふさわしいスタイリッシュな短編から、より精神的な文学への過渡期にあったという「フラニーとズーイ」の成立事情の部分の説明も、読者には分かりやすい物です。
 著者は、この作品をサリンジャー文学の頂点(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は別として)と位置付け、その後の作品(「シーモア ― 序論」(その記事を参照してください)と「ハプワース16,一九二四」(その記事を参照してください)しかありませんが)については、「その文体はどんどん煮詰まり、テーマは純化され、彼の物語はかつての自由闊達な動きを急速に失っていく。そして彼の書くものは、読者から避けがたく乖離していくことになる。」と否定的です。
 しかし、それは、サリンジャーとは逆にどんどんスタイリッシュな作品に近づいて純文学からは遠ざかっている著者の視点であり、「読者から避けがたく乖離していく」のは作家だけのせいではなく、どんどんエンターテインメント作品へ向かっている読者の方により大きな原因があると思っています。
 そのため、読者を意識した純文学作家(著者だけに限りませんが)は、どんどんエンターテインメント作品へ近づいていて、かつては中間小説と揶揄された分野でしか作品を発表できないのが現状ではないでしょうか。

 

 

 

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本田和子「タブーは破られたか」日本児童文学1978年5月号所収

2025-03-14 08:34:38 | 参考文献

 「タブーの崩壊」を特集した日本児童文学1978年5月号の巻頭論文です。
 日本児童文学のバックナンバーは入手が比較的容易ですし、「現代児童文学論集4」にも収録されていますので、簡単に読むことができます。
 刺激的なタイトルのせいもあって児童文学論の世界では非常に有名で、その後のいろいろな研究者の論文にもよく引用されています。
 この号でタブーの崩壊を取り上げたのは、それまで日本の児童文学で取り上げられなかった人間の陰の部分である「性・自殺・家出・離婚」などを取り上げた作品(例えば、岩瀬成子「朝はだんだん見えてくる」、末吉暁子「星に帰った少女」(その記事を参照してください)、今江祥智「優しさごっこ」など)がそのころに発表されたことが背景にあります。
 しかし、本田の論文では、「タブー」の中でも「離婚児童文学」だけを論じていて、取り上げた作品もこの分野では定番のワジム・フロロフの「愛について」(1966年に発表されたソ連の作品です。内容についてはこのブログの「愛について」の記事を参照してください)と今江祥智の「優しさごっこ」だけです。
 児童学や心理学の知見をふんだんにちりばめて、アカデミックな用語を多用して格調高く書かれていますが、要は日本の児童文学において、もともと「性・自殺・家出・離婚」などはタブー(言葉に厳格な本田は本来の意味である「聖なる禁止」という意味で使っています)ではなく、「覆い隠しておきたい「不浄域」として位置づいていたのではないか。そして、それゆえに、より意識的な制限に基づくものだったと思われるのである。」と主張しています。
 つまり刺激的なタイトルは疑問形であったわけで、答えは現代日本児童文学にはタブーはもともと存在しなかったということです。
 しかし、この論文がユニークで歴史的価値を持っている理由は、その部分ではありません。
「性・自殺・家出・離婚」など取り上げた作品群が、作者のもくろみ(例えば、この論文では、「離婚児童文学」の分野では古典的な作品である「ふたりのロッテ」(その記事を参照してください)の作者のケストナーの有名なことば、「世間には、両親が別れたために不幸な子どもがたくさんいる。しかし、両親が別れないために不幸な子どもも、同じだけいるのだ……」や今江祥智のことば、「この世間に数多いああした子どもと両親のことを考えて創作した」を紹介しています)を超えて、より多くの一般の子どもたちにとっても、「彼らの成長にかかわる通過儀礼として、機能していると考えられないだろうか」と、この問題を読者論として捉え直した点にあります。
「子どもの文学を、彼らの意識的な生活のレベルに対応させ、その次元での効用を考えるのは短絡的に過ぎる。物語とかかわりを持つのが彼らの内的世界であれば、当然、その作用は無意識のレベルに大きい。無意識は、内に広がる未踏の暗がりであり、意識的な生を昼の世界と見るなら、無意識は夜の世界に属している。物語は、存在の夜の部分に働きかけることで、昼の生活を補填するものとして位置づくのだ。子どもの文学と言えども、もちろん、例外ではない。
 児童文学が、人間の陰の部分からも目を逸らさなくなった、という最近の現象は、この自明の理が、漸く浸透し始めたことのあかしではないか。そして、その動きは、「論」としてよりもむしろ、「作品の出現と読み手の出会い」という、具体的な形で、現れている。成長困難な文化状況の中で、読み手たちの内的要請は、これらがダークサイドにかかわる物語に向けて、従来とは比較にならないほどに、著しい高まりを見せ始めているのである。」
 以上の最後のまとめ部分は、その後の80年代における人間の陰の部分を描いた多様な児童文学作品の出現を予見するものでした。
 しかし、この論文が描かれてから五十年近くが経過した現在、「子どもたちが成長困難な文化状況」はますます深刻になっているにもかかわらず、商業主義にからめ捕られている現在の児童文学の出版状況は、この「読み手たちの内的要請」に全く応えられていないのが実情です。

多様化の時代に (現代児童文学論集)
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日本図書センター
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ポール・ベルナ「首なし馬」

2025-03-06 09:37:55 | 参考文献

 1955年発行のフランスの児童文学の古典です。
 戦後しばらくして(おそらく1950年前後)のフランスの下町を舞台に、首なし馬(馬の形をした大型三輪車だが、首も取れてガラクタ扱いだった物)で、坂を猛スピードで下る遊びを中心にして団結している10人の少年少女のお話です。
 ひょんなことから、列車強盗団の1億フランの隠し場所を知ることになった彼らは、犯人逮捕に大きく貢献します。
 この作品の一番すぐれている点は、列車強盗団の逮捕というミステリーの部分(エンターテインメント)と、子どもたちの遊びを中心にした生活(自分たちでお金を稼いで、時には煙草を吸ったりもします)をいきいきと描いた部分(リアリズム)が、無理なく有機的につながっていることです(遊びの中で犯人逮捕のきっかけをつかみます)。
 ご存じのように、フランスは第二次世界大戦中はナチスに侵略されて悲惨な状況でした。
 そこからの復興期には、貧しく荒廃しているところも残っていますが、みんなが生き生きとエネルギッシュに生きていました。
 大人たちは生活するのに精いっぱいで、子どもたちに干渉する暇はありません。
 子どもたちは、戦争後のベビーブームで、町にはたくさん溢れていました。
 このような状況では、子どもたちだけの社会が、今では全く想像できないほど大きなものでした。
 もちろん、当時からいじめもありましたが、子どもたちの社会が、今のような水平構造(同学年で輪切りにされています)ではなく、垂直構造(小学一年から六年、時には中学生も一緒に遊んでいました)であったために、自然と年長の子たちは年少の子たちを面倒を見るようになり、そこには自治と呼んでも差し支えないような世界があって、その中でいじめなどの問題も、多くは大人の手を借りることなく解決していました。
 このような作品を、今リアリズムの手法で描いても、全くリアリティを持たないでしょう(ファンタジーの手法を用いれば、ハリー・ポッターの魔法学校ような独自の世界を描けますが)。
 現在では、子どもたちの世界は、家庭、学校、塾、スポーツクラブなどの習い事など、大人たちによって支配され、搾取され、細分化されているからです。
 こうした子どもたちだけの世界が崩壊したのは、決して最近の事ではありません。
 私はこの本が出版される前年の1954年生まれですが、私が幼少のころ(小学校低学年ぐらい)まではこうした子どもたちだけの世界はありましたが、私が年長(小学校高学年)になるころ(ちょうど東京オリンピックが終わった後です)には、私の育った東京の下町ではすでに崩壊していました。
 子ども数の減少や、塾や習い事などの教育ブームなどがその背景にはあります。
 日本が高度成長期に差し掛かって、大人たちにゆとりができて、子どもたち(それまでは少なくとも四、五人いた子どもたちが、各家庭に二、三人になっていて、一人っ子も珍しくなくなっていました)に干渉するようになったからです。
 おそらく、地域によっては、もう少し長い間、子どもたちだけの世界はあったかもしれません。
 しかし、農村や漁村では、長い間、子どもたちは労働力としてみなされていましたから、東京の下町のような自由に遊ぶ時間はずっと少なかっただろうと思われます。
 ところで、私はこの作品を小学校低学年のころに初めて読んだのですが、その本は講談社版少年少女世界文学全集の第29巻で1961年2月の発行です。
 わずか5、6年前にフランスで出版された話題作がすぐに日本でも読めたわけですから、日本の児童書の出版状況は今よりもはるかに健全だったのでしょう。
 そこに載っていたのは紙数の関係(一巻に複数の作品を掲載するため)で抄訳でしたので、犯人逮捕の部分はややあっけなかったように記憶しています(今回全訳で読んで、初めてその部分はすっきり納得できました)が、子どもたちの遊びや生活の部分はほとんどカットがなく、私が子どもの時に魅了されたのはこちらの方でした。
 特に、日本と違って男の子も女の子も一緒に遊び、主人公のフェルナンに、仲良しのマリオン(犯人逮捕の時に大活躍する犬使い(町中の犬たちと友だちで、口笛一つで何十匹も呼び集めることができます)の少女)が別れ際にほっぺにキスをするのを、ドキドキしながら読んだ記憶があります。
 ちなみに、この作品は、1963年にディズニーで実写映画化されて日本でも封切られたので、私も見た記憶があります。


首なし馬 (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社



 




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武田勝彦「グラドウォラ=コールドフィールド物語群」若者たち解説

2025-02-28 08:52:24 | 参考文献

 訳者である鈴木武樹が、ジョン・F・グラドウォラあるいはホールデン・モリス・コールフィールドを主人公にした短編を一つのグループにまとめたのに即して解説しています。
 これらの作品は、サリンジャーの代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ないしは、自選短編集「九つの物語」のための習作あるいは下書き的な性格を持っています。
 そのため、これらの作品自体を論ずるよりは、完成形の作品との差異やなぜそのように変化していったかを考察すべきだと思うのですが、そのあたりが中途半端になっています。
 また、アメリカ文学の流れとしての「ロマンス」から「ノヴェル」への変化についても言及していますが、こうした大きな話は限られた紙数の「解説」という場にはふさわしくなく、中途半端に終わっています。
 以下に各短編の評について述べます。

<マディスンはずれの微かな反乱>
 この作品は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第17章から第20章にかけての内容の、ごく断片的な下書きともいえます(その記事を参照してください)。
 しかし、著者は、それとの関連に対する考察は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「美しき口に、緑なりわが目は」とのあまり本質的ではない関連に触れただけで、この作品自体の評価としては、サリンジャーの巧妙なまとめ方は認めつつも完成度が低いとしています。
 この短編を読んで、ここから長編「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にどのように変化していったかを類推しようとしないのは、著者が実作経験に乏しいためと思われます。
 他の記事にも書きましたが、創作する立場から言うと、長編作品には、大きく分けると「長編構想の長編」と「短編構想の長編」があります。
 前者は、初めから長編として構想されて、全体を意識して創作される作品です。
 後者は、初めは短編構想で書きあげられて、そののちそれが膨らんだり、あるいはいくつかが組み合わさったりして、結果として長編になる作品です。
 サリンジャーは、自分自身も認めているように、本質的には短編作家です(長編は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」しかありません)。
 そうした作家の長編の創作過程を考察するためには、こうした初期短編は絶好の材料です。
 その点について、もっと掘り下げた考察をするべきでしょう。
 また、五十年以上前の文章なので仕方がないのですが、著者のジェンダー観の古さと、アメリカ人と日本人のメンタリティの違いが理解できていないことも感じられました。

<最後の賜暇の最後の日>
 平和主義者のサリンジャーの戦争批判の仕方について論じて、「エスキモーとの戦争の直前に」(その記事を参照してください)との共通点を指摘しています。
 ただ、この作品が、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。

<フランスへ来た青年>
 戦争で精神的に傷ついた青年が、妹からの手紙で救済されたことについて、「エズメのために ― 愛と背徳とをこめて」との関連で述べています。
 ここにおいても、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。
 また、当時の翻訳者が、日本と外国(この場合はアメリカ)との風俗や人間関係の違いから、読者にわかりやすくするという名目で勝手に意訳したり設定を変えたりすることについて肯定的に考えていることがほのめかされていて、驚愕しました。
 そう言えば、最近は少なくなりましたが、外国の文学作品や映画の日本でのタイトルはかなり大胆に変えられていて、オリジナルのタイトルを知って驚かされることがあります。
 もちろん、そちらの方が優れている場合もあるので、一概に良くないとは言えないのですが。
 例えば、スティーブン・キングの有名な「スタンド・バイ・ミー」は本当は主題歌のタイトルなのですが、オリジナルの「ボディ(死体)」よりはこちらの方が内容的にもしっくりします。
 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も、初めの邦題は「危険な年頃」なんてすごい奴でしたし、日本で一番ポピュラーになっている「ライ麦畑でつかまえて」もなんだかしっくりきません。

<このサンドイッチ、マヨネーズがついていない>
 主として技巧面での解説をしていますが、この作品については「キャッチャー・イン・ザ・ライ」との関連が述べられています(詳しくはこの作品の記事を参照してください)。

<一面識もない男>
 サリンジャーの繊細な表現について肯定的な評価をしていますが、明らかな誤読か見落としがあって、この作品もまた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型の一つであることに気づいていません(詳しくは、この作品の記事を参照してください)

<ぼくはいかれている>
 この短編が、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型であることは述べていますが(まあ、誰が読んでも明白なのですが)、それについての具体的な考察はなく将来の研究(他者の?)に委ねてしまっています(私見については、この作品の記事を参照してください)。

 

 

 

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色川武大「離婚」離婚所収

2025-02-12 09:15:26 | 参考文献

 昭和53年に直木賞を受賞した短編です。
 フリーライターとその妻の、不思議な結婚及び離婚の様子を描いています。
 自由気ままな暮らしをしている主人公と、それに輪をかけてフリーな妻は、六年間の結婚生活を解消して離婚しますが、その後もつかず離れずの関係で、半同棲のような暮らしをしています。
 結婚制度というある意味自由を縛り合う関係で暮らしている一般人(現代では生涯未婚の人も多いですが)から見ると、自由で無責任でうらやましいと思う面もあります。
 特に、主人公の妻は、傷ついた小動物のようなところとフラッパーな面を兼ね備えていて、なかなか魅力的に描けています。
 作者は、ペンネームの阿佐田哲也(「朝だ、徹夜」のシャレ)でたくさんの麻雀小説(代表作は「麻雀放浪記」)を書き、ギャンブラーとしても非常に有名で、当時は若い世代に人気がありました。
 この作品に、どこまで作者の実体験が生かされているかは分かりませんが、フリーランスの生活の魅力と危険性がよく表れています。
 作者は、ギャンブル小説のような好奇な風俗ものだけではなく、この作品のような一般的な小説の書き手としても一級です。

離婚 (文春文庫)
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文藝春秋
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司馬遼太郎「国盗り物語」

2025-02-03 14:54:50 | 参考文献

戦国時代のたがいに関係の深かった三人の武将(一番年長の斎藤道三は、織田信長の舅(道三の娘の濃姫が信長の正室)であり、明智光秀の義理の叔父(光秀での叔母が道三の正室)でもあります。ご存じのように信長は本能寺で部下の光秀に討たれました)の生涯を描いています。

作者自身があとがきにも書いているように、もともとは道三だけを描く構想だったのが、好評により信長や光秀までが描かれました。

そのため、全体のタッチが統一されておらす、やや奇妙な感じを受けます。

道三の部分は、作者の作品としてはかなり通俗的に書かれていますが、後半は純文学的な歴史小説のタッチで描かれています。

私の印象では、信長の部分が一番良く書けているようで、光秀の部分は付けたし的な感じを受けました。

 

 

 

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司馬遼太郎「峠」

2025-01-30 09:08:00 | 参考文献

幕末に、弱小な越後長岡藩を率いて、強大な官軍に対して、一歩も引かずに対戦した家老河合継之助の生涯を描いた歴史小説です。

圧倒的な官軍に降伏しなかった河合継之助は、そうかといって幕府にも組せず、長岡藩を独立国家にすることを夢見て、他に先駆けて藩の近代化を推し進めたことが、作者のち密な筆で描かれています。

世間的には全く無名だった河合継之助を、一躍幕末の偉人として浮かび上がらせました。

 

 

 

 

 

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宮澤清六「兄のトランク」兄のトランク所収

2025-01-29 08:58:02 | 参考文献

 賢治の八歳年下の弟である清六氏が、1987年に出版したエッセイ集の表題作です。
 このエッセイ集は、清六氏が賢治の全集の月報や研究誌などに発表した賢治についての文章を集めたもので、発表時期は1939年から1984年まで長期にわたっています。
 賢治にいちばん近い肉親ならではの貴重な証言が数多く含まれていて、賢治の研究者やファンにとっては重要な本です。
 このエッセイでは、大正十年七月に賢治が神田で買ったという茶色のズックを張った巨大なトランクの思い出について書かれています。
 その年、二十六歳だった賢治は、正月から七か月間上京しています。
 その間に、賢治の童話の原型のほとんどすべてが書かれたといわれています。
 賢治の有名な伝説である「一か月に三千枚の原稿を書いた」という時期も、その間に含まれています。
 賢治は、この大トランクに膨大な原稿をつめて、花巻へ戻ったのです。
 1974年の3月14日に、賢治の生家で、私は大学の宮沢賢治研究会の仲間と一緒に、清六氏から賢治のお話をうかがいました。
 なぜそんな正確な日にちを覚えているかというと、その時に清六氏から賢治が生前唯一出版した童話集である「注文の多い料理店」を復刻した文庫本を署名入りでいただいたからです。
 宮沢賢治研究会の代表をしていた先輩は、どういうつてか当時の賢治研究の第一人者である続橋達雄先生に清六氏を紹介していただき、さらには続橋先生にも事前にお話をうかがってから、みんなで花巻旅行を行ったのです。
 賢治の生家だけでなく、賢治のお墓、宮沢賢治記念館、イギリス海岸、羅須地人協会、花巻温泉郷、花巻ユースホステル(全国の賢治ファンが泊まっていました)などをめぐる濃密な賢治の旅でした。
 私はスキー用具をかついでいって、帰りにみんなと別れて、なぜか同行していた高校時代の友人(宮沢賢治研究会のメンバーではなかった)と、鉛温泉スキー場でスキーまで楽しみました。
 その旅行の前に、代表だった先輩は、「清六氏にあったら賢治先生と言うように」とかたくメンバーに言い含めていましたが、当日はその先輩が真っ先に興奮してしまって、「賢治」、「賢治」と呼び捨てを連発してひやひやしたことが懐かしく思い出されます。
 清六氏は、37歳で夭逝した賢治とは対照的に、2001年に97歳の天寿をまっとうされました。
 その長い生涯を、賢治の遺稿を守り(空襲で生家も焼けましたが、遺稿は清六氏のおかげで焼失を免れました)、世の中に出すことに尽力されました。
 清六氏がいなければ、今のような形で賢治作品が世の中に広まることはなかったでしょう。

兄のトランク (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
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庄野潤三「静物」プールサイド小景・静物所収

2025-01-26 09:42:51 | 参考文献

 1960年6月号の「群像」に掲載されて、同じ年に、この作品を表題とした作品集にまとめられた中編です。
 作品集はその年の新潮社文学賞を受賞していますが、この作品が受賞理由の中心であったことは言うまでもありません。
 この作品は、作者の前期の代表作であるばかりでなく、戦後文学の代表作の一つであると評されています。
 実際の作者の家族をモデルにしたと思われる五人家族(主人公である父親、その細君(こう表記されている理由は後で述べます)と、女、男、男の三人兄弟)の一見平凡に見える日常些細なことを描きながら、それがいかに危うい均衡(あるいは男女としての関係の諦念)の上に成り立っているかが、浮かび上がってくる非常にテクニカルな作品です。
 文庫本にして70ページほどのこの中編は、18の断章から構成されています。
 その大半は、父親を中心にした穏やかな日常風景(部分的には子ども(特に長女)が小さかった頃が回想されます)が描かれています。
 しかし、1、2には、長女が1歳のころに妻が自殺未遂を図ったことがにおわされて、作品全体の通奏低音のように、この一見円満に見える家庭がもろくも崩壊してしまうかもしれない不安感を漂よわせます。
 さらに、3には新婚の時のあどけない女性だった頃の妻の追憶が挿入され、かつて彼らが父親とその細君でなく、愛し合う若い男女だったことが示されます。
 そして、後半になると、14には、娘が幼かった頃のあるクリスマスに、妻が唐突に彼の家の家計としてはかなり高価な贈り物を彼と娘にしたことが思い起こされたり、16には、二番目の子どもが赤ん坊の頃に、階下ですすり泣く妻の声を聞いたことが思い出されたりして、この一見平和な家庭が、いかに彼女の大きな犠牲(一人の独立した女性ではなく、家族の中心としての父親(民主的家父長制と呼べるかも知れません)である彼の「細君」としての役割を果たすことへの諦念といったほうがいいかも知れません)の上に成り立っているかを示しています。
 しかし、その後の作者の家庭小説(「夕べの雲」や「絵合わせ]など)の中では、こうした通奏低音はすっかり姿を消して、完全に父親とその細君(独立した一人の女性でも子どもたちの母親でもなく、あくまでも主人公からの相対的な位置づけなのです)としての役割を引き受けた姿が描かれています。
 こうした作者の作品世界を、「小市民的」と批判するのはたやすいのですが、作者が頑なまでにその姿勢を貫いている間に、世間ではこの民主的「家父長」とでも呼ぶような父親たちが完全に姿を消して、その作品世界は一種の古き佳き昔を懐かしむような読者の共同ノスタルジーに支えられて、一定の読者(私もその一人ですが)を獲得し続け、その老境小説が「いつも同じことを書いている」と揶揄されながらも、なくなる直前まで出版され続けたことにつながっていったものと思われます。


 

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