現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

内海 健「うつ病新時代 双極Ⅱ型障害という病」

2024-12-21 08:54:47 | 参考文献

 2006年8月に発行された新しい気分障害である双極Ⅱ型障害(軽躁状態とうつ状態が繰り返しあるいは混合して現れる障害です)について、臨床と並行して、気分障害史にも言及して解説した本です。
 ポストモダンに生きる我々がいろいろな生きづらさに直面した時に発症するのは、旧来のうつ病(メランコリー)ではなく、このポストメランコリーの病気なのです。
 まだ臨床医の多くもこの病気を正しく理解していなくて、多くの患者がうつ病と誤診されています(私自身も、2003年に同様の誤診をされた苦い経験を持っています)。
 今の子どもたちや若い世代を取り巻くいろいろな問題(いじめ、セクハラやパワハラなどのハラスメント、ネグレクト、虐待、ひきこもり、登校拒否、拒食、過食、自傷、自殺、薬物依存、犯罪など)の背景の多くに、当事者やその親や教師や上司などの内部にこの双極Ⅱ型障害が潜んでいることが多いと思われます。
 また、この障害は、個人の責任ではなく、社会のひずみが生んだ「公害」なのです。
 そのため、社会全体を改革しない限り、この障害ならびにそれに基づく問題は、マクロ的には解決できないと思っています。
 私は、これからこのような子どもたちや若い世代の問題を取り上げた創作(児童文学ではなく一般文学になると思われます)に力を入れていこうとしていますが、その背景を正しく理解するためにこの本はおおいに役立ちました。
 ただし、この本は内容や文章がやや難しく、筆者もあとがきで弁明していますが、「精神科医からのメッセージ」というシリーズ名にはふさわしくなく、「精神科医へのメッセージ」といった趣です。

うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)
クリエーター情報なし
勉誠出版
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吉川英治「新・水滸伝」

2024-12-20 08:36:40 | 参考文献

 水滸伝といえば、言わずと知れた中国四大奇書(他は三国志(その記事を参照してください)、西遊記、金瓶梅)の一つですが、それを大衆小説の第一人者の吉川英治が日本人向け(残酷すぎる部分(黒旋風の李逵に関する部分など)や色っぽすぎたりする部分(金瓶梅のもとになる所など)や日本人には分かりにくい部分(人肉食など))に書き直した作品で、作者の死による未完(いわゆる100回本のうちの74回あたりまで)ながら日本では一番読まれている水滸伝の本です(最近の読者は、横山光輝の漫画やコーエーのゲームや北方謙三の水滸伝の方がなじみがあるかもしれません)。
 お馴染みの求時雨の宋江(いわゆる「男の中の男」の原型ですね。背が低く色黒で女にはまったく持てません(役人時代にやり手婆に無理やり押し付けられた愛人に裏切られて、はずみで彼女を殺して囚人になります)が、庶民(特に男たち)には神様のように崇め奉られています(何しろ字名が、「求める時にふる雨」ですからね。しびれます)を初めとした百八人の豪傑たちが大暴れする大河娯楽小説です。
 子どものころに初めて読んでからずっと未完だったのが不満だったのですが、その後岩波文庫の「完訳 水滸伝」(100回本です。水滸伝には後日談も含めた120回本もあるそうです)を読んでも、108人が勢ぞろいする71回までは面白いのですが、それ以降は付けたしの感が否めません。
 実際、中国では71回を最終回に書き直し、初回を前置きにして回数をひとつずつずらしたいわゆる70回本(回数をずらさない71回本もあるそうです)が、水滸伝としては一般的だそうです。
 そういった意味では、吉川英治の「新・水滸伝」は70回本の完訳とは言えるので、この本を読めば完訳を読まなくても十分でしょう。

新・水滸伝 全6巻合本版
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MUK production
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庄野潤三「絵合わせ」絵合わせ所収

2024-12-19 08:36:15 | 参考文献

 「群像」昭和45年11月号に掲載されて、この作品を表題作とする中短編集に収められた中編です。

 また、昭和52年にこの作品を表題作とする文庫本の中短編集に再構成されました。

 この作品においては、両親と長姉と二人の弟で構成されていた作者の家族が、姉の和子の結婚を間近に控えて、大きな変化を予兆させるいろいろな事件が描かれています。

 長女の結婚の準備、長男の受験失敗、次男のお手柄(長女が結婚してから住む貸家を見つけてきた)、この家に引っ越してからずっと一緒だったセキセイインコの老衰などが描かれていますが、作者はそれをシリアスには描きません。

 いつのまにか家族全員でやることが夜の日課になった「絵合わせ」というカードゲームのやり取りを接着剤として、静かにやがて訪れる家族の変化(五人家族が四人家族になる)への、心の準備のようなものを紡いでいきます。

 その暖かく精緻な描写は、さすがに野間文芸賞を受賞した名作と思わせるものがあります。

 そして、この作品集では、「丘の明り」、「小えびの群れ」、「絵合わせ」の三つの作品集から、家族の成長がわかる短編が選ばれているので、読者はいつのまにか、この家族が親戚よりも身近で、かぎりなく自分自身の家族であるかのように感じられます。

 そのため、長女の結婚を喜ぶとともに、家族の黄金時代が過ぎ去ってしまったことの寂しさも感じます。

 どの家族にも、黄金時代というものはあります。

 私事になりますが、私の家族の黄金時代は、次男が誕生してから、長男が大学一年で次男が高校二年の時に、二人で都内のアパートへ移った時まででしょう。

 こうしたどの家にもある家族の黄金時代を、ここまで緻密に描き出した作品集を、私は他に知りません。

 

 

 

 

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沢木耕太郎「深夜特急1」

2024-12-18 08:53:55 | 参考文献

 作者の代表作のひとつで、一人旅物の決定版とも言える作品です。

 この文庫本版は、単行本の「深夜特急第一便」の前半部分で、以下の三章から構成されています。

第一章 朝の光 インドのデリーの安宿で、出発してから半年になるのに、まだ本来の目的であるデリーからロンドンまでのバス旅行が始まっていないことに愕然とするところから始まり、なぜこの一人旅に出たかの発端が語られます。

第二章 黄金宮殿 手に入れたチケットが途中滞在可能だったので、何気なしに寄った香港での話です。黄金宮殿という名のラブホテル(というよりは、昔ながらの連れ込み旅館といった方がしっくりきます)を根城にして、露店街やフェリーや港などのあちこちを歩き回る熱狂の日々です。

第三章 賽の踊り 黄金宮殿に荷物を残したまま、何気なく立ち寄ったマカオ(香港からは水中翼船で1時間ちょっとで行かれます)での、大小という博打にはまった別の意味(一時は大きく負けて、本来のバス旅行がスタートする前に断念しなければならない窮地に陥ります)で熱狂の日々です。

 「深夜特急」は、出版当時、多くの若者の一人旅への憧れを刺激して、ベストセラーになりました。

 実際に、この本の通りに、一人旅をした人たちもたくさんいたことでしょう。

 私も、初めて読んだ時には、一人旅への強い憧れを抱きました。

 特に、香港のどこまでも続く露店街での放浪やマカオでの博打への耽溺には、いつかはやってみたいとさえ思いました。

 幸か不幸か、この本を読んだ時には、結婚して子どももいましたので、作者のように何もかも放擲して一人旅に出ることはできませんでした。

 後日、リノのカジノに泊まった時や、台北の夜市に行った時には、この作品で描かれたものに近い風景に出くわしましたが、その時はすでにそれらに耽溺することはできませんでした。

 その時、もう自分は一人旅をするには年を取りすぎてしまったんだなあと、寂しさにも似た気分を味わったことを覚えています。

 

 

 

 

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小熊英二「1968」

2024-12-17 08:15:10 | 参考文献

 上下巻で2000ページもある大著なので、読みきるには集中力を持続する必要がありますが、現代日本児童文学の舞台(とくに初期)やそのころの作者たちの創作の背景を理解するためには必須の本ではないでしょうか。
1.叛乱の背景と始まり
 上巻では、当時の若者たちの叛乱とその背景について書かれています。
 時代的・世代的背景、各セクトについて、全共闘の個々の闘争(慶大闘争、早大闘争、横浜国大闘争、中大闘争、羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子野戦病院闘争、日大闘争)、特に東大闘争については発端から結末までを、詳述しています。
 全共闘世代はいわゆる団塊の世代で、義務教育のころは戦後民主主義教育を受け、その後激烈な受験戦争に巻き込まれ、大学の大衆化に直面し、アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄化などの現代的不幸に直面した最初の世代でした。
 セクトの変遷とそれぞれの特徴がまとめられていて、初めて知ったことも多かったです。
 慶大闘争が、一連の若者たちの闘争の端緒だというのは、初めて知ったことでした。
 早大闘争は、私が知っていた1972年の川口君リンチ殺人事件を発端にした革マル対他セクトプラス一般学生の争いではなく、当初は学費値上げ反対闘争だったとのことなので、初めて知ったことも多かったです。
 横浜国大闘争は、学芸学部から教育学部への変更反対闘争で、伝統的な学問を究める大学から、産業の要請する労働力(この場合は教員)養成の大学への変換への抵抗の典型的な例として興味深かったです。
 中大闘争も学費値上げ反対の闘争でしたが、学生側の勝利した数少ない闘争として貴重なものでした。
 このパターンが後続の大学紛争のモデルになっていれば、結果はだいぶ違うものになったでしょう。

2.闘争の高まり
 羽田闘争での犠牲者山崎君の死が、その後の全共闘への参加のきっかけになっている例が多かったことを知りました。
 三里塚闘争では、農民の闘争に学生が参加して、互いに刺激し合って闘争が過激化し、機動隊側にも死者を出しました。
 佐世保闘争と王子野戦病院闘争では、一般市民も巻き込んだ闘争の例として、初期の全共闘の運動が社会からも支持されていたことを示しています。
 日大闘争では、大学側の対応や状況があまりに前近代的(最近のアメフトを初めとした日大の事件を知ると、体質が少しも変わっていないことに驚かされます)なので、読んでいて学生側に同情しました。
 特に、いったん決まりかかった改革案を、時の佐藤首相が介入して反故にしたという事実を初めて知って驚きました。
 もし、これがなければ、学生側の勝利で終結していたでしょう。
 その後のセクトの介入により、闘争への一般学生たちの共感が失われてしまったのが残念でした。
 東大闘争も、初めは医学部の封建的な体制の改革に乗り出し、大学側がほとんどの要求に合意した時点で学生側の勝利で終結できたでしょう。
 ところが、闘争にセクトが介入し、しだいに自己否定などによる学生の自分の表現としての闘争に変化して、泥沼化してしまいました。
 この闘争を重要視し、七十年に向けての拠点にしようとするセクトの思惑が原因でした。
 この闘争が、その後の大学での闘争のモデルになったため、学生側の敗北によって終結するようになってしまったようです。
 大学ごとに結成されてノンセクト・ラディカルが重要な役割を果たした全共闘(終末期にはセクトあるいはセクト連合にイニシアティブを握られてしまいましたが)と、セクトによって細分化されていく全学連の違いが初めて理解できました。
 大学闘争については、その発端から終末まで詳しく書かれていますが、それ以外の闘争についてはあっさり書かれているので、それぞれの闘争の実態まではよくわかりませんでした。
 これらについては、個別に適切な本を読んで補う必要があると思われます。

3.叛乱の終焉
 下巻では、叛乱の終焉とその遺産について書かれています。
 高校闘争、68年から69年への反乱の推移、1970年に起こったパラダイム変換、関連する個別の闘争(ベ平連、連合赤軍、リブ)に関して記述して、最後に結論を述べています。
 高校闘争は自分自身の高校時代の直前に行われたので、もし一、二年違っていたら、私も巻きこまれていたかもしれません。
 自治が認められていた大学と違って、激しい弾圧にさらされていて、短期間に集結してしまったことは初めて知りました。
 しかし、私の通っていた早稲田大学高等学院では、高校闘争の遺産として、中間試験の廃止、制服、制帽の自由化など、民主化運動の成果がたくさんありました。
 そのへんについての記述がまったくないのには、不満を感じました。
 それとも、高等学院の場合は、早稲田大学の付属という特殊性が原因していたのでしょうか。
 東大闘争で確立された全共闘の闘争パターンが他の大学、地方の大学、高校へと波及し、細く長く反乱の時代が続いていたことが理解できました。
 70年代のパラダイム変換は高度資本主義を推し進めているに対しては有効だが、そこがピークを過ぎて再び格差社会になった現代では限界が出ています。
 現在のワーキングプアの問題やそれによる子どもたちの阻害に対しては有効ではないのじゃないでしょうか。
 そのあたりの記述が不足している感じがしました。
 ベ平連に関しては、その発足から解散まで、時系列に詳しく書かれています。
 全共闘とは違って、当時の自分のすぐ隣(中学の同じクラスの女の子がベ平連の活動に参加していました)にあったこの運動の全貌が分かって興味深かったです。
 一時期のベ平連は、中学生まで巻き込むほどの運動体としての魅力があったのでしょう。
 もし、もう少し年齢が高くもっと社会に目覚めていたら、私自身も関わっていたかもしれないと思わせるものがありました。
 他の闘争と違って、小田、吉川、鶴見俊輔などの中心人物が大人だったのが、全共闘とは一味違う運動にしたのでしょう。
 組織の存続を目的とするのではなく、柔軟な運動体としての存在というのはユニークでした。
 ただ、他の章と違って、筆者がべ平連に好意的すぎるように感じられるのが気になりました。
 連合赤軍に関しては、革命左派と赤軍派という路線の違う二つの党派の野合にすぎなかったこと、総括という名のリンチの凄惨な詳細を初めて知りびっくりしました。
 リンチ事件とあさま山荘事件との関係が、初めて理解できました。
 ただし、あさま山荘事件の記述は、あっさりしすぎているような気がしました。
 リブに関しては、著者自身が認めているように全体像を書きあらわそうとしていないので、よくわかりませんでした。
 特に、その後のフェミニズムへの流れはきちんと理解したかったと思いました。
 なぜ、田中美津にフォーカスしたかも理由が不明です。
 彼女の武装論は、あまりに場当たり的で理解不能でした。
 ただ、赤軍派や革命左派と接点があったのには、びっくりしました。
 一歩間違えれば、まさに彼女は永田洋子になった可能性があったのです。

4.結論
 これらの若者たちの叛乱が、政治運動でなく表現行為だったというまとめが正しいとすれば、自分自身の叛乱も文章による表現行為として成立するかもしれません。
 特に、現代的不幸を描くという点においては、それが言えるでしょう。
 また、この反乱が、高度資本主義社会に組み込まれていく前のモラトリアムの状態だという指摘はうなずけます。
 全共闘の闘争を維持し、しかし、最後に敗北させたのは、一般学生のエゴイズム(ストライキが起きれば、休講になったり、試験が延期やレポートへの切り替えになったりするから、年度の初めには全共闘の運動を支持する。かといって、単位を取って進級や卒業はしたいから、年度の最後にはストライキを終結させる)だという指摘は、自分自身の体験と照らし合わせても、妥当だと思えました。
 そして、この一般学生の無関心、そして就職して高度資本主義社会に組み込まれた後の政治への無関心が、長期にわたる自民党政権を維持してきたのです。
 これが、民主党政権に変わって、変化が起きるかどうかは興味深かったのですが、民主党も体制内野党だったためかまったく変わり映えがしなくて失望感が広がり、あっさりと自民党政権が復活しました。
 現代的不幸に対処するためにどんなパラダイムが必要なのかについて、著者の結論が述べられなかったのは、なんだか肩すかしを食ったような気分でした。
 しかし、これだけ膨大な文献を読みこなし、この長大な論文にまとめあげた著者の力量は、今までの著作と同様にすごいものがあります。
 例えば、セクト(上下)、日大闘争、東大闘争(上下)、べ平連、連合赤軍などの各章は、それだけで単行本にしてもいいぐらいの読みごたえがありました。
 ただ、今回はこの反乱の時代に若者だった当事者の多くがまだ存命なので、いつもの徹底した文献の渉猟だけでなく、実地にインタビューなどの取材で文献の裏を取る必要があったのではないでしょうか。
 このあたりは、ネットなどで当事者たちから痛烈な批判を受けています。
 公平に見ても、今回の著者のとった方法論には、少なからず誤りがあったと言わざるを得ません。
 それにしても、1968年に14才で中学二年生だった私は、この若者の叛乱の時代に遅れてきた世代だったということははっきりといえます。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景
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新曜社



1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産
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新曜社
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山口瞳「血涙十番勝負」

2024-12-15 13:54:59 | 参考文献

 小説現代に連載されて、昭和47年に刊行された人気作家である著者と、当時の一流棋士との熱戦譜です。

 手合いは飛車落ちで、全編、棋譜と感想記が載っていて、対局の前後を筆者独特の自嘲的なユーモアで小説風に綴っています、

対戦相手は、以下の十人です(肩書は出版当時のもので、対局時は違う場合もあります)。

第一番 八段 二上達也 筆者の負け(以下同様に筆者側から見た勝敗です)

第二番 九段 山田道美 指し分け(当時対大山の第一人者と言われ、この棋戦の直後に急死されて、筆者の飛車落ち戦法「6五歩位取り」は、筆者と師匠の山口五段とこの山田戦の成果の合作といえます) 

第三番 二段 蛸島彰子 負け(当時の女流の最強棋士。まだ女流段位がない時代です。この棋戦だけ、手合いは平手です) 

第四番 八段 米長邦雄 勝ち

第五番 十段・棋聖 中原誠 負け

第六番 八段 芹沢博文 負け

第七番 六段 桐山清澄 負け

第八番 名人・王将・王位 大山康晴 負け

第九番 八段 原田泰夫 勝ち

第十番 五段 山口秀夫 勝ち(筆者の師匠なので、言ってみれば、飛車落ち戦の卒業試験のようなもので、筆者は見事に合格します)

筆者の三勝六敗一引き分けですが、当時学生名人と大山名人の記念対局が同じ手合いで勝率がもっと悪かったことを考えると、筆者の実力はアマチュアの五段はあるようです。

この十番勝負は、当時、経済的にも、社会的地位においても、現在と比べて恵まれていなかった将棋棋士の素晴らしさを世の中にひろめようとする筆者の熱意と、日本将棋連盟の全面協力と、講談社の経済的なバックアップがひとつになって実現した将棋ファンにとっては夢のような企画です。 

 今のようにAbemaTVなどで毎日のように将棋の熱戦が見られる時代とは違って、こうした活字媒体が有力棋士の素顔を知る数少ないチャンスだったのです。

 ここでは、大山五冠王(当時はタイトル戦は五つしかありませんでした)を初めとして、山田、二上のような強豪や、当時売りだし中だった中原、米長、そして女流棋士まで、幅広く網羅されています。

 今で言えば、藤井七冠に、渡辺九段、豊島九段、羽生九段などとの対局を想像してもらえば、そのすごさがわかっていただけるでしょう。

 

 

 

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大野裕「はじめての認知療法」

2024-12-09 08:52:19 | 参考文献

 うつや不安などに有効な治療法(薬物療法と同等またはそれ以上に有効で、薬物療法との併用も可能)である認知療法(最近使われているこの言い方は認知症の治療法だと勘違いされるので、本来の「認知行動療法」を使う方が好ましいと思われます)を、この分野の日本における第一人者である筆者が、やさしく解説しています。
 認知療法が何かから始まって、活動記録表、問題リスト、問題解決技法、注意転換法、腹式呼吸、漸進的筋弛緩法、アサーション、コラム法、スキーマなどの、有効なツールや概念が紹介されています。
 特に、コラム法と問題解決技法は、患者だけでなく一般の人にも有効なツールなので、身に着けると確実に生活の質を改善できます。
 これらを身に着けるには、同じ筆者の「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(その記事を参照してください)の方が使い易いでしょう。
 ただし、問題解決技法とコラム法を結びつけるために、「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」(2003年発行)の「七つのコラム」に対して、「はじめての認知療法」(2011年発行)の「コラム法」は、八番目のコラム(「残された課題」)が追加されていて、改善されています。

はじめての認知療法 (講談社現代新書)
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講談社



こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
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創元社
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宮沢清六「兄、宮沢賢治の生涯」角川文庫版「注文の多い料理店」解説

2024-12-01 13:06:49 | 参考文献

 賢治の六歳年下の弟による評伝です。
 肉親が書いたにもかかわらず、感傷的にならずに淡々と賢治の誕生から臨終までを描いています。
 賢治の生涯については様々な形で書かれていますが、近親者でしか知ることのできないエピソードも描かれていて興味深い内容です。
 文中にも書かれているように、著者は生前からの賢治の理解者であり協力者(賢治の原稿を「婦人画報」に持ち込んだのも筆者です)であり、死後は賢治の膨大な原稿の散逸を防ぐとともに、様々な全集などの編纂にも関わりました。
 生前はほとんど無名であった賢治が、死後日本の児童文学者の中でも最も著名な作家になったのは、賢治作品自身の魅力はもちろんですが、筆者の献身的な努力も大きく貢献したと思われます。
 他の記事にも書きましたが、1974年3月14日に、友人たち(早稲田大学児童文学研究会宮沢賢治分科会のメンバー)と賢治の生家で著者にお話をうかがう機会を得ました。
 大勢で押しかけた若い学生たち(当時の賢治研究の第一人者であった続橋達雄先生の紹介はありましたが)にも、丁寧に対応してくださり、賢治の想い出話を語っていただいた帰りには、この復刻版の「注文の多い料理店」(角川文庫)を記念にいただきました。

兄のトランク (ちくま文庫)
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筑摩書房
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永井荷風「濹東綺譚」

2024-11-20 16:16:00 | 参考文献

 1936年に書かれた作者の代表作です。
 作者の分身と思われる文士と、当時玉の井(現在の墨田区寺島町)にあった私娼街(吉原などの公設の花街ではなく個人が経営していました)のお雪との、出会いと別れを情緒的に描いています。
 当時、作者自身も足繁く玉の井に通い、実際にお雪のモデルとなる女性とも馴染みだったようです。
 そのため、当時のそのあたり(よくこうした所を下町といいますが、本当の東京の下町は神田あたり(せいぜい浅草までの隅田川の西側で、東側は一種の異世界だったのでしょう)で、場末という言葉が正しいでしょう)の街並みや人々の生活がリアリティをもって活写されています。
 また、二人の間には、身分の違い、年齢の違い(当時荷風は57歳(現在で言えば70近い老人でしょう)で、お雪は二十代半ば)があり、また作者にはこうした場所の女性と同棲して懲りた経験(作者の言葉で言えば、懶婦(らんぷ、怠け者)や悍婦(かんぷ、じゃじゃ馬)に変身してしまったそうです)があって、初めから実らない恋愛(あるいは疑似恋愛)だったのです。
 つまり、こうした場所は、言ってみれば非日常の空間であり、男も女もいっときだけ生きづらい日常を忘れるためのものなのでしょう。
 実際、二人のやり取りには、どこか芝居じみた感覚があって、それが作者にはどんな演劇や小説などよりも優れた、一種の芸術と捉えているところがあります。
 この作品はたびたび映画化されているのですが、それらで描かれたような官能的なシーンは原作には全くなく、それゆえに二人の関係が純文学的な作品として昇華されています。
 作者の視線は客観的で乾いていて、冷徹な観察と所々にお散りばめられた俳句や漢詩、高い学識とも相まって、この作品を芸術に高めています。
 この作品を情緒的にしているのは、二人の恋愛ではなく、遠くなりつつある明治時代への郷愁とそれに伴った主人公(作者)の老いに対する諦観でしょう。
 また、作中で主人公が書きあぐねている通俗小説(51歳の中学校教師と24歳のカフェーの女給の駆け落ち)と二重構造になっているのも、それとの対比でこの作品の文学性を高めています。
 題名の「濹東綺譚」は隅田川の東の物語という意味で、小説の舞台は墨田区ですが、江東区や葛飾区、そして私の育った足立区千住もそこに含めてもいいかもしれません。
 その地域は、私が育った昭和三十年代でも、愛着を込めて「場末]と呼びたい、猥雑なエネルギーやヴァイタリティに溢れていました。
 そして、都築響一「東京右半分」(その記事を参照してください)によると、その残滓は今でも残っているようです。


濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)
永井 荷風
岩波書店


 
 

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都築響一「東京右半分」

2024-11-19 09:22:56 | 参考文献

 まさに題名通り、東京の右半分(台東区を中心に、足立区、墨田区、江東区、江戸川区、荒川区、文京区、葛飾区など)の新しい風俗(狭義の性的な意味ではなく、それも含めてもっと広い生活全般の意味です)を紹介した本です。
 以下に、この本の「はじめに」を引用します。
「古き良き下町情緒なんかに興味はない。
 老舗の居酒屋も、鉢植えの並ぶ路地も、どうでもいい。
 気になるのは50年前じゃなく、いま生まれつつあるものだ。

 都心に隣接しながら、東京の右半分は家賃も物価も、
 ひと昔前の野暮ったいイメージのまま、
 左半分に比べて、ずいぶん安く抑えられている。
 そして建築家のオモチャみたいなブランドビルにも、
 ユニクロやGAPのようなメガ・チェーンにも、
 まだストリートを占領されていない。

 獣が居心地のいい巣を求めるように、
 カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、
 本能的にそういう場所を見つけ出す。
 ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、
 パリのパスティーユも、そうやって生まれてきた。

 現在進行形の東京は、
 六本木ヒルズにも表参道にも銀座にもありはしない。 
 この都市のクリエイティブなパワー・バランスが、
 いま確実に東、つまり右半分に移動しつつあることを、
 君はもう知っているか。」
 なかなか挑戦的な惹句です。
 しかし、一読、私は新しさよりも懐かしさを感じました。
 私事になりますが、幼稚園から大学を卒業して就職するまで足立区に住み、ゆえあって台東区の幼稚園、小学校、中学校に京成電車で通っていたので、まさにこのあたりは私のショバ(場所、テリトリー)でした。
 区をまたいで、けっこう危ない所も含めてチャリンコ(死語ですね!)で走り回っていました。
 その後、他の人たちと同じように活動領域がどんどん東京の左へ左へと移っていき、今では関東平野の左のはずれの山間部に至る境目で暮らしているので、最近は「東京右半分」とは、小学校や中学校の時の友だちと会う時以外は、すっかりご無沙汰になっています。
 今の若い人たちには新しく感じられるであろうこの地域の独特の雰囲気は、地元育ちの私にとっては50年前とあまり変わってないように感じられました。
 猥雑でしたたかでたくましいこの雰囲気に身をゆだねれば、ポスト「現代児童文学」の新しい作品も生みだせそうな気さえします。
 子どもも成人して家を離れたので、地震の心配さえなければ(今住んでいる地域は東日本大震災でもあまり揺れませんでした)、「東京右半分」に引っ越して、猥雑な空気に耽溺したいのですが。

東京右半分
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筑摩書房
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エーリヒ・ケストナー「子どもの読み方はちがう」子どもと子どもの本のために所収

2024-11-15 09:13:31 | 参考文献

 ここでケストナーが言っているのは、同人誌の合評会などでよく議論される「大人の読みと子どもの読みは違う」ということではありません。
 子どもが読書しているときの没入の深さのことです。
 私自身も、子どものころは、好きな本を読んでいるときには、まわりはまったく見えない、音も聞こえないぐらい深く物語の世界に入り込めました。
 そういった経験は、三十代半ばぐらいで終わってしまったように記憶しています。
 その代わりに、自分の子どもが、学校から本を読みながら帰ってきて、家の前に私が立っているのにまったく気が付かずに、玄関へ向かっていったことを経験しました。
 その本は、吉川英治の三国志でした。
 今の日本で、そこまで没入できる児童書はどのくらいあるでしょうか?
 おそらく、マンガやアニメやゲームの方が、そういった経験をさせてくれることでしょう。
 ただ、海外では、その後も同じような読書体験を目撃したことがあります。
 サンフランシスコ国際空港に着いたとき、レンタカー会社の迎えのバスの中で、まわりのことに一切関係なく、ひたすら分厚い本を読みふけっているアメリカ人(たぶん)の女の子がいました。
 その本は、ハリー・ポッター・シリーズの新刊でした。

子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305))
クリエーター情報なし
岩波書店
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大野裕「こころが晴れるノート うつと不安の認知療法自習帳」

2024-11-11 10:59:52 | 参考文献

 同じ著者の「はじめての認知療法」の記事でも紹介しましたが、うつや不安に対する療法として、薬物療法と同等以上の効果があり、薬物療法と併用することによってさらに効果が得られる「認知療法(認知行動療法)」を、医療機関やカウンセリング施設にかからずに、自分でマスターできる自習帳です。
 現在では、認知療法は日本でも広く知られるようになり、同種の本もいろいろと出版されていますが、この本はそれ以前(2003年刊行)に出版された初めての自習帳です。
 この本の各モジュール、ストレスに気づこう(ストレスチェック)、問題をはっきりさせよう(問題リスト)、バランスのよい考え方をしよう(コラム法)、問題を解決しよう(問題解決技法)、人間関係を改善しよう(アサーション)、スキーマに挑戦しよう(スキーマの改善)を順に自習してマスターできれば、読者の生活はかなり改善されます。
 特に、コラム法と問題解決技法は、「うつや不安」に悩んでいない人にも有益で、仕事、家庭生活、勉強などに幅広く応用できます。
 私自身も、これらの方法をマスターすることにより、問題解決能力を高められましたし、こうした問題を抱えた人の状況の改善を手助けすることもできました。
 ただし、この分野は日進月歩なので、新しい本(同じ著者ならば「はじめての認知療法」(その記事を参照してください)など)も合わせて読むことをお勧めします。
 特に、コラム法のシートは、問題解決技法と結びつけるために改善されています。

こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳
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創元社



はじめての認知療法 (講談社現代新書)
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講談社



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小沢正「ファンタジーの死滅」日本児童文学1966年5月号所収

2024-11-10 09:18:35 | 参考文献

「目をさませトラゴロウ」で有名なナンセンスファンタジーの名手の著者が、児童文学研究者の石井直人が「戦後児童文学の批評における最大の書物」と評する石井桃子たちの「子どもと文学」(私自身も、高校時代にこの本を読んで児童文学を志すきっかけになりました)のファンタジー論を批判した論文です。
 「現代児童文学論集3 深化と見直しのなかで」にも収められていますので、バックナンバーを探さずに読むことができます。
 著者は、冒頭でファンタジーについて以下のように仮に規定しています。
「童話の中では、現実には起こりえない事象、または自然の法則反する事象、たとえば、トラがバターに変わるといった事象(注:「「子どもと文学」で普遍的な価値を持つ作品の例としてあげた「ちびくろサンボ」のことをさしています)が、しばしば起る。そのような事象をひとまず<ファンタジー>と名附け、そのような事象の起こり得る世界を<ファンタジー世界>と呼ぶとして、<後略>」>
 そして、「子どもと文学」でのファンタジーの発生の文章を引用した上で、著者は<子ども>について以下のように定義しています。
「<前略>子どもは、たとえば形而下的には<学校>に象徴され、形而上的には<童心の世界>として表現されるような、子ども独自の空間と時間の中に、いわば閉じ込められ、一切の物質的手段をおとなたちから与えられ、また貸し与えられて生きる存在となる。」
 そして、「子どもと文学」の主張は、以下のような技術論に限定されていると批判しています。
「「子どもと文学」の功績とは、結局のところ、ファンタジーの中からそのような<貸与物>としての痕跡を消し去る技法についての考察をめぐらした点にあるのではないだろうか。」
 著者は、子どもたちの目を、現実的な状況に向かって開かせるべきときが来ているように思われると述べています。
 そのためには、ファンタジー作品が「自からのファンタジー性について告白するための方法を考え始めなければならないのだ。」と主張しています。
 自作の「一つが二つ」(「目をさませトラゴロウ」所収、その記事を参照してください)を例にあげて、増やすべきものを持っていないトラがいる限りにおいては、「<一つのものを二つにする機械>のファンタジー性は、ついに<二つのものを一つにする機械>というファンタジー以外の何物でもない存在を生みださずにおかないのだ。」と、述べています。
 ここでは、我々の世界に持つ者と持たざる者が存在する限りにおいては、<一つのものを二つにする機械>のような「ファンタジー世界」は、自らの「ファンタジー性」を告白しなければならないという以下のような著者の主張が込められています。
 「機械のファンタジー性をあばくことによって、トラ(注:子どもたちも含めた我々を象徴していると思われます)の不完全性なり、トラの生きる世界の未完成性なりをよりいっそう証かすことも可能な筈なのだ。」
 最後に、やや長くなりますが、この論文の結論を引用します。
「そして今のところ、ぼくたちがそれらについて書き得ないとしても、少なくともこれらを書き得ないということについては、表現できるのではないだろうか。
 言うまでもなくそれは、堅牢に組立てられたファンタジー世界の土台をゆるがさずにはおかないだろう。だが、それをゆるがすものは、<外の世界からのすきま風>などではなく、ファンタジー世界の中に不意とふき起る烈風によってであろう。
 そして、その烈風は何よりもファンタジー世界の住民たちによって起こされなければならないのであり、そのためにぼくたちは、彼らの目を、<ファンタジー存在>として自からの不完全性に、そしてまた、自からを<ファンタジー存在>たらしめている世界の未完成な姿に向って開かせ、その両者を死滅させる方法について思いめぐらせはじめなければならないのだ。」
 著者のこの「子どもと文学」への批判は、背景に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)のグループ(著者も早稲田大学在学時に少年文学会のメンバーでした)の創作理論があります。
 特に、その中でも「変革の意志(世の中を変えていこうという思い)」は、この論文が書かれた1960年代半ばには70年安保の挫折の前なのでまだ破たんしていませんでした。
 著者の主張は、「子どもと文学」が技術論(「おもしろく、はっきりわかりやすく」)に傾きすぎていて、作家の主体性や思想性が欠けていることへの批判です。
 タイトルの「ファンタジーの死滅」という反語的表現には、この「子どもと文学」のファンタジー論を乗り越えてパターン化しないファンタジーを創造していこうという著者の願いが託されています。
 同様の批判は、「子どもと文学」が出てすぐの1960年に、同じく「少年文学宣言」グループの神宮輝夫からも「新しいステロタイプになる恐れがある」となされていました。
 それから六十年以上が経過した現在、小沢や神宮の危惧はまさに的中し、作家性や思想性のない「おもしろく、はっきりわかりやすい」安直なファンタジー(リアリズム作品さえも)が、児童文学界にはあふれています。

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増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

2024-11-08 14:31:57 | 参考文献

 題名でおわかりのように、現代児童文学とは何の関係もない本です。
 ただ、この本を読んで、児童文学の研究などに様々な示唆があったので、それについて述べたいと思います。
 この本は、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われた柔道史上最強(山下泰裕よりも、小川直也よりも、アントン・ヘーシンクよりも強いと言われる)の戦前(彼の全盛期で今とは比べ物にならないほど柔道が盛んだった)の柔道王木村政彦の生涯を、「昭和の巌流島」対決と言われたプロレスのスーパースター力道山との試合(昭和29年)でなぜ敗れ去ったかを中心に描いた長編ノンフィクションです。
 はっきり言って、私のような格闘技ファンでなければ、まるで興味が持てない本でしょう。
 また、書き方もかなりマニアックな枝葉に入り込み、いたずらに長くなって(二段組み、700ページ以上、原稿用紙1600枚以上)読みにくいですし、かなり通俗的な文献(木村や力道山には、玉石混交の関連本が山ほどあります)をそのまま引用している部分も多く、ノンフィクションとしての出来はそれほどほめられたものではありせん。
 しかし、この普通の人にはどうでもいいと思えるようなテーマやモチーフに、これだけ情熱を傾けられるのは感動的ですらあります。
 増田は、18年の歳月をかけて膨大な資料(新発見も多いようです)にあたり、たくさんのインタビュー(当時のことを知る存命の人たちだけでなく現役の格闘家にも)をしています。
 彼の情熱は、児童文学の研究者たちにも共通しています。
 児童文学関連の学会についての記事でも書きましたが、ある者は戦前の幼女の「ちょうだい」のポーズからジェンダー論や戦争の影響を読み取り、また別の研究者は宮沢賢治の「風の又三郎」の「誤記」問題を原稿用紙の使い方にまで言及して謎に迫ります。
 それらの発表の時の彼らのうれしそうな顔といったら、見ていてこちらがうらやましくなります。
 私の好きな言葉に、「文学は徹底的に実用にならないから研究している」というものがあります。
 残念ながら、私はまだその境地には達していず、何とか文学を現実社会の改革に生かそうと思ってしまいますが。
 また、増田の調査方法は、前述したように文献の渉猟だけに頼らずに、できるだけ関係者へのインタビューで裏を取ろうとしています。
 これは小熊英二の「1968」の記事にも書きましたように、存命者がまだいる時代を描く場合には必須のことと思われます。
 私の専門の現代児童文学の研究でも、これは重要なことだと考えています。
 最後に、私はこの本をキンドル(その記事を参照してください)で読みましたが、紙の本は分厚くて重く二段組みで活字も小さいこのような本は、軽くて字が大きくできる(目のいい若い人は活字を小さくして1ページ当たりの情報量を増やせます)電子書籍リーダーで読むのに最適だと思いました(私が買った時の値段は、紙の本が2740円でキンドル本は2080円でした)。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
クリエーター情報なし
新潮社
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高峰秀子「わたしの渡世日記」

2024-11-07 09:25:01 | 参考文献

 1975年に週刊朝日に連載された、日本映画史上最大の女優の自筆による半生記です。
 5歳だった1929年に、ひょんなことから「母」という映画のオーディションに参加して抜擢されて以来、天才子役、アイドル少女、清純派の娘役、そしてどんな役でもこなす名女優と、1979年に引退するまで、ちょうど五十年にわたって大活躍しました。
 彼女は、映画でデビューして、映画で引退し、舞台やテレビの仕事はほとんどしなかった、真の映画スターです。
 文章や構成はあまりうまくないのですが、驚異的な記憶力で、彼女の家族関係や当時の風俗だけでなく、往年の大スターや映画関係者、それに彼女のファンだった有名人たちが、実名で鮮明に描かれていて興味深い内容です。
 彼女は子役時代から大人気で、何本もの掛け持ちで映画出演していたために、小学校さえ満足に通えませんでした。
 しかし、七歳の時に出演した舞台で三時間もの大作の脚本を丸暗記してしまい、主役の大人たちのプロンプターをしたというほどの抜群の記憶力の持ち主なので、四十年以上前のことでもまるで昨日のことのように再現されています。
 この資質は、優れた児童文学作家(例えば、エーリヒ・ケストナーや神沢利子など)と共通する才能で、この自伝の子役時代も一種の児童文学として味わうことができました。
 児童文学といえば、彼女の代表作の一つに、「二十四の瞳」の先生役があります。
 壺井栄の原作は読んだことがなくても、彼女が主演した映画は見たという人も多いでしょう。
 物語の受容という点では、早くからメディアミックスは進んでいましたが、当時は文学から映画という順です。
 今では、最初にキャラクターの企画があって、そこからゲーム、トレーディングカード、おもちゃ、お菓子、アニメ、マンガ、宣伝、SNSなどのいろいろな種類のメディアへの展開があって、文学という形態はその一部にすぎないことが多いです。
 ただし、文字情報の製作コストは低いので、世の中に言葉がなくならない限り、文学が完全に姿を消すことはないでしょう。

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

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